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項目 内容
ID J3001004
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東~九州〕
書名 〔愛媛県史近世下〕愛媛県史編さん委員会編S62・2・28 愛媛県発行
本文
[未校訂]嘉永七年の大地震
嘉永七年一一月二七日に安政に改元された
が、この直前の同月四日やや強い地震がお
き、翌五日は未曾有の大地震に襲われた。さらにこの余
震は安政二年にまでまたがって続いた。嘉永七年ほど大
地震の頻発した年はなかった。五月二〇日、六月一五日
には現在の近畿地方を中心にした大地震が発生し、五か
月後の一一月には伊予が大地震に見舞われることになっ
た。この一一月の大地震は、四日の東南海道沖大地震、
五日の南海道沖大地震、七日の伊予西部地震と呼ばれて
いる。『小松藩会所日記』の一一月八日の項に「今治辺五
日の地震当辺より強し」と今治付近が小松より強かった
こと、また「町人とも西方から帰り、大洲、宇和島辺が
最強、松山も海辺に強き趣き伝え聞く」とあるのは、小
松藩役人が領内の商人から得た情報であるが、これによ
っても、南予、また中予では沿岸部に被害の大きかった
ことがわかる。
 宇和島の場合『桜田親興日記』によって、ある程度ま
で知ることができる。背後に山の迫った宇和島は、海に
土地を求めるしかなく、したがって遠浅の海岸を埋め立
て、家中(武家)屋敷の建設、城下町を拡大、発展をさ
せた。この結果、五日に発生した大地震による家屋の倒
壊、さらに約一時間後に来襲した津波によって被害は一
段と強まった。藩でも市内に御救小屋を設け救済に当た
った。
 このときの大洲藩内の地震の状況を記したものとして
 『地震の評説』がある。地震の原因は天地の病から起こ
るもので、人々の神の信仰が失われた結果であり、また、
今回の地震のように、被害の大きくなったのは、衣食住
がすべて華美になったためであると、世の人々に警告を
与えている。この論説の最後に一一月四日から同一〇日
までの間に起きた地震、特に五日、七日の大地震を中心
に、発生の時刻、継続時間を克明に記している。ただ被
害状況は具体的に示されていない。
 『松山叢談』によると、一一月四日を江戸地震、同五日
および七日を松山大地震として、家中ならびに郷(村)、
町分の被害を取りまとめているので、これを表五―87に
示した。また道後温泉も五日の「大ゆれ」から余震の消
滅する翌安政二年二月末頃まで湧出が止まった。死者(即
死)の少なかったのは、五日、七日とも大地震が昼間に
発生したこと、瓦屋根の少なかったことによるものであ
ろう。
 当時大洲領であった郡中三町(灘町・湊町・三島町、
いずれも現、伊豫市)の地震を記したものに『塩屋記録』
がある。これによると五日の大地震の刻々の動きが記録
され、惨状が生々しく描かれ、松山に比較して被害の一
段と強かったことがわかる。これは海岸の低地と、背後
にある断層山地との接線に位置しているためであろう。
 地震の模様を最も忠実に書き留めたものに、今治市大
浜の柳原家文書『地震日記』(資近上三―134)と『小松藩
会所日記』がある、このうち後者には、被害状況も詳し
く書かれている。これによって地震の推移(表五―88)、
小松領内の被害(表五―89)を表記した。五日および七
日を中心としたこの地震の余震は、その後安政二年二月
二六日を最後に、日記上からは姿を消している。被害は
村別にまとめられ、このうち北条村(現、東予市)は、
堤防・用水路・田地・それに百姓屋敷等に無数の亀裂が
でき、地下水・土砂の噴出があった。また家屋倒壊など
の被害も領内最大規模であった。なお、小松領内で建て
替えを必要とした半、全壊の百姓家(納屋は含まない)
は三六戸であるが、これは松山藩領内の一、二七三戸と
比較して、被害の程度は軽い。しかし、五日および七日
の大地震から二〇日以上を経過した同月二九日、小松領
内の在町に対して「妄説ニ惑ひ所々に寄り、所業を怠り、
或は無益の費等があるのは、甚だ不心得の事」とした触
書を出しているのは、なおその時点で、不安の大きかっ
たことを示している。
 宇和島でも安政元年一一月五日に烈震があり、六日の
弱震・七日の強震と続いた。そのため宇和島城をはじめ
大破した建物はおびただしい数に上り、領内各地で新田
の土手の崩壊が報告された。安政二年三月になって被害
状況が幕府に報告されているが、その主なものをまとめ
たのが表七―4である。
 人的被害は少なかったが、田畑・建造物の被害は大き
く、藩財政は海防への支出に加えて災害復旧費の負担が
嵩んだため、非常に苦しい状況となった。しかし宗城は
復旧を最優先することとし、新田再開発のための人夫一
四万五五人の夫食米二、三八〇俵余(銀札にして一四二
貫八五六匁一分)の支出を認め、軍用金のうちから可能な
限り支出するよう指示した。もっとも砲台の築造や軍艦
雛形・蒸気船建造計画は苦しい財源をやりくりしながら
も予定通り進めるべく最大限の努力を払っており、汽船
表5―87 松山領内の被害
被害項目
家中(屋敷
土蔵
組屋
町家
土蔵・納屋
百姓家
土蔵・納屋
郷蔵
池・堤防・樋
田畑・井手・道・橋
死人(即死のみ)
全壊及び半壊の軒数
24軒
17か所
114軒
68軒
4か所
1,273軒
1,038軒
101か所
痛 84か所
痛 202か所
2人
(『松山叢談』より作成)
表5―88小松藩会所日記の地震記録(嘉永7年~安政元年)
月日地震の内容関連事項
11
4
地震(少々強く長い。午前8時30分頃)
〃 (昼すぎ)
5
大地震(午後4時頃)この後毎々地鳴、少々宛震動
強震(午後7時頃)
少々強震(午後9時頃)
この前後毎々地鳴、少々宛震動
少々強震(夜12時前)
・古今例のない大地震である。
・武家屋敷、家中の上下の者、町家とも戸外に出て大騒動と
なる。ただし火災は消しとめる。
・夜間の見回り始まる。
6
〃 〃(午前2時頃)
この前後少々宛震動
少々強震(午前7時頃)
地鳴・小震(午後時々)
少々強震(午後7時頃)
地震(夜半頃)
・この日以降、被害の実態が順次報告されている。
・学堂(藩校)破損のため3日間休講する。
・火災及び盗みの防止のため御徒士目付が火事装束にて昼夜
見廻りすることを指示する。
・城下門の家中家来以外の出入禁止。他の二門も夜中特に入
念に改める。
7
少々宛地震(今暁以来)
頗る強震(午前10時30分頃短時間)少々強震(午後2時頃)
この前後から夜にかけ地鳴・微動
・藩船(泰丸)5日に大坂に出帆の予定であったが海上の潮不
安のため出帆できず。
・当分の間火災防止のため夜間の見回りに水主が加わる。
8
少々強震(午前2時頃)
この後小震続く~朝5時頃まで
小震(午前8時頃)
少々強震(午前8時30分頃)
この後時々地鳴・小震
地鳴・微動(午後5時30分~夜中、毎々)
・相場役大坂4日発の大坂の地震の情報、岡村屋(今治)から
伝えられる。
(なお、詳細な図面入りの資料は大坂6日発のもの)この
時に、今治の地震の情報も知らされている。
・新居浜は、地震の被害少ない。(年貢収納から帰った藩役人
報告)
・町方町人共西方から帰り、宇和島・大洲・松山の地震の状
況報告
9
地鳴(午前6時頃)
〃(〃8時頃)
少々地震(午前10時過)
この後時々地鳴
小震(午後11時頃)
・北条、広江、今在家村等海岸堤防の破損、水田の地割の大
きいことが報告される。
・学堂なお一両日休講
・盗賊が出没するため足軽の夜回り指示する。
10
小震・地鳴(午前2時過)
〃・〃(午前6時頃)
〃・〃(〃6時30分頃)
・両社(三島、高鴨神社)・宝寿寺・横峯寺の御祈禱結願日の
ため代官参詣
・大坂の大地震の状況が岡村屋から報告される。
11
地鳴・地震(暁頃)
〃・〃(午前6時頃)
小震(昼すぎ)
地鳴(午後5時30分頃)
〃・小震(午後7時頃)
・町方の者追々商売を始める。煮焚の商売についてもこの日
から許可する。
12
”・”(前夜の7時頃~今暁までこの間3~4度地震)
少々震動(午後2時頃)
小震・地鳴(午後7時30分頃)
・追々おさまったので足軽の夜回り中止する。
・香園寺での御祈禱結願につき藩庁から勘定方参詣
13
前夜来時々微動今日も同じ
・水主たちによる夜間見回り中止する。
・沖手堤の被害の大きいところの修理に取り掛る。
14
時々微動(前夜来)
少シ強震(午後5時30分頃)
地鳴少し強し(午後9時30分頃)
・藩庁の作事方地震の被害状況のまとめ完了する。
この内容は17日の項に記述されている。
15
少々地震(午前6時30分頃)
〃・〃(午後5時30分頃)
〃・〃(〃7時30分頃)
16
地鳴(午前6時30分頃)
少々地震
地鳴大分強震
・諸国大地震の情報大坂から到来
(九州・中国・東海筋)
17
(記述なし)
・(被害内容は別記)
18
少々地震(今暁)
〃〃(昼過)
23
地震少々強し(午後7時頃)
24
〃〃(午前4時頃)
〃〃(午後6時30分頃)
[大坂5挺広江村庄屋、同3挺同村組頭に下さる。
鳥目1貫300文ツツ
新屋敷村4名、今在家村2名、吉田村4名、北条村6
名、同新田3名、南川村3名、半田村1名、周布村1
名、合計26名
27
・大破損のため居宅を建直す庄屋・百姓に対して藩庁からの
心け。
29
・在町に対して大地震についての流言をいましめる触を出
す。
12
1
地震少々強し(午後5時頃)
・江戸屋敷の被害状況が江戸18日発の御用書で知らされる。
2
地鳴(午後5時頃)
3
地震少々強し(午後3時30分頃)
〃 (〃9時過)
12/3以降 地震・地鳴のあった日は、4、10(2)、11(2)、12(2)、13、14、15、16、17、18(2)、
19、20(2)、25、26、30(2)
安政2年1月 〃 〃5、7、8、12、18(3)、22、27、28
2月 〃 〃5(2)、9、11、14、15、18、26 ()内は回数
表5―89 地震の被害状況(小松藩)
1.藩大目付による被害取調書
・御館―庇・桁・鴨柄・壁等の破損、土塀の倒壊等29か所
・会所、学問所―壁、土塀の倒壊14か所
2.御徒士目付による被害取調書
・御家中(喜多川家一族、一柳家も含む)―門長屋・中門・納屋等の破損、土塀の倒壊
合わせて38戸である。
・寺院(藩関係)―寺門、土塀の倒壊等3か寺
・牢屋―土塀の倒壊
3.在および町の破損取調書(庄屋から報告)
・新屋敷村―家屋等の破損20ケ所、道路・水田・堤防の地割・陥没それに水の吹出し
11か所
・広江村―家屋等の破損4か所、堤防・田地の地割での水吹出し3か所
・今在家村―家屋等の破損9か所、地割れによる潮の吹出し8か所
・北条村(西、東、新田も含む)―家屋等の破損34か所、堤防・用水樋等の破損9か所、
この他百姓屋敷内及び道筋の地割れで、水、小砂等を吹出した所は100か所あって
調べ困難である。
・周布村―家屋等6か所
西条領内では周布村で寺社の破損、それに田地の地割れで水の吹き出したところ
4か所ある。
・吉田村―家屋、神社等の破損5か所
・妙口村―家屋、神社等の破損5か所、用水井手の破損15か所
・大頭村―寺、道路の破損2か所
・大郷村・千足山村}特になし
・北川村―家屋等の破損6か所
・南川村―家屋等11か所、道路・畑の地割れ2か所
・半田村―家屋1か所、地割れ水の吹出し1か所
・上嶋山村―家屋等5か所、堤防の破損1か所
・大生院村・萩生村}特になし
・町―居宅崩れ及び半壊14戸、その他家屋の破損等38戸
建造の予算超過分についても支出を認めている。
 新田復旧人夫見積高を見ると際立った特色が読み取れ
る。御荘組・津島組に較べて御城下組の必要人夫数が極
端に多い。このことは、地震の被害が地盤の弱い干拓地、
特に宇和島城下周辺地域で甚だしかったことを意味して
いる(表七―5)。
 復旧作業の進捗及び実際に支出した夫食米などについ
ては不詳である。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 四ノ上
ページ 1085
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 愛媛
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