[未校訂]2 弘化四年の大地震
弘化四(一八四七)年三月二十四日夜起きた大地震は一
般には善光寺地震と唱えられ、善光寺平を中心とした震
源地で、善光寺平における災害は目に余るものがあった
とのことで、建物の倒壊、火災焼死体、家の下敷等悲惨
を極めた由である。当小谷地方も大地震となり、多くの
被害を生じたのであった。
その時小谷の庄屋から大庄屋への第一報が石坂村、来
馬村、中谷村の庄屋の連名で出されている。その書状の
内容は、
一 筆啓上仕候 当二十四日晩大地震にて村々場所悪し
き所は 屋敷家等迠甚だいたみ申候 場所得と見定め
がたく候間 先はあらあら場所左に申上奉り候
一 石坂村北日道は別紙の通り御報告申上候外同村南日
道屋敷十二軒大きに下がり申候 峯地二軒住居相成難
く 下沢原三軒ぬけ下にて未だ見定め無く御座候
一 来馬村枝郷沢原三軒 住居相成難候御事同村土谷に
て二軒住居相成難候御事
一 中谷村塩久保同村枝郷大久保並に白岩 右三ケ所に
て家数三十ばかり御座候所 家の上方山よりぬけひび
口相付き下り候間只今居家敷 家ともに大いたみ仕り
候は八軒も御座候御事 外に玉泉寺大いたみの由申来
り申候
先右の分あらあらの所申上度 追々相定まり候はば 御
注進申上候間 何卒御賢察を以て御含みの上然るべく
願上奉り候 以上 (後略)
(大阪市 栗林忠夫氏蔵)
となっている。また、千国村よりの届出口上覚には以下
のように書かれている。
村方居家、土蔵共潰れ候人別取調書上申処左の通り
一 居家半潰 栗田五左衛門
一 酒造蔵本潰 栗田五左衛門
一 居家本潰 源右衛門 同 与助 同 松兵衛
一 居家本潰 文蔵 この家では母妻子三人即死
一 居家本潰 吉三郎
一 居家半潰 二八軒 土蔵 八
一 居家損じ候者 十一軒 土蔵 五軒
この外牛馬には怪我などはなかったようである。
また土谷村、来馬村より大庄屋宛に、
当村方にても二十四日より地震にて家居潰掛り家敷抜け
住居なり難き人別 別紙帳の通りに御座候間よろしく仰
上げ下されべく候
猶又只今も地震相止まず 甚難渋仕候 小谷辺にも田畑
多分抜け 仕付も出来難き場所多分御座候間 追て報告
致すべく 先は家居へ掛リ候場所申上候
(大阪市 栗林忠夫氏蔵)
という文書が出されている。この文書についているはず
の被害の詳細資料は見当たらない。
石坂村よりの被害届は、北日道で八軒の家の中から三
人の死亡者があり、外に馬二匹被害を受け、土蔵六軒も
潰れた。
土谷村庄屋の控帳によれば、次のような届出もなされ
ている。
土谷村枝郷廻淵平左衛門宅地震にて屋敷抜け下り住居相
成ず
同村本村の内坂吉宅も住居相成ず
同村犬川吉之丞の家潰掛り 喜三郎宅同様同徳右衛門宅
作左衛門宅 枝郷松本 吉尾の源之丞宅 曽田の勘三郎
宅 同市蔵宅 同嘉左衛門宅 同惣八宅 吉尾で四軒
地辷りを起し屋敷抜損じ住居相成ず
(小谷温泉 山田寛氏蔵)
土谷村山田組の被害届には半潰の家十一軒、外に七軒
は地滑りのため屋敷に被害を受け住居なりがたき旨の届
け出がなされている。さらに、田畑その他の被害状況を
具体的に書き記した古文書も残っている。
地震にて田畠等土地被害書上帳の控(土谷村)
がに原下川原田 田地水入 籾二二石取
曽田籾拾石取 あらや外沢吉尾塩久保 田地いたみ
四五石取
畑いたみ 吉尾外沢曽田あらや塩久保 此取稗七八石取
地割れ六ケ所 此間数〆五九八間 幅二尺より五寸迠
麻畑いたみ 取麻五十束
一 山崩 五ケ所
一 倒木 五本
一 出水上り 三三石取
一 畑いたみ 稗一五八石取
一 地割十六ケ所 間数二五拾間より二四間
一 道損じ 一ケ所二六拾間
一 田地水入 二ケ所三三石取
一 田地 九七石取
そして、被害の状況に応じて、松本藩からの援助があ
ったようである。
地震家潰人別御手当頂戴割賦帳
覚
一 籾子 三十俵 土谷村
内二十二俵 下組 八俵上組四人
家潰に一軒につき二俵下さる
外に家潰御手当代金一軒へ二分十一厘四文宛十一人へ
下さる
〆七両二分五厘四文
(長野市 田原多喜夫氏蔵)
このように、弘化四年の地震についての古文書は数多
く残されており、被害がいかに甚大なものであったか
を物語っている