[未校訂]三五 東国における地震と津波の被害(相模国真鶴湊、
豆州下田湊、魯西亜船の破損、駿河国清水湊、遠
州掛塚浦)(十一月)
十一月四日四ツ時頃、相州真鶴湊より先々豆州下田、長
津呂、妻良、子浦、戸田之湊々、水戸浦辺迄一面大地震
ニて民家大半破損致候、過刻再津波ニて海中へ引出シ家
財等流失いたし、中ニも下田湊は同日同刻地震よと立さ
わぐ、次第〳〵に強盛になり、老弱婦人逃さらんとすれ
ども腰たゝず、起ては転び〳〵やうやく家内を這出たる
者も、倒覆の棟梁ニ圧れ、或は蹴つまづき、或地之裂口
に落入一命を没するもの数しらず、九ツ過少々地震やは
らぎたれハ、ミなと内干潟となること凡壱丈余、また希
異のおもひをなし、いかゞあらんと驚き歎くうちに、老
人之いはく海水乾潟となる時ハ津波来ると伝へきく、急
速山に登べしといひ触けれハ、親は子を負ひ、若きハ弱
きを助け家財雑具に目をかけず、我も〳〵と高丘によぢ
登り、[後|アト]見渡せハ楼の如く高サ五丈あまりの大津なミ、
湧がことくに襲来り、家居倉廩は不及申、立木迄も見る
間に湊へ引出し、又湊ニ繫ぎたる元船三四艘、山の半腹へ
押あげし有様は、今ぞ世界が滅するかとおもふばかり、
更ニ生たる心地なし、漸く夕かた津波静まりたれども、
反し波来るといふて麓に下るものもなく、一連其夜を明
しける、翌五日こわ〳〵麓に下り見れハ、往馴し里にハ
あらず、たゞ広野とハなりにけり、そが中ニも平地いけ
を成し、田圃に打よせたる障子・床・襖・屛風・夜着其
外雑具のかされる中に、溺死之もの数多見ゆるハ眼も当
られぬ有様なり、依之下田御役所ゟ御急状、浦々江御廻
し被遊候写し左ニ
今日大津波ニて下田町過半流出、右ニ付出役之面々旅
宿ニ差置候御用物、其外武器諸道具等多分致流失候間、
其村々海岸へ流寄品々も有之候ハヽ取集置、其段下田
奉行御役所へ可相届もの也
寅十一月四日
駿河印
左衛門印
豆州従下田武州神奈川宿迄
前顕大変の下田湊に魯西亜船五百人乗一艘居合候処、高
大之津波なれハ岸頭へ打あげ、又反し波にて引出したれ
ハ、かゝる海城の大船も余程破損し、其後下田御奉行所
へ取繕方願出けれ共、市中広原となりて不自由なれハ、
同国戸田浦へ場所替被仰付候、仍之豆・駿両国浦々漁船
凡五六百艘、取船となり下田湊より引出しける、其日(頭
注・十一月廿四五日也)田子沖より俄ニ波立となり、暴
風吹来りけれハ引船之漁船凌ぐに度を失ひ、おもひ〳〵
に散乱す、されハ異船はいよ〳〵損処より水入是非なく、
水主はバッテイラ八艘へ乗うつり戸田口さして漕よせ、
からき命をたすかりけれ共、元船ハ乗捨となり、駿州小
須浦沖にて終に沈湮し海底の滓屑とハなりにける、此辺
千尋だちと唱へて至て深海なるよし、右ニ付下田御奉行
所より此段上達ニ相成候ニ付、早急に長屋を補理扶食を
下されたり、然処上陸之異人共此破船之次第本国へ通達
いたし度、何卒長崎表まで陸路を御通セ被下度段、願出
けれ共無御許容、乍去彼地迄廻船にて送り可遣趣被仰出、
俄に新造取立五六百石積也
御手配りあり、尤大工は異人と日本人
と仕あひにて造立いたすよし
又駿州清水湊も前件之地震起りて、千軒之町場一時に破
壊し、災火出でゝ六口となり眼たゝく中に焼亡し、凡横
死人百余、怪我人数しらず、たま〳〵無事にて遁延候も
のも、野に倒、山にかくれ過し、初て蘇生のこゝちすれ
共、食ふべき穀種ハなく炊器もなし、無余儀焼灰之中よ
り鑿出せる破鍋、瓦欠之類にて野圃之蘿蔔を其まゝ煮て
食ひ、飢渇をしのぐ計也、かく国中一帯のことなれハ誰
在て食物を送る者なく、府中之公庁へ助命之儀を願ふと
いへとも、一列の急難上下の差別なし、追て 公儀之沙
汰あるを待べきとの下知也、此地一円広野となり、廓外
の公稟のミ残りたる有様ハ目もあてられぬ憐也、又湊中
に繫ぎたる商舶陸上之如くニ相成、又三保ヶ崎にてハ一
村こと〳〵く地下ニ沈ミ家居立木も其すがたなく、たゞ
湖面之如くなりたるも不思測なり、按ずるに地のふるひ
動揺するにしたがひ、頑頡して陸となり湖となること可
恐可懼哉、富士川も地震後かゝるはげしき流水とゞまり
て、自然沙漠之変をなしたること、前代未聞の珍事也
又遠州掛塚浦も前条清水湊に似て、多人命を没す、処々
地裂て進退することあたはず、終にハ黒砂をふき出して
白昼暗夜の如くとなり再倒家をうづむ、所謂宝永年間富
士山焼て関東へすなふり出したる例に異ならず、豈天地
転覆して游鯤飛来り世界あらたまる哉といふて、諸人恐
歎せぬはなかりけり、其中に地之裂口より長七八寸位も
ありける小魚を、最寄〳〵ニ吹出したり、此魚漁父も見
ることなし、たとへハ池沼に生るゝとぜう・なまずの類
に似たるとぞ、全く地下に魚すむとすれハ地ハうき物な
り、俗に世界を浮世と唱ふるも宜哉、按ずるにむかしよ
り地震を画く時はなまずを書出せしも、こゝらをとりて
証とするか
三八 畿内、西国における地震と津波の被害(大坂表、
阿波国撫養辺)
(欄外注・「十一月五日関東より一日後」)
又摂州大坂表も大地震後、大津波天保山安治川口へ押来
り、退人之乗船を覆し、即時に溺死七千人余、国々より
出坂いたし居候ものとも彼是一万人程流命のよし、一体
往古津波之節、川辺通りはやく船に馳乗候ものハ一命
つゝがなく、市中逃去り候者はこと〳〵く波に引出され
たるとのこと聞伝へありし故、此度は水涯野園の差別な
く我も〳〵と船ニのり、かく溺死となるも急也、却て外
へ逃去候ものハ一命恙なし、実に天変の時節なるか、其
大変に臨テハ古今ひとしからずといへども、大地震後津
波の来ることハよく符号せり、可恐、可驚哉、又四国之
大変もかく大坂表に劣らず、中にも阿州撫養辺のあれた
ること夥しく、浦々塩焚浜等は一円海となり、其所の人々
六七日の間山住いたしたるよし、此変ありてより塩相場
急に引上高直となる、さて此度之大地震は関東やはらか、
奥筋一向震はず、関西駿・遠・三より尾・勢州、夫ゟ紀
伊・和泉・摂津・播磨は勿論、四国九州甚しく、北国中
国はやはらかにて国により地震しらずもあり、察すると
ころ、わが日本東ゟ西へ中央をさかひ、南の手をふるひ
通りける様子なり、されハ東海道・南海道・山陽道・西
海道の地しんなるかとおもはる、そが中にも薩摩・大隅
抔は格別にて、琉久国迄過半人家破壊いたしたるとの噂
なり、惣して異国等も大地震のよしおひ〳〵伝へ聞とい
へども、万里の波濤を経たれハしるすにたしかならず
前文略 去十一月四日大地震、御地も余程御痛之由伝承
仕誠ニ奉驚入、早々御機嫌可奉伺候処、当地儀も翌五日
七ツ時より大地震ニ而其後彼是混雑いたし、御見舞大ニ延
引仕候段真平御免可被下候、将又塩相場之儀、右地震ニ而
赤穂・酒井・出野崎等之浦々大痛、且江戸表も拾弐俵迄
引上候得共、此処弐匁五分斎田商ひ仕候、併天気宜敷候
ハヽ少々引下可申と奉存候、右相場ニ而は余程よき御運
賃にも相成可申、此処早々御用向被仰付候様奉願上候
一五日大地震、撫養地損家弐百五拾軒、津波七八尺、人
命無失
一南方海辺八ヶ村流失、是又人命無失
一城下町分四千軒焼失
一桑島町不残同断
一撫養地、五日夕方より十一日迄山住居
右之通ニ御座候 桑島町 中島屋喜左衛門
従之改元翌 安政二乙卯年となる 二編之内