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項目 内容
ID J3300133
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1847/05/08
和暦 弘化四年三月二十四日
綱文 弘化四年三月二十四日(一八四七・五・八)〔北信濃・越後西部〕
書名 〔大町市史 第三巻 近世〕大町市史編纂委員会編S61・3・1 大町市発行
本文
[未校訂]第四章 地震
第一節 善光寺地震
 弘化四年(一八四七)三月二四日夜五ツ半(午後九~一
〇時)より起こった地震について、その翌日被害の様子
が着々と大庄屋のもとに届けられた。まず、野平新田村
(八坂村)からは次のようである。
御届け申口上覚
一、昨夜大じしんニ而当村宇久太居宅つぶれ、けが人壱人
死去仕候、
一、外ニ村方多方損じ申上様も無之候ニ付、此段御見分奉
願上候、且又役人両之家も大損じ、御宿等も六ケ敷候得
者、宜様奉申上候、以上
弘化四未年三月
大町組野平新田村
与頭六右衛門
庄屋坂井七郎左衛門
栗林七郎兵衛殿
西沢九之丞 殿
続いて、千国村(小谷村)から急報が入る。
乍恐御届申上候
一、昨二十四日、夜五ツ半時ゟ、当村大志しんニ而、居宅
并土蔵共大辺相損し、右夜住居難相成、老若小供等近辺
野らへ罷越、右夜あかし申候ニ付、此段乍恐役人代ヲ以
御申候□、被仰上被下度奉願上候、尤往古ゟ覚無御座候
程之義ニ御座候上者、一統のもの者、乍恐御見分御願申
上度奉存候へハ、何卒被仰上御取斗被下度奉願上候、
一、当村栗田五左衛門酒造蔵本潰ニ相成、居家住居難出来
候、其外、本村之内五・六軒ハ住居難相成程之処御座候、
尤枝郷之儀阿やうき事ニ而けが等も有之候哉否哉、難相
知奉存候、本村者御番所様初村方迄、人馬けが等一切無
御座候間、此段左ニ奉仰上可被下候此上枝郷等も追々
お調申上候間、此段御含之上御取斗奉願上候 以上
三月二五日明六ツ時
御両所様
千国村庄屋勝右衛門
同作兵衛
 野平新田村では、家がつぶれ、一人死亡。そして役人
坂井氏宅も損傷を被って、地震の様子を見分していただ
きたいが泊めることはできない旨を報告している。
 千国では、夜九時ごろ地震が起こり、家や土蔵が壊れ、
村人たちは野原へ避難して夜を明かしたとその様子を伝
えている。栗田五左衛門の酒蔵は全壊をし、住居のでき
なくなった家は数軒を数える。千国番所へは屋敷・人畜
ともに異常は無いと伝え、役人の見分を願っている。
 この地震が世にいう「善光寺地震」で、M七・四と推
定されている(『大町市史』第一巻二八四ページ)。その
余震は後日まで続き、五日後の二九日、小谷よりの書簡
に「猶又只今ニも地震相不止メ甚々難渋仕候、小谷辺ニも
田地多分抜或ハ色々ニ而変地仕候而仕付も難出来場所多分
御座候」と、余震が続いて土砂崩れをし、田も変動して
作付ができないと伝えている。更に四月一〇日にも、野
平新田から「昨日四ツ頃大地震ゆり申候、未ダ少しづゝ
ハゆり申候」と報告されている。
 大町市内の様子はどうだったろうか。弘化四年、松川
組大庄屋清水勘左衛門の「御用留」にそれを見よう。「地
震一件書留所々之様子聞書」の項の中を抽出すると次の
ように書き止められている(清水利和氏文書
)。
一、三月廿四日四ツ時大地震ニ而所々の家潰、地破連誠ニ
言語難申尽事ニ候、尤大地震四半時程之内、家鳴地動キ
舟に乗り候心地誠ニ言葉ニ者申難事共ニ候、其後茂少々
宛間有之候而大小之地震止時無し家々ニ而者野辺ニ借リ
家ヲ志つらへ是ニ住す也、
一、廿四日四ツ時之地震ニ而家々之潰連数多しといへども
大町村霊松寺不残堂潰連之上、火ニ相成、隠居并僧弐人
馬壱疋焼死申候、下男壱人是五ツ半死半生、然りといへ
ども焼ただれ今にも一命難有知連候也
一、右寺御朱印之儀者、小僧壱人生残り平日和尚申付置候
事故抜け穴ゟ持出し由、其節生残り候者、右小僧壱人外
ニ旅僧壱人、是ハ右小僧抜穴ゟ連出候様、下男壱人外ニ
小僧壱人、此小僧大町ニ泊り居候由
一、和尚之儀者、当時能登へ輪番ニ被参留主事也、鑑主和
尚者伊奈江参リ当主也 (中略)
一、我等組之儀者家潰等一切無之壁等落候程之事ニ而至而
軽く候、此節苗間籾地震ニ而ゆり寄候程之届ヶ有之候、
南辺西山手組々ハ程々少く軽き事様承申候。勿論当組
下之内ニ而も、西山手程少ニ候。観勝院抔者位はい堂の位
はい壱本転び候程ニ而至而軽候様ニ承申候。仏崎観世音
抔古石灯篭転び、石仏壱弐本も転び候程ニ而候、清水村
庄屋方様少々土蔵之壁へ割痕付候程之事之由ニ候
一、扨、高瀬川東之儀者至而強く、大町へ参候得共、野辺
石碑(抔)杯、立居ハ少く、大町村ニ而も曽根原庄左衛門酒
蔵(抔)杯潰酒七本打潰申候、高橋平兵衛酒蔵かだ屋潰れ申
候、尤かだ屋斗也酒師わけ壱人打潰され、死申候、土蔵
壁等皆落候也、
一、宮本村庄屋一志弥治始潰之者拾七軒也、其外堀之内ゟ
北高瀬川東端村々家潰之者数軒也、池田町ニ而も日さし
落或ハ壁等落候処ハ数多し、酒屋々々は五尺のたがゆ
るみ酒こぼれ、損失言わん方無し(下略)
 以下近郷他藩の地震の様子を記しているが、大町近辺
の様子をまとめると、高瀬川を境にして、西の方は被害
がほとんどなく、石仏が一・二本転んだ程度であるが、
川の東方は被害が大きかったと書いている。大町は石碑
など皆転び、曽根原庄左衛門、高橋平兵衛の酒蔵がつぶ
れ死者も出た。霊松寺がつぶれ全焼したうえに三名死亡、
一名重傷、馬一匹焼死と記している。また、宮本村では、
庄屋一志弥惣治の家など拾七軒がつぶれたという。この
ように被害は、東にゆくほど大きかったようである。
 ほかの文書から、更に近隣の様子をうかがってみよう。
 中綱では、湖の南の山が崩れ、川がふさがり、水がせ
き止められたと庄屋が報告している。
乍恐御届ケ申上候口上覚
一、当村池尻橋より下、天馬沢迄、西山落入申候、水行留
り申候、此段奉願上候、以上
弘化四年未三月二六日
御両所様
中綱村屋庄長右衛門印
同佐五左衛門印
 庄屋長左衛門は、中綱湖の水位が上がり家に水がつき
そうになると、崩落箇所に堀割りをつくり家を救ったと、
地震後その善行がお上へ報告されている。
中綱村 庄屋長右衛門
右之者地震ニ而山抜地尻突留水たたへ阮に家居へ水
入掛り候所、堀割等仕相♠、可成ニ水行仕候所、又候抜込
精々世話仕堀割仕漸ニ家居水入相♠申候、度々之突留心
労出精之動物ニ御座候
 また、左右村・高地村方面・青具村・千見村方面への
通路が崩れ、馬も通れなくなったとの大庄屋への報告も
ある。
(前略)然者、地震ニ而左右村・高地村江者通路無之
趣ニ仕申以の有之、千見村・青具村茂同様之処、青具者夫
食差支有之候者、馬通用無之ニ付金子拾五両被遺候由、(下
略)
 また二重村枝郷ふじでは地震で家つぶれのうえ火災が
発生し一七軒が焼け出された。これら大町組村々の被害
を大庄屋もとでまとめたものを表にすると表7のように
なる。この全潰・半潰は居宅に限っていて、物置・土蔵・
酒蔵等附属建物は数に入っていない。この居宅の損害に
ついてのちに藩より御手当が下された。全潰の家へは四
俵、半潰の家に二俵である。ほかに二重村ふじの火災に
遭った家には一軒あて四俵が支給されている。
 さて、この地震は震源地が長野市付近で、長野県北部
から新潟県南部にかけて大きな被害をもたらした。特に
長野市の被害は大きく潰家のあと火災が発生し、二日二
夜燃え続け焦土と化し、多くの圧死者、負傷者、焼死者
を出した。地震のあった九日前、三月一五日から善光寺
御開帳が始まり、全国より善男善女が参詣に訪れ、善光
寺界隈には人があふれていた。これが被害を殊に大きく
した。善光寺に残されたのは本堂と山門だけで、大勧進
も半潰、各宿坊は残らずつぶれ、また火災焼失した。清
水家御用留にその様子が書かれている。
一、善光寺之儀者此節開帳ニ而諸国之旅人夥敷然ニ家不残
潰れ、其上火出申候、尤所々ゟ一同ニ火出候事共潰候家
ゟ出ルニ間ニ不合不残焼死申候、生残り之者共たすけ度
思へども、打続地震殊ニ夜中故、恐敷見合之内ニ火出候
由、尤家々之下ニて、たすけてと言声夥敷哀れなんと言
限りなし、ただただ家の下ゟ這出、たすかり候ものも焼
ただれ、或ハまるはだかニて漸出候ニよる
 表7の善光寺旅行にて死亡した者のほとんどは、三月
二四日夜、善光寺の宿にて圧死・焼死した者の数である。
そのほかに、稲荷山宿も同じように全焼し、そこで死亡
した者が二人、また、松代領の笹平村また竹房村で災禍
に遭った者二人、更に同領曽山村で二月二四日夜山崩れ
があり、その下に押つぶされ埋まり死亡した者が四人あ
る。
 こうした善光寺周辺の「言限りない」阿鼻叫喚の地獄
絵は、これにとどまっていない。
 二四日夜、松代領の新町(信州新町)より北四里、岩
倉村の虚空蔵山(長野市信更地区)が大きく崩れ落ち、
犀川を堰止めてしまった。これによって犀川辺は湖と化
し、水が増すにつれ新町は水没し、大町組の野平新田村、
船場村にも水に漬かる家が出た。二〇か町村に潭水した
その上限は、山清
路辺りにまで及ん
だ。その水が、四
月一三日堰を切っ
て流れ出た。左右
村庄屋の報告によ
ると
 犀川筋水払
初り、昨昼七ツ
下リゟ同晩之
五ツ時迄ニ御
他領新町辺ゟ
日名村橋木辺
まで定水ニ相
成申候(未四月
一四日七ッ
時・左右村庄
屋・御両所様)、
とあるよう、約二
〇日間にわたって
滞りにたまった水
が、昼七ツ(午後
五時ごろ)から晩
五ツ(午後九時ご
表7 弘化4年、地震による大町組内の被害
村名
潰れた家
全潰
半潰
死亡人
現地
善光寺旅行
(軒)
(軒)
(人)
(人)
大町村
13
3
2
宮本村
11
7
閏田村
1
曽根原村
3
丹生子村
2
3
木舟村
2
舘之内村
2
常光寺村
5
松崎村
1
大平村
5
22
3
2
野平村
※4
11
船場村
※20
17
左右村
21
37
6
槍平村
3
11
大塚新田村
2
7
切久保新田村
20
33
1
相川新田村
2
大塩村
16
23
8
切明新田村
6
新行新田村
17
10
4
6
二重村
30
30
6
3
高地村
16
15
千見村
32
33
12
2
青具村
38
64
1
野口村
3
村名
潰れた家
全潰半潰
死亡人
現地
善光寺旅行
(軒)
(軒)
(人)
(人)
借馬村
9
森村
4
稲尾村
6
2
海之口村
7
中綱村
2
1
青木村
2
加蔵新田村
10
3
3
佐野村
3
3
沢渡村
7
14
堀之内村
26
11
3
飯田村
1
嶺方新田村
5
6
蕨平村
1
深沢空峠新田村
1
塩島村
23
1
大出新田村
1
塩島新田村
1
4
7
野平新田村
1
千国村
9
26
2
石坂村
12
2
土谷村
15
中谷村
2
14
来馬村
9

323
505
52
34
※は水入の家を含む
(栗林忠夫氏文書より作成)
ろ)まで、わずか四時間で引いたという。この鉄砲水が
善光寺平へ押し出し、東は松代・南は篠ノ井辺・そして
下流の飯山・越後辺まで水害を及ぼした。この死者二七
〇〇人余という。火難の後の水難である。
 船場村・野平新田村は、岩倉村での地すべりによる犀
川堰止めで、足下の水位が刻々上り水没箇所が広がって
いた。船場村の庄屋郡太夫は、毎日夕方七ツ毎(午後四
時ごろ)に水位を計り、被害の様子を大庄屋へ報告して
いる。四月三日には一日で四尺九寸(約一・五メートル)
水位が上り、四日にはまた五尺三寸上っている。通常の
水位より壱丈八尺二寸(約五・八メートル)上り、川辺
が三丁(約三〇メートル)ほど広がって来ている報告が
なされている。既に水は田畑に差し込み民家に迫ってい
る。
 四月四日、代官高橋土岐左衛門及び御郡所の役人らが
出張して来て、大日向村(生坂村大日向区)に滞留し現
場指導をとることになる。池田組の大庄屋、大町組の大
庄屋も一人ずつ呼び出される。大町組大庄屋は西沢九之
丞は松本の会所に、栗林七郎兵衛は大町にて情報を集め
指揮をとり、七郎兵衛の息子相之助が野平新田へ出向す
る。
 五日、代官らの船場方面までの視察に立ち会ったのち、
六日、大日向村へ呼び出され「松代領の様子を見届ける
よう」命ぜられ、大町へ帰る。早速、大塚村の丸山惣右
衛門ら三人が岩倉抜けの現場に遣わされる。
 七日、藩からの命を受けた通船をつかさどる宮淵の勘
左衛門は、宇留賀村庄屋久左衛門と絵師寅蔵を乗せ川下
に下り、水が突き止められている現場から水没村々を視
察し、九日に絵図にして報告する。
 八日、栗林相之助は再び野平新田へ赴き、岩井浦右衛
門一行二一人について栃沢に泊る。九日は大日向村に出
向き、代官の指示を受ける。この日から雨になり一〇日
の午前中まで風雨、いよいよ水量は増し、一日のうちに
八尺八寸(約二・九メートル)にも上り、船場村など水
没々の家が多くなった。
 一一日、栗林相之助は父七郎兵衛と交替、七郎兵衛は
大町にてつかんだ松代の情報を代官らに細かに伝える。
一二日に野平新田村の水位は四丈壱尺五寸(約一三・七
メートル)も上がり、船場村は一八軒中一三軒、栃沢五
軒、瀬口八軒中五軒に水が入る。水は、山清路辺りまで
つく。この時を頂点にして一三日午後、突留箇所が崩れ
水は囲を破って押し出し、わずか四時間ほどで水位は元
に復した。
 五月に入って二七日から六月五日までの八日間、御奉
行と代官が相伴って大町組内の地震の様子の視察があ
る。二六日は穂高町から堀之内村へ、二七日宮本から相
川・大平村・切久保・大町村、二八日青木村・飯田村、
二九日千国村・土谷村、六月一日塩島新田村・嶺方村・
堀之内村、二日青具村・二重村・千見村、三日高地村・
二重村、四日大塩村・切明新田村・左右村・船場村、五
日野平新田村・大塚村と視察される。
 このあと、藩からつぶれた家々に全潰四俵・半潰二俵
あての御手当の出されたのは表5に見たとおりである。
その後も、家がつぶれてその家を建て直すこともできず、
そのままだと住居もできぬ人を書き上げ、御救金を一両
から三両あて支給している。大町組ではその数一四七世
帯、二九五両二分と平均約二両の支給である。また、家
が抜け落ち又は埋り、あるいは火災にあって、家を新し
く求めるのに困難を来たしている者に一両から四両の金
を支給している。大町組では三三世帯で一一一両二分と
平均三両七分の支給である。更にまた家を作り直そうと
するがお金がなく苦しんでいる大町組一三八世帯には四
三五両二分、平均およそ三両の金子が一〇ヵ年賦で貸し
与えられている。このように地震は、ただでさえ苦しい
藩の財政を更に圧迫することになる。
 この災害で、その日の扶食さえ得られぬ難渋者も多く
出た。「右左村の林左衛門は妻と二人だが、家が全潰し、
田畑も荒れて作付ができず、駿河の方に馬を借りて運送
業に行ったまま翌嘉永元年四月になっても帰って来な
い。妻一人で大変困っている。」「沢右衛門は五人の家族
をかかえるが、家が全潰した上に本人が大けがをして未
だ治癒せず、家も田畑も荒したままで家族は路頭にまよ
っている。」などの報告がある。これらの人々にも御救
籾・麦・稗あるいは金子などが支給されている。
 このようなとき、藩では才覚金と称する寄附金を富有
な人々に申し付ける。このときは、金一〇〇両松崎村高
橋平一兵衛、金一〇〇両大町村伊藤重右衛門、金五〇両
千見村永田治郎兵衛、金一五両千国村作兵衛がこれに応
じている。
 またこの地震の際村人の為に尽くした人々の報告もな
されている。村という共同体の一つの姿である。二重村
庄屋小林五郎左衛門は、自分の家も全潰に遭った。しか
し村の家々がつぶれ、その上枝郷ふじが一七軒焼失と聞
くと、折から病であったにもかかわらず杖にすがって現
場に赴き、それぞれ差図をした。全潰の家々を見回って
その日の食べるものの無い家には、籾・米・穀類約二〇
俵を、更に金子五両、味噌・塩までも出して与えた。ま
た、家を焼失した者には、自分の家や長屋の屋根藁くれ
て仮小屋をつくれるようにした。更に、近くの家潰れの
者には三月二五日から四月一日まで食事の炊き出しをし
た。こうして、村人の離散を食い止め、耕作や家造りに
取り組めるようにしてやったということである。
出典 日本の歴史地震資料拾遺 5ノ下
ページ 1037
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 長野
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