[未校訂]一、序(略)
二、大西家文書
私は、本稿執筆にあたり、資料蒐輯をやっていた。豈
図や父の青柳文庫を渉猟中、次に掲載する古文書を発見
した。文書は、昭和四十一年十二月大西正之氏宅(棟木
の継目に天明天保?大工下田村某とあったという)を取
り殷しの際、拙父若松がフスマの下張より発見し、保管
していたものである。
この文筆は藩の家老福岡家の知行庄屋を務めていた組
頭(大西)栄五郎が書いたものらしい。
嘉永七年寅十一月五日昼七ツ時ふと大地震(破損)家蔵
共大ニ潰家ニ相成候内無間茂大潮入来る候事誠思茂よら
ぬ大変ニ相成然ニ人家浦分在家蔵共壱軒茂不残流家ニ相
成
相残候家は光明寺ト浦庄屋沖友右衛門
此弐軒大工勇平ト申者吉兵衛売人是平
駕間屋半潰成而相残候さり又間へ只七ト申者家半潰家ニ
相成候事相残候事其余一軒茂不残流失いたし候事同分茂
寺の下久ニ百姓惣兵衛ト申者初め不残流失浦分ぶたい茂
地震ニこわれ其ノ上之脇ニ安光命三ト申医師并ニ百姓源
七悦右衛門―ト申者有之候処残ふ流家相成候事(破)船
場安平常平貞次流家コンヤ銀八百姓市平半潰家小方而流
家数間組頭弥之助百姓
(破損)大庄屋百姓米蔵ト市
(以下破損してなし)
駕間屋(竃屋)
三、口碑
大西家文書を、私と父と隣の田村与吉氏と解読中、仙
石悌次翁(明治十八年生)が遊びにやって来て、この大
変の事は長野の細木安太(災変当時二十二才)同弟寅吉
(同十一才)両人より、ブエン(新鮮)の話を聞いた。
と言って話して呉れたので列挙してみよう。
一、小方、番所溝淵嘉三郎(同利吉祖)、大西栄五郎(同
正之祖先)の間にある小路まで潮境。
一、小方、池田亀平宅(現在田村福松氏が住んでいる)
まで潮境。
一、小方、田村孫平宅(現田村太郎氏創建田村神社しも
ての畑)のイモ壷に下茅浦の老女の死体が入っていたの
をカギでひっかけてあげたという。その後亡霊が祟って
田村家は栄えなくなったという。
田村孫右衛門―孫平―長五郎―寿之助―宇之助―伝吉
一、長野々路の細木益平宅(同茂祖先)の下まで波涛が
押し寄せた。
一、[塩屋|しわん]谷の紺屋(田村貫一祖先)に千石船が当り家は
倒壊、あまつさえ流失。水汲みカギが、唯一つ残ったと
伝う。大変後当家は船場の御倉ん谷の高台に移住。
一、小方、組頭永井弥之助が地倉跡(現在楠目孝一宅し
もて)に新築中の家屋が、其侭流されて五味天満宮の社
頭、州賀崎の田の中に坐していた。
一、長野の木谷の永野栄次(同昭輔氏祖)の庭先まで波
が来たり。
一、最も奥は新堰まで津波入り来るという。
◇
中浜村、池道之助清澄が著した「嘉永七寅年地震津浪
記」の下の加江関係は斯の如し。「下の茅浦汐大入流家有、
ゑごの田へ廻船市艇干あがり候、ごみの家の田に市艇あ
かる。下茅の浜分不残家流失」とある。
又、下茅村の古記録に
下茅損田高五百高流失、家屋三十二戸潰家怪我人三十
一人あり死者なし(?)
釣掛村損田高一町流失、家屋七戸死者なし。と録して
いる。
四、復興
数年前田村与吉氏が、永野昭輔氏より拝借して読んだ。
永野栄次筆「津浪記」には詳細に書いていたというが、
本書は現在散逸している。同氏の記憶に依ると、復興の
世話人として如左の人物あり。
田村源次郎
田村和次郎
小方村嘉三郎
五味村常次
◇
猶、この大津波を記念して、五味天満宮にいしぶみが
建っている。此の碑は元伊豆田坂にあったものであるが、
昭和三十一年一月トンネル工事の為、楠目銀次郎、清岡
光両氏が還暦記念に当境内に運搬したものである。
頃は嘉永七年寅十月より潮くるひ十一月四日すつなみ
来り五日大地震間なく火潮入来る向々くるひし時大変
とこころえ用心すべし
碑文は按ずる所、市野瀬の真念庵の僧侶の筆なりと推
察する。
五、結語
駆使してきた資料を照合してみると、符合するところ
随所にみられるので、大西文書等は貴重な史料であると
思う。
又、此の海嘯で農作物に被害を蒙った百姓、船を失っ
た漁師、おまけに夜露を凌ぐ家まで奪れた人々の苦難を
抱えて年を越した事は推して察すべし。
藩は徳川幕府に次の被害報告をしている。
潰家 二九三九軒
半潰 八八八八軒
焼失 二四六〇軒
流失 三一八二軒
死者 三七二人
その他にも克明に記載されているそうである。
(土佐史談会々員)