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項目 内容
ID S00001862
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1855/11/11
和暦 安政二年十月二日
綱文 一八五五年安政江戸地震(安政二年十月二日)
書名 〔大地震風聞書上〕『神奈川県史 資料編一〇 近世(7)』
本文
[未校訂]十月二日夜四ツ時頃率爾に大風吹来る音するや否、大地動出しけれハ、人々あわておとろき駆出したるも後にハ夢のこゝちせり、一躰去霜月四日関西国々大地震にて人家転倒し、梁桷に圧され又は大地の裂口へをち入、過刻津なミに引れ人命を失ふもの数多ありと聞伝へけれハ、今般もつなミあるへしと活るこゝちなふ按しけるに、曾て其気なきは仕合なり、乍去動り反し計かたく、翌三日朝広場へ□子をならべ、其上へ板を敷、すわといはゞこれにのる手数、まつたく大地さけたる時の覚悟なり、然とも我居宅はいふに及ばす、構中建家無雖(難)、土蔵は蛇ばら腰まき少々ひゝわれたれとも、直に手入いたす迄にも無之、追て左官の序をまつのミ、隣村も右同断の次第、其中にも一之宮村ひのや店は土倉壁墻をふるひ落したるよし、其外厚木・藤沢辺はよほといたミ家あれとも、小田原は至てかろし、扨御府内存外の大地震にて御屋敷方・市中共過半つふれ、其上八方より出火して倒死人夥し、殊に両御丸御炎上の沙汰なれは、驚怖して予四日四ツ時頃より発足し翌五日八ツ時頃御府内へ駆付、赤羽根へ立より孫娘せい女の勤居候保科公の御屋布(敷)の様子承りとゝけ、直に御地頭所へ罷越、安否奉伺候処、御三方始奥様方御一統御機嫌克被為在、御用人下々迄怪我一切無御座候由承り、一先安心いたし候得共、いまた昼夜五六度ツヽ動出候ニ付、御上ハ白昼は後座敷すまひにて、夜は庭前へ挑灯をてらし幕を張、野陣同断の有様にて、五六日の間夜中を御しのき被為遊候、御知行所名主共時々夜中不睡詰居、夫々持運の手配いたし居候得共、漸々十日過ニ相成震も相止けれは、いよく安堵して先以御無難の恐悦奉申上候、尤御玄関より奥向余程かたふき、御庭先の石垣所々崩落候分共、無捨置場所は来春迄御凌のミ御手当有之ニ付、関東御知行所にて為御見舞金百両上納仕候、此わり合半金高わり、半金人別と先例ニ随ひ取計差出候、是にて無滞一同帰村被仰付候、夫より市中大破、焼亡之場処相廻候処、先御本丸御櫓いたミ御塀崩れ、西御丸二重橋辺御石墻大崩レ、其外御囲土手御塀・石垣共御城池へ崩入たること多し、中にも桜田見附・和田倉見附等は石動出かたなく、此辺御役屋敷・御大名屋鋪・神田橋内返手先迄あらまし焼亡す、又二の廓・神田橋外・飯田町辺迄の御石垣所々くすれ、垂枝の古松溝中に入たる有様あわれ也、そか中にも下谷辺并本所・深川辺別してはげし、上野御山内所々いたミ、三枚橋・広小路焼失、坂本・東坂・慈輪辺より千住・小塚原家並つふれ出火して焼る、新吉原五町街残らず動つぶれ一時に焼る、其訳は江左町一町目より出火して大門口へ焼かゝりけれは、廓人逃るに十方を失ひ、なきさけぶ内又笛町より燃上り、廓中一円の火となりぬれは、塀を破り橋をわたす間なく過半焼死す、日本堤、大地裂たること凡壱尺余なり、夫より田町大音寺まへ花川戸・山之宿・聖天町・猿若町、三芝居やける、馬道も大半転覆して火うつるなり、浅草寺御境内所々いたミ多し、御本堂ゆかミ、左方の破風崩れをち、五重塔九輪ばかりくの字形になりになりたれ共、転倒せざるハ妙智力といひつへし、又並木通諏訪町より出火して駒形迄焼るなり、川東は本所石原より出火して立川通・相生町・林丁・緑町辺迄焼る、小桜・引船辺も同断、南ハ深川・八幡一之鳥居より出火して相川町・蛤町焼るなり、其外本郷より出火して湯島切通迄焼出けれ共、加州様御火消の人々止る、又南伝馬町二丁目より出火して鍛冶町・楠町・畳町・五郎兵衛町、東ハ具足町・常盤町・因幡町・白魚屋敷迄焼る、夫より芝口は柴井町・宇田町焼る、高輪海岸通大地壱尺ほとわれたり、又赤羽根辺より西麻布・広尾辺処々崩れ焼る、総して山の手・四ツ谷・赤坂・麹町辺は少しやわらかなりといへとも、所によりつぶれあり、小石川より小川街辺別して烈しく大半焼る、飯田町・番町に至りやわらかなり、凡御府内五千余町の町々より一時に三十余ケ所の出火なれハ、いづれ方よりいづれといふわかちなく、一円天をこがすの有様、逃行先に十方をうしなひ、あきれはてたるばかりなり、又東海道ハ川崎・神奈川、中山道は浦和・大宮、日光街道は鳩ケ谷・大門、水戸街道は松戸・小金辺迄、東は行徳・船橋、或は千住・草加・越ケ谷、甲州街道ハ布田・府中辺迄の噂さなれは、江戸十里四方の大地震近年稀なる変事なり、今人江戸地震と唱ふるも宜なり、尤二百年前かゝる天変ありたるとしなれとも、其節は御府内の住所今の十分一にして、市中は勿論御屋敷様方の御家作等も諸事御手軽なれは、損失も多からず、実に此大都会三国無双の麗地、広大不窮の人竈なれハ、倒覆炎上して落命したるもの幾千万と計りかたし、其外明暦の大火にて没死人十万八千人とか伝ふなれとも、中々以今般の人失に及びかたし、右ニ付格別の 御仁徳あらせられて、
(頭注)深川海辺新田 同八幡社内 幸福御門前 上野広小路 浅草雷神門
市中五ケ所へ小屋をしつらへ、人家焼失のもの并死を遁れ再餓死せんものゝ浮命を御救下され候段、莫大なる御鴻恩と奉仰ざるハなし、因レ之市街有徳の町人共為冥加御救小屋の困民への御足合をねがひ、金銀・米銭何品に限らず差出たるものゝ名目左に
                        アサクサ中丁
金二朱ツヽ  一人まへ 雷神門前御救小屋へ    酒井屋
                        日本橋青物丁
銭三百文ツヽ 同    御すくひ小屋へ      さぬきや
                        アサクサ中丁
金二朱ツヽ  同    雷神門前御救小屋へ    三喜
                        同コマカタ
味噌汁    毎日三荷ツヽ  御すくひ小屋へ   うちた
                        馬ミチカミユイ
髪さかやき  雷神門前御すくひ小屋の人々へ銘々ほどこし             平五郎
其外近々ねかひ出るもの挙てかぞへかたし、
出典 都市の脆弱性が引き起こす激甚災害の軽減化プロジェクト【史資料データベース】
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備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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