[未校訂](二) 弘化四年大地震(善光寺大地震)
1 地震当日の状況
弘化四(一八四七年五月八日午後十時、陽暦に換算 以下同様)年三月二十四日夜四ツ時大地震によって、被害
を受けた人々は、当時の様子を誠実な記録に残し、百四
十余年を経た現在に伝えている。その古文書をみると、
先人の方々が体験した地震の事実は、いま災害を忘れて
いる私達にとって、身の震える想いであり、また、日ご
ろの生活に対する警告と思える。
当時地震の実状は、つぎのとおりである。
弘化四(一八四七年五月八日午後十時)丁未年三月二十四日夜四ッ時、直に二度大ゆれ、
大荒れがある。
上押野
特別、押野村は、十軒の地が押し出し、泥の中に震え
埋まる。住む家はいうまでもなく、地形上にあった豊
吉・代吉の屋敷が、一(約五メートル)丈五尺ばかり、矢のようになっ
て十(二十七メートル)五間下に埋まる。彦蔵は家屋敷と一緒に、往来の
道端まで押し出される。およそ三(三三〇メートル)丁ほどの所が同じよ
うになる。それぞれの住む家は埋まり、雪隠(お手洗
い)が埋まった家へ掛かって留まる。土蔵も埋まり住
み家に掛かる。住む家の崩れたほかに、雪隠と離れ、
厩等がそのまま脇へ押し出され、役にたたなくなるな
ど、この夜の地震で住む家が残らず潰れ、夫食(日常
の食糧)等まで、ひといきに埋まった。建数十一軒の
うち、彦蔵ひとり土に埋まり、弥二郎の娘も家木の下
になって死んだ。
その他、堂の庫裡も潰れた。
右の荒れようは初めての難(災難)、出来ごとであった。
下押野
住む家の屋根は吹き出て、一方が壊れる。家の土台も
損なわれる。また、家の造作や土蔵が欠け落ち、三軒
の家は半潰れとなった(弘化四年当座実録控 内山庫
治、内山(す)家文書)。
渋田見
夜(午後十時)四ッ時その際、早い者は寝ており、または、起きて
いた者も少しいた処。大地震で家の中に居ることも出
来ず、村の人々は、建物の外へ出る。
その時の荒れは、柱・板戸・廂と、手元を始め戸障子
が折れ、また、壁上塗りした所痍裂け、または、家が
ふるい、柱木の倒れたり、鴨居木の裂けた家もあった。
土蔵の壁は同じにゆれ裂けたり割ひびがついた。その
儘にして置けば暮しは立たず。または、長屋など殪れ、
雪隠に至るまで殪れ寄る。尤、溜などの割れたことは、
卒位老人(高齢のお年寄)も聞いたことも無く、前代
未聞のさまと人々口合(お互いの話)にも出る。
地震は、震動雷電、山谷とも一時(二時間)ばかり止
むことがなかった。なかでも難儀した人は、自分の住
む家が目の前に倒れ、土蔵・雪(お手洗い)隠の壁割れ、長屋も少々
捩れる。所によっては、住んでいる家の板敷きが荒れ
て崩れる。長屋も倒れて人に難儀させた。右、北郷(渋
田見)の内は、格別なことも無かったが、大地が割れ
た。人々の家屋敷のゆり割れより泥が吹き出て、水は
小堰のように所々より流れる。(液状化現象(liquefac-tion)・流動化現象地下水位
が高く軟弱な砂地盤で砂の粒子も小さく粒のそろっている場合に、強い振動を受けると 地盤全体は液体のようになる。これを液状化現象とい
い、このとき砂や水が流れ出す現象を流動化現象という。
)また、雪隠の所からも泥が流
れ出る。その割りひび(割れた裂け目)ばかりは、ど
うすることも出来なかった。
また、手元の雪隠の下より南へ、裏より屋敷あたりま
で、段々重なり、一番の割れは幅五(一五~一八センチメートル)、六寸にもなり、
深さを突き立ててみたらば一(三〇~六〇センチメートル)・二尺もあった。
中郷の治右衛門・仙次郎・喜惣次は土蔵がゆれさけ、
木舞(壁の下地に組みわたした竹や木)ばかりになる。
喜惣次方では住む家や牝馬などが押し裂かれる。
また原二郎の家は隣りの家へ押し出すなど、数人に怪
我をさせ、土砂が抜けて原となる。なお、御宮(の)木を押
し出し、埋れたり、割れる。大部分の家居(住む家)
などはいたんだ。さらに、ゆれで出来た割り込みから、
大量の水が押し出る。(弘化四丁未年 大地震萬事覚書 東大文学部図書館藏(師岡家文書)、以下師岡家
文書と示す
)。法洞寺も大いたみする。
その外、割れひびは、金比羅様の下荻原道に大割れが
二筋、城山の牛首に二筋。
田の方には冷水も震え出る。此の年、以ての外不作。
冷湧(つめたい地下水がわき出して米がとれなかったこと
)御願い申し上げ、御引き
(年貢をお減らし
)、くだされた。前堰の水は、堰の両側へ震え上
がり、沢水のようであった。その他、大部あるけれど
も筆紙に表わすことは難しく、大選(大まかにみれば
)半潰れ位
であった。(弘化四年 地震荒 犀川突理取調帳其外 村方荒所旁控 山崎多満治
山崎(智)家文書)。
鵜山
紺屋 久右衛門屋敷は、四(一五センチメートル)、五寸ずつ惣屋敷が八角に
割れ、家(六〇センチメートル)二尺ばかりよろぶ(倒れる)。
土蔵・葉小屋も同様である。片付けたところ、畑の地
形は、東西(一・八メートル)六尺、南北八(一五~一六メートル)、九間ばかりが、一(一・八メートル)間ばかり落
ち入(込み)る、不思議なことである。紺屋の瓶は、みな割れ
る。
他の家々はいたみ、土蔵ねじまげ、大いたみなどがあ
った。村中、少々のいたみがあった(弘化四年 当座実録控 内山庫治(内山
(す)家文書)
)。
林中・内鎌・十日市場・中之郷
格別なことはなかった。場所によって、土蔵の壁が飛
んだり、開くなどしていたんだところもあった。その
他、住む家の上の木などが、崩れた所もあった(師岡
家文書)。
小泉
天崎、半潰れ六軒。
嶺方
袖山、十二軒中、本潰れ九軒(内堂一軒)、半潰れ三軒。
地籍の全家屋敷が被害を受けた。
宮平、本潰れ二軒、半潰れ六軒。
大岩、本潰れ四軒、半潰れ四軒。与右衛門の女房気絶。
原、 半潰れ一軒。
卯明、 半潰れ一軒。
寺村
観音堂一軒と葉小屋一軒本潰れ、五軒半潰れ。住む家、
他に高平門や土蔵の壁が落ちた。
宇留賀
古坂、六軒本潰れ。家はゆれ潰れて出火、衣類諸道具
を残らず焼失する。表1参照。南沢、彦蔵の家一軒本
潰れ。この者梁へ首を挟まれてしまったが、他の透間
から、引き出す。右の外六軒の家がかしぐ(御用懐中録上原(卓)家文
書)
四(五月十九日)月 五日宇留賀村次第次第に地震でゆれ、山々
嶺々より石・土砂多数激しく崩れ煙を巻き起こし、風
も吹き起こって煙が立ち登る。古坂や東会の山々傷場
所から土砂・石の高く突き出た岩は切れ、古坂・会二
つの山に所々長さ四(約一・五メートル)・五尺位の揺り口ができた(師岡
家文書)。
引化四年三月二十四日(五月八日午後十時)
大日方
北平、本本潰れ一軒。
堀越、本潰れ四軒、半潰れ七軒。繁左衛門の女子が家
の下になり、みつからない、馬一匹も家の下になった
ままである。
菅田、本潰れ二軒、市郎兵衛、甚右衛門の二人は即死。
前田、本潰れ二軒、半潰れ三軒
北山
本潰れ三軒、内一軒成就院寺家。半潰れ五軒。北条右
八郎の娘ひとりなくなる。弥多郎住いなどは多少残っ
た。(弘化三午年五月より弘化四未年四月まで
御用懐中録上原重翰、(上原(卓)家文書))。
平畑・からすどまり尾根
現在に残る地割れ。北山村平畑尾根より、からすどま
りの尾根に引続く、不思議な長い堀割りがある。土地
の人は、善光寺地震のときの地割れと伝えている。長
さは、平畑八十五㍍、からすどまり百六十㍍。それぞ
れ幅三㍍、深さ二・三㍍の地割れ跡である。山の尾根
に延長二百㍍に及ぶ不気味な地割れは、百四十余年を
経たいまに、善光寺地震を伝えている。
堀の内
七郎次の住む家は本潰れで、諸道具ひとつも残らず、
老母一人と子ども二人、十三と七つが死ぬ(御用懐中
録、(上原家文書))。
古屋二階作りの分が四(七メートル)間ばかり北へ飛び、家は大きく
倒れる。土蔵も同様。二(六〇~九〇センチメートル)、三尺位いよろび家(倒れた
家)十六・七軒(当座実録控、内山家文書)。
薄井富左衛門の召抱女一人怪我をする。本潰れ五軒、
半潰れ八軒があった。
正科
本潰れ五軒、半潰れ八軒。還右衛門の女房三十三歳は、
大戸の下になり即死する。
中嶋
瓦を焼いていた家は本潰れ、葉小屋も潰れる(御用懐
中録、(上原家文書))。
相道寺
安兵衛隠居家は、瓦屋根の表がわの柱が残らず折れる
(当座実録控(内山家文書))。
元右衛門、庄屋安兵衛の家は、戸障子などあらかたこ
われ、大部いたみ住むことが出来なくなった。二軒本
潰れ。
表1 古坂六軒本潰れ焼失
茅家葉小屋
間口
奥行
間口
奥行
間口
奥行
土蔵
間口
奥行
雪隠
間口
奥行
大麦
小麦
米
大豆
小豆
蕎麦
その他
原之丞
9
20.7
4.5
7.2
2.7
3.6
3.6
5.4
2.7
3.6
16
2
白米
2
2
衣類諸道具残らず焼失
久三郎
9
20.7
3.6
5.4
4.5
5.4
2.7
3.6
6
3
白米
1
2
1
1
〃
〃
又左衛門
6.1
16.2
3.6
4.5
3
2
米
3斗
2
1
1.5
〃
〃
久之丞
6.1
15.3
2.7
3.6
2
3
米
1
3
1
1
〃
〃
十右衛門
6.4
14.4
2.7
3.6
1.5
2.7
2
1
米
1斗
1
1
1
〃
〃
又七
6.1
15.9
3.6
5.4
1.8
2.7
8
4
3
2
2
〃
〃
注 間口と奥行の長さはm。穀類の単位のない数は俵。
半潰れ十軒、右に同じく、板の間、戸障子など残らず
こわれる。地震の後、大風にもやられたため、地震か
風による被害か、はっきりしない分が五軒もあった。
右の通り確めた。書上げ場所には、人馬とも怪我ひと
つも無く、有難く幸せなことである。
花見
御蔵と二軒の家が潰れ、本潰れ三軒、十九軒半潰れ。
勝右衛門の娘が梁の下になったところ引き出し、奇跡
的に助かる。
滝澤
八左衛門の住む家と土蔵にきず。
右新宅要助の住む家・土蔵共に大いたみ。
組頭常次郎葉小屋三(五・四~一〇メートル)間に六間が倒れ、土蔵もいたみ、
組頭嘉助の土蔵に大いたみをした(御用懐中録(上原
家文書))。
池田町
大地震。それより昼夜数限りなく震い、めいめい住ん
でいる家を立ち退き、庭あるいは畑、または、山等へ
小屋掛けをする。四(五月二十四日)月十日頃迄。場所によっては、
四(六月十二日迄)月中小屋で住居した(嘉永元申年七月写 地震家潰軒数并御手当向之書留其他地割屋敷抜種々荒増
之扣但し大町組・池田組 上原重翰、
(上原家文書))。
大家方は住む家壁上塗りなど裂き、土蔵壁にもひびが
入る。その他の家々も瓦が落ち、裂けて割れる(師岡
家文書)。
松代藩役人は、地震が起こってから、十一日後に、池
田町村をみて、次の通り記録に残している。
四(五月十九日)月五日(略)栗尾の満願寺を出立、(略)松尾宮城を経
て(略)、それより高瀬川へ来た。川には橋や舟などが
無く、やっと歩いて渉った。水の流れは普段通りであ
った。
それより池田町へ出て、ざっと潰れ家を見たが格別な
こともなかった。そうはいっても、みなみな小屋掛け
し、間に合わせの住み家に住んでいた。
当所では「地震之神を送り候」と唱え、家ごとに柳と
松を用意し、小さい紙をつけ、戸口に差し挟んで年を
越すとのこと。町の人々の気配いは、非常に騒しく、
川中嶋に比べたら、なみはずれた騒ぎであった。
地震でうろたえ混乱状態であったが、別に取り締るよ
うすもなかった(略)(むし倉日記、園柱誌、「弘化四
丁未年四月、御内々申上、山越嘉膳」)。
地震のゆれは、五(七月八日)月二十六日までも続いた。地震は日々
細くなってきたが、この日夜四(午後十一時)ツ半四分位のゆれがあ
った(内山家文書)。
2 弘化四年 池田組地震絵図
池田組村々 地震に付き 家潰れ并荒所見取り絵図と
共に、池田組から藩へ大地震の報告がなされた。この絵
図が、当時どのような経緯で出来上がっていったかを伝
える史料は、つぎのとおりである。
大地震絵図
(弘化四未年(一八四七))六(七月二十九日)月十八日出勤
一家潰荒所図面之義大図ニ而宜敷候間 急々差出候様
尤一組壱枚ニ而山崩レ等 并家潰之処程 何名所何軒之
処誰レ潰レ等申位ニ而宜敷 且大キク荒候処小サク無之
小サキ処大キク無之様ニい堂し候様 巨細ニい堂し候ヘ者
御搗も相懸り候ニ付 高キ山ニ而も大方見取之処ニ而宜敷
候間 可成丈ヶ差急キ相認候様 呉々も御達し
一荒等之処者 是迄之届ケ之処 追々潰レ等ニ相成候処相約
メ差出候様 御達し(弘化四丁末年四月より 御用懐中録(上原(卓)家文書)
)
六(七月二十九日)月十八日池田組村々地震絵図面につき
家潰れ、荒所図面の事。大きい図にて宜敷いから至急差
し出すこと。但し一組一枚で山崩れ等、並、家潰れの所、
どの程度、名所(場所)、何軒の処、誰れの家潰れかと
申す位いにて宜敷く、其上荒れた所は大きくして小さ
くなく、少し荒れた所を大きく書かないようにいたし、
巨細(詳細)にすれば、御搗も相懸る(絵にして届ける
に時間もかかる)ので、高い山も大方見取りの処で宜敷
いから、出来るだけ急いで認めるように、荒等の所はこ
れ迄の届けのところ、だんだん潰れ等になった所を省
略して差し出すように、急いで認めるように、くり返し
くり返し御達しがあった。
尚々山中筋相越え 夫より上押野へ罷越 夫より村々罷
越候様子ニ候間 承知可被致候
先達而中地震ニ付 此度一組壱枚にい堂し右荒所絵図面
急々差出候様御沙汰有之 右ニ付宇留賀村 寅蔵外両人
程 村々見取下絵図相認メ候ニ付 明日頃其村々江も罷越
候間 荒所場案内可被致候 右ニ付享保年中差上候村鑑
ニ者近村ヘノ道法等有之候ニ付 右写候所ヘ罷越候節 相渡
候様取斗可被申候 以上
(弘化四未年(一八四七))六(八月六日)月廿六日巳ノ刻
山崎参十郎
上原仁野右衛門
(弘化四丁未年御用書留帳池田組花見村 庄屋 理右衛門
(和沢家文書))
六(八月六日 午前十時)月二十六日己の刻
先達て迄の間地震につき、こんど一組一枚にした荒所
絵図面を急ぎに急いで差し出すよう御指図があった。
右につき、宇留賀村寅蔵外二人程が村々を見て下絵図
に写しとる。その手掛りに明日ごろ、その村々へ参上す
るので、荒場所へ案内するように、右について享保の年
の内に差し上げて置いた村鑑に、近村への道法等が載
せてあるから、右写す所へ行った際、それらを渡せるよ
う取り計うこと。尚其上、山中筋をすませ、上押野へ行
表2 池田組村々地震絵図(口絵6~7ページ写真参照)
全潰家屋
半潰家屋
上押野
中木戸
7
5
渋田見
中木戸
1
原
2
新屋敷
1
鵜山
1
寺村
金井沢
1
田ノ入
1
天崎
3
2
嶺方
小実平
2
5
卯明
2
宮平
1
7
大岩
2
3
袖山
9
4
本潰の内に堂1
軒。山崩れもあ
り13軒全被害。
宇留賀
日陰
4
3
二子屋
2
栗木
1
方光寺
1
寺沢
1
4
石畑
3
2
本村
1
太良
2
他に常清寺の倒
壊がある
久保
2
3
古坂、1
5
上手村
古坂、6
家がゆり潰れて
上の平
焼失
柳久保
1
大日向
菅の田
2
前田
3
堀越
7
8
全潰家屋
半潰家屋
小竹
2
奈良尾
1
中塚
3
北平
1
北山
法道
6
8
平出
1
成就院庫裡
坂森
1
2
日影山
1
2
荻
1
正の田
3
3
楡室
1
1
神出
1
桃の木
3
寺間
5
2
中の貝
1
4
日野
2
2
足崎
1
2
峯在家
4
平畑
3
2
郷志窪
1
1
足沼
4
3
長谷窪
1
5
大久保
2
2
栂の尾
7
8
菖蒲
4
山の寺
1
1
堀の内
8
10
正科
3
4
相道寺
1
7
花見
2
8
御蔵1軒本潰れ
滝沢
中村
3
計
115
156
き、それより村順に参る予定である、大庄屋両名。
絵図は六月末(六月三十日新暦の八月十日)に藩へ提出
されたと推定される。大庄屋の控絵図(大庄屋二人、各
一枚ずつの控絵図)、池田組村々地震絵図面による地震
被害数を表2に示す。
(三) 水没への恐怖
遙か遠い更科郡岩倉山の、地震による崩壊が犀川を
堰止め、その水先きは宇留賀・大日向までついてきた。
池田町を始め安曇平の人々は、深刻な恐怖におそわれ
た。
信濃の国有明の里は、往古湖水なりしが、人皇十二代景行
天皇十二年和泉小太郎という者……(中略)
水はたっぷりつき、海の心ありけるとき、海出入二十日の
日を重ねて、水先きが、七(二十七、八キロ)里もつき上がり、川辺の村々浮
き憂い、これぞ昔の世にかえり、どうなる事かと身を悶
え、半狂乱になる者数多し……(中略)
(信濃国犀川二十留メ画図前書(市川家文書))
文の始まりは、仁科記等にある安曇湖水伝説の一文で
あるが、この平が湖水になると恐怖し、狂乱状態であっ
た。住古この里は湖水であったと言う安曇湖水伝説に、
当時疑問を持っていた者も実在した。
五月二十三日、芒種五月(新暦六月五、六日
)の覚(五月二十三日)。
「日本に大社四百九十二座、大小社〆三千百三十二座。人
皇六代孝安天皇、御宇多代にあり、その時この里は湖水で
あった保(穂高)高があった。」と保高大祝の言うことは、すめず
疑いがある。これ等のことは大偽りである(弘化四年 当
座実録控(内山家文書))。
残された古文書による川留めの状況は、次の通りであ
る。
犀川堰留め
弘(一八四七年、五月八日陽暦換算以下同様)化四年三月二十四日夜、大地震につき、犀川突き埋め
る場所、新町下岩倉で水留る。
(弘化四丁未年三月二十四日夜四ツ時上刻大地震 地震荒犀川突埋取調帳
山崎多満治控(山崎智家文書))
堰留め上流の地震増水被害
三(五月八日)月二十四日
松代御領新町より、十(一〇九〇メートル)丁ばかり下の所、犀川東端の岩
倉村百三十軒を、岩・土砂で、山々嶺より筑埋め、ま
た、西の端村三十軒も筑埋める。総計百六十軒。長さ
一(三・九キロメートル)里ばかり犀川へ筑埋り、堤になった。
三(五月九日)月二十五日
新町に水がつき、それから段々上流へも増水する。
四(五月十七日)月 三日
舟場村より野平、下川原まで水になる(信濃国犀川筋
二十日留メ画図前書き、市川家文書)。
四(五月十九日)月 五日
(四日より御代官様御出張、大日向庄屋宅へ御泊り)
池田組中の役人は御窺いに参上、水先きを野平村下の
舟場村まで、見届けに行った。舟場村の水は一向に動
かず、池の様だった(弘化四年当座実録控 内山庫治
(内山家文書))。
日名沢、尚又栃沢も安心できず、古坂より川辺を下っ
た際、犀川の水はまだ栃沢人家に届いていなかった。
日名のことを心に留めて舟付きに着き、舟に乗る。そ
の際、人がおったから、右村の様子を尋ねたところ、
「すでに先き頃水がついて、村内の人ごとに、日名の上
の山へ小屋掛けをした。ところがまたまた、水がつき、
さらに上へ登った。何よりも一番、荷物や百姓は、武
太夫方へ船方が送った。その頭は右小屋場へ運び届け
た。いま日名沢が、それぞれの住む所等も、随分高い
所に見える。」と、日名まで無事に着くことが出来なか
った。そうはいうもの加見屋で百姓や雑物(種々雑多
なもの)を武太夫方へ送った。右につき、送りの出来
なかった分を預り、大日向御宿に御代官様が立ち寄ら
れた際、大庄屋から御渡しした(師岡家文書)。
犀川二十日留め画図作製
四(五月十九日)月 五日
右水入り場の見届けた次第を御代官が聞かれ、寅蔵通
船に乗り下り、新町までの川辺村々を下絵図にする。
御目に掛けたところ、新町より岩倉の抜けた所は、は
っきり申し上げられなかった。
四(五月二十一日)月 七日
そのようなことで、岩倉馬曲の抜け込み、土手の高さ
何程かについて、新橋の勘石衛門、宇留賀の庄屋久左
衛門、同村寅蔵三人にて、また通船で乗り下り、川辺
村々を再びみる。上条村安養寺の裏山に船をつけ、花
倉山を越えて、水をふさいだ土手に下り、詳しく見届
ける。
水際より二(二一八メートル)丁程の内に中高の平が見えて、三(一〇・六メートル)丈五尺水
増し、水口になっていた。
四(五月二十日)月 六日
夜より、水少し岩間より湧き出る。数十二、三ヵ所。
合わせた水は水車屋堰に等しく、元の川原より水口三
(三二七メートル)丁、これより大石迄二(二七三メートル)丁半、石の中三(三八二メートル)丁半。一の土手
に水越した所一(一〇九メートル)丁余り、水口二(三六メートル)十間、この内凹になる
所十(二二~二三メートル)二、三間。
岩倉山の抜け込みは、一の土手の方へ押し込み、横向
きに少しねじれた形。花倉山の方に土石のわぐみ(ま
るめこみ)上がった分は、五(十五メートル)丈余り、この水口のこの
水口の岩の重ねの、土山あたりに水が流れてゆく。水
先きを見渡す形は、斎龍の頭に等しく見え渡る。両川
縁のわくれたる土の重ねは、浪のようである。
虚空蔵山が北の方へ抜け込み、大松木を下になしたる
は何事であろう。平一面に、抜け口の有様は、雲の形
を名付けたようなもので、犀川筋まで押し出し、土砂
が向こうの山迄押し上がる。その勢い、大留より抜け
水であろうと支える心地、一露も散らさず押し留める。
またまた、虚空蔵山の東方が抜ける。うたび、桜井 家
数三十軒が抜けてゆき跡形なし。山の半ば少しの沢に
向かって捲り立て、土浪を激しく立てて、家や雲が重
なるように中に押しはらんだ。その風、西風に乗りゆ
き、雲の勢い岩倉馬曲を中に取り巻き、左右に雲をか
ためる。その有様は龍の雲をかこいしに等しく(中略)
そのありのままを、画図とした。(口絵七ページ参照
)
(弘化四年 大地震 信濃国犀川二十日留メ画図 前書
(市川家文書))
犀川川辺村々地震・増水被害(中略)
三(五月九日)月二十五日
新町家数四百五十軒程あり、地震で家潰れ跡より焼失し
た。即死者等片付けたところ、なおまた犀川突埋めに
よって即死者の片付けができない中には、死骸を簞笥
や箱などに入れて置いた。そこへだんだんに水が増し
海のようになって、四(五月二十一日)月七日の川面一(三・九キロメートル)里余りとなった。
小屋掛けは上条の上穂苅へして住居する。(中略)
四(五月二十三日)月 九日
松代御領橋木村家数二十軒、残らず水入り湖水のよう
に見える。引き水となった時に残らず家が流失した。
なおまた、小屋掛けは二度、三度懸替して、同村の天
神坂に住居する。その間に沢あり、水が差し入り、住
いした所より往来困難となったため、諸道具を持ち運
ぶには、諸木(いろいろな木)で筏を組んで運んだ。
(中略)
四(五月二十四日)月 十日
松代御領下大岡村八軒が残らず水入りとなり、住む家
は引水にて潰れる。土蔵四ヵ所を残し、外にあった土
蔵は共に潰れた。
池田組では、洪水、同夜より大雨。
四(五月二十五日)月 十一日
松代御領上原村三軒水入りになった。
同、御境松の下へ、八(約三メートル)、九尺ほど水入りになった。
大町組栃沢の下の段家数三軒は、引き水になって家が
潰れた。その他一軒水に入った。同、船場村十九軒の
内、十一軒が水入りとなり、引き水で一軒は流失した。
また、御番所の場所にあった家が流れた。下の段は流
れないで残った。
同、野平村酒蔵は水に入った。
同、瀬口村五軒の内、二軒の家が潰れた。
池田組宇留賀村技郷古坂村 喜兵衛、船越の佐吉の家
は、水中になったので人足にて片付けた。同村彦平次・
安五郎の家が水入りとなった。その他、六軒も住む家
の諸道具等を人足にて片付けた。水は増した。
同、古坂村御高札場所が、水際になったので、上の段
へ引き上げた。
池田組、大風、大雨、出水となった。
川留め土手押出し引き水
四(五月二十七日)月 十三日
松代御領岩倉村口(水を留めていた所)から水が流れ
出ないので、鷺野村龍蔵・常右衛門・治一右衛門を見
届けに差し遣し、同日八(午後二時)つ時、右留め切れた場所へ行
ったところ、間も無く、右土手を押し払い、水煙夥敷
く立ちいる。松代の御合図の仕方は、鉄砲を打ち、岸
でときの声を揚げた。その夜、泊った。翌(五月二十八日)日十四日、
右三人は高野と言う所へ登り、川中嶋を一見したとこ
ろ、一面に水が押し出していた(八九五ページ写真参
照)。
四(五月二十七日)月十三日
古坂村では、七(午後四時)つ時頃引き水になり、一(三時間)時半ばかりの
内に、常の水となった。
留め切れより川上の被害
松代御領分家数千百二十軒の内千五十二軒水中にな
り、六十四軒が地震で潰れた。
新町、即死二百十八人
穂苅村、即死十八人
岩倉馬曲南・三水・桜井、即死八十二人
〆 三百五十八人
村数十五ヵ所
松本藩当御領分、二十八軒水中になったが死人等は無
かった。
池田組宇留賀村庄屋 久右衛門仰せ付けられ、見分し、
見届け、村々を取り調べて書上げ(藩の役所へ)差し
上げた。
(弘化四丁未年三月二十四日 夜四ツ時、上刻 大地震 地震荒犀川突埋取調帳 其外村方荒所旁控
山崎多満治(山崎(智)家文書))
(四) 地震につき
1 勤功書(抄)
大地震の最中、身を尽して勤めた人に対し、大庄屋は
当年(弘化四年)八月に勤功書を認め、御部屋へ御伺い
の上、御郡所と直段方の御三ヵ所へ差し上げた。
口上之覚
上押野村
助左衛門
只蔵
藤四郎
倉蔵
右は同村玉作妻子〆四人家潰れにて、家木の下に相成居候
を駈けつけ相助け申し候。尚又甚左衛門外七人の者共、地震
にて家潰れ、其の上、家屋敷淘出し候処へ、泥中をも顧りみ
ず駈付け、人命相助け候。
堀之内村
伊三郎
勘左衛門
右は同村七郎次家潰れの節、早速駈付け、潰れの中へ入り候
て、同人妻、未だ家木の下に相成り候を相助け、并、火がつ
き候て焼失にも相成べき処を消し留め、出精仕候
宇留貿村
庄屋 久左衛門
右は犀川筋、築埋にて水留の節、御用筋格別出情(精)仕、其の上、
村方水入りに相成候節、夫々世話行届き候。
池田町村
市川又左衛門
北条伴之丞
市川又之丞
右は当春地震につき、稲苗不足いたし候も難ばかりにつき、
銘々五俵取りずつの地所へ、苗を余分に蒔付、当組村々は勿
論、大町組村々へも融通いたさせ、寄特の心得に存じ奉り候
宇留賀村
仁右衛門弟
兼松
右は当春地震の節、善光寺大門町山屋喜兵衛方に上宿いた
し居候処、家潰れ下に相成候へ共のが連出し、堀之内村薄井
勘蔵を救い出し、其の外、居合せ候者をも救い相助け申し
候。尤、右 兼松義、天保十一年久離(百姓が永久に連帯責任を免れるため、親族との縁
を切り、役所へ届け出て、人別帳より外した
)御願申し上げ置き候人別にご座候得共、
右寄特の心得に罷成候えば、この上、心底相改め御百姓相続
けいたさせ度存じ奉り候。
(天保十二辛丑年五月より嘉永七 甲寅年二月まで
庄屋・組頭・作世話并勤功書之控上原仁野右衛門(上家(卓)家文書
)
2 地震のくどき
安永四年(一七七五)御役金割覚帳(掲載写真参照)
によれば、相道寺村の人々に語ってくれた皷女さん達に、
庄屋が冬小役(村の経費。夏と冬の年二回に清算した
)から、百文をお礼にあ
げている。
皷女さん達は、池田組の村々を訪れ、誤楽の少なかっ
た当時の人々に語り、情報伝達の働きもしていた。
弘化四年(一八四七)大地震の後、訪れた皷女さん達
は、地震のくどき・犀川築留り・川中嶋水おし(下二つのくどき
は、記載略
)を村の人々に語り聞かせたと思われる。
直に地震を受けた北山村の人々は、地震に対して強く
感じ、この語りを聞き、書き留めだであろう。
地震のくどきは、つぎのように現在に伝えている。
弘化四丁未
年
地震のくどき
このたびサァエー 信州地震の始末 数多荒所のある
その中に わけてあわれや善光寺宿よ 音に名高き三国
一の 如来様のう御開帳なかば 弘化四年の丁未
の頃は
弥生のなかばも過ぎて 廿日余りの四日の晩の
夜(午後十時)の四ツともおぼしき頃に思いがけない おそろし地震
将棋だおしに町中がつぶれ 梁や虹梁に押しつめられて
悶え苦しみ死ぬるもあれば 天井はずれて怪我するもの
に あわてふためき苦しむうちに もはや火の手が数箇
所に上がり後町 大門 裏町小路 次第しだいに大火と
なりて 数多諸国の道者の衆は 逃げて出たくも衆内知
れず 泣いつ嘆きつそれ知る者は 無限地獄へ落ちたる
とても 是にまさりは世もありゃせまい 聞くもいじら
し語るも涙 かゝる難儀のお知らせなるか 開帳高札た
びたび転び不思議数々あったるけれど 慾にまぎれし善
光寺なれば のばす手段は少しもせずに 西の九州 東
は上総 数多諸国の人々よせて 万事掛け売り 旅篭も
高く とられほうかい 掛け売りしがい 道にそむきし
事のみなれば 町の難儀はありそなものよ
そこで旅人の口説でござる 円の世をば打捨ておいて二
世も三世も助すかりましょと 二・三百里も隔ちたとこ
を 雨の降る日も風ふく日にも 辛苦やつして参詣いた
し 親を捨てたり妻子に別れ こんな憂い目をいたすと
いうも みんな前生の約束づくか 如来様にはお恨みゃ
ないが、寺の別当や町役人が 聞けば聞くほど恨めしゅ
ござる 前に知らせがあったと言うに 延ばす手段に心
もつかず 数多諸国の人々寄せて こんな憂き目に遭わ
せし罪は 七瀬過ぎても 浮かみ(び)はせまい 余り貪欲非
道な仕方 なんぼ泣いて口説いてみても とてもかえら
ぬ繰い言なれば 落ちる涙を止めやの前に 心当りの日
行の死がい 思いおもいに詮索いたし わかり兼たる川
中島に 焼いた屍を更科郡 こんな恐ろし地震に火事
こんど初めて水内郡 焼けた家数が三千余り 人の死だ
が六千余人 残る場所には御堂を始め または山門 大
願寺様よ ほかに町方は しばしの残り 実に前代未聞
のはなし これが世軒のみせしみ(め)なれば 人の意見
や いりわり(割を入れる・仲裁者)よりも 今度地震に
心を直し 万事売買正路にいたし いかに繁華な地なれ
ばとても 余りひどふ(う)な掛値はやめゆ まして旅篭
屋仲間の衆も 米の直段に畢竟いたし 余りこわはん
(過半・かはん)な宿銭とるな お客を大事にもてなすな
らば 神や仏の哀れみあって もとの善光寺繁華の町と
またも目出度繁昌しましょ
ヤンレー (池田組北山村足沼 遠藤家文書)