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項目 内容
ID J0900628
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1707/10/28
和暦 宝永四年十月四日
綱文 宝永四年十月四日(一七〇七・一〇・二八)〔東海以西至九州〕
書名 〔陋巷浅説〕○高知県▽「須崎史談 二一」
本文
[未校訂] 予も又髫童のころ母が語りしにハ、われ若キ時分赤崎の
前に潮満ちたる時ハ其上の山路を通りし事も有りつるが、
連々干潟と成りて、赤崎の前に潮浜を拵へけれ共、高潮の
時山際まで満ち来り潮浜に妨げあれば、其構へに漸々と潮
を留め、それより次第に築出し今の往来の道は古の海中に
有りつる事を語りし也。又先考先妣が語りし昔の跡の噺よ
り遙かの後に予少年のころ也しが、岩永の谷川のすへ海蔵
寺なり。
(海蔵寺ト云フハ多ノ郷ト吾井郷トノ昇ノ谷川アリテ其
水ハ西崎ノ方へ流レ落ツル也。又其谷川ヨリ西ハ岩永
山ナリ。此ノ山岬ヲ海蔵寺ト云フ也。)
 其海蔵寺の前に広き入江ありけるが、其の江の辺に今よ
り四、五十間も♠の方の海中に当って老木の松二本有りつ
る也。今此松を考ふるに先考の少年の比まで其の辺より西
の方へ行く。今の道筋ハ大間までの間ハ深き蒼海にて、洲
崎浦の漁人来りて岩永口或ハ赤崎の沖、或ハ大門の内にて
網を引き其外色々の諸漁を仕りたる所也しと語りき。由っ
て今之を考ふるに二本の松ハ此海中に上古より島ありて其
島もいつとなく崩れたる其の跡に残りたる松にて有る可き
かとも思へども去りながら海中に有る島ハ巌高く波かから
ざる所にこそ、草木も生じての島也。草木のなきは海中に
ては磊(イワ)と云へり。予が見たりつる物ハ岩に生じた
る松にてもなく水のただよう田畔にあり。若し又古ハ此嶋
ありと云ハバたとひ小嶋にして是を後に取避くべしと思ふ
とも、いかでかたやすく□徒の力及ばん。然らばいつまで
も有るべきに其の跡とも見えず、葭原の広江の辺に在りし
は不審也。
 古老の物語にも此事を聞かざりし也。岩永口より西の崎
の前惣分、但此地高ハ覚えざる也。寛永十五寅の春より寺
西権之助之を築くと云ふ事旧記に見へたり。然れば、宝永
四年亥の年までわずか百余年にして此辺の潮田悉く元の海
になりたり。
(○賀茂神社の宝物を列挙したあと)
 是ハ頼顕別当覚付ノ写シナリケルガ其後宝永四年ノ亥ノ
大変ニ悉ク流失ス。
寛政十二庚申十月廿八日写之
岡田相模正 藤原重賢 所持
出典 新収日本地震史料 第3巻 別巻
ページ 534
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 高知
市区町村 須崎【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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