[未校訂]一一 弘化四年上押野山崩れ
弘化四年(一八四七)三月二四日夜十時頃、大地震が
おこり善光寺町を中心に大被害があった。全潰一万八千
余軒、焼失三千四百余軒、死者八千人余ともいわれてい
る。この時松本町でも土塀や石燈篭の倒れるもの多くあ
り、商家の蔵や家の倒れるもの二十数軒あった。筑摩郡
内では麻績町村で潰家四軒、大破七軒、小破五四軒、家
数計六五軒が被害を受け、松本藩から御救金を潰家は金
一両宛、大破は金二分宛渡された。この時信州新町の岩
倉山が大地すべりをして犀川をせきとめ、下生坂・大日
向村まで水がたまり、古坂では犀川べりの家二軒が水没
し家片付け、八軒水入り諸道具片付け、高札場を上の段
に片付けた。水は二〇日目の四月十三日午後二時頃切れ
て、下流の善光寺平の九七か村を流失し、逃げおくれた
三千人余が溺死したと伝えられている。
明科町では上押野中木戸のおしき沢に、地震と同時に
山崩れが発生し、寝ていた人家に大被害をあたえた。被
害の状況は左の通りであった。
本潰七軒、半潰四軒、土蔵三か所、葉小屋(けみや)
四つ、雪隠(便所)七つ、離馬屋一つ、死者二人、けが
三人、馬一匹、家の下より掘出し二人、土中より掘出し
九人、畑地麦二三俵程、穀物・諸道具多数。
以上の被害を家別に概略すると次のようである。
1 居家間口一二間、裏行五間、本潰、家内八人
彦右衛門 38才
彦右衛門は泥と共に二町余押し出され、足すりむき、腰打ち
耕作不能、父彦蔵は壁の下になり死亡、母もちは家木の下にな
り、手を折り足を痛め腰立たず、子柴次郎は足を打ち傷四か
所、子角次郎は母の懐に抱かれ、玉蔵は母と共にはい出して無
事、馬一匹土の中より掘り出し無事。屋敷は一丈五尺余土の下
となる。穀物七俵の内二俵掘り出す。葉小屋、馬道具、萬農一、
鍬一、鎌五、菌桶二荷埋まる。畑地麦八俵程の内四俵程が地震
荒。家内七人は幾右衛門の葉小屋に借宅中、居屋敷は永助の畑
へ地替えして建てる。耕作できる者は一五才の乙次郎のみで
暮して行けず、村役人も当惑している。
2 居家五間に三間、本潰、家内五人
直次郎 47才
女子むめ一三才は潮沢村へ奉公。四人は寝間に臥しながら
家木の中になり床裏へ押し付けられ、壁を打ち破り掘り出す。
あるき(村の連絡係)を勤め極難者で、居家、屋敷、雪隠、諸
道具、食物残らず埋まり難儀。家内四人は森右衛門の葉小屋に
借宅、親類から食物を持ち運んで暮す。畑地麦五俵程の内三俵
程が荒地、萬農三丁の内二丁借入分、鍬一、備中鍬一が埋まる。
居屋敷は武左衛門より役場へ質地に入れておいた所へ対談の
上建てる。
3 居家八間五尺に四間半、本潰、家内五人
国作 43才
五人は家ながら潰れ一か所に押し出され、村方の者が掘り
出す。馬一匹は家木の下になり掘り出したが、腰がぬけて用に
立たず。穀物七俵の内三俵掘り出す。畑麦八俵程の内二俵程が
荒地。家内五人は吉右衛門の葉小屋に借宅、極難者で居屋敷、
諸道具、穀物を埋められ耕作も出来ず難儀至極、居屋敷は武左
衛の質地へ対談の上建てる。
4 居家九間五尺に四間半、本潰、家内六人
大助 37才
大助は押し出されたが無事。母と娘は屋根下になり大声を
出し助けを求めたので村方で掘り出す。弟留弥は驚き逃げ出
し、泥の中を屋根に上り助かる。妻は不縁で親元に帰り、弟一
人は仲間奉公に出ていて無事。穀物五俵の内二俵掘り出す。畑
麦九俵程の内三俵程荒地となる。家内四人は三之助の家の庇
へ差し掛けて住む。居屋敷、葉小屋、雪隠、諸道具、食物残ら
ず埋まり極めて難儀。居屋敷は中之郷村滝沢又兵衛へ質入の
畑へ対談の上建てる。
5 居家八間四尺に四間、半潰、家内五人
久之助 54才
男子二人は塔原と潮へ奉公。夫婦と娘の三人は家下が抜け
出し驚いて逃げ出し無事。畑地麦七俵程の内半俵程荒地とな
る。居屋敷は南へ寄せて住居する積り。極難者で穀物の貯えも
ないが、大工職人につき毎日少し宛買い調えて暮している。
6 居家四間に二間四尺、半潰、家内三人
庄右衛門 31才
妻子三人驚いて戸口へ出た所、家下の地形一丈余抜け下り
押し出した所へ、三人転び落ち南へ逃げ出して無事。土蔵ゆり
崩れ一丈余土に埋まる。食物、衣類、諸道具残らず土中になる。
穀物五俵の内四俵掘り出す。畑地麦三俵程の内一俵程荒れる。
家内三人は彦左衛門の葉小屋に借宅。先年不勝手のため居宅
を売り葉小屋に住んでいてこの離にあい、住居もできず難儀
している。
7 居家八間五尺に四間、本潰、家内五人
助左衛門 50才
五人は居家・土蔵・葉小屋・雪隠・立木と共に一五間程押し
出され、驚いて逃げ出し無事。馬一匹も同様。居屋敷は南へ寄
せて作り住居する積り。(以下紙破損不明)
8 居家五間半に三間半、本潰、家内二人
永助 29歳
夫婦共に庭へ飛び出した所、抜け下りの深みに落ち込み驚
いて直にかき上り、立木にだきついたまゝ押し出されて無事。
馬一匹は離馬屋共に押し出されたが無事。(以下不明)
9 (不明)(本潰) 弥次郎
女子そで六才は家木の下になり死亡。穀物一三俵の内一〇
俵掘り出す。畑地麦五俵程の内二俵程荒地となる。備中鍬一、
菌桶二荷、同附桶二本、かるこ二埋まる。居屋敷は武右衛門が
役本へ質入れした田地へ対談の上建てる。
10 居家七間四尺に四間半、半潰、家内五人
留七 62歳
五人の者は驚いて飛び出した処、一丈五尺余の抜け下りへ
押し落され、妻は土中へ二尺余り埋まり村方の者が来て掘り
出す。他の四人は南へかき上り無事。土蔵はゆり潰れ二間余も
埋まり、穀物・衣類・諸道具残らず土中になる。穀物二二俵四
斗の内九俵掘り出す。畑地麦六俵程の内一俵程荒地となる。備
中鍬二、かるこ一埋まる。家内五人長吉の葉小屋へ借宅、居屋
敷は喜惣治と地替えして建てる。
11 居家一〇間半に四間、半潰、家内四人
藤吉 52歳
四人共寝間に寝たまゝ直次郎の家まで押し出され、土砂等
が家裏に突き当った音に驚いて一緒に飛び出して無事。土砂
が小座敷口へ二間余突き破って入り埋まる。土蔵は二尺余西
へ傾き所々痛む。居家を修繕して住む。(以下不明)
帳面が一部破損していて不明の箇所もあるが、夜十時
頃の眠りを破る大災害であった。押野の村人は半鐘を打
ちならして救出に当ったことであろう。災害後は葉小屋
を貸せたり、食物や衣類、諸道具等も出し合い、家のか
たづけをして大変であったと思われる。中木戸には現在
も永助夫婦がだきついたまま押し出されたという立木が
残っている。
被害者は松本藩から次の様に御救籾や御救金を頂戴し
た。
一、彦右衛門 籾一〇俵、金二分二朱 外籾四俵
一、直次郎 籾五俵、金二分二朱 外四俵
一、国作 籾六俵、外四俵
一、大助 籾五俵、外四俵
一、久之助 籾四俵、外二俵
一、庄右衛門 籾二俵、外二俵
一、助左衛門 籾三俵、外四俵
(他四人は紙破損のため不明)
なおこの地震は余震が五月十日まで二十数日、夜昼あ
って、夕食は明かるいうちにすませ火を消して、外へ小
屋を掛けて寝る家が多かったと伝えられる。
被災者の持高、下作(小作)高、屋丁(屋敷免のある
者への使役の割当)等は前頁の通りである。(下里俊雄文
書)