Logo地震史料集テキストデータベース

歴史地震索引

この索引は、纐纈一起 氏が公開されている日本付近のおもな被害地震年代表(2025年版)をもとに作成しました。

番号 西暦 和暦 震源 記事
1 416/08/23 (允恭 5 7 14) 遠飛鳥宮付近(大和):「日本書紀」に「地震」とあるのみ。被害の記述はないが、わが国の歴史に現れた最初の地震。
2 599/05/28 (推古 7 4 27) (M7) 大和:倒潰家屋を生じた。「日本書紀」にあり、地震による被害の記述としてはわが国最古のもの。
3 678/99/99 (天武 7 12 99) (M6.5~7.5) 筑紫:家屋の倒潰多く、幅2丈、長さ3千余丈の地割れを生じた。
4 684/11/29 (天武 13 10 14) (M8¼;) 土佐その他南海・東海・西海地方:山崩れ、河湧き、家屋社寺の倒潰、人畜の死傷多く、津波来襲して土佐の船多数沈没。土佐で田苑50万余頃(約12km)沈下して海となった。南海トラフ沿いの巨大地震と思われる。[3]
5 701/05/12 (大宝 1 3 26) 丹波:地震うこと3日。若狭湾内の凡海郷が海に没したという「冠島伝説」があるが、疑わしい。
6 715/07/04 (霊亀 1 5 25) N35.1° E137.8° (M6.5~7.5) 遠江:山崩れが天竜川を塞いだ。数十日後決壊、民家170余区が水没した。
7 715/07/05 (霊亀 1 5 26) N34.8° E137.4° (M6.5~7) 三河:正倉47破壊、民家に陥没したものがあった。
8 734/05/18 (天平 6 4 7) 畿内・七道諸国:民家倒潰し圧死多く、山崩れ、川塞ぎ、地割れが無数に生じた。
9 745/06/05 (天平 17 4 27) N35.4° E136.5° (M7.9) 美濃:櫓館・正倉・仏寺・堂塔・民家が多く倒潰し、摂津では余震が20日間止まなかった。
10 762/06/09 (天平宝字 6 5 9) 美濃・飛騨・信濃:被害不詳。罹災者に対し1戸につき穀物2斛を賜った。
11 818/99/99 (弘仁 9 7 99) (M≧7.5) 関東諸国:山崩れ谷埋まること数里、百姓が多数圧死した。従来、津波があったとされていたが、おそらく洪水であろう。
12 827/08/11 (天長 4 7 12) N35.0° E135¾;° (M6.5~7) 京都:舎屋多く潰れ、余震が翌年6月まであった。
13 830/02/03 (天長 7 1 3) N39.8° E140.1° (M7~7.5) 出羽:秋田の城郭・官舎・寺社悉く倒れる。家屋も倒潰し、圧死15、傷100余。地割れ多く、河岸の崩れや川の氾濫があった。
14 841/99/99 (承和 8 99 99) N36.2° E138.0° (M≧6.5) 信濃:墻屋が倒壊した。同年2月13日以前の地震。
15 841/99/99 (承和 8 99 99) N35.1° E138.9° (M7) 伊豆:里落完からず、死者があった。同年5月3日以前の地震。丹那断層の活動によるものか?
16 850/99/99 (嘉祥 3 99 99) N39.0° E139.7° (M7) 出羽:地裂け、山崩れ、国府の城柵は傾頽し、圧死多数。最上川の岸崩れ、海水は国府から6里のところまで迫った。[2]
17 856/99/99 (斉衡 3 3 99) (M6~6.5) 京都:京都およびその南方で屋舎が破壊し、仏塔が傾いた。
18 863/07/10 (貞観 5 6 17) 越中・越後:山崩れ、谷埋まり、水湧き、民家破壊し、圧死多数。直江津付近にあった数個の小島が壊滅したという。
19 868/08/03 (貞観 10 7 8) N34.8° E134.8° (M≧7) 播磨・山城:播磨諸郡の官舎・諸定額寺の堂塔ことごとく頽れ倒れた。京都では垣屋に崩れたものがあった。山崎断層の活動によるものか?
20 869/07/13 (貞観 11 5 26) M8.3 三陸沿岸:城郭・倉庫・門櫓・垣壁など崩れ落ち倒潰するもの無数。津波が多賀城下を襲い、溺死約1千。流光昼のごとく隠映すという。三陸沖の巨大地震とみられる。[4]
21 878/11/01 (元慶 2 9 29) N35.5° E139.3° M7.4 関東諸国:相模・武蔵が特にひどく、5~6日震動が止まらなかった。公私の屋舎一つも全きものなく、地陥り往還不通となる。圧死多数。京都で有感。
22 880/11/23 (元慶 4 10 14) N35.4° E133.2° (M7) 出雲:社寺・民家の破損が多く、余震は10月22日に至るも止まななかった。この日京都でも強く感じたというがこの地震とは無関係で、規模ももっと小さかったとする説がある。
23 881/01/13 (元慶 4 12 6) M6.4 京都:宮城の垣墻・官庁・民家の頽損するものはなはだ多く、余震が翌年まで続いた。
24 887/08/26 (仁和 3 7 30) N33.0° E135.0° (M8~8.5) 五畿・七道:京都で民家・官舎の倒潰多く、圧死多数。津波が沿岸を襲い溺死多数、特に摂津で津波の被害が大きかった。南海トラフ沿いの巨大地震と思われる。[3]
25 890/07/10 (寛平 2 6 16) (M6) 京都:家屋傾き、ほとんど倒潰寸前のものがあった。
26 934/07/16 (承平 4 5 27) (M6) 京都:午刻に地震2回、京中の築垣が多く転倒した。
27 938/05/22 (天慶 1 4 15) N35.0° E135.8° (M7) 京都・紀伊:宮中の内膳司頽れ、死4。舎屋・築垣倒れるもの多く、堂塔・仏像も多く倒れる。高野山の諸伽藍破壊。余震多く、8月6日に強震があった。
28 976/07/22 (貞元 1 6 18) N34.9° E135.8° (M≧6.7) 山城・近江:両京で屋舎・諸仏寺の転倒多く、死50以上。近江の国府・国分寺・関寺(大津市)で被害。余震が多かった。
29 1038/99/99 (長暦 1 12 99) N34.3° E135.6° 紀伊:高野山中の伽藍・院宇に転倒するもの多かった。
30 1041/08/25 (長久 2 7 20) 京都:法成寺の鐘楼が転倒した。
31 1070/12/01 (延久 2 10 20) N34.8° E135.8° (M6~6.5) 山城・大和:東大寺の巨鐘の鈕が切れて落ちた。京都では家々の築垣に被害があった。
32 1091/09/28 (寛治 5 8 7) N34.7° E135.8° (M6.2~6.5) 山城・大和:法成寺の仏像倒れ、その他の建物・仏像にも被害。大和国金峯山金剛蔵王宝殿が破壊した。
33 1093/03/19 (寛治 7 2 14) (M6~6.3) 京都:所々の塔が破壊した。
34 1096/12/17 (永長 1 11 24) (M8~8.5) 畿内・東海道:大極殿小破、東大寺の巨鐘落ちる。京都の諸寺に被害があった。近江の勢多橋落ちる。津波が伊勢・駿河を襲い、駿河で社寺・民家の流失400余。余震が多かった。東海沖の巨大地震とみられる。[2]
35 1099/02/22 (康和 1 1 24) (M8~8.3) 南海道・畿内:興福寺・摂津天王寺で被害。土佐で田千余町みな海に沈む。津波があったらしい。
36 1177/11/26 (治承 1 10 27) N34.7° E135.8° (M6~6.5) 大和:東大寺で巨鐘が落ちるなどの被害。京都でも地震が強かった。
37 1185/08/13 (文治 1 7 9) N35.0° E135.8° (M7.4) 近江・山城・大和:京都、特に白河辺の被害が大きかった。社寺・家屋の倒潰破壊多く死多数。宇治橋落ち、死1。9月まで余震多く、特に8月12日の強い余震では多少の被害があった。
38 1213/06/18 (建保 1 5 21) 鎌倉:山崩れ、地裂け、舎屋が破潰した。
39 1227/04/01 (安貞 1 3 7) 鎌倉:地裂け、所々の門扉・築垣が転倒した。
40 1230/03/15 (寛喜 2 閏1 22) 鎌倉:大慈寺の後山が頽れた。
41 1240/03/24 (仁治 1 2 22) 鎌倉:鶴岡神宮寺風なくして倒れ、北山が崩れた。
42 1241/05/22 (仁治 2 4 3) (M7) 鎌倉:津波を伴い、由比ヶ浜大鳥居内拝殿流失、岸にあった船10艘が破損した。[1]
43 1245/08/27 (寛元 3 7 27) 京都:壁・築垣や所々の屋々に破損が多かった。
44 1257/10/09 (正嘉 1 8 23) N35.2° E139.5° (M7~7.5) 関東南部:鎌倉の社寺完きものなく、山崩れ、家屋転倒し、築地ことごとく破損。地割れを生じ、水が湧きでた。余震多数。同日三陸沿岸に津波が来襲したというが、疑わしい。
45 1293/05/27 (永仁 1 4 13) (M7) 鎌倉:鎌倉強震、建長寺ほとんど炎上のほか、諸寺に被害。死数千あるいは2万3千余。余震が多かった。この日、越後魚沼郡で山崩れあり死多数というも、この地震との関係不明。
46 1317/02/24 (文保 1 1 5) N35.0° E135.8° (M6.5~7) 京都:これより先1月3日京都に強震、余震多く、この日大地震。白河辺の人家悉く潰れ、死5。諸寺に被害、清水寺出火。余震が5月になっても止まなかった。
47 1325/12/05 (正中 2 10 21) N35.6° E136.1° M6.5 近江北部・若狭:荒地・中山崩れる。竹生島の一部が崩れて湖中に没した。若狭国敦賀郡の気比神宮倒潰。京都で強く感じ、余震が年末まで続いた。
48 1331/08/15 (元弘 1 7 3) N33.7° E135.2° (M≧7) 紀伊:紀伊国千里浜(田辺市の北)の遠干潟20余町が隆起して陸地となった。
49 1350/07/06 (正平 5 5 23) N35.0° E135.8° (M6) 京都:祇園社の石塔の九輪が落ち砕けた。余震が7月初旬まで続いた。
50 1360/11/22 (正平 15 10 5) N33.4° E136.2° (M7.5~8) 紀伊・摂津:4日に大震、5日に再震、6日の六ツ時過ぎに津波が熊野尾鷲から摂津兵庫まで来襲し、人馬牛の死が多かった。[2]
51 1361/08/01 (正平 16 6 22) 畿内諸国:この月18日より京都付近に地震多く、この日の地震で法隆寺の築地多少崩れる。23日にも地震あり。次の地震の前震か?
52 1361/08/03 (正平 16 6 24) N33.0° E135.0° (M8¼;~8.5) 畿内・土佐・阿波:摂津四天王寺の金堂転倒し、圧死5。その他、諸寺諸堂に被害が多かった。津波で摂津・阿波・土佐に被害、特に阿波の雪(由岐)湊で流失1700戸、流死60余。余震多数。南海トラフ沿いの巨大地震と思われる。[3]
53 1408/01/21 (応永 14 12 14) N33.0° E136.0° (M7~8) 紀伊・伊勢:熊野本宮の温泉の湧出80日間止まる。熊野で被害があったという。紀伊・伊勢・鎌倉に津波があったようである。[1]
54 1425/12/23 (応永 32 11 5) N35.0° E135.8° (M6) 京都:築垣多く崩れる。余震があり、この日終日震う。
55 1433/11/07 (永享 5 9 16) N34.9° E139.5° (M≧7) 相模:相模大山仁王の首落ちる。鎌倉で社寺・築地の被害が多かった。当時東京湾に注いでいた利根川の水が逆流、津波か?余震が多かった。[1]
56 1449/05/13 (宝徳 1 4 12) N35.0° E135¾;° (M5T~6.5) 山城・大和:10日から地震があった。洛中の堂塔・築地に被害多く、東山・西山で所々地裂ける。山崩れで人馬の死多数。淀大橋・桂橋落ちる。余震が7月まで続いた。
57 1456/02/14 (康正 1 12 29) 紀伊:熊野神社の宮殿・神倉崩れる。京都で強震?
58 1466/05/29 (文正 1 4 6) 京都:天満社・糺社の石灯篭倒れる。
59 1494/06/19 (明応 3 5 7) N34.6° E135.7° (M6) 大和:諸寺破損、矢田庄(大和郡山の西)の民家多く破損。余震が翌年に及んだ。
60 1498/07/09 (明応 7 6 11) N33.0° E132¼;° (M7~7.5) 日向灘:九州で山崩れ、地裂け泥湧出。民屋はすべてこわれ死多数。伊予で地変。同日畿内に地震、被害はなかったらしい。同じ地震であれば震域が広く、震央に変更が必要。
61 1498/09/20 (明応 7 8 25) N34.0° E138.0° (M8.2~8.4) 東海道全般:紀伊から房総にかけての海岸と甲斐で振動大きかったが、震害はそれほどでもない。津波が紀伊から房総の海岸を襲い、伊勢大湊で家屋流失1千戸、溺死5千、伊勢・志摩で溺死1万、静岡県志太郡で流死2万6千など。南海トラフ沿いの巨大地震とみられる。[3]
62 1502/01/28 (文亀 1 12 10) N37.2° E138.2° (M6.5~7) 越後南西部:越後の国府(現直江津)で潰家、死多数。会津でも強く搖れた。
63 1510/09/21 (永正 7 8 8) N34.6° E135.6° (M6.5~7) 摂津・河内:摂津・河内の諸寺で被害。大阪で潰死者があった。余震が70余日続く。
64 1517/07/18 (永正 14 6 20) 越後:倒家が多かった。史料少なく詳細不明。
65 1520/04/04 (永正 17 3 7) N33.0° E136.0° (M7~7¾;) 紀伊・京都:熊野・那智の寺院破壊。津波があり、民家流失。京都で禁中の築地所々破損した。[1]
66 1525/09/20 (大永 5 8 23) 鎌倉:由比ヶ浜の川・入江・沼が埋まって平地となった。27日まで昼夜地震があった。
67 1579/02/25 (天正 7 1 20) N34.7° E135.5° M6.0 摂津:四天王寺の鳥居崩れ、余震3日にわたる。
68 1586/01/18 (天正 13 11 29) N36.0° E136.9° (M7.8) 畿内・東海・東山・北陸諸道:飛騨白川谷で大山崩れ、帰雲山城、民家300余戸埋没し、死多数。飛騨・美濃・伊勢・近江など広域で被害。阿波でも地割れを生じ、余震は翌年まで続いた。震央を白川断層上と考えたが、伊勢湾とする説、二つの地震が続発したとする説などがあり、不明な点が多い。伊勢湾に津波があったかもしれない。
69 1589/03/21 (天正 17 2 5) N34.8° E138.2° (M6.7) 駿河・遠江:民家多く破損し、興国寺・長久保・沼津などの城塀が破壊した。
70 1596/09/04 (慶長 1 閏7 12) N33.3° E131.6° M7.0 豊後:7月3日より前震があり、閏7月11日から多発してこの日大地震。高崎山など崩れる。海水が引いた後大津波が来襲し、別府湾沿岸で被害。大分などで家屋ほとんど流失。「瓜生島」(大分の北にあった沖ノ浜とされる)の80%陥没し、死708という。[2]
71 1596/09/05 (慶長 1 閏7 13) N34.65° E135.6° M7½; 畿内:京都では三条より伏見の間で被害が最も多く、伏見城天守大破、石垣崩れて圧死約500。諸寺・民家の倒潰も多く、死傷多数。堺で死600余。奈良・大阪・神戸でも被害が多かった。余震が翌年4月まで続いた。
72 1605/02/03 (慶長 9 12 16) A: N33.5° E138.5° M7.9 B: N33.0° E134.9° M7.9 東海・南海・西海諸道:『慶長地震』:地震の被害としては淡路島安坂村千光寺の諸堂倒れ、仏像が飛散したとあるのみ。津波が犬吠崎から九州までの太平洋岸に来襲して、八丈島で死57、浜名湖近くの橋本で100戸中80戸流され、死多数。紀伊西岸広村で1700戸中700戸流失、阿波宍喰で波高2丈、死1500余、土佐甲ノ浦で死350余、崎浜で死50余、室戸岬付近で死400余など。ほぼ同時に二つの地震が起こったとする考えと、東海沖の一つの地震とする考えがある。[3]
73 1611/09/27 (慶長 16 8 21) N37.6° E139.8° M6.9 会津:若松城下とその付近で社寺・民家の被害が大きく、死3700余。山崩れが会津川・只見川を塞ぎ、南北60kmの間に多数の沼を作った。
74 1611/12/02 (慶長 16 10 28) N39.0° E144.4° M8.1 三陸沿岸および北海道東岸:三陸地方で強震。震害は軽く、津波の被害が大きかった。伊達領内で死1783、南部・津軽で人馬の死3千余という。三陸沿岸で家屋の流出が多く、北海道東部でも溺死が多かった。1933年の三陸地震津波に似ている。[4]
75 1614/11/26 (慶長 19 10 25) 従来、越後高田の地震とされていたもの。大地震の割に史料が少なく、震源については検討すべきことが多い。京都で家屋・社寺などが倒壊し、死2、傷370という。京都付近の地震とする説がある。
76 1615/06/26 (元和 1 6 1) N35.7° E139.7° (M6¼;~6¾;) 江戸:家屋が倒壊し、死傷多く、地割れを生じた。
77 1616/09/09 (元和 2 7 28) N38.1° E142.0° (M7) 仙台:仙台城の石壁・櫓等破損。江戸で有感。津波を伴う?
78 1619/05/01 (元和 5 3 17) N32.5° E130.6° M6.0 肥後八代:麦島城はじめ公私の家屋が破壊した。
79 1625/01/21 (寛永 1 12 13) 安芸:広島で大震。城中の石垣・多門・塀などが崩潰した。島根で有感。
80 1625/07/21 (寛永 2 6 17) N32.8° E130.6° (M5~6) 熊本:地震のため熊本城の火薬庫爆発、天守付近の石壁の一部が崩れた。城中の石垣にも被害、死約50。
81 1627/10/22 (寛永 4 9 14) N36.6° E138.2° (M6) 松代:家屋倒潰80戸。死者があった。
82 1628/08/10 (寛永 5 7 11) M6.0 江戸・相模東部:江戸城の石垣所々崩れる。戸塚で道路破壊、八王子で有感。
83 1630/08/02 (寛永 7 6 24) N35¾;° E139T° (M6¼;) 江戸:江戸城の石垣崩れ、塀も破損した。
84 1633/03/01 (寛永 10 1 21) N35.2° E139.2° M7.0 相模・駿河・伊豆:小田原城の矢倉・門塀・石壁ことごとく破壊。小田原で民家の倒潰多く、死150。箱根で山崩れ。熱海に津波が襲来した。[1]
85 1635/03/12 (寛永 12 1 23) N35¾;° E139T° (M6) 江戸:長屋の塀など破損。増上寺の石灯篭ほとんど倒れる。戸塚で有感。
86 1640/07/31 (寛永 17 6 13) N42.1° E140.7° 北海道噴火湾:駒ヶ岳噴火に伴い津波があり、死700余、昆布舟流出100余。[2]
87 1640/11/23 (寛永 17 10 10) N36.3° E136.2° (M6¼;~6¾;) 加賀大聖寺:家屋の損潰多く、人畜の死傷が多かった。
88 1644/10/18 (正保 1 9 18) N39.4° E140.0° M6.5 羽後:本荘城廊大破し、屋倒れ、死者があった。市街で焼失が多かった。金浦村・石沢村で被害。院内村で地裂け、水が湧出した。
89 1646/06/09 (正保 3 4 26) N38.1° E140.65° (M6.5~6.7) 陸前・岩代・下野:仙台城・白石城で被害。会津で少々地割れ。日光東照宮で石垣など破損。江戸でもかなり強かった。
90 1646/12/07 (正保 3 11 1) 江戸:方々の石垣崩れ、家も損じ、地割れがあった。江戸城の石垣が所々破損した。
91 1647/06/16 (正保 4 5 14) M6.5 武蔵・相模:江戸城や大名屋敷で被害、死者があった。小田原でも城の石垣が崩れるなどの被害。余震が多かった。
92 1648/06/13 (慶安 1 4 22) N35.2° E139.2° (M7) 相模・江戸:小田原城破損、領内で潰家が多かった。箱根で落石、死1。江戸で舟のごとく搖れ、瓦落ち、土蔵や練塀の半数が崩れ倒れた。小田原や江戸の大きな被害は疑問とする説がある。
93 1649/03/17 (慶安 2 2 5) N33.7° E132.5° M7.0 安芸・伊予:松山城・宇和島城の石垣や塀が崩れ、民家も破損。広島では侍屋敷・町屋少々潰れ、破損が多かった。
94 1649/07/30 (慶安 2 6 21) N35.8° E139.5° M7.0 武蔵・下野:川越で大地震、町屋700軒ほど大破。江戸城で石垣など破損。侍屋敷・長屋破損し、圧死多数。上野東照宮の大仏の頭落ちる。日光東照宮破損。余震日々40~50回。
95 1649/09/01 (慶安 2 7 25) N35.5° E139.7° M6.4 川崎・江戸:川崎駅の民屋140~150軒、寺7宇が倒潰。近くの村で民屋が破倒し、人畜の死傷多数。江戸でも被害。
96 1650/04/24 (慶安 3 3 24) (M6.0~6.5) 日光:江戸・日光で地震強く、日光東照宮で石垣など破損。
97 1659/04/21 (万治 2 2 30) N37.1° E139.8° (M6¾;~7) 岩代・下野:猪苗代城の石垣2ヶ所崩れる。南会津の田嶋町で人家297軒など倒れ、死8。塩原温泉一村ほとんど土砂に埋まり、死多数。
98 1662/06/16 (寛文 2 5 1) N35.2° E135.95° (M7¼;~7.6) 山城・大和・河内・和泉・摂津・丹後・若狭・近江・美濃・伊勢・駿河・三河・信濃:比良岳付近の被害が甚大。滋賀唐崎で田畑85町湖中に没し潰家1570。大溝で潰家1020余、死37。彦根で潰家1千、死30余。榎村で死300、所川村で死260余。京都で町屋倒壊1千、死200余など。諸所の城破損。大きな内陸地震で、比良断層または花折断層の活動とする説がある。
99 1662/10/31 (寛文 2 9 20) N31.7° E132.0° (M7½;~7¾;) 日向・大隅:日向灘沿岸に被害。城の破損、潰家多く、死者があった。山崩れ、津波を生じ、宮崎県沿岸7ヶ村周囲7里35町の地が陥没して海となった。日向灘の地震の中でも特に被害が大きかった。[2]
100 1664/01/04 (寛文 3 12 6) M5.9 山城:二条城や伏見の諸邸破損、洛中の築垣所々崩れる。吉田神社・下加茂社の石灯篭倒れる。余震が月末まで続いた。
101 1664/08/03 (寛文 4 6 12) 紀伊熊野:新宮丹鶴城の松の間崩れる。和歌山で有感。
102 1664/99/99 (寛文 4 99 99) 琉球:琉球の鳥島で地震、死1。近くの海底から噴火があったという。津波があった。[1]
103 1665/06/25 (寛文 5 5 12) (M6) 京都:二条城の石垣12~13間崩れ、二の丸殿舎など少々破損。
104 1666/02/01 (寛文 5 12 27) N37.1° E138.2° (M6¾;) 越後西部:積雪14~15尺のときに地震。高田城破損、侍屋敷700余潰れ、民家の倒潰も多かった。夜火災、死約1500。
106 1667/08/22 (寛文 7 7 3) N40.6° E141.6° (M6~6.4) 八戸:市中の建物の破損が夥しかった。津軽・盛岡で有感。
105 1667/99/99 (寛文 7 99 99) 琉球:宮古島で地震強く、洲鎌村の旱田1210坪約3尺沈下して水田となる。[1]
107 1668/06/14 (寛文 8 5 5) 越中:伏木・放生津・小杉で損家があった。高岡城の橋潰れる。
108 1668/08/28 (寛文 8 7 21) (M5.9) 仙台:仙台城の石垣崩れる。迫町で道割れ、家破損。江戸で有感。
109 1670/06/22 (寛文 10 5 5) N37.7° E139.4° (M6¾;) 越後村上:上川4万石のうち農家503軒潰れ、死13。盛岡・江戸でも有感。
110 1671/99/99 (寛文 11 8 99) 花巻:町屋10軒ほど倒れ、庇の落下が多かった。
111 1674/04/15 (延宝 2 3 10) N40.6° E141.6° (M6) 八戸:城内・諸士屋敷・町屋に破損が多かった。
112 1676/07/12 (延宝 4 6 2) N34.5° E131.8° (M6.5) 石見:津和野城や侍屋敷の石垣などに被害。家屋倒潰133、死7。
113 1677/04/13 (延宝 5 3 12) N41.0° E142¼;° (M7Q~7½;) 陸中:八戸に震害。1時間後に津波が来て、家屋流潰約60。余震が多かった。1968年十勝沖地震と似ている。[2]
114 1677/11/04 (延宝 5 10 9) N35.5° E142.0° (M8) 磐城・常陸・安房・上総・下総:上旬より地震が多かった。磐城から房総にかけて津波があり、小名浜・中之作・薄磯・四倉・江名・豊間などで死・不明130余、水戸領内で溺死36、房総で溺死246余、奥州岩沼領で死123。陸に近いM6級の地震とする説がある。[2]
115 1678/10/02 (延宝 6 8 17) N39.0° E142.5° (M7.5) 陸中・出羽:花巻で城の石垣崩れ、家屋も損壊、死1。白石城の石垣崩れる。秋田・米沢で家屋に被害。
116 1683/06/17 (天和 3 5 23) N36.7° E139.6° (M6~6.5) 日光:4月5日より地震多く、この日大地震。東照宮の石垣などに被害。北方の山が崩れた。
117 1683/06/18 (天和 3 5 24) N36.75° E139.65° (M6.5~7) 日光:卯刻から辰刻まで地震7回、巳ノ下刻に大地震。石垣・灯篭がほとんど倒れた。夜中までに地震約200回。江戸でも小被害。
118 1683/10/20 (天和 3 9 1) N36.9° E139.7° M7.0 下野・岩代:下野の三依川五十里村で山崩れ川を塞ぎ、湖を生じた。会津・日光でも山崩れ、石垣崩れなどの被害。1日、2日で地震760回余、1日から晦日までで1400回余。江戸で有感。
119 1685/99/99 (貞享 2 3 99) (M6½;) 三河:渥美郡で山崩れ。家屋倒壊し、人畜の死が多かった。
120 1686/01/04 (貞享 2 12 10) N34.0° E132.6° (M7~7.4) 安芸・伊予:広島県中西部を中心に家屋などの被害が多く、死者があった。宮嶋・萩・岩国・松山・三原などで被害。
121 1686/10/03 (貞享 3 8 16) N34.7° E137.4° (M6.5~7) 遠江・三河:遠江で新居の関所など少々被害、死者があった。三河で田原城の矢倉など破損、死者があった。
122 1694/06/19 (元禄 7 5 27) N40.2° E140.1° M7.0 能代付近:42ヶ村に被害、特に能代は壊滅的打撃を受けた。全体で死394、家屋崩れ1273、焼失859など。秋田・弘前でも被害。岩木山で岩石崩れ、硫黄平に火を発した。
123 1694/12/12 (元禄 7 10 26) 丹後:宮津で地割れて泥噴出。家屋破損、特に土蔵は大破損。
124 1696/06/01 (元禄 9 5 2) 宮古島:府庫・拝殿・寺院・仮屋などの石垣が崩潰した。
125 1697/11/25 (元禄 10 10 12) N35.4° E139.6° (M6.5) 相模・武蔵:鎌倉で鶴ヶ岡八幡宮の鳥居倒れ、潰家があった。江戸城の石垣崩れる。日光で有感。
126 1698/10/24 (元禄 11 9 21) N33.1° E131.5° (M6) 豊後:大分城の石垣・壁など崩れる。岡城破損。佐賀で有感1日に6回。
127 1700/04/15 (元禄 13 2 26) N33.9° E129.6° (M7) 壱岐・対馬:24日より地震、26日の地震で壱岐の村里の石垣・墓所ことごとく崩れ、屋宅大半崩れる。対馬で石垣が崩れるなどの被害。佐賀・平戸などで有感。
128 1703/12/31 (元禄 16 11 23) N33.25° E131.35° M6.5 豊後:府内(大分)山奥22ヶ村で潰家273、破損369、死1。油布院筋・大分領で農家580軒潰れる。豊後頭無村(現日出町豊岡)で人家崩れ、人馬の死があった。
129 1703/12/31 (元禄 16 11 23) N34.7° E139.8° (M7.9~8.2) 江戸・関東諸国:『元禄地震』:相模・武蔵・上総・安房で震度大。特に小田原で被害大きく、城下は全滅、12ヶ所から出火、壊家8千以上、死2300以上。東海道は川崎から小田原までほとんど全滅し、江戸・鎌倉などでも被害が大きかった。津波が犬吠崎から下田の沿岸を襲い、死数千。1923年関東地震に似た相模トラフ沿いの巨大地震と思われるが、地殻変動はより大きかった。[3]
130 1704/05/27 (宝永 1 4 24) N40.4° E140.0° M7.0 羽後・陸奥:能代の被害が最大。被害家屋1193のうち倒壊435、焼失758、死58。山崩れが多く、十二湖を生じた。岩館付近の海岸で最大190cm隆起。弘前でも城・民家などに被害があった。
131 1705/05/24 (宝永 2 閏4 2) N33.0° E131.2° 阿蘇付近:阿蘇で坊の大破や崩れがあったという。岡城で被害があったという。
132 1706/01/19 (宝永 2 12 5) N38.6° E139.9° M5¾; 羽前:湯殿山付近のきわめて局地的な小被害地震。家屋の破損や地割れがあった。
133 1706/10/21 (宝永 3 9 15) N35.6° E139.8° (M5¾;) 江戸:江戸城や大名屋敷などで多少の被害。
134 1707/10/28 (宝永 4 10 4) N33.2° E135.9° M8.4 五畿・七道:『宝永地震』:わが国最大級の地震の一つ。全体で少なくとも死2万、潰家6万、流出家2万。震害は東海道・伊勢湾・紀伊半島で最もひどく、津波が紀伊半島から九州までの太平洋沿岸や瀬戸内海を襲った。津波の被害は土佐が最大。室戸・串本・御前崎で1~2m隆起し、高知市の東隣の地約20kmが最大2m沈下した。遠州灘沖および紀伊半島沖で二つの巨大地震が同時に起こったとも考えられる。[4]
135 1708/02/13 (宝永 5 1 22) 紀伊・伊勢・京都:地震い、汐溢れて山田吹上町に至る。宝永地震の余震か?[1]
136 1710/09/15 (宝永 7 8 22) N37.0° E141.5° M6.5 磐城:平(いわき)で城などに被害。江戸で天水ひるがえるほど。
137 1710/10/03 (宝永 7 閏8 11) N35.5° E133.7° (M6.5) 伯耆・美作:河村・久米両郡(現鳥取県東伯郡)で被害最大。山崩れ人家を潰す。倉吉・八橋町・大山・鳥取で被害。死多数。
138 1711/03/19 (正徳 1 2 1) N35.2° E133.8° (M6¼;) 因幡・伯耆:因伯両国で家380潰れ、死4。山崩れや田畠の被害があった。
139 1714/04/28 (正徳 4 3 15) N36.7° E137.85° (M6¼;) 信濃北西部:大町組(大町以北の北安曇郡)で死56、全潰194、半潰141。善光寺でも被害があった。
140 1715/02/02 (正徳 4 12 28) N35.4° E136.6° (M6.5~7) 大垣・名古屋・福井:大垣城・名古屋城で石垣崩れる。福井で崩家があり、奈良・京都・伊賀上野・松本で有感。
141 1717/05/13 (享保 2 4 3) N38½;°deg; E142H° (M7.5) 仙台・花巻:仙台城の石垣崩れる。花巻で破損家屋多く、地割れや泥の噴出があった。津軽・角館・盛岡・江戸で有感。
142 1718/08/22 (享保 3 7 26) N35.3° E137.9° M7.0 信濃・三河:伊那遠山谷で山崩れ、せき止められた遠山川が後に決壊し、死50余。飯田長久寺の唐門倒れた。日光・尾張・江戸でも有感。
143 1723/12/19 (享保 8 11 22) N32.9° E130.6° M6.5 肥後・豊後・筑後:肥後で倒家980、死2。飽田・山本・山鹿・玉名・菊地・合志各郡で強く、柳川辺でも強く感じた。
144 1725/05/29 (享保 10 4 18) N36.25° E139.7° (M6) 日光:東照宮の石矢来・石灯篭倒れる。江戸でもやや強く感じた。
145 1725/06/17 (享保 10 5 7) N36.4° E136.4° (M6) 加賀小松:城の石垣・蔵など少々破損。金沢で同日4~5回地震。
146 1725/08/14 (享保 10 7 7) N36.0° E138.1° (M6~6.5) 高遠・諏訪:高遠城の石垣・塀・土居夥しく崩れる。諏訪高島城の石垣・塀・門夥しく崩れ、城内外侍屋敷の破損87。郷村36ヶ村で倒家347など、死4。山崩れがあった。江戸・八王子・奈良で有感。
147 1729/03/08 (享保 14 2 9) 伊豆:大地割れ、川筋に水湧く。下田で家・土蔵傾倒。余震が20日すぎまで続いた。
148 1729/08/01 (享保 14 7 7) N37.4° E137.1° (M6.6~7) 能登:珠洲郡・鳳至郡で損潰家791、死5、山崩れ1731ヶ所。輪島村で潰家28、能登半島先端で被害が大きかった。
901 1730/07/09 (享保 15 5 25) 陸前:前日のチリのバルパライソ沖の地震による津波。陸前沿岸で田畑を損じた。[1]
149 1731/10/07 (享保 16 9 7) N38.0° E140.6° (M6.5) 岩代:桑折で家屋300余崩れ、橋84落ちる。白石城で被害。蔵王の高湯や仙台でも被害が多かったという。
150 1731/11/13 (享保 16 10 14) 近江八幡・刈谷:近江八幡で青屋橋の石垣破損し、刈谷で本城厩前の塀倒れる。
151 1733/09/18 (享保 18 8 11) M6.6 安芸:奥郡に被害、因幡でも地大いに震う。京都・池田・讃岐で有感。
152 1735/05/06 (享保 20 閏3 14) 日光・守山:東照宮で石垣少々崩れる。守山(現郡山市内)で稗蔵の壁所々割れる。江戸で有感。従来、3月14日とされていたもの。
153 1736/04/30 (元文 1 3 20) (M6) 仙台:仙台で城の石畳や澱橋など破損。余目・江戸で有感。
154 1738/01/03 (元文 2 閏11 13) N37.0° E138.7° (M5½;) 中魚沼郡:蘆ヶ崎村(現津南町)付近で14日朝まで80回余、翌年に及ぶ。蔵の壁損じ、釜潰れる。信州青倉村(現栄村)で家蔵破損。
155 1739/08/16 (元文 4 7 12) 陸奥:南部高森(場所不明)で特に強く、青森で蔵潰れる。八戸で諸士町家ともに被害が多かった。
156 1741/08/29 (寛保 1 7 19) N41.6° E139.4° 渡島西岸・津軽・佐渡:渡島大島この月の上旬より活動、13日に噴火した。19日早朝に津波、北海道で死1467、流出家屋729、船1521破壊。津軽で田畑の損も多く、流失潰家約100、死20余。佐渡・能登・若狭にも津波。[3]
157 1746/05/14 (延享 3 3 24) 江戸・日光:日光東照宮の石矢来約20間倒れる。江戸・八王子・京都・津軽で有感。
158 1749/05/25 (寛延 2 4 10) N33.2° E132.6° M6¾; 宇和島・大分:宇和島城で所々破損、矢来大破。大分で千石橋破損。土佐・広島・伊賀・延岡で強く感じた。
159 1751/03/26 (宝暦 1 2 29) N35.0° E135.8° (M5.5~6) 京都:諸社寺の築地や町屋など破損。越中で強く感じ、鳥取・金沢・大阪・池田で有感。
160 1751/05/21 (宝暦 1 4 26) N37.1° E138.2° (M7~7.4) 越後・越中:高田城で所々破損、町方3ヶ所から出火した。鉢崎・糸魚川間の谷で山崩れ多く、圧死多数。富山・金沢でも強く感じ、日光で有感。全体で、死1500以上。余震が多かった。
161 1755/03/29 (宝暦 5 2 17) 陸奥八戸:殿中ならびに外通りに被害。津軽・盛岡で有感。
162 1755/04/21 (宝暦 5 3 10) N36.75° E139.6° 日光:東照宮の石矢来・石垣などに被害。江戸・八戸で被害。
163 1756/02/20 (宝暦 6 1 21) N35.7° E140.9° (M5.5~6) 銚子:蔵にいたみがあった。酒・醤油の桶を揺り返し、石塔倒れる。江戸・八王子・日光で有感。
164 1760/05/15 (宝暦 10 4 1) 琉球:城墻57ヶ所崩れる。余震があった。
165 1762/10/18 (宝暦 12 9 2) 土佐:高岡郡で瓦落ち、山崩れる。16日まで少々ずつ地震。岩国・宇和島・筑後で有感。
166 1762/10/31 (宝暦 12 9 15) N38.1° E138.7° (M7) 佐渡:石垣・家屋が破損、銀山道が崩れ、死者があった。鵜島村で津波により26戸流出。新潟で地割れを生じ、砂と水を噴出。酒田・羽前南村山郡・日光で有感。[1]
167 1763/01/29 (宝暦 12 12 16) N41.0° E142¼;° M7.4 陸奥八戸:11月初めより地震があり、この日大地震。寺院・民家が破損した。平館で家潰1、死3。函館でも強く感じた。津波があり、余震が多かった。1968年十勝沖地震と似ているので、もっと沖の大きな地震かもしれない。[1]
168 1763/03/11 (宝暦 13 1 27) N41.0° E142.0° (M7¼;) 陸奥八戸:前年12月の地震以来震動とまらず、この日強震。建物の被害が多かった。[0]
169 1763/03/15 (宝暦 13 2 1) N41.0° E142.0° (M7) 陸奥八戸:城の塀倒れ、御朱印蔵の屋根破損。
170 1766/03/08 (明和 3 1 28) N40.7° E140.5° M7¼; 津軽:弘前から津軽半島にかけて被害が大きかった。弘前城破損、各地に地割れ。津軽藩の被害(社寺含まず)は、潰家5千余、焼失200余、圧死約1千、焼死約300。余震が年末まで続いた。
171 1767/05/04 (明和 4 4 7) 陸中:鬼柳(現北上市)で潰家1、焼失20余。津軽・八戸・盛岡・花巻・羽前南村山郡・江戸・八王子で有感。
172 1767/10/22 (明和 4 9 30) N35.7° E139.8° (M6) 江戸:瓦が落ち、14~15軒潰れ、所々破損があった。
173 1768/07/22 (明和 5 6 9) N26.2° E127.5° 琉球:王城などの石垣が崩れた。津波が来て、慶良間島で田園と民家9戸を損じた。[1]
174 1768/09/08 (明和 5 7 28) 陸奥八戸:29日にも2回地震、家屋・塀などの被害が少なくなかった。和賀郡沢内で震動が強かった。
175 1769/07/12 (明和 6 6 9) N40.6° E141.6° 八戸:御殿通り・外側通りで所々破損、南宗寺で御霊屋など破損。大橋落ちる。
176 1769/08/29 (明和 6 7 28) N33.0° E132.1° M7¾; 日向・豊後・肥後:延岡城・大分城で被害多く、寺社・町屋の破損が多かった。熊本領内でも被害が多く、宇和島で強く感じた。津波があった。[1]
177 1771/04/24 (明和 8 3 10) N24.0° E124.3° M7.4 八重山・宮古両群島:『八重山地震津波』:震害はなかったようである。津波による被害が大きく、石垣島が特にひどかった。全体で家屋流失2千余、溺死約1万2千。[4]
178 1772/06/03 (安永 1 5 3) N39.5° E143.5° (M≦7.5) 陸前・陸中:遠野・宮古・大槌・沢内で落石や山崩れ、死12。花巻城で所々破損、地割れあり。盛岡で家屋破壊。江戸など有感。1987年1月9日の地震に似ており、海岸近くのやや深い地震の可能性がある。
179 1778/02/14 (安永 7 1 18) N34.6° E132.0° (M6.5) 石見:那賀郡波佐村で石垣崩れ、都茂村で落石。安芸より備前まで強く震い、筑前で有感。
180 1780/07/20 (安永 9 6 19) N38.9° E139.9° 酒田:土蔵倒れかかって小家1軒潰れ、死2。亀ヶ崎城内で被害。余目・金浦でも小被害。
181 1782/08/23 (天明 2 7 15) N35.4° E139.1° (M7) 相模・武蔵・甲斐:月はじめより前震があり、15日に2度大震。小田原城破損、人家約800破損。箱根・大山・富士山で山崩れ。江戸でも潰家や死者があった。熱海で津波があったらしい。[1]
182 1786/03/23 (天明 6 2 24) N35.2° E139.1° (M5~5½;) 箱根:23~24日で地震100回余。大石落ち、人家を多く破った。関所の石垣など破損。
183 1789/05/11 (寛政 1 4 17) N33.7° E134.3° M7.0 阿波:阿波富岡町で文珠院や町屋の土蔵に被害、山崩れがあった。南部の沿岸地方、土佐室津に被害。広島・鳥取・岡山・山口で有感。震央は紀伊水道の可能性もある。
184 1791/01/01 (寛政 2 11 27) N35.8° E139.6° (M6~6.5) 川越・蕨:蕨で堂塔が転倒し、土蔵なども破損。川越で喜多院の本社屋根・瑞籬など破損。
185 1791/07/23 (寛政 3 6 23) N36.2° E138.0° (M6¾;) 松本:松本城で塀など崩れる。人家・土蔵も多く崩れた。27日暮までに地震79回。高山・甲府で有感。
186 1792/05/21 (寛政 4 4 1) N32.8° E130.3° M6.4 雲仙岳:前年10月から始まった地震が11月10日頃から強くなり、山崩れなどでたびたび被害があった。4月1日に大地震2回、前山(天狗山)の東部がくずれ、崩土約 0.34kmが島原海に入り津波を生じた。対岸の肥後でも被害が多く、津波による死者は全体で約1万5千、「島原大変肥後迷惑」と呼ばれた。[3]
187 1792/06/13 (寛政 4 4 24) N43¾;° E140.0° (M7.1) 後志:津波があった。忍路で港頭の岸壁が崩れ、海岸に引き上げていた夷船漂流、出漁中の夷人5人溺死。美国でも溺死若干。[2]
188 1793/01/13 (寛政 4 12 2) N34.1° E131.5° (M6¼;~6½;) 長門・周防:防府で人家の損壊が多かったという。
189 1793/02/08 (寛政 4 12 28) N40.85° E139.95° (M6.9~7.1) 西津軽:鯵ヶ沢・深浦で激しく、全体で潰家154、死12など。大戸瀬を中心に約12kmの沿岸が最高3.5m 隆起した。小津波があり、余震が続いた。[1]
190 1793/02/17 (寛政 5 1 7) N38.5° E144.5° (M8~8.4) 陸前・陸中・磐城:仙台封内で家屋損壊1千余、死12。沿岸に津波が来て、大槌・両石で流潰家71、死9、気仙沼で流出家300余。余震が多かった。震央はもっと陸寄りの可能性もある。[2]
191 1794/11/25 (寛政 6 11 3) 江戸:鳥取藩上屋敷・幕府書物方番所で被害。日光・甲府・矢祭・花巻で有感。
192 1796/01/03 (寛政 7 11 24) N35.7° E134.3° (M5~6) 因幡:岩美町で倉の壁が落ち、石塔倒れ、地下水の異常があった。余震が翌年正月まであった。
193 1799/06/29 (寛政 11 5 26) N36.6° E136.6° M6.0 加賀:上下動が激しく、屋根石が1尺も飛び上がったという。金沢城で石垣破損、城下で潰家4169。能美・石川・河北郡で損家1003、潰家964。全体で死15。
194 1801/05/27 (享和 1 4 15) N35.3° E140.1° 上総:久留里城の塀など破損、民家の潰れるもの多かった。江戸で有感。
195 1802/11/18 (享和 2 10 23) N35.2° E136.5° (M6.5~7) 畿内・名古屋:奈良春日の石灯篭かなり倒れ、名古屋で本町御門西の土居の松倒れ、高壁崩れる。彦根・京都で有感。やや深い地震か?
196 1802/12/09 (享和 2 11 15) N37.8° E138.35° (M6.5~7) 佐渡:巳刻の地震で微小被害、未刻の地震は大きく、佐渡3郡全体で焼失328、潰家732、死19。島の西南海岸が最大2m強隆起した。鶴岡で強く感じ、米沢・江戸・日光・高山・秋田・弘前で有感。
197 1804/07/10 (文化 1 6 4) N39.05° E139.95° M7.0 羽前・羽後:『象潟地震』:5月より付近で鳴動があった。被害は全体で潰家5千以上、死500以上。象潟湖が隆起して乾陸あるいは沼となった。余震が多かった。象潟・酒田などに津波の記事がある。
198 1810/09/25 (文化 7 8 27) N39.9° E139.9° M6.5 羽後:男鹿半島の東半分5月頃より鳴動し、7月中旬から地震が頻発、27日に大地震。寒風山を中心に被害があり、全潰1003、死57。秋田で強く感じ、角館・大館・鯵ヶ沢・弘前・鶴岡で有感。
199 1811/01/27 (文化 8 1 3) 三宅島:噴火活動による地震。山崩れ・地割れを生じた。
200 1812/04/21 (文化 9 3 10) N33.5° E133.5° 土佐:高知で土蔵壁落ち、瓦落下、塀の損所があった。中村の方が強かったともいう。
201 1812/12/07 (文化 9 11 4) N35.45° E139.65° M6¼; 武蔵・相模:江戸で小被害があった。最戸村(現横浜市港南区)で潰家22。その他神奈川・川崎・保土ヶ谷に潰家や死者があった。
202 1815/03/01 (文化 12 1 21) N36.4° E136.5° (M6) 加賀小松:小松城の破損多く、岐阜県白鳥町の悲願寺で香炉が落ちた。金沢で強かった。
203 1817/12/12 (文化 14 11 5) N35.20° E139.05° (M6) 箱根:箱根で落石、江戸で幕府書物方の蔵に小被害。秩父・甲府・八王子で有感。
204 1819/08/02 (文政 2 6 12) N35.2° E136.3° M7¼; 伊勢・美濃・近江:近江八幡で潰家82、死5。木曽川下流では香取(多度町)で40軒全滅、金廻では海寿寺潰れ圧死70。名古屋・犬山・四日市・京都などのほか、金沢・敦賀・出石・大和郡山などでも被害。
205 1821/09/12 (文政 4 8 16) 津軽・青森・八戸:青森で小店の屋根落ち、子供1人死亡。八戸で城などに被害。
206 1821/12/13 (文政 4 11 19) N37.45° E139.6° (M5.5~6) 岩代:大沼郡大石組の狭い範囲に強震。130軒壊れ、破損300余軒、死若干。上下動が強く、山崩れがあった。翌年1月4日、さらに強い地震があった。
207 1823/09/29 (文政 6 8 25) N40.0° E141.1° (M5¾;~6) 陸中岩手山:山崩れあり、西根八ヶ村に被害、潰家105など。岩手山の北30kmにある七時雨山も崩れ、死69、不明4。
208 1826/08/28 (文政 9 7 25) N36.2° E137.25° (M6) 飛騨大野郡:地裂け、石垣崩れる。土蔵の壁土落ち、石塔・石灯篭が倒れた。
209 1828/05/26 (文政 11 4 13) N32.6° E129.9° (M6) 長崎:出島の周壁が数ヶ所潰裂。天草で激しかったという。天草の海中で噴火に似た現象があったという。
210 1828/12/18 (文政 11 11 12) N37.6° E138.9° M6.9 越後:激震地域は信濃川流域の平地。三条・見付・今町・与板などで被害が大きかった。武者によると全体で全潰9808、焼失1204、死1443であるが、実際はもっと多かったらしい。地割れから水や砂の噴出がみられたり、流砂現象がみられた。
211 1830/08/19 (天保 1 7 2) N35.1° E135.6° M6.5 京都および隣国:洛中洛外の土蔵はほとんど被害を受けたが、民家の倒潰はほとんどなかった。御所・二条城などで被害。京都での死280。上下動が強く、余震が非常に多かった。
212 1831/11/14 (天保 2 10 11) N33.2° E130.3° (M6.1) 肥前:佐賀城の石垣崩れ、侍屋敷・町郷に破損多く、潰家もあった。
213 1832/03/15 (天保 3 2 13) N40.7° E141.6° (M6½;) 八戸:土蔵の破損が多かった。南宗寺・本寿寺の石碑所々痛む。
214 1833/05/27 (天保 4 4 9) N35.5° E136.6° (M6¼;) 美濃西部:大垣北方の村々で山崩れ多く、死者30余という。余震が多く、8月まで続く。震源は根尾谷断層に近い。
215 1833/12/07 (天保 4 10 26) N38.9° E139.25° M7½; 羽前・羽後・越後・佐渡:庄内地方で特に被害が大きく、潰家475、死42。津波が本庄から新潟に至る海岸と佐渡を襲い、能登で大破流出家約345、死約100。[2]
216 1834/02/09 (天保 5 1 1) N43.3° E141.4° (M6.4) 石狩:地割れ、泥噴出。アイヌの家23潰れる。その他、会所などに被害。
217 1835/03/12 (天保 6 2 14) N35.1° E132.6° (M5½;) 石見:島根県高畑村で石地蔵・石塔・墓石などが倒れ、蔵の壁が破れ、石垣が崩れた。
218 1835/07/20 (天保 6 6 25) N38.5° E142.5° (M7) 仙台:仙台城で石垣崩れ、藩内で被害。岩手県藤沢町で石垣崩れ、蔵の壁を損じた。津波があったとされるが、疑問もある。[2]
219 1836/03/31 (天保 7 2 15) N34.4° E139.2° (M5~6) 伊豆新島:神社・寺の石垣崩れる。江戸で有感。2月末まで地震続く。
220 1839/05/01 (天保 10 3 18) (M7) 釧路・厚岸:国泰寺門前の石灯篭大破、戸障子破損。津軽で強く感じた。
221 1841/04/22 (天保 12 3 2) N35.0° E138.5° (M6¼;) 駿河:駿府城の石垣崩れ、久能山東照宮の堂・門など破損。江尻・清水辺で家や蔵の壁が落ち、地裂け、水吹き出す。三保の松原の砂地が2千坪ほど沈下した。
222 1841/11/03 (天保 12 9 20) N33.2° E132.4° (M6) 宇和島:宇和島城の塀・壁など破損。四国・中国の西部と筑後で有感。
223 1842/04/17 (天保 13 3 7) 琉球:宮古島などで5日頃から地震、7日の地震で石墻が多く崩れた。14日まで数十回の地震があった。
224 1843/03/09 (天保 14 2 9) N35.35° E139.1° M6.5 足柄・御殿場:足柄萱沼村で石垣・堤の崩れ多く、御殿場の近くや津久井でも被害があった。
225 1843/04/25 (天保 14 3 26) N42.0° E146.0° (M7.5) 釧路・根室:厚岸国泰寺で被害があった。津波があり、全体で死46。家屋破壊75。八戸にも津波。松前・津軽で強く感じ、江戸でも有感。[2]
226 1844/08/08 (弘化 1 6 25) N33.0° E131.3° 肥後北部:28日まで地震が多く、久住北里で特に強かった。杖立村で落石により百姓屋崩れる。
227 1847/02/15 (弘化 4 1 1) 越後高田:諸所破損、長屋も破損。
228 1847/05/08 (弘化 4 3 24) N36.7° E138.2° M7.4 信濃北部および越後西部:『善光寺地震』:被害範囲は高田から松本に至る地域で、特に水内・更級両郡の被害が最大だった。松代領で潰家9550、死2695、飯山領で潰家1977、死586、善光寺領で潰家2285、死2486など。全国からの善光寺の参詣者7千~8千のうち、生き残ったもの約1割という。山地で山崩れが多く、松代領では4万ヶ所以上。虚空蔵山が崩れて犀川をせき止め、上流は湖となったが、4月13日に決壊して流出家屋810、流死100余。
229 1847/05/13 (弘化 4 3 29) N37.2° E138.3° M6½; 越後頚城郡:善光寺地震の被害と区別できないところが多い。潰家・大破ならびに死傷があった。地割れを生じ、泥を噴出し、田畑が埋没したところもあった。
230 1848/01/10 (弘化 4 12 5) N33.2° E130.4° M5.9 筑後:柳川で家屋の倒潰があった。
231 1848/01/13 (弘化 4 12 8) N40.7° E140.6° M6.0 津軽:弘前の城内・城下で被害。黒石・猿賀(弘前の北東)辺で特に強く、潰家があったらしい。
232 1848/01/25 (弘化 4 12 20) N32.85° E130.65° 熊本:熊本城内で石垣を損じ、座敷などの壁が落ちた。
233 1853/01/26 (嘉永 5 12 17) N36.6° E138.1° M6.5 信濃北部:善光寺で被害。長野市中で下屋の破壊があった。松代領で潰家23。
234 1853/03/11 (嘉永 6 2 2) N35.3° E139.15° M6.7 小田原付近:小田原で被害が大きく、城内で潰れや大破が多かった。小田原領で潰家1千余、死23。山崩れが多かった。
235 1854/07/09 (安政 1 6 15) N34.75° E136.0° M7¼; 伊賀・伊勢・大和および隣国:12日頃から前震があった。上野付近で潰家2千余、死約600、奈良で潰家400以上、死300余など、全体で死者は1500を越える。上野の北方で西南西-東北東方向の断層を生じ、南側の1kmの地域が最大1.5m 相対的に沈下した。木津川断層の活動であろう。
236 1854/08/28 (安政 1 閏7 5) N40.6° E141.6° M6.5 陸奥:三戸・八戸で被害。地割れがあった。
237 1854/12/23 (安政 1 11 4) N34.0° E137.8° M8.4 東海・東山・南海諸道:『安政東海地震』:被害は関東から近畿に及び、特に沼津から伊勢湾にかけての海岸がひどかった。津波が房総から土佐までの沿岸を襲い、被害をさらに大きくした。この地震による居宅の潰・焼失は約3万軒、死者は2千~3千人と思われる。沿岸では著しい地殻変動が認められた。地殻変動や津波の解析から、震源域が駿河湾深くまで入り込んでいた可能性が指摘されており、すでに100年以上経過していることから、次の東海地震の発生が心配されている。[3]
238 1854/12/24 (安政 1 11 5) N33.0° E135.0° M8.4 畿内・東海・東山・北陸・南海・山陰・山陽道:『安政南海地震』:東海地震の32時間後に発生、近畿付近では二つの地震の被害をはっきりとは区別できない。被害地域は中部から九州に及ぶ。津波が大きく、波高は串本で15m、久礼で16m、種崎で11mなど。地震と津波の被害の区別が難しい。死者数千。室戸・紀伊半島は南上がりの傾動を示し、室戸・串本で約1m隆起、甲浦・加太で約1m沈下した。[4]
239 1854/12/26 (安政 1 11 7) N33¼;° E132.0° (M7.3~7.5) 伊予西部・豊後:南海地震の被害と区別が難しい。伊予大洲・吉田で潰家があった。鶴崎で倒れ屋敷100、土佐でも強く感じた。
240 1855/03/15 (安政 2 1 27) 遠江・駿河:大井川の堤揺れ込み、焼津で古い割れ目から水が噴出。
241 1855/03/18 (安政 2 2 1) N36.25° E136.9° M6¾; 飛騨白川・金沢:野谷村で寺・民家に破損があった。保木脇村で民家2軒が山抜けのため潰れ、死12。金沢城で石垣など破損。
242 1855/08/16 (安政 2 7 4) 米子:城内で所々崩れ、地割れもあった。
243 1855/09/13 (安政 2 8 3) N38.1° E142.0° M7¼; 陸前:仙台で屋敷の石垣、堂寺の石塔・灯篭崩れる。山形県・岩手県南部・新潟県分水町・常陸太田で有感。
244 1855/11/07 (安政 2 9 28) N34.5° E137.75° (M7~7.5) 遠州灘:前年の東海地震の最大余震。掛塚・下前野・袋井・掛川辺がひどく、ほとんど全滅。死者があった。津波があった。
245 1855/11/11 (安政 2 10 2) N35.65° E139.8° M6.9 江戸および付近:『江戸地震』:下町で特に被害が大きかった。地震後30余ヶ所から出火、焼失面積は 2.2kmにおよんだ。江戸町方の被害は、潰れ焼失1万4千余、死4千余。瓦版が多数発行された。
246 1856/08/23 (安政 3 7 23) N41.0° E142¼;° (M7.5) 日高・胆振・渡島・津軽・南部:震害は少なかったが、津波が三陸及び北海道の南岸を襲った。南部藩で流失93、潰106、溺死26、八戸藩でも死3など。余震が多かった。1968年十勝沖地震に津波の様子がよく似ており、もう少し海溝寄りの地震かもしれない。[2]
247 1856/11/04 (安政 3 10 7) N35.7° E139.5° (M6~6.5) 江戸・所沢:江戸で壁の剥落や積瓦の落下があり、傷23。粂川で家屋倒潰15という。
248 1857/07/08 (安政 4 閏5 17) N34.4° E131.4° (M6) 萩:城内で石垣などに小被害。市中でも小被害があった。
249 1857/07/14 (安政 4 閏5 23) N34.8° E138.2° M6¼; 駿河:田中城内で被害。藤枝・静岡で強くゆれ、相良で人家が倒れたという。
250 1857/10/12 (安政 4 8 25) N34.0° E132.5° M7¼; 伊予・安芸:今治で城内破損、郷町で潰家3、死1。宇和島・松山・広島などで被害。郡中で死4。
251 1858/04/09 (安政 5 2 26) N36.4° E137.2° (M7.0~7.1) 飛騨・越中・加賀・越前:飛騨北部・越中で被害が大きく、飛騨で潰家319、死203。山崩れも多く、常願寺川の上流が堰止められ、後に決壊して流出および潰家1600余、溺死140の被害を出した。跡津川断層の運動(右横ずれ)によると考えられる。
252 1858/04/09 (安政 5 2 26) 丹後宮津:地割れを生じ、家屋が大破した。
253 1858/04/23 (安政 5 3 10) N36.6° E137.9° M5.7 信濃北西部:大町組で家・蔵が潰れ、山崩れがあった。この地震が引金で、2月26日の地震で堰止められたところが崩れたと考えられる。
254 1858/07/08 (安政 5 5 28) N40.75° E142.0° (M7~7.5) 八戸・三戸:八戸・三戸で土蔵・堤水門・橋など破損。青森・田名部・鯵ヶ沢で強く感じた。
255 1858/08/24 (安政 5 7 16) 紀伊:田辺で瓦が落ち、壁が崩れた家があった。
256 1858/09/29 (安政 5 8 23) N40.9° E140.8° (M6) 青森:安方町で米蔵潰れる。狩場沢村(現平内町)で道路に亀裂があった。
257 1859/01/05 (安政 5 12 2) N34.8° E131.9° M6.2 石見:島根県一帯で強く、波佐村で山崩れがあった。周布村・美濃村・下道川村などで被害。
258 1859/01/11 (安政 5 12 8) N35.9° E139.7° (M6) 岩槻:城の本丸櫓・多門その他破損。江戸・佐野・鹿沼で有感。
259 1859/10/04 (安政 6 9 9) N34.5° E132.0° (M6~6.5) 石見:島根県那賀郡で強く、周布村でも潰家や地割れがあった。広島城内でも被害があった。
260 1861/10/21 (文久 1 9 18) N38.55° E141.15° M6.4 陸中・陸前・磐城:陸前の遠田・志田・登米・桃生の各郡で特に被害が多く、潰家・死傷があった。江戸・新潟県分水町・長野まで有感。
261 1864/03/06 (元治 1 1 28) (M6¼;) 播磨・丹波:加古川上流の杉原谷で家屋が多く破壊したという。
262 1866/11/24 (慶応 2 10 18) 銚子:銚子市後飯町の浅間社の石の鳥居倒れる。日光・相馬・成田・江戸・干潟で有感。
263 1870/05/12 (明治 3 4 12) N35.25° E139.1° (M6~6.5) 小田原:小田原城内の所々で壁などが破損した。町田・江戸・塩山・馬籠・分水町で有感。
264 1872/03/14 (明治 5 2 6) N35.15° E132.1° M7.1 石見・出雲:『浜田地震』:1週間ほど前から鳴動、当日には前震もあった。全体で全潰約5千、死552。特に石見東部で被害が多かった。海岸沿いに数尺の隆起・沈降がみられ、小津波があった。[0]
902 1877/05/10 (明治 10) 太平洋沿岸:チリのイキケ沖の地震による津波。波高は釜石で3mなど。函館などで被害。房総半島で死者があった。
265 1880/02/22 (明治 13) N35.4° E139.75° (M5.5~6) 横浜:横浜で煙突の破損が多く、家屋の壁が落ちた。東京の被害は軽かった。この地震を機として日本地震学会が生まれた。
266 1881/10/25 (明治 14) N43.3° E147.3° (M7) 北海道:国後島泊湊で板蔵など倒れ、または大破した。津軽でも強く感じた。
267 1882/06/24 (明治 15) 高知市付近:市中で壁が落ち、板塀が倒れ、石灯篭の頭が落ちるなどの被害があった。
268 1884/10/15 (明治 17) N35.7° E139.75° 東京付近:多数の煙突が倒れ、煉瓦作りの壁に亀裂が入った。柱時計の70~80%が止まった。
269 1886/07/23 (明治 19) N37.1° E138.5° M5.3 信越国境:家屋倒壊、道路・石垣破損、山崩れなどの小被害。上高井地方で前震があった。
270 1889/07/28 (明治 22) N32.8° E130.7° M6.3 熊本:熊本市を中心に半径約20kmの範囲に被害があり、県全体で全壊239、死20。橋の落下や破損が多かった。
271 1890/01/07 (明治 23) N36.5° E138.0° M6.2 犀川流域:東筑摩・北安曇・更科・上水内の各郡で家屋の小破、山崩れ、道路破損などがあった。
272 1890/04/16 (明治 23) N34.2° E139.3° M6.8 三宅島付近:三宅島で海岸が崩れ、道路を埋め、亀裂を生じた。
273 1891/10/28 (明治 24) N35.6° E136.6° M8.0 愛知県・岐阜県:『濃尾地震』:仙台以南の全国で地震を感じた。わが国の内陸地震としては最大のもの。建物全壊14万余、半壊8万余、死7273、山崩れ1万余。根尾谷を通る大断層を生じ、水鳥で上下に6m、水平に2mずれた。1892年1月3日、9月7日、94年1月10日の余震でも家屋破損などの被害があった。
274 1892/06/03 (明治 25) N35.7° E139.9° M6.2 東京湾北部:東京で家屋破損5、土蔵破損24、その他の小被害。
275 1892/12/09 (明治 25) N37.1° E136.7° M6.4 能登:家屋・土蔵の破損があった。11日にも同程度の地震があり、羽咋郡で全壊2、死1。[0]
276 1893/06/04 (明治 26) N43½;° E148° M7¾; 千島南部:エトロフ島で震動が強く、岩石の崩壊があった。津波はシコタン島で2.5mなど。[1]
277 1893/09/07 (明治 26) N31.4° E130.5° M5.3 鹿児島県:知覧村付近で強く、家屋・土蔵・石垣・堤防など破損。近くの村々でも被害。
278 1894/03/22 (明治 27) N42½;° E146° M7.9 根室南西沖:根室・厚岸で家屋・土蔵に被害。津波は宮古4m、大船渡1.5mなど。[2]
279 1894/06/20 (明治 27) N35.7° E139.8° M7.0 東京湾北部:青森から中国・四国地方まで地震を感じた。東京・横浜の被害が大きかった。神田・本所・深川で全半壊多く、東京で死24。川崎・横浜で死7。鎌倉・浦和方面にも被害があった。
280 1894/08/08 (明治 27) N32.8° E131.0° M6.3 熊本県中部:阿蘇郡で家屋・土蔵の破損22、山崩れ18。その他でも小被害があった。
281 1894/10/22 (明治 27) N38.9° E139.9° M7.0 庄内平野:『庄内地震』被害は主として庄内平野に集中した。山形県下で全壊3858、半壊2397、焼失2148、死726。
282 1895/01/18 (明治 28) N36.1° E140.4° M7.2 霞ヶ浦付近:北海道・四国・中国の一部まで地震を感じた。被害範囲は関東東半分。全壊47、死9。
283 1895/08/27 (明治 28) N32.8° E131.0° M6.3 熊本:阿蘇郡山西村で家屋・土蔵破損400、その他の被害が多かった。
284 1896/01/09 (明治 29) N36½;° E141° M7.0 鹿島灘:那珂川・久慈川河口で家屋・土蔵が小破した。[0]
285 1896/04/02 (明治 29) N37.5° E137.3° M5.7 能登半島:蛸島村で土蔵倒壊2、家屋破損15。禄剛崎燈台破損。
286 1896/06/15 (明治 29) N39½;° E144° M8H 三陸沖:『明治三陸地震津波』:震害はない。津波が北海道より牡鹿半島にいたる海岸に襲来し、死者は青森343、宮城3452、北海道6、岩手18158。家屋流失全半壊1万以上、船の被害約7千。波高は、吉浜24.4m、綾里38.2m、田老14.6m など。津波はハワイやカリフォルニアに達した。Mは津波を考慮したもの。[4]
287 1896/08/31 (明治 29) N39.5° E140.7° M7.2 秋田・岩手県境:『陸羽地震』:秋田県の仙北郡・平鹿郡、岩手県の西和賀郡・稗貫郡で被害が大きく、両県で全壊5792、死209。川舟断層・千屋断層を生じた。
288 1897/01/17 (明治 30) N36.7° E138.3° M5.2 長野県北部:4月30日再震。須坂・上高井地方で家屋破損など小被害があった。7月まで240回以上。群発地震。
289 1897/02/20 (明治 30) N38.1° E141.9° M7.4 仙台沖:岩手・山形・宮城・福島で小規模の被害。一ノ関で家屋破損72など。[0]
290 1897/08/05 (明治 30) N38.3° E143.3° M7.7 仙台沖:津波により三陸沿岸に小被害。津波の高さは盛町で3m、釜石で1.2m。[1]
291 1898/04/03 (明治 31) N34.6° E131.2° M6.2 山口県見島:見島西部で強く、神社仏閣の損傷・倒壊、石垣の崩壊があった。
292 1898/04/23 (明治 31) N38.6° E142.0° M7.2 宮城県沖:岩手・宮城・福島・青森の各県で小被害。小津波があった。従来、岩手県沖とされていたもの。[-1]
293 1898/05/26 (明治 31) N37.0° E138.9° M6.1 新潟県六日町付近:家屋に小被害があり、田畑の亀裂・噴砂があった。
294 1898/08/10 (明治 31) N33.6° E130.2° M6.0 福岡市付近:糸島郡で家屋破損73、土蔵破損13、神社破損8など。12日に再び地震があり、家屋などが小破した。
295 1898/09/01 (明治 31) N24.5° E124.7° M7 八重山群島:宮古・石垣両島で家屋半壊2、山崩れ、石垣の崩壊があった。
296 1899/03/07 (明治 32) N34.1° E136.1° M7.0 紀伊半島南東部:奈良県吉野郡・三重県南牟婁郡で被害が大きく、木ノ本・尾鷲で死7、全壊35、山崩れ無数。大阪・奈良で煉瓦煙突の破損が多かった。
297 1899/11/25 (明治 32) (03h 43m) N31.9° E132.0° M7.1 (03h 55m) N32.7° E132.3° M6.9 日向灘:宮崎・大分で家屋が小破し、土蔵が倒壊した。大分では2回目の方が強かった。[-1]
298 1900/03/22 (明治 33) N35.8° E136.2° M5.8 福井県鯖江付近:鯖江町・吉田村で被害が最も多かった。県全体で家屋全壊2、半壊10、破損488など。
299 1900/05/12 (明治 33) N38.7° E141.1° M7.0 宮城県北部:遠田郡で最も激しく、県全体で死傷17、家屋全壊44、半壊48、破損1474。
300 1900/11/05 (明治 33) N33.9° E139.4° M6.6 御蔵島・三宅島付近:4日より前震があった。御蔵島・三宅島・神津島で家屋半壊や海岸の崩壊があった。