[未校訂]善光寺大地震
弘化四年(一八四七)三月二四日(太陽暦の五月八日)
の、午後一〇時ころ善光寺大地震が発生(マグニチュー
ド七・四)し、それによる洪水の被害もあった。更府地
区の岩倉山(現虚空蔵山・標高七六四㍍の崩壊により、
犀川が二カ所堰止められ、二〇日間滞水して、延長二四
~二八㌖、面積約一〇平方㌖の大滞水湖となる。四月
一三日午後三時ころ、大音響とともに決壊して、鉄砲水
が善光寺平一帯を襲い大水となる。篠ノ井見六橋の辺り
まで水が押し寄せる。一〇〇〇年に一回ぐらいという大
地震が発生した時、善光寺では三月一〇日からご開帳中
であった。本堂でおこもり中の旅人数百人は一人の怪我
もなく無事であったが、寺領の町屋では、倒壊や火災が
発生し、横沢町を残して全焼し、約二四〇〇人(内旅人
約一〇〇〇人)の死者を出したという。また、稲荷山宿
でも二〇〇軒が焼失し、死者は四〇〇人(内旅人約一五
○人)にのぼった。松代城下町も倒壊や死人が出る。新
町・稲荷山、さらに遠く飯山までが、地震によって大部
分が潰れたり、大火事が起こり家屋が焼失した。各村々
でも大きな被害を被り、どこの家々でも小破の無い家は
無く、規模の大小はあったが被害をうけた。
田野口村でも死者は出なかったが、清水神社や真福寺
の倒壊があり、家屋や土蔵・物置き等の倒壊・損壊等の
被害を受ける。丁未弘化四年三月二四日、長滝(唐木恒
蔵)の『地震日記覚帳』「地震の節建家潰の人数付立覚」
の項に、次の(母屋・土蔵・物置の別は記載なし)よう
に記している。
油田組 嘉七
宮ノ下組 市左衛門
札木組 小林斉太 良右衛門 滝八 勇助
平林組 伴左衛門 甚十良 八百蔵 藤蔵
日向組 文蔵 佐兵衛 儀兵衛 長吉 恒七
山寺組 伊三良 真福寺 源五右門 佐多五良
七左衛門
小日向組 半三郎
大森組 勇之助 弥兵治
(注) 清水神社記載漏れ。
以上二三戸が被害を受けている。日記には、二五、六
日は、内方と記入してあり、各自が個人的な地震による
被害の片付け整理等に従事していると思われる。二七日
から四月六日まで、連日道普請や、清水神社・真福寺の
片付け等、あるいは、五人組内損壊家屋の片付け作業等
に出動している人足名を記入している。
また、道路・河川・耕地の決壊や埋没があった。その
後も大小の地震が頻繁にあり、地震発生以降「三月から
四月二四日正午まで、三一日間に九二〇回、一日平均三
〇回に及ぶ。」と『松代町史』は記している。流言飛語に
よる民心の鎮静を図るため、藩では磯田音門を派遣して
諭し廻る。二七日の晩は、安庭村の小屋の中で村人と一
緒に泊まる。時折一〇匁玉の鉄砲を打つような音がする。
岩倉山が抜け落ちてから音がするようになったと村人は
語る。また、地中より火の玉が飛ぶというので、村人は
小屋の中で数珠を回し、鉦をたたいて夜中過ぎまで念仏
を唱えた。役人たちは騒々しくて一晩中眠れなかったと
いう。
藩では罹災地に対して、周辺の村から食糧などの救援
活動を開始させる。この村では地震と同時に、大きな陥
没があり、その亀裂の中に、二戸一二人の家族が馬もろ
ともに土中に埋没して、周囲一〇〇〇㍍に及ぶ溜池(涌
池)ができる。その後、この水を灌漑用水に用い、約九
㌶の水田を開発した。大地震後住民は不安になりいろ
いろな憶測が飛んだ。滞水は日一日と増水するにつれ、
「山平林村に湛えている水が一杯になると滝をなして流
れ落ち、一年も過ぎれば抜け落ちるであろう。」とか、「せ
き止められた場所が高いので、田野口の方に溢れて、鐙
坂(石川坂)を越えて石川村へ押し出すであろう。」など
の流言が飛び、田野口村の人々も、安全な山へ仮小屋の
準備をしなくてはと、人心の動揺は激しかった。まして、
川中島周辺の人々は、松代側の東山や、岡田山へ避難し
て小屋掛けの生活を始めていた。『虫倉日記』の著者、藩
家老の河原綱徳が、佐久間象山に尋ねたところ、易断に
より「水難は大であるが、決壊して東南に走る。洪水は
大きくて人力では止めることはできない。神明の加護に
より御城地には水難はない。」という予測をした。後にな
ってみると、象山の判断は当たっていたと記している。
嘉永二年(一八四九)正月『諸御願御訴書留日記』(永
井義男家文書)によると、田野口村には小屋掛けの生活
者が一二戸あり、藩から一戸当たり二〇〇文の義援金が
支給されている。