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項目 内容
ID J3300267
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東~九州〕
書名 〔中津川市史 中巻Ⅰ〕S・63・3・1中津川市編・発行
本文
[未校訂] 安政元年(一八五四)六月一四日に、四日市、伊賀上
野近辺に地震があり、一一月四日には、相模、伊豆、駿
河、遠江の諸国が、
「……東海道ミ志まの宿より掛川迠之内 大地震ニて
家八分通りつぶれる 宿々もつぶれ焼ける有人死ニ
多し」
と、壊滅状態となったが、翌五日にも
「……伊勢、紀州熊の浦津波打懸り 浦々白河原ニなり
し所多し、大坂辺も津なみ打掛り人死ニ多し……」
と、伊勢湾一帯に大地震があり、震源地の違う地震が二
日にわたり起こったのである(広岡・鷹見家文書
)。
 この地震を岩村領飯沼村の資料で追うと
○一一月四日朝五ッ時(午前八時
頃)「当所前代未聞大地震し
て……」と、書かれており、かなりの大揺れであったに
ちがいない。家屋、土蔵の破損も多く、田畑の地割れや
決潰個所も目についた。弥兵衛の扣田地である「坂之下」
の沼田の水口が約三坪余(約九・九㎡)陥没し、下の田
の約三坪半が一尺余(約三〇㎝)隆起している。枝村大
野・阿木村広岡神田では地割れにより水が吹き出た所や
断層が出来た所もあった。
 「当村(広岡新田
)地内蔵のかべ等ゑミこわれ剝げる 下広
岡之内田地こわれ 或は地形さがりし所もあり 人家損
しもあり(広岡・鷹見家文書
)」と、隣接した広岡新田でも同じ様な
状況であった。
 地震が大きく揺れたあとも余震が続き、翌五日昼七ッ
時(午後四時
)頃、再び大地震が襲ってきたが、このとき南の
方向で鳴動したと言い、このことを「……すさまじく誠
ニ恐しき……」と、書いている。
 以後・余震は一日に五~六度から七~八度位も二八日
まで揺り通した。そのため村人達は小屋を掛け一一月一
四日頃まで「心細き事也」と、終日この小屋でくらし、
また、飯沼村山之神の柳右衛門の居宅が四日の地震で半
壊となり岩村松平家は御救米を柳右衛門に下付してい
る。
岩村松平家の駿河領内横内村の様子を付記する。
駿河御領内誠之外此之時大地震、横内村七拾軒余之家数ニ
て七軒残しあと六拾軒余惣潰れ 其辺東海道大変ニて 人
死多くすべて浜辺ハ大津なみニて日本国中之大変と云う
大坂ニても人死数知れざるよし 西国ニてハ四日之地震より
五日之地震大ゆりニて津なミ多よし也 此辺ニ而ハ五日の地
震ハ四日の半分位と云フ」
 この年の一二月末までは、たびたび余震が続き、一二
月七日朝七ッ半(午前五時
)頃、大揺れが来た。この日は三度
の大揺れと小さな揺れが五度もあったと言い、明けて安
政二年(一八五五)一月七日夜五ッ(午後八時
)と、九月二八
日昼七ッ半(午後四時
)に地震が起きている。
 一〇月二日夜五ッ半(午後九時
)大きく揺れるが、これは江
戸の町の半分の倒壊と焼失し、死者が四千人に及んだ、
あの「安政の大地震」であった。この時の被害の風聞を
次の様に書いている。
 「……此時江戸ハ大変ニておよそ江戸半分ゆり潰し 三
拾六か所より出火ニて……地震ハ四日之四ッ時(午前一〇時

迄ゆりつづき上下死人数知レズ半死半生之者同断と云う
……。」
 一二月二五日夜五ッ(午後八時
)頃、大きな余震があるが
「……此外 少々ずつゆり候事ハ 日々の事[故|ゆ]え[印|しる]すに
及バズ別而大ゆりの地震ばかりを[認|したた]め[置|お]き申候」
 と、かなり余震のあったこととあきらめにも似た心境
を「印すに及バズ」と書いている。
出典 日本の歴史地震資料拾遺 5ノ下
ページ 1286
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 岐阜
市区町村 中津川【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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