[未校訂]明治三年午九月十日改之 圦樋熟談届長控 西端村
表125 余震のようす
年・月・日
天気
地震の様子
嘉永7・11・5
晴
3・4度地震
6
晴
昼夜5・6度地震
7
晴
同断
8
晴
昼夜2度地震
9
晴
夜4ツ時地震、夜9ツ時博労町大火
18
大風
地震7・8度
安政元・12・11
夜地震
14
晴
夕方地震
15
雲
夜6ツ半地震
23
晴
大地震
30
大風
少々地震
安政2・1・6
晴
夕方地震、夜5ツ時地震
27
晴
夕7ツ時地震、夜4ツ時地震
2・11
晴
夜9ツ時地震
14
晴
8ツ時地震
「風雨晴雲録」(小林啓之助文書)より作成
(碧南市史収集史料)
本史料は、東端村の四ヶ村用水復帰を確定した重要史
料だが、争論の経過を記した関連資料からは、池廻り八
か村組合の内部対立の実態や安政元年の地震による油ヶ
淵周辺の探刻な地盤沈下の状況を知ることができる。
西端・高取両村から根崎村に宛てた安政四年八月付の
「為取替申一札之事」は、西端・高取両村が新圦樋撤去
を承知しない根崎村に対して、新堀川割合金の支払いを
二度にわたって延引し人足の提出も断ったと記している
(同史料)。このため池廻り八か村組合の「割元」(取り
まとめ役)である根崎村は組合運営に行き詰まり、「割元」
を西端村に任せることを申し出たという(榎前町斎藤勘
郎家資料「〔八ヶ村議定組合割元引請につき一札〕」)。池
廻り組合は、この直前には安政地震で破損した新堀川の
水門を修復しており、油ヶ淵の水位上昇によって維持が
難しくなった水門場所の変更が課題になっていた(和泉
町早川博明家資料「万延元年閏三月 乍恐以書附奉願上
候」)。新圦樋をめぐる問題は、課題が山積する池廻り組
合の運営や組織の維持にとって大きな障害になっていた
のである。このため双方が協議した結果、安政四年八月
に根崎村は「新圦樋ゟ用水一切引取不申候間、何れニ而堀
取ニ相成候共不苦」と新圦樋撤去に同意し、西端・高取両
村は「水門諸入用之儀者勘定仕、已後ハ人足等ニ至迄差支
無之様可致候」と約束した(碧南市史収集史料)。また根
崎村はこれまで通り「割元」を引き受けることになった。
西端・高取両村は、池廻り八か村組合を運営する立場
にある根崎村に対して、負担金不払などの手段で圧力を
かけて新圦樋撤去に同意させたのである。新圦樋に反対
する西端・高取両村は、当初から根崎村に対して新圦樋
撤去を要請し続けており、また新圦樋を必要としていた
東端村も根崎村に申し入れて共同で圦樋を設置してい
る。池廻り組合の「割元」であった根崎村は組合村々か
ら重視される存在であり、一方では組合村々に対してさ
まざまな配慮をしなければならない立場にあったのであ
る。
なお、安政四年一月二十一日に行われた米津村の寄合
では、新圦樋について「村方ニては二た派」に分かれたと
いう(「米津村年代記」)。寄合の内容は不明だが、後に米
津・城ヶ入・根崎の三か村が用水圦樋の修復費用の分担
をめぐって対立していることからみて、東端・根崎両村
の四ヶ村用水離脱による用水維持費の負担増についても
議論されたことが予想できる。米津・城ヶ入両村の新圦
樋反対理由には、水損の拡大のほかにも用水維持費が増
加することへの不満があったと考えられる。
安政五年二月の西端村から論所地改役人宛の願書下書
写は、「去ル寅年十一月二(ママ)日大地震ニ付、海面殊之外汐高
ニ御座候」と記している。「米津村年代記」も、安政東海
地震で米津村の森前堤五〇間が三、四尺、根崎堤一五〇
間が五、六尺も沈んだと記録し、翌年の項には、「尾州・
三州・勢州の一帯の海二尺位高く成」ると記している。
地震による地盤沈下については、明治二十五年に油ヶ淵
周辺の連合一一か村が愛知県知事宛に提出した新堀川改
修工事願いにも、田方はおおよそ一尺二寸ほども陥落し
たと記しており(『高浜市誌2』二六八㌻)、地震による
地盤沈下が油ヶ淵周辺の田畑の浸水を深刻化させていた
ことが確認できる。西端・高取両村が新圦樋に強く反対
した背景には、このような安政地震による水損拡大があ
ったことは間違いない(史料46参照)。