[未校訂]宝永四年の大地震
宝永四年(一七〇七)一〇月四日、午後一時
過ぎ、ほぼ日本の全土にまたがって、大地震
が発生した。このうち伊豆~九州、そして宇和海沿岸にも
津波が来襲した。『増補御年譜微考』によると、午後二時頃、
高潮は宇和島城下の馬場前まで侵入した。『記録書抜』『伊
達家御歴代事記』に、浜御屋敷、新浜・元結木・持筒町・
佐伯町付近は、床上一メートル五〇センチメートルにも達したとある。五
日、六日、七日(これ以後は省略とある)は時々地震、下
げ潮も平日より大きいとしている。また同月一二日の項
に、幕府へ届けるため領内の被害をまとめているが、これ
によると、田五〇三町二反一畝、家その外数々破損・流失、
死人(沖之島も含む)一二人、半死二四人と記録されてい
る。
「元禄・宝永年代堀江村記録」(『松山市史料集』5)には、
宝永四年大地震及び余震、被害状況、出稼ぎ漁民の津波の
見聞記録などが含まれている。これによると、大地震は一
○月四日午後一時から三時頃まで、四日~七日までは、一
日平均七、八度の地震、この間人々は屋外の仮小屋で過ご
した。また七日~一四日までの間は、一日に三、四度、余
震は、その後翌年の正月まで、二、三日に一度の割合で続
いた。郡内の被害は、安城寺村で瓦葺長屋の倒壊した以外
は、村々に大痛みはなかったとしている。このうち四日の
大地震で道後温泉の湯が止まり、このため藩主は、国家安
全の祈禱を、道後八幡宮(伊佐爾波神社)、石手寺、藤原薬
師寺、味酒明神(阿沼美神社)、祝谷天神(松山神社)、太
山寺観音、大三嶋明神(大山祇神社)の領内七か所で行う
ことを申し渡している。この大地震のさい、和気郡堀江村
の漁民三四人が、豊後国佐伯領内のいわし網の日傭稼ぎに
出稼ぎ中であった。大地震のあった四日は、たまたま佐伯
湾外で操業していたが、地震直後佐伯湾岸を襲った大津波
で、佐伯浦の家々は残らず沖に流され、数多くの死者があ
ったことを伝えている。なお堀江漁民は一四日に、命から
表5-86伊予の大地震(江戸時代)
年
慶長9年
〃19
寛永2
〃7
慶安2
貞享2
〃〃
〃5
宝永4
寛延2
文化9
嘉永7
(安政1)
安政4
年次
1604
1614
1625
1630
1649
1685
〃
1688
1707
1749
1812
1854
1857
月日
12.16
10.25
3.18
11.5
2.5
12.4
12.10
5.23
10.4
4.10
3.10
11.5
〃7
8.25
おもな内容
東海・南海・西海道大地震、阿波大津浪、伊予記録なし。
(愛媛県気象資料S27)
大地震にて温泉を埋む。(道後明王院旧記)
大地震の時、道後温泉出ず。(久米八幡記録抜書)
地震にて泉脈閉そくす。(道後温泉誌一愛媛県気象資料S
27)
伊予・安芸国大地震。(寛明日記)
大地震、道後温泉の湧出とまる。(松山叢談)
大地震、泥湯湧出る。(予陽郡郷俚諺集)
地震三度余震強し。(宇和島御記録抜書)
大地震、道後温泉湧出とまる。(松山叢談)
余程の地震、御城その外破損する。(宇和島御記録抜書)
夜6ツ半時大地震、15日まて日々少々あて地震あり。(松
山叢談)
5日、7日松山大地震、道後温泉絶える。(松山叢談)
5日前代未聞の大地震。(塩屋記録)
御在所大地震、御城内処々破損する。(加藤家年譜一大洲)
震源推定
○
○
△
△
△
△
△
△
○
○宇
△
○
△
○太平洋側、(宇)…宇和海、△瀬戸内側
がら逃げ帰った。