[未校訂]善光寺大地震
松本市域を襲ったおもな地震は、いま
まであきらかになったものだけでも、
寛永十年(一六三三)一月二十三日・宝永四年(一七〇
七)十月四日昼四ツ時・正徳四年(一七一四)十二月二
十七日朝八ツ時半・享保三年(一七一八)七月二十六日
昼八ツ時半・同十年七月八日八ツ時・寛政三年(一七九
一)六月二十三日夜五ツ時・天保十二年(一八四一)三
月二日昼八ツ時・弘化四年(一八四七)三月二十四日・
嘉永七年(一八五四)十一月四日五ツ時半と、九回をか
ぞえる。そのなかで大きな被害をだしたのは弘化と嘉永
の地震であった。
被害者の持高
名
彦右衛門
直次郎
国作
大助
久之助
庄右衛門
助左衛門
永助
弥次郎
留七
藤吉
持高
高
石
2.828
0.557
0.288
2.803
0.169
5.286
1.803
0.245
0.629
2.203
4.609
此預方高
石
4.45
0.75
1.3
3.85
0.35
4.5
4.25
2.25
2.8
4.35
7.35
下作高
石
自作
8.6
6.5
6.0
1.2
0.45
不明
4.65
1.2
自作
自作
屋丁
分厘
2.5
2.5
―
―
―
0.5
不明
2.5
―
2.3
3.0
馬
1
1
1
1
不明
善光寺地震の情報は、善光寺参詣人により、またたく
まに全国にひろまり、くどき節で説く地震哀話の瓦版が
多くでまわった。
「弘化四年善光寺地震」の名で伝わるこの地震は震源
地が善光寺町西方の山中で、マグニチュード七・四と推
定されている。善光寺御開帳にきた多くの人が圧死・焼
死した。そのうえ岩倉山の崩壊で犀川は湖となり、満水
あと欠壊し、下流の村々九七か村はおし流され一万八〇
〇〇人あまりが溺死するという大被害をだした。
長照寺の一件で松代(長野市)にいた神戸村(笹賀)
の丸山藤三郎は、二十五日の晩に松本に帰り、丸山角之
丞に地震の体験をつぎのように話して聞かせた。
地震の翌日、松代の諏訪社からは、「万歳、万歳の声に
まじり、南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経と唱える大勢の
逃げのびた人達の祈りの声」、つぶれた家の下から女子ど
もの死体を引きだす姿はまさに地獄のさまよりも恐ろし
い光景であった。稲荷山宿(更埴市)は家々が将棋だお
しとなり、ところどころからは火の手があがっていた。
善光寺平は一面煙に包まれ、長谷寺の観音の姿は本堂が
ころび、みることができなかったという(藤沢市文書館、
丸山家文書)。
善光寺御開帳にでかけた庄内村(松本)の人々は、稲
荷山宿の丸屋に泊っていて被害をうけ、一〇人が焼死し
た。いずれも夫婦、子ども連れの家族であった(折井豊
家文書)。三十日昼すぎ松本本町の高美甚左衛門は、善光
寺で焼死した大名町の友成宅へ悔みにでかけている。高
美屋はこのとき、「当節一統道具・家財仕舞い、火の用心
慎みのみ、商い半休」みとして余震にそなえていた(高
美正浩家文書)。
庄内村の折井又之丞は松本での揺れを、「夜五ツ七分頃
地震ゆ(ゆれ)りだし増々強く大ゆりて我ら方家居土蔵とも大い
に損し、四ツ時頃までゆりだし、その後も折々ゆり申候、
家内のこらずうちより夜明までたびたび何度と申し数も
覚えずゆり、ようやく夜明少し安心致し候て間もなくゆ
り大心配致し候」と余震のありさまをしるしている(折
井豊家文書)。城下町では土蔵の壁が崩れるなどの被害が
あったが、北信濃にくらべると軽微であった。丸山角之
丞は、「当時近辺格別のこともなくその家により寝たる人
の起したるもあり、寝たるまま居たる人もあり」と、神
戸村(笹賀)のようすをしるす(藤沢市文書館所蔵、丸
山家文書)。「池田大町あたり爰元(城下町)より強くゆ
り、多昌寺焼失、死去の者有り、押野村数軒ゆりつぶれ、
出川町地割れ所々家損じ多し、塩尻諏訪筋さわりなし」
(同前)という状態で、松本藩領は北部地域に被害がで
た。二十五日以降も地震があり、人々は空地などに小屋
がけをして寝泊りをした。折井家では庭の築山のみねぞ
(イチイ)の木の下に小屋がけをし夜はそこで生活をし
た(折井豊家文書)。三才村(松本)の勘兵衛もまた、土
蔵の東に小屋がけをし、大事な書類は風呂敷に包み腰に
結んで寝たという。「村中銘々小屋を掛けて寝る、町屋も
町中に小屋を掛け、小路の人々は御城縄手通りへ小屋を
掛け屋号を掲げ、昼夜とも老人小児等は小屋に住居す、
殿様を始め御家中方皆々小屋に住居し」不安な日々をす
ごした(横内秀雄家文書)。善光寺街道が不通となり、美
濃・尾張・三河・遠江(静岡県)からの参詣人も松本で
引き返すものも多数あった。善光寺あたりの圧死人・焼
死人の数がおびただしいという噂さが松本町に届いたの
は地震後四日目の二十八日であった。このころ地震をの
がれた人々が帰国しはじめたこと、丹波島の渡(長野市)
が大川となったこと、新町(上水内郡信州新町)で山が
崩れ、犀川がせき止められ大満水になっていることが松
本城下に伝えられた。甚左衛門は「水留り当方川々あふ
れんかと今日より心配」と二十八日の日記にしるした(高
美正浩家文書)。岩倉山が犀川へ崩れ落ち、水内村などの
五か村六五〇軒あまりを壊滅させたことを甚左衛門が知
ったのは四月三日であった。四日・五日の両日は地震が
あり、本町二丁目と三丁目は地震鎮静祈願の代参を上州
(群馬県)鹿嶋社につかわした。しかし、何回も余震が
つづいた。大地震から一か月後の四月二十四日は、「去月
地震の当り日につき六・七組寄日待ち」をし鎮静を祈っ
た。一年後の三月二十四日も、「昨年の地震一周に付き
町々にて寄合い神心祭り」をした(同前)。北栗(島立)
の上条庸吉は、「弘化五年三月二四日地震もこれなく無難
にて候」とこの日を書きとめた(浅田周一家文書)。
松本藩は地震後ただちに郡奉行が夜の家内火の元改め
灯など停止の御触れをだし、村役人を夜ごと見廻りさせ
て人心を安心させるよう指示した。また、善光寺から帰
国する旅人のために岡田・村井・郷原の三宿(塩尻市)
へは宿屋・旅篭は下値にし、無賃のものも泊めるよう触
れをだし旅人への便宜をはかった。とりわけ、松代藩へ
は物頭一人ほか上下五〇人を派遣、味噌・鍋釜を持参さ
せ、救済にあたらせた。安原町では旅人へ食事などをあ
たえた、「町人にも心あるものは銭や金子など施すものも
これあり」と庸吉はしるしている(浅田周一家文書)。