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項目 内容
ID J0900625
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1707/10/28
和暦 宝永四年十月四日
綱文 宝永四年十月四日(一七〇七・一〇・二八)〔東海以西至九州〕
書名 〔おもかげ〕○高知県須崎市
本文
[未校訂]宝永の大地震
 江戸時代、東山天皇の宝永四年丁亥十月四日(約二百五
十年前)大地震があった。この時土佐の被害は全国第一だ
った。
記録によると、当日は朝から微風も吹かず、一天晴れわた
って秋というのに真夏のよう、人々は帷子(カタビラ)を
着て暑さをさける有様だった。
 未の刻(午後二時ごろ)東南方で大音響とともに大地震
が起り、人家は将棋の駒を倒すようにバタバタと倒れ、や
がて山津浪も起り、そのため死者続出し、一寸前の平和郷
もたちまち修羅の巷となり、さらに一時間の後には大津浪
がおこった。
 一、二度は余り強くなかったが三度目には波の高さ七、
八十尺ばかり、ものすごい津波が家を流し、人をうばいさ
いわい山へ逃げたものは、死をまぬかれたが、親兄弟、妻
子が流されるのを眼前に見ながら、どうすることもできな
い惨状だった。
 大潮の来襲は翌朝まで十二回もくり返され、死者二千余
人を出したといわれる。多ノ郷は最大の被害をうけ加茂神
社の境内まで潮がうちよせ、押岡は貴船神社のところまで
津浪が上った。土崎はもちろん海の底になり人家は全部流
失した。
 須崎は死者四百余人を出し渋谷金王という角力とりが、
堀川大橋で多くの人々を助け、安政三年その百五十年忌に
当り古屋尉助(竹原)は大善寺山下に碑を立て、後世のた
め震災避難の心得を記した。
 これが宝永津浪溺死の塚である。吾桑は海から相当はな
れていたので大した被害はなかったようだが、それでも松
ガ瀬付近は一面の海だったといわれる。このほか野見、大
谷、久通、浦ノ内など海辺にのぞむ漁村では相当の被害を
うけたものと、見られているが記録としては残っていな
い。ただこのとき戸島神社の社殿および神体が、流失した
といわれている。また吾桑岩永から須崎角谷までの往還筋
は海となって、往来できないため鳥越坂から池ノ内へ横道
をつくり、岡本へ越して角谷へ出たといわれる。
出典 新収日本地震史料 第3巻 別巻
ページ 531
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 高知
市区町村 須崎【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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