[未校訂] 私が現に総代をしている、須崎八幡宮に社宝として保存
されている木札の事実を、橋田義寿先生の読解したものを
もとに記してみる。
㈠ 製作者川淵太惣兵衛
十二号に川淵家の略譜を記したが、その二代目の庄屋太
次右衛門(後太惣兵衛と改む)は、元禄十四年より宝暦元
年迄、五十一年も長期勤続した人で、就任七年目の宝永四
年十月四日「亥の大変」は、記録の不備な「白鳳」は兎に
角として、土佐では古今最大級の地震津波であった。
暗黒の中、全村が水没、建物は流失、破壊、一夜明ける
と、ヘドロに埋った家屋、家財の残骸、地震津波の予備知
識のほとんどなかった人々が、闇のなかを逃げ後れての溺
死体、惨状実に目もあてられない有様だったであろう。
夜盗略奪など横行、物騒な世相の中、藩より役人が派遣
され、救援、復旧措置などに努力されたが、南海地震の時
と異り、交通、通信共に不如意、物資の少ない時代であっ
たので流言ひ語にも、随分悩まされたであろう。
藩全土の大被災であったので、外よりの救助にはそうた
よれず、最高責任者として長らく日夜身命をとして、救援
及び復旧に奮闘を続けた庄屋川淵太惣兵衛の功績は、実に
偉大といわなければならない。
彼はこの事実を津波後十年、復旧成った享保二年(一七
一七)[二標|ニノモト]八良兵衛の見事な筆蹟で、木札に記録さし、現
に須崎八幡宮に、社宝として保存されている。
㈡ 地震津波の被害
木札表面
宝永四丁亥十月四日時変大潮入須崎本村浦分共亡所有増
記
一損田 五百九拾弐石 須崎本村 内百九拾石余 本田
四百弐石 新田
一流家 四百三拾弐軒 内弐百十六軒 本村
弐百十六軒 浦分
一流失 三百三拾一人 内男女百九十六人 浦人
男女百弐拾九人 本村
男六人 他国者
一寺 三カ所 大善寺 西願寺 考山寺
一堂社 十ケ所
八幡宮二社(本殿、西鴨神社)
若宮一社(住吉神社)、夷堂一宇(東古市町)
阿弥陀堂一宇(青木町西内一郎氏前領木商店裏昭和の初
発生寺上薫的堂に合祀)
観音堂一宇、地蔵堂二宇(原町)
虚空蔵堂一宇(東古市町福永一郎酒店裏の小路)
大師堂一宇(西町)
(注カッコ内は筆者記入) 以上
一御制札場并御分一屋御米蔵廻船漁船網猟具地下人財物不
残
一潮高サ四方山根ヨリ二間斗近郷ハ上分遅越関限、吾井郷
ハ鯛ノ川関限、押岡ハ在所中、神田ハ八王寺奥限入
一地下人当時及即餓国守より飯領被為成下日数十日御
救請面々小屋懸古城山下一両年令住居段々町割仕堀よ
り南住宅其後辰九月御地詰地面相極り安座仕也
一八幡宮再興宮林立枯百本余申請売立并氏子加奉銭成就則
棟札明白也
一御輿従豆州子九月十一日御下向奉納畢此送状志州鳥羽船
宿斉藤林之介方より指下故永く伝氏子為祈万歳此裏板写
置本紙各別封置所也
右此寄進施主洲崎本村住人本村浦共支配庄屋
川淵太次右衛門好維 好維
奉掛宝前者也
敬白
享保二丁酉八月吉辰日
(側面)二標八良兵衛 書之
右の文をわかり易く書くと大体次のようだろう。
一役所の制札場、即ち今日の掲示場、漁師の売上に対する
歩合(今日の税金)をとる役所、御米蔵、廻送船、漁
船、魚網、猟具など一般庶民の財産は流失して、残って
いない。
一潮の高さは四方の山の元から一丈二尺(三・七米)近郷
は上分では遅越の関、吾井郷は鯛ノ川の関、押岡は全
部、神田は八王寺の奥迄浸水した。
一一般庶民は当時食糧はなく、食うに困った。国守より救
援として、十日分の食糧が支給され、城山の下に小屋掛
をして、しばし居住させてもらった。
その後次第に南の住宅に町割をし、五年目の正徳二年
(一七一二)九月迄に、住居やその他の建物及び土地の
割振も決定し、皆が安住した。
一八幡宮の再興は、境内の神木が倒れたり、塩づかりやへ
ドロに埋れて、百本余立枯した。これを申請して売り、
氏子の奉納金と合わせて、再建したことは棟札に明白に
してある。
一御輿は伊豆へゆき、宝永五年九月十一日御下向、元の宮
に納めた。
この送状は志州鳥羽浦の船宿斉藤林之助よりのもので
永く氏子に伝え、万歳を祈るため、この裏板に写しお
き、本送状は別封して保管してある。
㈢ ミコシ伊豆へ漂流前後の状況
ミコシが伊豆に流れ、後に八幡宮に戻ったことは、須崎
では古老の中では知っている人がある。私も父生前に聞い
ている。
然し、これらの多くは伝説的に伝承されたようである
が、この正確な文献により、これが実話として永く氏子民
に伝えることが出来るのは、誠に喜ばしい。
この事実は表面最後の項と次の送状写しで実証する。
木札裏面
覚(写)
一御八幡宮様
右は亥十月八日豆州岩地御上り被成候処土州安田浦長左
衛門聞付彼地へ船乗込而御向土佐へ御送り申度旨而神主へ
申達得ば然るに御神楽御門上ケ申所弥御国元須崎浦へ御戻
り被成度旨御鬮(ママ)おり申に付則船より御向に被参而子六月四
日に長左衛門船へ御乗被成得は同六日ニ志州鳥羽浦へ御着
船ニ御座然所志和浦弥一兵衛殿船居被申而右之段々長左衛
門被申而鳥羽浦より弥一兵衛船ニ而御国元へ御送り上申
以上
宝永五子年六月十五日
志州鳥羽御舟宿
斉藤林之助㊞
これは送状故簡明だが、説明を加へると、
宝永四年十月四日の大地震津波で、八幡宮は水深四米以
上(山の元で三・七米故)社の大部分は水中に没し、倒
壊、ミコシは潮の流れにのって太平洋を漂い、流れ流れて
五日目の十月八日、伊豆の岩地にうち上げられた。或は漁
船が沖で見つけて、拾ってきたかも知れない。
土地の人々は神官と共に丁重に祭り保管していた。内容
の品からこのミコシは、土州須崎八幡宮のものであること
がわかった。
この由を知った当の八幡宮は、津波の大きな傷手に苦し
んでいた。その上数百里はるかかなたの伊豆迄受取りに行
くのは困難な状態だったかも知れない。
土州安田浦の廻船業、長左衛門がこれを聞き、商用旁々
お迎えに岩地に廻船、須崎にお返し願いたいと申し入れ
た。
拾い上げ八ケ月も大切に護り祭ったこと故、村人と相談
した神主だが、ミコシのことでもあり、その主からのお迎
とあってはすておけず、ご神楽を奏しておみくじにより神
意をお伺したところ、ご帰国したいとのおつげがおみくじ
に出た。
そこで別難を惜しむ神主や村人の了承を得、先方の労を
深謝し長左衛門の船に積込み、宝永五年六月四日出航六月
六日志州鳥羽港に着船、同港の船宿斉藤林之助方に宿泊し
た。
丁度、土州志和浦の廻船業弥一兵衛の船がこの港に寄港
していた。長左衛門は安田より須崎は廻りみちだが、志和
は須崎が途中で近いので、弥一兵衛に相談して快諾を得、
ミコシを積みかえた。
こうしてここでの所用を終えた弥一兵衛の船は六月十五
日、同日附の八幡宮宛林之助の送状を添えて、国元へお送
りした。(原文解説)
以上に一つの疑問がある。それは木札表記最後に、み輿
は豆州より九月十一日ご下向、奉納したとある。
然し裏面送状よりすると、六月十五日鳥羽を出航、途中
商用で寄港しても、六月末か七月初に須崎に着いた筈であ
る。
この七十日位の空白は何か?、津波で破壊された八幡宮
は未だ復旧に手がつかず、直ちに受入れ出来ず、この間何
処かに安置、九月十一日正式受入奉納したものと、筆者は
思う。
追記
このミコシ漂流の記事は南路志にも記録されていて、木
札が万一失われても、土佐最高の史書に百六十余年前、既
に記載されている以上不滅であると思う時、幕末土佐の史
聖武藤致和先生に敬意を表する次第である。
然し、本木札は正真正銘、本家本元の文献で、その誤り
は次の通りである。
一伊豆国下田浦の漁船が「沖合にて拾いは」、「岩地にお上
り」土州「田野浦」は、「安田浦」「伊豆下田問屋役人よ
りの送状」は、「鳥羽船宿斉藤林之助よりの送状」