[未校訂]力士、渋谷金王(こんのう)
一七〇七年、宝永四年十月四日、巳の上刻(午前十時
頃)突如、東南方に当っての大鳴音とともに大地震が起
り、やがて大津波が須崎湾に襲来した。――宝永の大地震
である。これはその規模の大きさ、災害の激甚さから今も
私たちに新な恐怖と要心を呼びかけているが、古い記録を
読むと、あたかも「ポンペイ最後の日」を見るようで、こ
の世の生き地獄が大写しに再現され、身の毛もよだつ思い
がする。
(前略)須崎は死人四百余人あり。斯くも死人の多か
りし所以を考ふるに、糺池より出づる堀川の橋は、地震
のため落ちし処へ潮入り来り、人々渡るべき便なく、後
より大勢押しかけ、先きなる者、堀川へ圧し込まれて大
半死したるなり。然るに水練あるもの、或は天運に叶え
る者は、たまたま死を免れたり、
この時、このあたりに住居せし、渋谷金王と言える力
士、大橋の元に来たり、多くの人を援け、その身は遂に
伊勢の松に上りて助かりしと言う。」
と、ある。
私がここでとり上げたいのは、文末にある力士金王のこ
とである。残念なことに、この金王の活躍の記述は斯く簡
単で具体的でないので「多くの人を援け……」だけの文字
で推理しなければならない。
「阿修羅の形相の金王が、堀川大橋のたもとに立って、
逃げまどう老幼男女に「ここでむざむざ川に命を落すよ
り、天命あれば、怪我しても助かれ。」と叫びつつ、一人
また一人と、頭上高くさし上げては、対岸の糺目がけて投
げ飛ばした。まことに仁王か夜叉の金剛力であった。」
「次第に推し迫ってくる津波に、もうこれまでと金王は
近くの伊勢の松(今の法務局のところに戦後まで残って
いた)によじ登って助かった。」とは父の話。
大善寺の「宝永津波溺死の塚」には、この碑の建立をし
た願主たちの願望がこめられているが、私は今、眼鏡橋を
「堀川大橋」と改称し、この橋のたもとに、力士金王が、
仁王立ちとなって避難の人を投げようとするポーズの銅像
を建てて、勇壮の権化であるこの力士の美談を永く仰ぎた
たえたいと夢みるものである。