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項目 内容
ID J3300136
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1847/05/08
和暦 弘化四年三月二十四日
綱文 弘化四年三月二十四日(一八四七・五・八)〔北信濃・越後西部〕
書名 〔信濃〕H20・760巻7号(通号702)
本文
[未校訂]論文
善光寺地震と善光寺役所の対応の軌跡
鬼頭康之
はじめに
 拙稿「善光寺西町の善光寺地震」を発表したのは平成
十六年(二〇〇四)十二月のことであった(1)。ここでは、
善光寺地震において善光寺町民、なかでも善光寺西町住
民の被害状況と復興への足取りを中心にのべた。
 しかし、領主善光寺とそれを請けて善光寺役所が具体
的にどのように震災に対処したのか、いま一つ明らかに
することはできなかった。
 先行する善光寺地震に関する諸論考、小林計一郎「弘
化四年の善光寺大地震」、『長野県史』通史編第六巻、『長
野市誌』第四巻、赤羽貞幸・北原糸子編『善光寺地震に
学ぶ』、中央防災会議『一八四七善光寺地震報告書』など
にも地震への善光寺役所の対応が詳細に描かれてい
ない(2)。雑誌『長野』八七・一八一・一八二の地震特集号
でも(3)、この点にふれたものが少ない。また、当時の模様
を絵入りでリアルに物語る永井幸一『地震後世俗語之種』
にも、この点にはふれていない(4)。
 概して、僧俗両面の支配にあたらざるをえない寺社領
に比べて、領主権力が強いと考えられる幕府領や諸私領
においては、地震などの災害に遭遇したとき、どのよう
な対策をこうじたのか。善光寺地震においても、近隣の
松代藩や飯山藩、また幕府中野代官所などでの地震への
対応が明らかになっている(5)のに対し、石高一〇〇〇石の
善光寺領の震災対策の全容が明白でない。
 本稿では、主として善光寺地震による善光寺諸堂の被
害にふれながら、その対策を善光寺役所がどのようにお
こなったのか。また、善光寺役所が善光寺領民や開帳中
の善光寺を訪れた旅人に対して、どのような対策をたて
たのか、などを中心に描きたい。
 ところで、日本列島は地震列島である。ここ一〇数年
の間に、大きな地震が頻発している。平成七年(一九九
五)一月のマグニチュード七・二(以下M七・二と略称)、
震度七の阪神・淡路大震災をはじめとして、同十二年十
月のM七・三、震度六強の鳥取県西部地震、同十六年十
月のM六・九、震度七の中越地震、翌十七年三月のM七、
震度六弱の福岡県西方沖地震、同十九年三月のM六・九、
震度六強の能登半島地震、同年七月のM六・八、震度六
強の中越沖地震と続く(6)。地震のとき、当該地方の住民の
労苦は筆舌に尽くしがたく、地震によって生じた物心両
面にわたる後遺症はいつまでも続く(7)。
 この点、今から一六〇年以前に起きた善光寺地震は、
多大の被害を善光寺諸堂や善光寺町民などにもたらし
た。そのため、現代の地震以上に永年にわたって地震の
もたらした災禍に苦しんだと思われる。残された史料は
少ないが、なるべく史料を博捜して(8)善光寺役所の対応の
軌跡を追ってみたい。
一、善光寺諸堂の復興対策と領民への対応
 弘化四年(一八四七)三月二十四日(旧暦)夜四ツ時
(十時過ぎ)の地震とそれにともなう火事で、開帳中の
善光寺と善光寺町では、つぎのような被害が生じた。左
に列記する被害状況は四月二十四日松代藩へ善光寺役所
が報告したものである(9)。

一 本堂 右は内陣・造作等大破
一 三門 一経蔵 右二ケ所小破
一 鐘楼 右無事
一 如来御供所 同御供水 同御歳宮
境内秋葉社 右四ケ所潰れ
一 二王門 一境内熊野・諏訪両社 右焼失
一 大勧進方
万善堂・護摩堂・聖天堂・内仏殿・客殿・座敷・
居間 向 右七ケ所大破
一 同 台所向・土蔵六ケ所・物見・裏門右潰れ
一 同 土蔵 一ケ所 右焼失
一 大本願方 右は残らず焼失
一 寺中四十六坊
一 大勧進役人五軒
一 大本願役人三軒 右残らず焼失
一 大勧進役人二軒 右潰れ
一 寺領内 浄土宗寛慶寺・浄土真宗康楽寺
右残らず焼失
一 同 浄土宗西方寺 右本堂無事、座敷・勝手向潰
19世紀前半の善光寺概念図(『長野市誌』4巻)
湯福社

骨堂
歳神堂
本堂
経堂
相之木
寛慶寺
山門
横沢町
コマガヘリハシ
大勧進
新町
仁王門
東之門町
伊勢町
桜小路
立町
西之門町
大本願
岩石町
阿弥陀院町
横町
東町
武井神社
康楽寺
大門町
西町
後町
権堂町
明行寺
十念寺

一 同聖臨庵・寛喜庵・虎石庵
一 同武井社 右焼失
同湯福社 右潰れ
一 大勧進・大本願家来並びに門前町家、其外八町之
内二一九四軒 右焼失
一 同一四二軒 右潰れざる家
一 同一五六軒 右潰れのみ焼けざる家
一 寺領内箱清水村・平柴村の内三十五軒右潰
一 九四人 右は寺中並びに大勧進家来の内死失の人

一 四六人 右は大本願家来の内死失の人数
一 一二七五人 右は町家死失の人数
一 四四人 右は大本願門前町家死失の人数
一 一〇二五人 右は寺中並びに宿方止宿旅人死失人
数凡そ
一 寺領内穢多・非人の内三五軒右焼失
一 斃牛馬等一切無御座候、
一 怪我人少々の疵所これ有り候者多分御座候え共、
家業差し支え候程の儀は無御座候、
 右は三月二十四日夜地震にて堂社・町家相潰れ、其の
上焼失の軒数並びに立家・潰れ家・死失人等相取調べ候
処、斯くの如くに御座候、以上、
信州水内郡善光寺
弘化四未年四月 大本願役人
山極亦兵衛印
同国同郡同所
大勧進役人
今井磯右衛門印(10)
岡島庄蔵殿
竹村金吾殿
山寺源太夫殿
磯田音門殿(11)
右の通り寺領焼失の家数、其の外死失人調書真田信
濃守殿役人え差し出させ候間、この段御届申し上げ
候、以上、
弘化四未年四月 御名
真覚院法印
信解院法印(12)
 また、善光寺の三寺中と善光寺八町・両御門前の内横
沢町及び寺領三カ村の死失人数調べを次のように書上げ
ている(13)。
死失人通調
一、一四人 衆徒内現住四人
弟子二人
召使八人
一、三三人 中衆内現住四人
弟子四人
小児二人
女十四人
召使九人
一、現住一人 妻戸
一、四四人 大勧進家来
内男一八人
女二六人
惣〆九二人内出家一五人
男三七人
女四〇人
 また、善光寺八町、御門前横沢町、寺領三カ村の死失
人数を左のように記す(14)。
一、二七九人 大門町 内男一四八人
女一三一人
一、一四〇人 桜小路 内男 六二人
女 七八人
一、二九人 後町 内男 一二人
女 一七人
一、二一五人 西町 内男一一三人
女一〇二人
一、九六人 東町 内男 四九人
女 四七人
一、二〇六人 横町 内男 九四人
女一一二人
一、八二人 新町 内男 三六人
女 四六人
一、八八人 岩石町 内男 三一人
女 五七人
一、一一三人 横沢町 内男 五二人
女 六一人
一、七人 平柴村 内男 三人
女 四人
一、五人 七瀬村 内男 一人
女 四人
一、一五人 箱清水村内男 六人
女 九人
人数惣〆一二七五人 内男六〇七人
女六六八人
一、一〇二九人 寺中並宿方止宿の旅人凡但し右之外
家内不残死失人之者有之ニ付、止宿旅人生死しかと
相分らず候、
右は三月二十四日夜四ツ時地震ニ而、家作潰れ、其
の上出火ニ付死失人数相調候処、如斯御座候、以上、
右の史料は、大勧進役人今井磯右衛門と大本願役人山
極又兵衛とが連名で、善光寺役所を代表して善光寺領の
被害状況を松代藩と寛永寺に報告したものである。報告
の時期が地震の起きた翌月であることからみて、ある程
度被害の状況を把握した上でのものと考えられる。松代
藩への報告書はさらに次のように続く。
善光寺諸堂のうち焼け残った建物は本堂・山門・鐘楼・
経蔵・大勧進の諸堂などであった。しかし焼け残った
とはいえ、本堂の堂内・堂外はことのほか大破してい
た。また、山門・経蔵もなんらかの損害を蒙っており、
完全無欠ではなかった。とくに大勧進の諸堂はいずれ
も大破の状況であった(詳細は後述)。
いっぽう、町方の状況は次のとおりである。地震直後
所々で出火し、善光寺山内に火が移り仁王門も、大本
願も、衆徒・中衆・妻戸の三寺中四六坊も類焼した。
本堂も風下になり、いつ火が移るかもしれない状況と
なった。大勧進別当は老僧や諸役人と申し談じ、万一
本堂へ火が移っても気遣いのない場所へ本尊・前立本
尊・御朱印を移すことに決定し、本堂より三丁ばかり
東北方面の寺領箱清水村畑中(15)(長野市箱清水、以下長
野市は省略する)に供奉し、ここで夜が明けるのを待
った。
 このときの様子を水内郡権堂村(鶴賀権堂町)名主永
井幸一は『地震後世俗語之種』でつぎのように表現して
いる。「かかる折しも、称名唱え、(中略)御輿に取付、
一心称名唱へつつ感涙してぞ供奉したる。真先なるは御
朱印長持、警護前後を打ち護り、厳重にこそ見えにける。
是を見上げる数万の人々、いかなる時節の到来して今こ
そ此の世の滅するか、かかる苦患の今の世に生まれ合い
たる悲しさよ、それにつきても仏縁こそ大事なれと、御
宝がんの御跡慕ひ、堀切道の右のかた、本城近き田畑に
て、所は素より仮寝が岡、御輿安置を定め給へば、幕打
ち廻し守護あれば、前後左右に逃げ去りし数万の人々、
野宿して、心に称名唱えつつ、明け行く空をうちながめ、
あきれ果てぞ居たりける」(一部読み下し)(16)。
 また、寺領七瀬村(芹田七瀬)へは、炊き出しを申し
つけ、寺中・役人・院内の者へ提供した。その後も二、
三日中は炊き出しを続けるよう申し付けた。
 なお、大本願は焼跡に六尺四方の囲みをいたし、隅切
り面に三ツ葵の紋付の幕を打ち、番人を配置した。焼跡
の灰の中から霊宝の内焼け残った仏舎利などを掘りあて
ている(17)。また、同年八月には、松代藩へ「皆潰れの上焼
失にて今以って外囲いも出来申さず候由、逼至と難渋」
しているので、金一〇〇〇両の借入を希望したけれども、
結局は申し入れ高の半分の五〇〇両を一割利付きで借り
入れている(18)。
 地震発生の翌日未明には、早飛脚を差し立て、とりあ
えず本山筋にあたる東叡山寛永寺に注進した。また、そ
の日、松代藩へ地震被害を届け、委細の儀は取調べの上、
大勧進代官今井磯右衛門が参上して申し上げる旨をのべ
た。この委細の儀が先述の四月の松代藩と寛永寺への報
告となったと考えられる。同時に、三十五日間、地震へ
の支度が調うまで寺中・役人・院内の者の賄いを下付す
るよう依頼したところ、松代藩は承諾してくれた。
 その上、箱清水村と接する松代領上松村滝組(上松滝
組)から係役人二、三人を四、五日間出張させ、当分飯
米など入用の品を送付するとのことであった。翌日から
松代藩は同心を大勢出役させ本尊などの移転先で幕で囲
ってある場所と善光寺山内・町方を始終見廻り、非常に
備えた(これ以降の善光寺役所と寛永寺及び松代藩との
折衝過程はそれぞれ項目を設けて叙述する)。
 善光寺役所は滝組で杉林を一カ所買取り、杉丸太を伐
り出した。それから、両本尊・御朱印を安置する場所と
して八、九間四方に杭を打ち、幕を張って目隠しをした。
その上で、荷桐油などで如来厨子と御朱印・長持などを
上塗りした。その日は七ツ時(午後四時)ころから大雨
になり、明朝まで止まなかった。野院(大勧進別当カ)
は本坊から駕籠を取り寄せ、その中に入って夜を明かし、
寺中役人・院内の者は傘・合羽などで雨を凌ごうとした
けれども、大濡れになった。
 やがてここに、毎年六月十三・十四両日の御祭礼のと
き用意する天王社拝殿二間に九尺のものを組み立て、両
本尊を安置し、三間四方の中陣を建てた。その中ほどに
行事壇を設け、左右に経机を設置した。また、中陣内下
座の方、左右へ双盤(19)二面を相飾り、中衆・妻戸に念仏回
向をさせ、かつ開帳のときの通りに勤めさせた。その上
で僧衣の導師により、衆徒が毎日出仕することを申し付
けた。しかし、地震直後であるので僧衣が無く、当分の
間院内の出家に衣をあるだけ出させ法要を勤めることと
した。
 翌二十五日は快晴になったので、痛みのひどい善光寺
本堂と大勧進の諸堂を修理するため、小屋掛けしようと
して大工と鳶職人を召集した。しかし、一命を取り留め
たばかりなので、大工道具の鑿一つなく、調いたくても
金子がないので、棟梁へ金子を遣わし大工道具を一〇組
分購入させた。払底する釘・鑓をすべて三里先の高井郡
須坂村(須坂市)に求めさせることは難しいので、大勧
進裏門内へ小屋を建て、鍛冶職の者を呼び召し、入用品
を鋳造させた。
 寺領の箱清水村と七瀬村(芹田七瀬)にたいしては、
立臼・大釜を有るだけ集めさせ、米を搗かせ、救い粥を
炊き出させた。
 本尊・御朱印の移動先である箱清水村の仮堂近くに、
六間に二間の救い粥炊き出し小屋を建て、粥を炊き出し
人々に支給した。また、物騒なので仮住居入口に九尺に
二間の番所を建て、昼夜勤番させた。
 また、本堂の東松原の外に、一〇間に七、八間の小屋
を建て、ここで病人や他国の者で難渋している人々を救
済した。医者はこの震災で残らず薬を損じてしまった。
まれに薬をなくさずに持っている者でも薬種を混ぜてし
まい、役に立たなくしてしまっていた。そこで、手医師
に手当金を遣わして薬種を整えさせ、寺領や参詣人で病
気の者を療治するよう申しつけた。中陣の外へは、八間
に三間の下陣を建て、そこで参詣人に通夜などをさせた。
 先に建てた仮堂の西の方には、九間半に二間半の大勧
進仮小屋を建て、さらに其の後ろに八間に二間の物置を
建て、そのほか両便所などを取り付けた。大勧進の仮小
屋の間取りは二間半に二間であり、居間は二間半に二間、
次の間は二間半に二間、奉納所は二間半に二間、台所は
二間半に二間九尺、院内炊き出し場も設けた。
 仮小屋の南方に二間四方の接待所を建て接待茶を出し
た。また、如来が留守の間は、本堂には人びとが入らぬ
ようにするが、大切な品々はそのままにしておくので、
監視のため本堂の東方で鐘楼の南へ二間に九尺の番所を
建て、被官(20)の者に昼夜兼行で勤番させた。堂番の者へは
堂内に入って見回るように申し付けたが、度々の余震で
堂内は大音が鳴き渡り、大変恐ろしく堂内での見廻りは
取りやめ、堂の回縁を折節見回るようにした。
 震災後、米は払底していた。そこで、近領所々へ米買
いの者を派遣した。寺領の松本喜内を中野代官高木清左
衛門支配下の水内郡柏原宿(上水内郡信濃町)の本陣中
村六左衛門方へ遣わした。高木代官は六左衛門を越後表
へ派遣し、救い米一二〇〇俵を求めさせていたので、高
木代官にその譲渡方を交渉し、承諾をえた。越後関川宿
(新潟県新井市関川町)で一二〇〇俵を渡すとのことで
あったので、善光寺役所では宰領の者を派遣し宿場々々
を継ぎ送りの形で護送させていた。しかし、これでは一
〇里の道程であるため、運搬が滞り勝ちであり、その上、
過半の米が目減りしてしまうので、相対賃銭で越後より
善光寺宿へ付け通しにすることにした。
 寺領の人びとへの対策をみると、町方の軒別に白米を
少々ずつ合力したが、二千余軒を対象とするため、思い
のほか米の量がかさんだ。寺領三カ村(箱清水・七瀬・
平柴)は農業中心の稼業であるため、軒別に銭にて合力
した。
 寺領の大門町は、本来越後街道(北国街道)の善光寺
宿の伝馬宿であるけれども、問屋場(21)が潰れ、宿場全体も
潰れてしまったので、四月晦日までは前後の宿場へ継ぎ
送りをすることにした。四月中には問屋場・会所を再建
するように大門町庄屋中沢与三右衛門(22)へ申しつけた。そ
のために必要な金子と材木は支給するようにした。
 なお、山内・町方の者や諸国からの参詣人で焼死した
者の匂いが甚だしく、夜になると山犬が出てきて往来が
止まってしまう。そこで山門の上で右の方に土孔を深く
掘らせ、山麓の白骨を拾い集め、俵にいれ、先の穴へ埋
め、その上に上田宿の施主人土屋仁輔(23)が建立した五輪石
塔を設けた。さらに、五輪塔の右の方へ間口二間半・奥
行き二間の草庵を建て、日々本坊から道心者を差配し、
不断念仏を唱え回向を致させた。また、同所から左の方
へ阿弥陀経と法華経を一石に一字ずつ書き写させて地中
に埋め、その上に供養塔を建立した。いわゆる、一字一
石供養塔である(24)。
 続いて三寺中の被害状況をみよう。先の松代藩への被
害報告にあるように「寺中四十六坊残らず焼失」したが、
そのうち都合八人の住持が焼死した。生存の住持は地震
の夜から仮堂の本坊の小屋場に詰めたが、手狭で差し支
えがあり、三度の食事を賄うことも容易でなく、夜具な
ども差し支えがあった。そこで、院代法成院が各院坊に
次のように申し渡した。「上野寛永寺からの御救い金、毎
日の善光寺本堂への賽物の分配、大勧進別当からの院坊
全体への五〇両の合力金などで、どうにかして各々が仮
小屋を拵え、この地から引き取るように」。院坊の方も、
この旨を了承した。また後日、三寺中へは金五〇〇両を
三ヶ年間無利息で用立てるので、この金子を助け台にし
て各自が自坊を普請し、元金は四カ年目から一〇カ年賦
で返済するよう申し渡した。
 さらに善光寺役所では、本堂東の方と後の方の畑地な
どに小屋場を建てるため土地所有者へ地所を拝借したい
と申し出た。さいわい、本堂あたりが不用心なので、本
堂を見張ることが出来る場所に小屋を建てるよう申し渡
し、地所を借りて院坊へ渡した。
 先にみてきたように善光寺諸堂では、本堂・山門・経
蔵・鐘楼と大勧進が焼けずに残った。しかし、詳細にみ
てゆくと焼け残った建物にも被害が生じていた。本堂は、
間口一五間・奥行き二九間三尺のところ、すべてが北の
方へ一尺ほど歩み寄り、二重屋根の正面と左右共に一尺
ほどずつ離れ、三方の向拝(25)が離れ、懸かり獅子の頭など
が落ち、柱が曲がり、戸障子が多く損じていた。本堂内
部を見ると瑠璃檀(26)左右の惣金箔のついている薄板羽目は
残らず損じており、その他、戸障子・組物などは落ち、
総じて建具類は痛んでいた。
 山門は南の方へ一尺ほど傾いていたが、余震でまた元
のようになった。山門の左右の袖(27)が相離れていたが、釘・
鑓でつなぎ、柱の礎石は残らず直し、羽目板・舞良戸(28)を
修復した。山門内の荘厳(29)と左右の大梯子などは一年以内
に修復することになった。経蔵の外回りの繕土台石垣で
左右に崩れた分を築きなおし、正面の石段を修復した。
 大勧進の諸堂を総下見分したところ、殊の外大破して
いた。別当所は長屋・台所・塀・重門などが相潰れ、万
善堂・護摩堂・内仏殿・聖天堂などは曲がっていた。敷
居・鴨居・戸障子などは損じており、表居間・内証居間・
院代部屋・役僧部屋・納戸部屋などは半潰れ同様の状態
であった。そこで、まず万善堂を大修復し、内陣などを
拵え、向拝下へ間口六間・奥行き九間の中陣・下陣を新
規に取りつけて、如来を受け入れる支度を整えはじめた。
これに対し、大本願がわは箱清水から直ちに本堂へ遷座
する。この儀が差し支えるならば別に仮堂を建立すると
いう異なる意見であったが、大勧進案に落ち着いた。
 なお、箱清水の仮堂から如来などの大勧進万善堂への
遷座を急いだ理由に、仮堂が置かれた土地の所有者から
仕付(田植え)の関係で移転の催促があったことも見落
としてはならない(30)。
 五月十二日五ツ時(午前八時ころ)、この日時は吉日
良辰(31)であるから、万善堂への遷座は五月十八日である旨
を三老僧と諸役人へ申し達し、それぞれへ遷座の手文と
行列書をしたためて渡した。翌日、箱清水から万善堂ま
での道普請、本堂東の松林の外の土橋を架け替え、道筋
の左右の草を刈り、樹木の枝を下ろし、砂を敷くことな
どを寺領の役人足へ申し付けた。十五日には三寺中を残
らず箱清水の仮堂に呼び寄せ、如来の道具、その他経机・
仏菩薩などを万善堂へ運ばせた。また同日、諸役人や譜
代の者などを呼び立て仮堂から諸道具などを残らず大勧
進本坊へ持ち運ばせた。
 十五日は昼過ぎ、衆徒が万善堂へ出仕し、大勧進御清
法をおこない、終わってお清めのため護摩堂内仏殿で般
若心経三巻ずつを読踊した。同日七ツ時(午後四時ころ)、
衆徒は箱清水の仮堂へ出仕し大勧進が導師になって自
我偈(32)を読踊して退出し、大勧進別当・三老僧・堂奉行が
仮堂内陣へ入って本尊を移し白布にて封をした。本尊遷
座は夜になっていたけれども、老若男女が大勢参詣し御
供する状況で、怪我などが心配になり、遷座は明十六日
朝五ツ時(午前八時ころ)と決定した。
 この日一番鐘の半鐘が打たれ、六ツ時(午前六時ころ)
衆僧・諸役人・御供方などが残らず仮堂に集合した。二
番鐘六ツ半時(七時ごろ)に御供揃いし、三番鐘の五ツ
時(八時ごろ)に衆僧が仮堂の庭前に左右に並び、支度
が整ったところで、院代法成院が「庭の讃(33)」と一声かけ
た。四智之讃四□ママ(34)が終わって本尊を万善堂へ遷座した。
 のち、十万人講の再開につき諸方へ使者を次のように
派遣した。
江戸 聖行庵・斎藤準輔
大坂 薬王院・紙屋和助
長崎 常行坊・早川啓介
 右の他、近領所々へ役僧・役人を派遣し遷座の旨を報
告させた。
 六月十日、院代法成院・三老僧・堂奉行・納戸役・表
役立合いのもと、来る十七日が吉日良辰であるので、本
堂修復の手斧始めとする旨を宣言した。修復中は諸難消
除のため、毎月十六日には大般若経を転読し、かつ修復
中は別して火の用心をおこなうように三寺中その他寺領
一統へ触れを出した。大工棟梁石田清右衛門・鳶頭常八
を召し出し、つぎのように仰せ付けた。「その方どもに本
堂修復の御用を命ずるので、万事相慎み精進潔斎はもち
ろん、深秘向の儀は他言無用である」。その誓紙と請書を
役人立会いのもと両人に提出させた。十七日は本堂手斧
始めのため、大勧進役人今井磯右衛門・中野治兵衛、大
本願役人山極亦兵衛・早川啓介・清水三右衛門などが立
ちあった。
 手斧始めが無事終了したので、三寺中・諸役人・医師・
被官・町年寄・善光寺八町・寺領三カ村の庄屋を登院さ
せ、善光寺役所から銘々へ御供の赤飯を下付した。また、
御用係の面々即ち大勧進・大本願役人また大工棟梁・鳶
頭へも御祝儀を下付した。
一金二〇〇疋 今井磯右衛門
一金二〇〇疋 中野治兵衛
一金二〇〇疋 本願役人山極亦兵衛
一金二〇〇疋 〃 早川啓助
(以下五人略)
 十八日には、横沢町庄屋・組頭を万善堂へ呼び寄せ、
中野治兵衛から次のように申し渡した。「御門前横沢町
は、大勧進屋敷続きであり、火の用心が宜しくないので、
御屋敷続きの住人へは他に替地を下付する。是まで建家
の分は火除け地とする旨を「等順僧正様(35)がかねがね考慮
されておられた。しかし、建家を取り崩し地所替えを仰
せ付けることは不憫であるので、普請等で移転の良い機
会があるならば、申し渡したい」と。
 この度、不慮の天災によって、住んでいる所が野原同
然になってしまったので、一同がちかぢか新規の家作を
おこなうとき、大勧進本坊続きの住居の者は、この七月
限りで替地をおこない、右の場所へ家作致すように仰せ
付けた。御手当金として金五〇両を一同へ下付するので、
屋敷の広狭に準じて宜しく配分するようにと、法成院・
久保田内記・今井磯右衛門が立合いで申し渡した。一同
は、この旨を御請けした。
 薬王院・光明院・常徳院は、古来大勧進本坊の長屋地
にあったのが、いつのまにか横沢町に入り混じってしま
ったので、大勧進続きになっていた。火の用心が良くな
いので、この度の地震で三院が焼失したので、道一つ隔
てた南の方へ替地するように申し渡した(36)。
 さて、本堂修復の次第は次のようであった。まず、二
重目の天井の上へ鯱を差し置き、三方から鯱を巻いて引
き寄せた。なおまた、鯱を巻き、掛け声を合図に三方
柱□ママ(37)・やり木を以って打ち、元の如くに引き付け、大鑓・
大釘を以ってつないだ。また、三方向拝も離れかかった
所を、大鑓・大釘で離れないようにしっかりと取り付け
た。外通柱建物を曲げなおし、垂木板を所々抜き替え、
左右の後石・雁木がくずれたので築きなおした。所々の
彫り物が落ちたので元のように取りつけ、礎石も直した。
 このところの普請は大勧進が立ち会いのもとでおこな
われ、費用は大勧進で出した。また、本堂が礎石を離れ、
北の方へ一尺ほど滑り、大変心配だったけれども、度々
の余震で自然と元のようになった。この現象は誠に不思
議なことで、「如来様の神力故か」と大いに安堵した。
 内通の瑠璃檀は左右に薄板で張り替え、金箔を置き直
し、正面の大柱の金箔も置き直した。おおよそ金箔は、
一万枚余を必要とした。その外、左右の堂内の羽目板を
所々修繕し、内陣・下陣の畳を残らず新しい床にして張
り替えた。また、中陣・下陣のすべての垂木板を新規に
張り替え、仏菩薩像を修復し、荘厳の品々も修復した。
 本堂の北東にある御供所は、間口八間・奥行き四間で、
近年建て替えたばかりであったが、この度の地震で崩れ
てしまったので、また元のように普請をおこなうことに
なった。また、御供水の井戸には人的事故があったため、
今回その井戸から五、六間ほぼ北の方角に新規に井戸を
拵えた。
 大勧進表門の左右、万善堂御供所裏の方の塀を残らず
新調し、西南の方の塀を仮に建て、大勧進門前の勧化所(38)
を仮に建て、門前の大地蔵・六地蔵の上屋の柱を残らず
新規のものとした。
 八月一日、如来を安置する宮殿修復の手始めを塗師屋
藤吉に仰せ付け、追々瑠璃檀内の修理も同人におこなわ
せるので、請書と誓紙を出させるが、そのときの文言は、
大工棟梁・鳶頭のときと全く同じである。
 同三日、松代藩へ金二〇〇〇両の借用金(後述)の御
礼として、別段に真綿一台、松茸一篭を松代へ遣わした。
なおまた、国家安全のため仁王経一万部を読誦し、満願
になったので、祈禱板札一枚を松代へ遣わしたところ、
殊のほか歓ばれ報礼として喜撰(39)一箱・砂糖漬け一箱を受
領した。
 八月十八日には、大勧進別当が四ツ時(午前十時ころ)
大勧進の門を出て、善光寺三社並びに御旅屋(40)を参詣かた
がた、寺領町方を見分した。堂奉行本覚院を召し出し、
今日から瑠璃檀内を修復するため、手始めとして朝の開
帳後、瑠璃檀を開き、職人を入れ、退出の刻限を定めて、
万端念入りに取り計らうように申し渡した。善光寺三社
は、大地震の節御宮が潰れたので、その修復の手伝いの
ため、白銀五枚ずつを奉納した。御旅屋大神宮には白銀
三枚を、また金百疋を横町の市神社へ奉納した。
 二十日には、松代の殿様(41)が二十八日には江戸へ参ると
いうことなので、使僧尊勝院を松代へ派遣した。九月六
日には、堂奉行を呼んで次のことを申し渡した。「瑠璃檀
内の修復がとかく手間取り、如来様の正遷座に間に合い
兼ねるので、今晩より夜なべ仕事をさせるので、四ツ時
(午後八時)迄に瑠璃檀をあけ置き、四ツ時に職人を引
き取らせる。その後で火の元を念入りに見届け、錠を掛
けさせるように」。
 九月十一日には、院代良性院からつぎのようなことが
願い出された。「熊野・諏訪両社が焼失したので、今月の
御祭礼までには三寺中で仮殿を寄付し、その石垣は本坊
の大勧進で築くようにしたい」と。また、月番老僧長養
院が大勧進本坊に呼ばれ、十夜仏前(42)に正遷座をおこない
たいということで普請を急がせたけれども、工事がはか
ばかしくなく、とても間にあいそうもない。また、今も
って度々余震があるので、十夜仏後に正遷座をおこなう
よう変更した。このため、夜なべも止めさせたので、以
来は夜分の見廻りには及ばない」と、一同に申し渡した。
 十月八日には、老僧宝林院を呼び、来る十八日は、吉
日良辰なので御遷座をおこなう。そのため、「御案加勢晒
水薫香(43)」などを配役致して、その旨を差し出すようにと
法成院から申し渡した。
 十一日、老僧・堂奉行・諸役人を召して次のように申
し渡した。「来る十八日午上刻(十二時二十分ころ)は吉
日良辰につき正遷座の日と仰せ出だされ」、手文と行列書
をそれぞれ一通ずつ、山内納戸役・表役へ渡した。また、
「御遷座は、格別の御大礼であるので、火の元にはとくに
念を入れ、喧嘩口論はなく、万事慎み申すべき」と、下々
に至るまで申し渡した。また、「三寺中は御案加勢(44)を勤め
ている事ゆえ、精進致し万端相慎むように致せ」と。ま
た「本殿が出来次第お清め修法があるので、当方より案
内次第出勤するように」と。遷座前には厨子の包み替え
などがあるので、沙汰があり次第、三寺中の僧侶は出勤
するように。遷座当日は御案え(45)移すので、出仕の面々は
半時早めに出るように。本堂修復ができたので、毎月十
六日に大般若転読の儀を来る十六日の朝結願するように
との仰せもあった。
 遷座当日は、天気快晴、諸難消除、滞りなく済まされ
るように、銘々が自坊において七日間如来神力品一巻ず
つ読経するように仰せ出だし、その旨を三寺中に相達し
た。この趣は寺領役人にも申し渡した。
 山門へは左のような札がさしだされた。
「来る十八日正九ツ時御遷座」
 また、本堂宮殿内へは大勧進別当山海の直筆で左のよ
うな認め書が納められた。
弘化丁未春三月念四日夜信越両国大地震動吾山殊甚
干時市中忽出火類火及テ山内由是避難促宝輩遷□箱
清水之地未幾復奉遷拾万菩堂馬凡経八箇月二百有余
日修補。再奪人目於是十月十又八日ト吉日良辰奉還
生仰願一天泰平四海静謐仏日増輝法輪常転乃至法界
平等普潤
弘化四歳在丁未十月吉日
大勧進住僧
大仏頂院権僧正山海(46)行年五十九
謹記之
 右の大勧進別当山海の認め書に、一山あげての血と涙
の結晶が善光寺本堂の復旧につながったという安堵感と
達成感が窺われる。
 いずれにせよ、十月十八日が如来の本堂への遷座の日
と決定された。その前に、次の二点の懸案事項の解決が
必要となっていた。
 一点は、本堂前の石灯籠が今回の地震で、悉く倒壊し、
灯籠の施主に申し訳ないことになっているので、三寺中
一坊は木の灯籠を一本ずつ建立する。石灯籠の代わりに
如来遷座のときから石灯籠が修復されるまで、毎夜灯明
をあげる。大勧進自体も一〇本の灯籠を建てるというこ
となので、本堂正面敷石の左右に五本ずつ建てるという
ことになった。
 もう一点は、十五日に本堂瑠璃檀の修復が出来るので、
大勧進・大本願役人で、瑠璃檀を拝見致したい者は、明
日中に拝見が出来る。そこで、本堂へ罷り越したときに、
須弥檀向こうの網戸の外にて拝見が可能ということにな
った。
 十八日は快晴となった。今日は如来遷座につき、朝大
御膳と御菓子を献備した。如来遷座の手文は左のように
なった。
一 十月十八日一番鐘(四ッ半時御開帳鐘)で仮殿
へ集合
一 二番鐘(正九時大鐘)御宝前に於いて御法楽(自
我偈御導師)
一 右終りて庭の讃(句頭出仕之下坐役)
一 右終りて四ッ時直ちに渡御、行列書の通り
一 同時刻、本殿において宝林院を招請し、法をお
さめさせる。
一 声明を開始したとき、供奉の面々は行列書の通
りに並ぶ。
一 如来を安座後、内陣を公開した。但し夏中の通
り、正面並びに三所明神へ焼香中は平日のとお
り、自我偈読唱のこと
一 このときは、お茶を献備することが必要で、中
衆がこのことを勤める。
一 これらの行事が終了後、登壇して阿弥陀経を唱
えてのち、十念(47)をおこなう。
一 この後、引き続いて中衆・妻戸の僧侶が念仏回
向をおこなう。
一 次いで導師が退去。
一 右の一連の行事が終了して大勧進本坊へ退出し
た。その際、御供が下賜された。
 如来遷座が無事終了して、そのお祝いのため参上した
面々へ玄関において赤飯を下賜した。また、各々から祝
儀を本坊へ献上した。
 また、如来遷座後、本坊から法成院以下五十二名へ、
しめて金一〇両二分二朱と銭五貫四〇〇文を下付した。
善光寺三社へはそれぞれ金百疋、大神宮へも百疋、西町
の竜樹院へは青銅三十疋しめて金一両ト銭三〇〇文を下
付した。これは如来遷座が滞りなく終了するように前日
祈禱を仰せ付けたので、その御礼として献上したもので
ある。
 この如来遷座当日、大本願上人の使者清水忠三右衛門
(48)が大勧進に入来し、次のような挨拶をおこなった。「今回、
大変な事態のところ御苦労を重ね、本堂修復を相済まし、
今日如来遷座を滞りなく済まさせた。この歓びのため、
使者を遣わし口上申し上げる」。これにたいし、大勧進は
大本願へ使者斉藤元三郎を派遣し、相応の口上を申しあ
げた。
 今夕、如来遷座が滞りなくおこなわれたので、祝儀と
して蕎麦切を下さるとのことで、三老僧・堂奉行両人、
使僧役として中衆・老僧両人、妻戸両人を召し寄せ、法
成院・□ママ□両人、表役両人・岩下平助相伴を仰せ付けら
れた。また、如来遷座が終了したので、万善堂の仮堂が
取り払われた。その跡に御供所普請が仰せ出された。そ
して、左の職人に次のように金子が下付された。
一 金五〇疋 大工棟梁石田清右衛門
一 金五〇疋 鳶頭 当八
一 金五〇疋 塗師 藤吉
一 金五〇疋 与兵衛
一 鳥目(49)三〇疋 助七・忠次・与吉・伊惣治
 二十三日には、今井磯右衛門を派遣し、用米を依頼し
た問屋等へ挨拶かたがた目録を渡した。その名簿と下賜
額はつぎのとおりであった。
新町問屋(三貫四八四文)、牟礼問屋(同上)、野尻
問屋(三貫四八四文)、関川・大石新右衛門(金三〇
〇疋)、同・大石徳次右衛門(金二〇〇疋)、巻淵深
見七郎兵衛、同上角伊(金五〇〇疋)、同人(金一両)、
右の四宿へ各々二貫四五八文
 また、二十三日には朝方、得生院が清蔵と与三郎とを
召し連れて、鬼無里村から青具村(50)辺り迄、普請材木の調
達を掛け合うため赴いた。なお、十一月三日には、材木
のことで相談が整ったので、徳生院は帰山した。
 二十四日、並木時三郎が大勧進別当を訪問し、この度
の十万人講の頼み入れで、領主々々へ頼みいれ、各領主
の村々へ十万人講の触れ等の写しを持参、御覧に入れた。
十一月六日には、十万人講のことで、法成院・薬王院・
杉本喜内が上坂した。十日には、小坂久五郎を十万人講
依頼のため派遣したが、その小坂を良性院が召し呼び、
本堂前の地蔵尊の損じ分を当方にて修復するけれども、
石垣の分は取り次ぎの寺院で修復致すように申し渡し
た。
 同じ十日には、中野治兵衛が寺領平柴村のことで、次
のような書面を参上し差し出した。「平柴村は年貢につい
ては定免(51)の村ではあるが、この度の天災で村方一統が難
渋しているので、籾一〇表の手当てを頂戴したい」。この
件は、このまま了承された。
 さて、大勧進続きの横沢町住民の家々の移転問題は、
その後どのような展開をみせたか。横沢町の一住民市兵
衛の場合で見ていこう。
一大升無□高壱斗(52)五升八合横沢町市兵衛
内高壱升八合 御火除御用地引
 右の史料から、市兵衛は大升で高一斗五升八合の土地
持ちであり、そのうち高一升八合の土地が火除け地とし
て大勧進に提供された。以下、土地の大小はあるけれど
も合計で十八人の横沢町住民が、合計で籾三石一升分の
土地を火除け地として大勧進に提供した。
 また、岩下平助(多門)(53)の地続き地で、惣右衛門抱え
屋敷地三〇〇坪ほどの地所が今回御用地となったので、
惣右衛門へは差し支えがないならば、相応の手作り地を
渡したい、とのお伺いをたてたところ、その通りで宜し
いとの許可がおりた。
 このようにして横沢町住民の移転問題はまがりなりに
も解決した。
 善光寺役所は三月二十四日の大地震後、箱清水村の畑
中へ仮堂を建立して如来を遷座し、懸命の努力によって
大勧進万善堂を修復して五月十六日には如来をそこに遷
座した。さらに、十月十八日には本堂へ移し、一連の修
復事業は終了した。
 この間、善光寺へは善光寺町内外の寺院・個人など、
また他領の領主などからも多くの義捐金や物資や弔慰を
表す書簡などが寄せられた。また、善光寺役所も近隣や
遠縁の藩や寺社に援助を求めた。二、三の例をあげよう。
三月二十七日
御見舞 北平林村宝樹院
汁一釜 鳶頭常八
みそ漬・もち 槌屋隠居
みそ・醬油・そうめん 海老屋庄兵衛
むぎ粉□□ 野辺光明寺(54)
人足五人 野辺光明寺
人足三〇人 松代より
白米三〇俵・椎茸・干瓢各一□松代より
三月二十九日
勧化帳三冊を羽黒山知足庵へ頼み遣わす
法成院と上田丹下を松代役人・諸宿へ派遣した。そ
の際、奥より煎茶一箱を持たせた。
そうめん・氷豆腐・ふんど芋 原□ママ八隠居
 上田藩からは岡部九郎兵衛と藤井三郎左衛門(55)の連名で
見舞いの書簡が到来し、白縮緬一疋の進上があった。
 このように近世特有の相互扶助の見舞いの記事が、「大
地震之節御動座日記」の終了する六月二日までの各所に
見られる。
二、東叡山寛永寺との折衝
 近世を通して、善光寺大勧進は東叡山寛永寺の末寺で
あった。したがって、弘化四年の善光寺地震のときも、
大勧進は松代藩と並んで東叡山寛永寺に震災の状況を逐
一報告し、震災からの復興の手筋を仰いだ。
 まず、地震の起きた翌日未明には早飛脚を寛永寺にた
て、ことの次第を注進した。その後、少し落ち着いてか
ら、再度地震の状況を届け出ている。四月二日の寛永寺
護国院(56)の大勧進別当への返書には、つぎのような文言が
あった(57)。
(前略)非常天災の儀は致方御座無く御心痛の段御尤
もに御座候へ共、随分御気丈に御持ち御勤めなされ
候様願奉り候、野院(護国院ヵ)隠居僧正も御手紙
拝見致し実に驚き入り申し、是も同様宜しく申し上
げ候様申され候(書き下し文)、
 慰労と激励の意が汲み取れる返書である。このあとさ
らに、金子拝借のため院代良性院と善光寺役所納戸役上
田丹下を寛永寺へ派遣した。先にみて来たように、大地
震で善光寺諸堂は大きな被害を蒙っており、その復興資
金に莫大な資金を要したからである。
 両人は三十日ほどで上野表での用向きを果たした。そ
の内容は、東叡山から金三〇〇〇両を借り、四年目から
金三〇〇両ずつを返納していくというものであった。ま
た、先年本坊(寛永寺)へ上納した五重塔再建資金から
毎年五〇両ずつを下付するという東叡山御用人からの達
しがあった。このことに格別便宜を計った人物は護国院
忠順であった。
 ここでいう五重塔とは、大勧進別当等順が別当香雲(58)の
意思をついで善光寺に再建しようとしたものである。寛
政六年(一七九四)から一〇年まで回国開帳をおこない
資金を確保し、諏訪の宮大工立川和四郎富棟に設計図を
依頼し、図面は既に完成していた。同十三年に幕府寺社
奉行に五重塔造営の申請をおこない、幕府は「古礎不明」
の理由で建立を不許可にした(59)。この建立資金は当時東叡
山に保管されていたのである。
三、松代藩との折衝
 地震が起きた翌二十五日、領主善光寺は取りあえず被
害状況を松代藩(60)へ届け出た。詳細は取り調べの上、大勧
進代官今井磯右衛門が参上して申し上げるけれども、三
十五日間、取調べの用意ができるまでは、寺中・役人・
院内の者の賄いを下さるよう依頼した。この申し出に、
松代側は早速承知してくれ、寺領箱清水村に続く松代領
上松村滝組から二、三の係役人を四、五日出張させ、さ
しあたっての飯米など入用の品々を送付してくれること
を約束した。
 翌日から松代藩同心が大勢出役し、箱清水の移転先の
仮堂の幕張の内外と善光寺山内・善光寺町内を始終見廻
り、非常に備えた。この日の夜、松代藩主は白米三〇俵・
野菜一台を見舞いのため送付した。翌日早朝、善光寺は
昨日の御礼のため、使者尊勝院を松代へ派遣した。
 他日、大勧進代官今井磯右衛門と大本願役人山極亦兵
衛は松代へ赴き、被害状況を委細届け出た。同時に、善
光寺の町方救済のため、籾の拝借を願い出たところ、松
代藩は両寺へ五〇〇俵を貸与してくれたので、大勧進と
大本願とでは二五〇俵ずつ配分した。この五〇〇俵は翌
年暮には返済することが出来た。
 また、善光寺では松代藩主在城中に、見舞いと種々の
礼を兼ねて、院代法成院を松代へ差し遣わした。また、
松代藩主在城中に御見舞と万端の御礼を兼ねて僧正(大
勧進別当)が直参致したい意向があるので、殿様がお暇
のときを問い合わせたところ、殿様が申すには「この節
柄、大勢の供を同道することは、世間への遠慮もあるの
で、当分見合わせたらどうでしょうか。翌春にでもなっ
てお出でなさるのであるなら、お目にかかりましょう」
との返事であったので、僧正の松代行きは中止となった。
 松代藩への金子借用申し出については、松代藩役人内
で内諾があったので正式に金三〇〇〇両を申し入れ、早
速承諾してくれた。しかし、松代藩とても善光寺同様震
災があり、ともかく金二〇〇〇両を用立てることになっ
た。その金子は早速借用できた。そこで、善光寺役所は、
藩主を始め重役など藩士へ合計で音物金三〇両余を贈呈
した。
 なお、この借用金の返済で善光寺役所は塗炭の苦しみ
をなめることになるが、その詳細な記述は他日にゆずら
ざるをえない。
 また、寺領町方で追々松代藩へ復興資金を求める者が
出てきたが、これには大勧進表役人の奥印が必要であっ
た。今井磯右衛門・中野治兵衛の奥印である。松代藩で
は、かれこれ四〇〇〇両を善光寺領民に用立てることに
なった。この金子で善光寺町方は追々普請が出来るよう
になってゆく。借用の一例(61)をみよう。
御借用金証文之事
一金三十両也 但し年中一割一分
 右は当春大地震ニ而居家潰れ之上、出火一統家財
等迄不残焼失仕り、当惑罷在候、乍去如何躰ニ茂仮
住居向家作仕り少々宛も売買不仕候而は家内之者扶
助も出来かね候ニ付、打ち寄り種々手段も仕り候得
共、当表一円の儀、其の上川中島・川北又山中筋迄
一統変災ニ而何分手段出来兼ね、甚だ以って難渋至
極仕り候ニ付、乍恐れ無拠御拝借金奉願候(中略)
返上の儀は来申十二月十五日限り御元利共急度返上
可仕候、右御引当の儀は当人居屋敷地、間口四間・
裏行五間二尺之処差出置き申し候間、如何様当人身
の上異変差し支えの儀御座候共、加判人ニ而引き受
け、夫々差配仕、万一引き足り不申候節は弁金仕り
無相違返上可仕候、依って善光寺役表御役所えも委
細申し立て御末書奉願候、御文言の通り聊か違背仕
間敷候、為後証依如件、
弘化四未年十月
片桐重之助様
高野覚之進様(62)
善光寺西之門町
御借主 甚助印
親類惣代 茂三郎印
組合惣代 久七印
庄屋 吾左衛門印
前書之通り西之門町甚助右の次第ニ付、無余儀拝借
金相願い候処、お貸し出し難被成下之処、厚く御察
し格別の御配慮を以御才覚御繰り合わせ金之内御貸
し渡し被下於私共厚難有奉存候、然上は返上方の義
当人共ニ不拘取立て無相違返上可仕候、万一心得違
いの儀等御座候節ハ御領分同様御取り計らい被下候
共、其の節一言之儀申し出で間敷く候、兼ねて其の
段当人共も申し渡し置き候、為後日奥印印形仕り候
処依如件、
弘化四未年十月 今井磯右衛門印
中野治兵衛 印
 右の史料は西之門町甚助が大勧進代官今井磯右衛門と
中野治兵衛両人の奥印のもと松代藩から三〇両の借入金
をおこなった場合である。返済不可能の場合は、居家は
没収され、その上連帯保証人の責任となった、と考えら
れる。
おわりに
 弘化四年三月の善光寺地震は、善光寺諸堂のうち、大
本願・仁王門などをはじめとして幾つかの堂舎を焼失し
た。倒壊も焼失も免れたとはいえ、本堂・山門・経堂・
大勧進諸堂には破損があり、とくに本堂と大勧進諸堂は
大きな被害を蒙った。三寺中四六坊(いわゆる院坊で、
衆徒・中衆・妻戸に分かれる)も全焼した。善光寺三寺
のなかでは、本堂東側の寛慶寺の大伽藍も、東町の康楽
寺も焼失し、西町の西方寺本堂のみが辛うじて残った。
いっぽう、善光寺三社のなかでは妻科神社を除き、箱清
水村の湯福神社は倒壊し、善光寺東町の武井神社は焼失
した。
 善光寺領の町方をみよう。御門前のうち横沢町は焼失
は免れたが倒壊があり、立町は焼失した。善光寺八町は
一部の土蔵などを除いて全滅に近かった。倒壊し焼け出
された町民は掘立て小屋を建ててそこに避難し、あるい
は縁戚を求めて移転せざるをえなかった。
 善光寺役所は、大勧進万善堂と本堂の修復に全力を注
ぎ、一旦箱清水に遷座せざるを得なかった如来などを万
善堂、さらに本堂へと八カ月、二〇〇有余日をかけて復
帰させた。
 そのための諸費用は自力で捻出することは到底不可能
であったので、東叡山寛永寺と松代藩への借入金に依存
せざるをえなかった。その返済に善光寺役所は苦しむが、
その返済過程の記述は他日に期したい。
 いっぽう、善光寺町民や参詣者への対策をみると、地
震の翌日には箱清水の仮堂近くへ救い粥炊き出し小屋を
かけ、粥を人びとへ施した。また、寺領で少々貯えのあ
る者へは相場より二合安の米を売り渡し、その代金で米
をつごうし難渋者や参詣の旅人へ施行した。本堂東の松
原の外へも小屋をたて、ここで病人や他国の難渋者を救
済した。薬種を無くした医者へは手当金を遣わして薬種
を整えさせ、病人の治療にあたらせるなど、早くから救
いの手を差し伸べている。
 上田の住人土屋仁輔のような献身的な人びとの尽力も
あったが、概して町民などへの救済措置は十分とはいえ
ない。現代においても被災住民への救済は万全とはいえ
ない。道路・水道・電気・ガス・通信などインフラの復
興がまずおこなわれ、個々の住民への被災手当ては後れ
がちになる。被災住民は隣人との相互扶助、またボラン
ティアの援助などに頼らざるを得ない。
 原稿作成のなかで、善光寺役所は善光寺大勧進と大本
願の両者の意向を受けて動くこともあったが、前者の意
向のみで行動する場合もあったと思われるし、善光寺大
本願は、独自の判断で松代藩などに援助を要請する場合
もあったと考えられる。また、引用史料に出てくる仏教
や建築用語は不明なまま使用せざるをえなかった。
 この原稿がなるにあたっては、平成十九年十一月、長
野市城山分室に開館した長野市公文書館蔵の複製資料な
どを利用させていただいた。記して感謝の意を表します。
 (追記)私は善光寺の参道につながる石堂町に生まれ育
った。幼時、善光寺は「御堂」といわれ、そこに参拝す
ることは、一大イベントであった。長じて現在、善光寺
近くの職場に勤務し、昼休みに善光寺を参拝することを
日課としている。参道の石畳で善光寺本堂や山門を仰ぎ
見るとき、その堂々たる姿に畏敬の念を覚える。
 善光寺地震からの復興、昭和の大修理(63)、平成十九年(二
〇〇七)十二月に完成した山門の大修復を経た現在の善
光寺の背景には、善光寺地震での善光寺役所と多くの町
民、さらに善光寺信仰につどう多数の人びとが存在した
と考えられる。
註1『信濃』五六巻一二号、二〇〇六年十二月
2 小林計一郎『長野市史考』所収(吉川弘文館 昭和四
十四年)。長野県史刊行会 平成元年一月。長野市 平
成十六年一月。信濃毎日新聞社 二〇〇三年七月。災
害教訓の継承に関する専門調査会 平成十九年三月
3 昭和五十四年九月、平成七年五月、平成七年七月
4 小林計一郎監修『善光寺大地震図会』(「銀河書房」昭
和六十年)
5 『善光寺地震に学ぶ』六九~七二頁、八九~九二頁、
一二二~一二四頁
6 二〇〇七年七月十六日と八月十六日「朝日新聞」。北
国新聞社『特別報道写真集能登半島地震』二〇〇七年
四月
7 牧修一『被災地・神戸に活きる人びと』(「岩波書店
二〇〇七年一月)
8 従弘化四年三月至嘉永六年十月「当山大地震後雑記」
長野県史刊行会収集「善光寺大勧進文書」(東大地震研
究所『新収日本地震史料』第五巻別巻六ノ一所収を基
本とし、他の史料の引用の場合は、その都度注を付し、
出典を明らかにした。
9 長野市公文書館蔵複製資料「大地震之節御動座日記」
(「善光寺大勧進文書」)
10 善光寺役人の筆頭であり、宝永以後代官職を世襲し、
在職中は磯右衛門と称する例であった(小林計一郎『前
掲書』一〇六頁)
11 岡島庄蔵・竹村金吾・山寺源太夫・磯田音門は松代藩
重役で、当時は郡奉行
12 輪王寺宮によって与えられた個人の呼称で、寺院名
ではない。見明院は信解院と呼ばれていた(浦井正明
「東叡山寛永寺の成立と展開」七九頁(圭室文雄『天
海・崇伝』所収、二〇〇四年刊)。真覚院は不明
13 立町は善光寺大本願門前であるので、ここには記述
されていない。
14 註9の史料
15 現在、同地に「地蔵大士石像」が建ち、善光寺と善光
寺大勧進の連名で「弘化四年(一八四七)の善光寺大
地震のとき御本尊を災害よりお守りするため一時御立
ち退きになられたのが此の地であります。仮殿で御遷
座の期間は五十余日におよび遠近の信心深い男女たち
や商人など集まり門前に市を成したといわれておりま
す□後世にてらしてこのお地蔵様の石像を建立し
たものであります」の立札がある。
16 小林計一郎監修『前掲書』一五七~一五八頁
17 長野市公文書館蔵複製資料「弘化四年丁未年三月二
十四日夜地震覚の節大破焼失死亡取調」(当館蔵「宮下
銀兵衛家文書」)
18 長野市公文書館蔵複製資料「弘化四年八月 善光寺
本願上人拝借金評議書類 御勝手元〆伺書並付札」(国
文学研究資料館蔵「松代真田家文書」)
19 法会に用いる大型の鉦
20 もと一種の屋敷役で、領民の有力者に課せられる役
であり、町民の身分のまま事あるときは帯刀して寺役
人として寺に出仕する者をいう(小林計一郎『長野市
史考』四七頁)
21 善光寺宿の問屋場は大門町にあり代々小野善兵衛家
が勤めた。
22 大門町西側で幕末には問屋を兼ねた(小林計一郎『前
掲書』四一二頁)
23 上田海野町の豪商白木屋に生まれ、上田藩の御領分
産物惣取締役。善光寺地震のとき大八車を連ねて救援
に赴き、米などの物資を送付、遺体の収容処置に際し、
引き取り手のない死者の耳をとって大壺にいれて埋
葬、その霊を弔うために其の上に碑をたて耳塚と称し
た。この地震横死塚の台石には、白山寺義門法印院・
長野横沢町山崎文沖など仁輔徳昆の茶友がよき協力者
となった(『長野県歴史人物大事典』)
24 一字一石供養塔の傍らには弘化五年二月の日付で別
当大勧進現住大仏頂院権僧正山海敬白として「右書写
旨趣者擬弘化四年変災横死霊魂往生極楽証大菩提資糧
者也」の立札がたつ。
25 仏堂などの正面階段の上に張り出した庇の部分
26 寺院・堂塔の中央にある仏像を安置する檀をいう。
27 端の部分
28 框の間に綿板を張り、その表面に舞良子という細い
桟を横に小間隔に取り付けた引違い戸
29 天蓋などの仏具で仏堂・仏具を飾ること
30 註9と同一史料
31 吉日で良い時刻
32 不明であるが、「偈」には仏徳を賛嘆する意味が込め
られている。
33 不明であるが、「庭」には仏神事が行なわれる場所で
共同の広場の意味があり、「讃」には仏徳を讃える意味
がある。
34 不明であるが、悟りに達したときに得る四種の智。大
円鏡智・平等性智・妙観察智・成所作智
35 等順は大勧進別当で、天明二年(一七八二)~享和元
年(一八〇一)まで在位。五重塔再建の資金をあつめ
たが、塔再建は幕府が許さなかった。念仏聖として布
教に大きな足跡を残す。
36 現在、薬王院・光明院・常徳院は衆徒で大勧進とは道
一つ挟んで存在する。
37 不明
38 仏寺で金品の寄付の事務をとる所。お札や御影など
を出す所
39 喜撰茶
40 伊勢御師の定宿
41 松代藩八代藩主真田幸貫
42 水戸藩士栗田家に伝えられる古仏で、柳沢吉保の尽
力で善光寺へ寄進され、現在十夜仏と呼ばれている。
この十夜仏の供養は十月五日~十四日までは大本願、
十一月五日~十四日までは大勧進が本堂で十夜仏の供
養をおこなう(小林計一郎『善光寺史研究』)
43 不明
44 不明
45 不明
46 天保九年(一八三八)~安政元年(一八五四)まで大
勧進別当。善光寺地震で善光寺諸堂の再建にあたる。
47 十念声明の略。南無阿弥陀仏の名号を一〇回唱える
こと
48 大本願役人で、「地震記」(大本願文書)を残す。
49 銭の異称。一疋は一〇文
50 安曇郡青具村、明治八年大塩村などと合併して美麻
村となる。
51 過去の実績に基づき三年間とか五年間、豊凶に関わ
り無く一定期間の年貢量を確保する方法
52 善光寺領では近世初頭から幕末まで一升二合五勺の
枡をつかう。これを大枡という。
53 享和元年(一八〇一)~慶應三年(一八六七)善光寺
大勧進役人。主として善光寺の研究をおこない、『芋井
三宝記』・『善光寺史略』・『善光寺別当伝略』などの著
書がある。
54 須坂市野辺にある天台宗の寺院
55 上田藩家老
56 寛永寺の一子院(塔頭)
57 註9と同一史料
58 二十世の大勧進別当、明和五年九月寂
59 『長野市誌』第四巻二六八頁(平成十六年一月)
60 松代藩は善光寺領の外護権を持つ(『長野市誌』一三
巻史料番号八〇)
61 長野市公文書館蔵の複製資料「弘化四年十月 御借
用金証文之事」(「今井家文書」)
62 松代藩藩士で御勘定役
63 宗教法人『永遠の法燈』平成元年十一月(国宝善光寺
本堂昭和大修理の記録)
(きとう・やすゆき 長野市若里一―三二―二七)
出典 日本の歴史地震資料拾遺 5ノ下
ページ 1059
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