[未校訂]嘉永七年(一八五四、安政元年)一一月
安政の地震
には五日と七日の二度の地震に見舞われ
た。
「御郡方年系略記」(「上妻文庫」熊本県立図書館蔵
)によると、一一月五
日申中刻(午後四時ごろ)と同七日辰下刻(午前八時ご
ろ)に起こり被害は領内全域におよんだ。なかでも野津
原・鶴崎(豊後国)ではとくに強く、菊池・合志・芦北
郡ではきわめて弱く、格別の損所はなかったと記してい
る。熊本町・高橋町・川尻町、飽田・託麻・上下益城・
宇土・八代・山本・山鹿・阿蘇・南郷・小国・久住・野
津原・鶴崎での被害届を表24に示した。
次に「尾跡地蔵講御帳」(『河内町史資料編三』)では「大地震にて
国中残らず大痛み」と記し、小島町では「家ゆ(揺)りいため、
お寺もいたみ」、白石村では寺の御堂を揺り崩し、開基の
像もなくしたと記録されている。
『島屋日記』によると八〇年来の大地震であったとい
う。六日に熊本町、七日に高橋町を訪れた隈府町(現菊
池市)の商人の咄として、熊本町では「崩れ家四五拾軒」
のほか、支柱で支えた傾いた家は所々に見えたと記して
いる。高橋町では家三〇軒余と寺の門一か所が崩れ、小
島では家二〇軒余と寺の庫裏一か所が崩れ、さらに高
橋・小島の住民は舟上に避難したと記している。
隈府町では染物屋の藍のほか、酒や醬油が揺りこぼれ、
腰瓦・漆喰い・蔵壁に亀裂がはいったと記し、深川手永
加恵村(現菊池郡七城町)諏訪明神(現加恵須
賀神社)の社地で巾三、四寸(約九~一二センチメートル)、
深さ四、五尺(約一・二~一・五㍍)、長さ一〇
〇間余(約一八〇㍍)の亀裂がみられたと記し
ている。