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項目 内容
ID J0900626
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1707/10/28
和暦 宝永四年十月四日
綱文 宝永四年十月四日(一七〇七・一〇・二八)〔東海以西至九州〕
書名 〔発生寺の変遷〕○高知県▽「須崎史談 七」
本文
[未校訂] ただ、古屋造作著「慶長年度ヨリ宝永大変以前ニ於ケル
須崎地図」には、西願寺が現在の青木町九の一植田玩具店
付近になっている。この地図の津野は、安永須崎古地図の
考山寺の位置と一致するので、考山寺の位置は慶長から宝
永まで変っていないのは確かなようです。
 洲崎の長宗我部地検帳にでている番匠西内氏の末孫であ
るといわれる西内豊氏(鍛冶橋のもとで電器商経営)の家
に伝わる話によると、西内氏の先祖は、もと、植木氏の先
祖とともに、現在の住吉神社の西の方に住んでいたが、宝
永の津波後、現在の位置に移住したようです。
 現在の西内氏宅の北には、鉄砲鍛冶植木氏の鍛冶屋敷も
あったので、この付近を今でも、鍛冶町といっているが、
これは安永須崎古地図にでてくる職人町とは違うようで
す。西内氏の伝承からすると、宝永津浪以前には、現住吉
神社の西の方、つまり、浜町二丁目、六・七・八の付近に
西内、植木氏の所謂職人が住んでいたことが推測される。
 この職人町を現浜町二丁目六・七・八付近と仮定する
と、職人町の北考山寺の南にあった西願寺の位置は「慶長
年度ヨリ宝永大変以前ニ於ケル須崎地図」の記載と一致す
る。つまり、西願寺は元禄時代は勿論、いや、天正から宝
永まで、現在の青木町の九の一付近にあったことになる。
 ところが、武市佐市郎氏は、「土佐の史蹟名勝」で、「発
生寺は、元竜樹山西願寺と称へ、浜町にあった。宝永地震
前この鍛冶町に移った。旧本堂は元禄二年八月の建築であ
る。(中略)大正三年に改築した。(後略)」と、述べてい
る。
 発生寺過去帳には、「宝永津浪ニヨリ過去帳古記録ヲ一
切流失シタ」と、記されているので、西願寺が宝永津浪の
難にあったことはわかるが津浪当時、すでに現在の位置に
移っていたかどうかは知ることができない。
また、これには、寺の移転のことは記されていないが
寛保二年(一七四二)壬戌寺建立
寛延元年(一七四八)三月十九日
法印栄伝西願寺一代
と、でている。註( )内は筆者記入
 それで、わたしは、武市氏の元禄二年の旧本堂建築は、
寛保二年の誤りで、過去帳にある「寛保二年壬戌寺建立」
の記事を寺の移転建立と考えたいのです。
 つまり、西願寺は、天正検地当時から、現在の青木町九
の一付近にあったが、宝永の大変にあい、過去帳簿を一切
流失してしまい、その後、寛保二年栄伝住職のとき、現在
の位置に移転したものと思う。
出典 新収日本地震史料 第3巻 別巻
ページ 532
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 高知
市区町村 須崎【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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