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項目 内容
ID J3300126
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1847/05/08
和暦 弘化四年三月二十四日
綱文 弘化四年三月二十四日(一八四七・五・八)〔北信濃・越後西部〕
書名 〔飯島町誌中巻中世近世編〕○長野県上伊那郡飯島町飯島町誌編纂刊行委員会編H8・2・20 飯島町発行
本文
[未校訂]弘化四年の大地震
弘化四年三月二四日午後一〇時、長
野県北部から新潟県南部にかけて起
こった大地震は、日本地震史の中でも屈指のものである。
現在、震源地は長野付近で、規模はマグニチュード七・
四と推定されている。ちょうど善光寺の御開帳の真っ盛
りで、参詣人が群集していたことが、被害を大きくした。
 この地震で、更級郡の岩倉山が崩れて犀川をせき止め、
上流に湖を出現したため、六〇〇軒余が水没した。四月
一三日午後、この水が一挙に決壊したため、善光寺平一
帯が大洪水に見舞われ、地震に追い打ちをかける惨害と
なった。
 次は、岩間の伊藤安吉の手記である。
弘化四丁未年
善光寺開帳十日(三月)より始まる。二十四日夜五ツ時(午
後八時ごろ)大地しん。二十五日朝七ツ時(午前四時ごろ)
また地しん。同日五ツ時(午前八時ごろ)また地しんゆる。
二十四日夜大地しんにて善光寺平大荒れ。本堂・山門・大
勧進・宝林院・町ともに残らずゆりつぶし、出火になりて
所の者は申すに及ばず、諸国参詣の者数多死にたること
際限無く、人数知らずと申すこと。稲荷山辺、松代山城下
通り損じたることおびただし。丹波川渡より六里上に山
ぬけ、一七ヶ村埋むと言う。四月入口まで、渡舟場所干上
がり白河原と言う咄。余は、委しき手引きを以て聞きたま
うべきものなり。このごろは、当所も折々地しんゆる。
 四月五日まで折々地しんあり、それより少しおだやか
になる。
 田切村の神官の宮沢松至は、御開帳の善光寺参りと併
せて越後路の見物を思い立ち、老母ますと、同村中平の
下平連蔵を同行して、三月一六日に家を出立した。善光
寺に参詣を済ませて、戸隠神社に立ち寄り、越後国の関
川宿で地震に遭遇した。帰途、善光寺の惨状をつぶさに
見て、帰路の難儀に遭いながら、犀川の大洪水の起こる
前の三月二九日に、無事帰宅している。
 「まことに九死に一生を得る思いの旅にて」と、その一
部始終を『善光寺越後紀行 地震見聞記』にまとめてい
る。
本堂の中もさんざん崩れ、しゅミだんも崩れ、本堂の大柱
などもゆるミ、縁側の上に居れば常地震の如くゆらゆら
と動き止まず。何ものか申しけん、
三門の柱に
世の人を集めてころす善光寺三国一の無陀如来也
其処の人、およそ一万五千人死す由。旅人は何万とも数知
れず。誠に天変天災の恐ろしきこと言語にのべ難し。かか
るところへ我等もいかなる因縁にや。目にもろもろの不
浄を見て、鼻を覆う臭さを厭うて、さっさっと走り候……
 前者は、確かな情報を得たとしてその話を載せ、後者
はつぶさにその惨状を見て記録している。
出典 日本の歴史地震資料拾遺 5ノ下
ページ 1024
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 長野
市区町村 飯島【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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