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項目 内容
ID J3001005
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東~九州〕
書名 〔安政三丙辰年正月地震録近藤姓〕○松山近藤蘇来記近藤俊文所蔵・解読
本文
[未校訂][于時|ときに]嘉永ハ甲寅年十一月五日天気快晴して常に異ならす
然るに申の下刻震動に随ひ震出し次第に烈敷 人々これ
は〳〵と斗に坐を立騒き夢に夢ミる心地の内に 一端は
鎭るといへとも かゝる天変は世の老人もしらすして
いにしへより地震のことは咄傅にもきゝぬれと唯昔物語
のよふ覚へて 先年信州善光寺大地震の噂あれとも遠國
のことなれは此辺の人々は其有様をしらされは さのミ
恐怖もせす 今日目前にかゝる大変ありとは夢にもしら
す 周章して門外へ走り世間をミれは門塀の倒れ數ケ處
にして 人ミな東西南北え走りてあきれ果たる有さまな
り 兎角する内に日も暮におよひ震動地震の數をしらす
かく誰いふとなく津波〳〵と呼いる聲〳〵は山に谺し
て膽を消し 魂を□(ムシ、失カ)ひ いかなる大丈夫も[心釣上|つりあがり]て足も
定まらす老人子供を先にし或は病人をいたはり 飯櫃よ
炭取よと 上を下へと騒動する有様ハ譬るにものなし
近辺の様は神田山妙典山の山々に登りて 麦の角生に莚
敷或は大根を曳捨て おのれ〳〵の居所と定め 此所彼
表7―4 大地震被害状況
天守 破損
二ノ丸・三ノ丸も被害大
城郭塀 677間 倒
同上 779間 大破
城内番所 2か所 潰
諸役所も被害大
海岸砲台 大破
軍艦手当材木 流失
道路・橋 被害大
船手諸役所ほか 39軒 破損
町家 355軒 大破倒
同上土蔵 243か所 大破倒
田 204町余 荒汐込崩落
新田128町余 汐込土手破損
畑 58町余 汐込土手割崩落
川除 856か所 破損
水門 24か所 破損
池 63か所 土手割破損
往還道 155か所 破損
(同上延長 5325間)
百姓家 3680軒 潰破損
同厩 1670軒 潰破損
同納屋 463軒 潰破損
同土蔵 421軒 破損
在浦社 45か所 破損
同寺 17か所 破損
石垣 618か所 破損
(同上間数 4893間)
猪鹿垣 41か所 破損
(同上間数 3440間)
新田堤 86か所 破損
(同上間数 2743間)
塩浜 3か所 土手割汐込
鰯浜 58か所 破損
(同上間数 2505間)
汐留土手 5か所 破損
山 125か所 潰抜
籾 169俵 流失
米 57俵 流失
櫨実 600俵 流失
琉球芋 2060貫目 流失
同切干 56俵 流失
米 579俵余 汐込
籾 329俵 汐込
餅米 52俵余 汐込
小豆 48俵 汐込
男2人 流死
所に屯して 今度は天災を免るといへとも 沖合鳴渡り
大浪の声喧しく 五日の薄月に透して見れとも分らす
瞳をさためてよく見れは涛逆上て堤をこへ 石垣新田な
とを穿つと見へたり 実に殺気猛〳〵として物凄く 天
地を震いし 所詮遁るゝ所なしと恐怖せしは折柄なり
此夜空澄切 霜を霜(ママ)を結ひ寒風肌を通し 多くは喰する
ことも不能 星霜を戴て夜を明し 一先家に帰れとも安
からす 六日は雨に落て昼後より降出し 天気の有様も
変れは小し安心して我家に臥すといへとも 震動地震は
何十度といふ事もなし 津波の様子を聞に 浪先家中は
小梁川前溝を傅ふて押あかり 佐伯町え指来 北は恵美
須町辺限り橋々落る日を経て坂雫の縁人いふ 五日 地
震の後ち海底(カ)まて潮引たるかとミる内 沖合鳴渡り大山
の如き高浪起り立て人家へ打込 別而御庄辺ははけしく
人家を引崩し流人も在シ之由 □(ムシ)は筆圖に尽しかたし
猶土州の大変は當領に十倍すと云々同七日の朝も雨止す
それかし仙画方三在勤中なれは本町二丁目の役所に出勤す
朝五ツ半四過少し軽き地震壱度あり頓て藏々の見廻りし
て向御蔵の後へ廻るの時 辰の上刻五にもおよひし処 さ
のミ震動もなくして熱湯の沸立が如き地震して 人ミな
足立て此時衆人の叫聲耳を突き 崩落ちるものは目をさ
へきり 飛鳥も翔ることあたわすして 地に落るとかや
家毎には火を消し 或は火鉢を往還に投出し 街並両方
の瓦[楽|ら]をゆり落し または倒れ掛り たやすく往来もな
りかたし 人々命限にはたらき 東西へ逃走するもあり
婦人子供の足弱は男にとり付恐怖して鳴叫もあり 我も
漸うニ往還に遁出て 西の市を見れは大藏潰れ 家の倒
るゝ土煙風に巻上て 眞黒に見透(カ)き 火焰かとあやしま
れ 此時市中の老若は[便|たよ]りをもとめて東西へ走る中にも
大半大手の廣場をさして出たるもの多し爰に[小家|こ や]を掛或
は北方の廣場へ出 龍光院竹藪の中にさけるもの多かる
へし 翌日より大手へ御救小家建ちこゝに大釜をすへて
粥を炊せられ うへ人六を救ハせらる 爰に町醫熊崎寛哉
外療七の達者気轉巧者の生醫にして艮時八に大手へ小屋を打
ち♠(ママ)我人九療治の高札を出し 後に評判よろし  續て来須
屋十六右衛門内山彦兵衛なとの蠟坐小屋を掛て蠟燭を挽行
す 町中は不殘明家にして火番嚴敷これを守るとなり
此日我も散(カ)々にはせて家に帰りミれは妻子無恙逃出た
れとも便(ママ)るへき所もなく 雨に打たれて此所かしこに屯
し再ひ家に戻るの色もなく 我は袴も足袋も脱得すして
直に法圓寺山へ小家掛して爰に四五日を送るに岸(ママ)高く用
心あしければ後ちハ谷川なる田の中に小屋を移し 雪に
埋もれておもわさりし[住居|すみゐ]をなし坐りしにおなしく十五
夜に我家に帰るといへとも猶穏ならす 毎夜常燈を置て
快寝もならす 袋に米を入て[何時|なんどき]の用意をなし 神仏を
祈るの外他事なし されは安政元年に改号あり 此年も
暮て同二卯年猶地震止す それのミならす潮高く築地十一は
作付もせられす 漸く十二月に及ひて地震なし されと
江戸には十月はしめ大地震大火あり 前代未聞の大変な
り 同三辰の春に至て弥穏にして當辺気候常に順還すと
いふ〳(ママ)〵 されはいにしへより地震ハ十一月に多しとい
へとも其時にハしれす 既江戸表災変あり 常に心得あ
るへきなれともあれは廣場へ迯出るにしくはなしと予は
おもふになん 此とき小屋掛の仕様色々あれとも時宜に
よるへし 敷ものは雨戸古戸の類を下敷にして疊を用ゆ
へし 人ミな恐怖して心気のある所常ならされは[別而風|べつしてかぜ]
[土|つと]におかされて邪気入[煩|わずらう]もの多し かゝる時に大なる
小家を打て多人数入交り住居する事差向は振々敷十二よき
様にあれと追々に様々の心配ありて大患を引出すことあ
り 必しも他人と同居することなかれ家内切にて小屋を
掛 疊三枚を敷へし 尤地震の心得には此条々肝要なり
我公務多忙にして毛挙十三に遑なしといへとも爰にあら□か
しめを録して末代の孫々へ筆話せんとおもふ 岩村源右
衛門貴茂の嫡男故ありて此家を継く 近藤武兵衛容敬の
深切なり
安政三丙辰年十四正月
(注、以下の注は近藤俊文氏による)
三 仙賀紙役所。
四 午前九時。
五 午前七時から八時。
六 餓人。
七 外科。
八 午前三時頃。
九 怪我人。
十 来嶋屋かも。
十一 埋め立て地。新田があった。
十二 [賑々敷|にぎにぎしく]。
十三 細々とした仕事。
十四 一八五六年。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 四ノ上
ページ 1090
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 愛媛
市区町村 松山【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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