[未校訂]知事服部一三とその史料
―兵庫県公館県政資料館所蔵の服部一三知事関係資料について―
伏谷聡
はじめに
兵庫県公館県政資料館に所蔵してある資料で知事にち
なむものはいくつかある。たとえば、展示室に掲げられ
た伊藤博文の扁額のような書額類がほとんどである。
兵庫県公館県政資料館の資料を利用しようとする方々
からは、館は県の施設なのだから、所蔵資料に県知事関
係史料が含まれていて当然だと思われているようだ。実
際にはそうではないのだが、知事の事蹟や履歴に関係す
る史料の有無を確認する電話で、そういったものはほと
んどない、と返答すると一様にがっかりされた。
ところがそういった状況にもいささか変化があるので
はないかと思わせる史料群が寄贈された。それが服部一
三知事関係資料である。以下、服部一三という人物や時
代を紹介しつつ、この史料群の紹介をしよう。
なお、本稿は本年度県史セミナーとして講演した内容
をもとに、改訂し構成を変えて原稿化したものである。
1 服部一三知事関係資料
平成十九年(二〇〇七)一月、第十三代兵庫県知事(明
治三十三年〈一九〇〇〉から大正五年〈一九一六〉)であ
った服部一三の御子孫より、兵庫県公館県政資料館へ御
所蔵の史料を寄付する申し出があった。いただいた史料
群は服部一三銅像一躯・書画軸七点・画冊二点・刊行物
七点・写真三五点・書簡類三三六点、あわせて三八八点
である。
そもそも、服部家は先代が知事であった縁から、昭和
四十一年(一九六六)に県史編集室が『兵庫県百年史』
を編纂するさい、資料提供の面で御協力をいただいた。
県政資料館で収蔵する県史関係の史料のうちに、提供史
料の複写物が残されている。御寄贈いただいた史料には、
そのとき収集した複写史料の原物が含まれているのでは
ないかと期待されていた。しかし、そうした史料はほと
んど見られなかった。現在とは史料の現状が変化したこ
とが惜しまれる。
銅像(写真2)は高さ八五センチメートル、胸部周囲
六五センチメートルで、フロツクコート姿で右手を腰に
あて左手は書を持つ姿形である。写真は、写真帳で表紙
が外れている状態のもの三冊分とバラの写真が二五点
で、写真枚数にして三一五枚ほどあった。これらの一部
は『兵庫県百年史』に利用された。うち、服部知事時代
の知事官舎、大倉山公園にかつてあった伊藤博文像の除
幕式の写真があり、服部知事時代の兵庫県が撮影されて
いて興味深いものである。書簡類等については後述する。
2 誕生・留学・文部省入省
服部一三の生い立ちについては『服部一三景翁伝(1)』(以
下『景翁伝』と略す)に拠って説明する。
服部一三は嘉永四年(一八五一)、長州藩槍術指南役渡
辺兵蔵の三男として山口県吉敷郡吉敷村に生まれた。吉
敷村は県庁所在地山口の近郊で、湯田温泉のすぐそばで
ある。一三は幼名を猪三郎といい、元服の頃に愷輔、の
ちに一三に改めた。
一三が七歳のころ、安政四年(一八五七)に郷校憲章
館に入学した。このときの学頭は片山哲次郎こと[名和緩|な わゆるむ]
で、この縁により(慶応元年〈一八六
五〉ごろ)哲次郎の養子となり、哲二
郎が生家服部家の名を継ぐ際、一三も
同時に服部を名乗るようになった(哲
二郎はこののちさらに改名し、名和緩
と名乗る)。
ちなみに兵庫県知事を務めた内海忠
勝は、本資料群中に名のあがる人物で
あるが、同郷でしかも同門である。服部一三の生誕した
年に内海が入学した。
学頭の片山哲二郎は文久二年(一八六二)に、尊皇攘
夷運動のグループ良城隊を組織し活躍した。一三ら少年
たちもこうした運動に刺激されて村に世忠団を組織し
た。
慶応元年には長州藩遊撃隊に入隊した。ここで、開国
論に接し英語の習得と留学の必要を感じたようで、慶応
三年(一八六七)の春、英国留学する長州藩士河瀬真孝
の長崎随従を許可された。一三はここ長崎で洋学修業を
始める。彼はのち英国総領事となるイギリス人のロバー
トソン、おなじくのち領事となるアストンの二名に師事
した。また大隈重信の致遠館で大隈やフルベッキ(2)にも学
んだ。長崎では伊藤博文や井上馨の居宅で生活し、渡航
の機会を窺っていた。じつはこのとき、長崎にいた岩倉
写真1 服部一三
写真2 服部一三の銅像
表1 服部一三履歴
年月日
嘉永4年2月11日
慶応元年ころ
明治2年
明治4年6月
明治8年6月
明治8年9月2日
明治10年9月8日
明治13年
明治13年4月23日
明治13年6月2日
明治13年6月4日
明治14年7月14日
明治15年2月15日
明治17年10月25日
明治18年2月28日
明治18年7月11日
明治19年1月8日
明治19年1月21日
明治19年3月3日
明溶19年6月1日
明治19年9月27日
明治19年11月24日
明治21年2月6日
明治21年2月24日
明治21年6月25日
明治21年7月3日
明治22年3月9日
明治22年4月20日
明沽22年10月2日
明治22年12月11日
明治23年6月10日
明治23年9月10日
明治24年4月24日
明治31年7月28日
明治31年12月28日
明治33年10月25日
明治36年
大正5年4月28日
大正8年4月
大正8年11月
昭和元年
昭和4年1月25日
西暦
1851
1865
1869
1871
1875
1875
1877
1880
1880
1880
1880
1881
1882
1884
1885
1885
1886
1886
1886
1886
1886
1886
1888
1888
1888
1888
1889
1889
1889
1889
1890
1890
1891
1898
1898
1900
1903
1916
1919
1919
1926
1929
事項
山口県吉敷郡吉敷村 渡辺兵蔵三男 猪三郎として生まれる
郷校憲章館学頭で恩師の服部(片山)哲二郎の養子となり養家継承
服部一三の留学
ニュージャージー州ニューブランズウィツク予備学校卒業
ラトガースカレツジ理学部バチュラー・オブ・サイエンス取得帰国
文部省督学局雇
東京大学法学部、文部省綜理補兼任
日本地震学会初代会長に就任
東京大学法・理・文各学部綜理補、同予備門主幹を兼務
文部省少書記官
東京大学法・理・文各学部綜理
東京大学法学部長兼務同予備門長
東京大学幹事
農商務省御用掛 ニューオルリンズ万国工業博覧会開設につき
事務官として派遣
ニューオルリンズ博覧会終了後学事取調のため3ヶ月米国滞在
米国を出発しヨーロツパに向かう
ヨーロッパ経由で帰国
小学校条例取調委員
文部省書記官
文部省参事宮兼任
文部省参事官兼文部省書記官
教科図書検定主幹
明治22年開催パリ万国大博覧会出品調査委員
尋常師範学校・尋常中学校・高等女学校教員検定委員
東京職工学校組織取調委員
東京職工学校委員
尋常師範学校・尋常中学校・高等女学校教員検定委員
文部省普通学務局長
第3回内国勧業博覧会出品取調委員
第3回内国勧業博覧会審査官
東京高等工業学校商議委員
東京盲啞学校長事務取扱
岩手県知事
広島県知事
長崎県知事
兵庫県知事
貴族院議員
知事辞任
万国議員商議員としてベルギーへ出張
神戸商工会議所内に国際連盟神戸支部開設、支部長となる
国本社神戸支部長となる
病没
具視の二人の息子具定・具経もフルベッキのもとで勉学
に励んでいた。
さて、明治初年の明治政府部内では、有為の青年は身
分を問わず留学させるべき意向があったようで(3)、岩倉具
視の二人の息子も明治二年(一八六九)末にこの方針に
より米国ニューブランズウィックへの官費留学が決定す
る。この二人とともに青年三人が推薦されたが、この中
の一人が服部一三であった。
一三は明治四年(一八七一)六月、ニューブランズウ
ィック予備学校を卒業、明治八年(一八七五)六月にラ
トガースカレッジ理学部でバチュラー・オブ・サイエン
スの学位を取得した。
ところで、養父名和緩は、服部が留学した翌年、明治
三年(一八七〇)十二月に米国在勤少弁務使として赴任
する森有礼の随行員として選ばれた。これ以前、明治元
年に京都の岩倉具視邸に身を寄せ、岩倉はじめ木戸孝允
とも知り合っていた。翌年八月に新潟県大参事の職を得
て赴任するが、十月に辞職する。そして明治三年にいた
りアメリカにわたり、ボストンにて独習で勉学に励むこ
とになる。
名和も一三もともに岩倉具視のコネクションで渡航先
に行っている点が注目される。留学といっても海外渡航
の手段はまだ船便に限られており、両名の渡航のしかた
からみて、当時独力で船旅をするのは、手続き上も経済
的にもかなり困難があったのであろう。
名和はその温厚な人柄から、留学中の青年達で慕うも
のがいた。団琢磨もそうした若者で、彼の伝記中に名和
に芝居見物をせがんだエピソードが紹介されている(4)。し
かし、その名和は、一三がまだ留学中の明治六年(一八
七三)十二月十七日に客死してしまう。史料の中にボス
トンの墓地にある、名和緩の墓を撮影した写真が残され
ていた(5)。
なお、一三の子息、服部兵次郎はその随想記中、父一
三が米国留学中の明治四年(一八七一)二月二十六日に、
渡米した名和緩がニューヨークに来ることを知り、会い
に行った日記があることを記している(6)。『景翁伝』でも留
学期間中の日記が存在していたことに触れられている
が、史料群のなかには見当たらなかった。資料群の写真
には洋装の一三と名和緩が一緒に写っている写真があっ
た。キャプションに「米国にて」とあることから、服部
兵次郎の記述が全く根拠のないものではないことがうか
がわれる(写真3)。
一三は学位取得後すぐ帰国し、九月に文部省督学局に
奉職し、以後県知事を歴任する明治二十三年(一八九〇)
まで同省に勤務した。文部省では明治十年(一八七七)
四月に東京大学法学部綜理補をはじめ、教育関係の重職
に就いた。右をはじめとして、学校関係の諸委員に任命
されており、教育現場に関わる仕事を主にしていたこと
がわかる。
文部省時代に特徴的なできごとが二点ある。一つは明
治十三年(一八八〇)日本地震学会の創設に伴い初代会
長に就いたことだ。意外に思われるかもしれないが、当
時東京大学の地震学研究室に掲げられていた中国は漢時
代に作られた張衡の侯風地動儀の図という、地震学史の
参考資料を一三が作らせて寄贈した絵があった。一三は
地震学に関心を寄せていたようで、これが機縁となって
会長に推薦された(7)。
もう一つは、文部省に奉職していながら産業関係の職
務を命ぜられていたことだ。中でも明治十七年(一八八
四)アメリカニューオルリンズで開催された万国工業博
覧会に派遣された。じつはこの博覧会期間中にラフカデ
ィオ・ハーン(小泉八雲)に初めて逢うことになるので
ある(8)。右派遣をはじめ、産業関係の委員を度々引き受け
ている。こうした経験はおそらく、知事時代の一三が行
う地方産業の政策に生かされていったことだろう。
3 知事時代・退官~死去
一三は明治二十四年(一八九一)四月二十四日に岩手
県知事を拝命する。当時の知事は官選であったため、官
僚から知事へ、知事からまた官僚へというコースはめず
らしくない。その後、明治三十一年(一八九八)七月二
十八日に広島県知事、同年十二月二十八日に長崎県知事
を歴任し、明治三十三年(一九〇〇)十月二十五日に兵
庫県知事となる。
兵庫県知事の場合、文部省出身者は珍しい。一三以降
の知事は内務省出身者で占められるから、服部一三が藩
閥出身知事が多かった時代の最後の世代ということがで
きる。
このころ政治面では、明治七年(一八七四)の民選議
院設立建白運動をきっかけにして自由民権運動という民
主化運動が始まった。不平士族や農民を巻き込みながら
成長し、明治十年代後半には各地で激化した。政府もこ
写真3 アメリカで撮影された
服部一三(後列左)と
養父名和緩(前列左)
の鎮圧に乗り出し、また保安条例により首都から運動家
を追放した。このようなことから、民権運動は地方で深
まりを見せるようになる。兵庫県もこの影響を受けた。
兵庫の近代史によく引用される新聞「神戸又新日報」は、
もとも淡路の五州社という民権運動の一派(改進党系)
の人々が作った。
明治二十二年(一八八九)二月に帝国憲法が発布され、
翌二十三年(一八九〇)七月に第一回衆議院議員選挙が
行われ、日本における議会政治が本格的に始まる。県会
でも徐々に政党所属の議員によって運営されるようにな
る。
また、産業の面で日本は「富国強兵」「殖産興業」を掲
げ、とくに工業の分野で官主導の産業強化策が行われる。
近代初期の兵庫県では、在来産業の把握と同時に兵庫製
作所などの官営工場が開かれる。一方、マッチ工業と紡
績業を中心に阪神地区に新たな産業が創造される。電
信・鉄道・ガス灯などのいわゆるインフラは明治初期よ
り引かれていた。神戸の工業は、明治二十一年(一八八
八)九月に電灯が導入されたころから、造船・鉄工など
の重工業化が図られるようになった。現在にも引き継が
れている有名企業の工場がつぎつぎと設立された。
政治や産業が成長してゆくとともに、近代化における
社会のゆがみも問題となってきた。明治二十三年(一八
九〇)に最初の恐慌がおこり、江戸時代以来の職人が賃
労働者となり、労働者階層がいっそう拡大した。こうな
ると労働者の労働条件や環境が問題視されるようにな
り、低賃金・長時間労働・婦女子使役などの労働問題が
クローズアップされるようになった。こうして労働者が
生活改善などの要求をする労働運動が明治四十年代から
増加するようになった。労働運動は、兵庫県の場合、社
会主義思想などの影響から激化して大正期に三菱の大争
議事件などへ発展するコースと、またキリスト教的社会
主義による慈善事業的な労働者の救済・相互扶助をテー
マに据えた賀川豊彦らの活動により、神戸購買組合創設
(コープ神戸の前身 大正十年〈一九二一〉創設)など
に向かうコースの二つの場合があった。
以上が一三が兵庫県知事だったころの兵庫県の状況で
ある。
このころの県が行った事業で産業政策にしろ土木事業
にしろ、すでに明治二十年代ごろから始まったものが多
い。ただ、一三の伝記では、彼が文部官僚時代に農商務
省の仕事にも関与したことで実施したと考えられる産業
政策と教育事業について紹介している。
産業政策では農業に力をいれており、東播五郡の土木
事業を実施したが、これも目的は農業用の治水政策であ
った。
教育事業では文部省時代に教育行政に携わった立場か
ら、いくつかの県立校設立を果たしている。
こののち大正五年(一九一六)四月二十八日に兵庫県
を退官した。
退官後、一三は貴族院議員として活動する。なかでも
国民精神の発揚に尽力し、昭和元年(一九二六)には平
沼騏一郎が会長となっていた国本社の神戸支部長に就任
する。国本社は大正十三年(一九二四)に設立された団
体で、構成員のうち半数を軍人、官僚で占めたという。
また、発行紙「国本」は反共・反デモクラシー・反既成
政党を主張する論説や国粋主義的な論文を掲載した。た
だ、服部一三が退官後になおこうした運動に身を置こう
と考えることは、意外かもしれない。しかし、一三のよ
うに、これから近代国家を作り上げようと言う時期に、
政府や地方で活躍した官僚が、なお政府を、国家を応援
したい、と願うのは自然なことであったのであろう。
こうして昭和四年(一九二九)一月二十五日に服部一
三は七十九歳の生涯を終えた。
4 史料
史料群の大半を占めるのは書簡で、明治初期から昭和
初期までが見受けられた。内容と封筒はほぼ一致してい
るようだ。
史料群の書簡は封筒付で年紀のない事が多く、知事あ
て、または知事官舎あてとなっているものがほとんどで
ある。消印が鮮明なのが幸いで、年紀の推定に大いに役
に立った。知事時代は明治二十四年(一八九一)以降で
表2 服部知事時代のおもな県政・県史
年月日
明治33年10月
明治34年4月
明治34年6月
明治34年8月
明治35年5月24日
明治36年3月
明治36年6月
明治37年4月
明治43年4月
明治44年4月
大正2年1月
大正4年3月
大正5年4月
事項
服部一三知事就任
兵庫県立高等女学校開設
県農会設立
兵庫県第二師範学校開校
兵庫県第一師範学校を兵庫県御影師範学校、第二
師範学校を兵庫県姫路師範学校と改称
4代目新県庁舎竣工
県耕地整理組合期成会発会
官立神戸高等商業学校開校
兵庫県明石女子師範学校開校
兵庫県立工業学校開校
県立姫路高等女学校開設
神戸市立図書館設立
神戸で憲政擁護大会
山田川疎水竣工
清野長太郎、知事に就任
ある。消印の年月日表記は「25
(年)―10(月)―23(日)」のよ
うに書いてある。年の部分が
24以上であれば「明治」で、
宛先が知事名あてで、一桁の
数字であれば大正というよう
に、消印だけでも年号の推定
がかなり的確にできるのだ
(表3)。
以下、特色のある史料を時
代、内容にしたがって紹介し
たい。
① 留学時代
本時期の特徴のある史料
は、一三の養父名和緩が出し
た書状である。名和緩関係の史料は、明治六年(一八七
三)の名和の死亡までと限られるので、史料に年紀がな
くとも当該時期と判別できる。
名和の書状(9)から、米国派遣時の上司森有礼が信仰した
キリスト教系のいわゆる新興宗教の影響を受けていたこ
とがわかる。この宗教はトマス・レイク・ハリスが設立
した「新生兄弟会」で会の場所はニューヨーク近郊にあ
った。この会は森有礼をはじめ多数の日本人留学生に影
響を与えたことで知られている。名和の書状にも、創設
者「ハリス」の名や、会の農場があった「ブロクトン」
という地名が散見された。会は神秘主義的なキリスト教
の一派で、また日々の激しい労働奉仕を義務づけており、
ブロクトンはその実践場所であった。書状中にはもらっ
た日本の植物の栽培を試験的にブロクトンで行う旨の記
述がある。
名和は渡米直後に森に連れられブロクトンへ行ってい
る。森の目的が勧誘にあったかどうかは分からない。
②文部省時代
この時期の史料はほとんどないが、妻鈴子あての書状
が注目される。
前述の如く、明治十七年(一八八四)にアメリカのニ
ューオルリンズで万国工業博覧会が開催された。そこで
好評だった日本館の評判について書き送っている(10)。また、
一三は博覧会後に、派遣されたアメリカではなくヨーロ
ッパに留学する。書状によれば、アメリカ大統領交代の
時期でアメリカ側の官吏が親身に相談に乗ってくれない
こと、師事すべき人物のいないことからヨーロッパ留学
に希望変更したい旨が記された。
一三はこの留学でドイツに行き、政治学が有益であっ
た感想を述べている(『景翁伝』)。明治政府が政治諸制度
のモデルをドイツに変えて行こうとしている時期であ
表3 時期別に見た年紀のわかる史料の数
時期
留学時代
文部省時代
知事時代(兵庫県赴任以前)
兵庫県知事時代
晩年
史料数
13
8
42
110
37
備考
うち名和関係11
り、人気の留学先も英米からドイツに変わっている。一
三の留学もこうした事情に影響されている。
③ 知事時代(兵庫県赴任以前)
同郷の長州藩士内海忠勝より情報を得ている書状が興
味深い。内海は一三と同郷のよしみということもあり、
詳細な情報が一三にもたらされている。たとえば、明治
二十五年(一八九二)、第一次松方正義内閣から第二次伊
藤博文内閣に交替す
る時期の政治状況に
ついて、神奈川県知
事であった内海忠勝
が一三に書き送った
書状がある(11)。当時成
長著しい政党の動き
も含め、複雑で流動
的な政局に内海自
身、危機感を抱いて
いる様子が述べられ
ている。
また別史料で内海
は同藩出身の伊藤博
文や山県有朋などの
「維新の元勲」たち
を「黒幕」と表現しており、当時の政治状況に関する見
方の一端が伺われ興味深い。
このほか他府県知事よりの書簡もある。戦前の知事は
官選知事なので官僚の性格が強く、知事同士の情報交換
も現在よりも気軽なものであったようだ。書簡の中には
更迭人事の受け皿として他府県に受け入れを要請する史
料もあった。
④ 兵庫県知事時代
県政に関わる史料はほとんどないが、兵庫県や神戸市
にとって重要な神戸築港の史料がある(12)。
神戸港の築港は明治二十九年(一八九六)五月に神戸
市会の建議により神戸築港が検討され始めた。修築案件
は大阪港と競合し、再度の上申によっても政府から計画
の承認が得られないなど、紆余曲折を経て許可された。
明治四十年(一九〇七)にやっと第一期工事(~大正十
一年(一九二二))が着工する。
この際、明治三十八年(一九〇五)十一月に三十九年
度の政府予算概算が閣議決定されたが、この決定のうち
に神戸港築港案件が含まれていた。神戸港の築港工事が
内閣に承認を得たことを当時大蔵次官であった阪谷芳郎
が右の件を内々に服部一三に知らせた書状がある。
このほか、この時期には国政に関する史料がわずかに
見られた。一三は国政に関して意見することにも躊躇な
写真4 内海忠勝書状
い性格であった
ことが『景翁伝』
に触れられてい
る。
明治四十五年
(=大正元年
一九一二)、明治
天皇の大喪費を
捻出するため政
府予算の節減が
企画された。陸
軍は節減案を了
承するかわり
に、朝鮮に二個師団増設をするよう要求した。陸軍の態
度は強硬で内閣と対立して譲らず、結局西園寺内閣が総
辞職することになった。これがいわゆる師団増設問題で
軍部暴走の先がけ的な事件と評されている。一三はこう
した問題に対して反対の立場を取り、西園寺の仇敵とも
いうべき桂太郎に西園寺支持を促す電報を打とうとし
た(13)。
⑤ 知事退任後・その他
大正五年(一九一六)に一三は兵庫県知事を辞任する。
史料には辞表の写しがある(14)。病気や一身上の理由ではな
く、「後進に道を譲る」気持ちから職を辞すると述べてい
る。
知事退任後は貴族院議員として、ベルギー視察などで
活動した。また、国民精神運動の団体であった国本社と
いうグループの支部長として活躍したが、史料にもその
設立のさいに発会式を行ったときの出欠を連絡する書状
が残されていた(15)。
このほか、美術関係の史料として一三の書と妻鈴子の
絵がある(16)。
『景翁伝』によると一三は一万枚におよぶ浮世絵コレ
クターとして知られていた。その端緒は明治二十三年(一八九〇)開催のパリ万国博覧会に展示された浮世絵を見
てかららしい。所蔵の浮世絵は東京帝室博物館(現在の
東京国立博物館)に保存されたという。一三の美術品収
集は浮世絵だけではなく、近世絵画にも及んでいた(17)。こ
のようなコレクションは京都でも噂になっていたよう
で、とくに京都の女流画家が絵を見に服部邸に来訪した。
史料では上村松園や伊藤小坡の弟子たちの訪問をうけて
いる(18)。
これら女流画家の縁は、鈴子が日本画をたしなんでい
たことにも理由があると思われる。たとえば妻鈴子の墨
絵の師匠は跡見玉枝といい、東京にある跡見学園の創設
者跡見花蹊のいとこで、桜の描き手として有名だった。
写真5 神戸築港工事
このような師弟関係などから交際がひろがったことを推
察するのである。
また史料群には知事の履歴に関係する写真および写真
帳が残されている。これら写真はほとんどが兵庫県知事
就任以降と推測される。なかでも兵庫築港工事の写真を
はじめ、本史料群から『兵庫県百年史』に使用された写
真がすべてあったことは幸いであった。
写真にはこのほか、神戸市の大倉山公園開園のさい同
時に開催された伊藤博文像除幕式や、ドイツ人医師で北
里柴三郎の師匠コッホの来神時(明治四十一年〈一九〇
八〉)の集合写真などが収められた。
最後に銅像について述べておく。そもそも戦前に一三
の死後昭和十六年(一九四一)に顕彰会が中心となって
『景翁伝』の刊行と銅像の製作が行われた。鋳造は富山
県高岡市の鋳物会社に依頼した。『景翁伝』によれば、折
悪しく戦時中のこととて設置場所に困り、県や神戸市に
かけあったものの色よい返事がない。遺族も困り果て、
結局政府に献納、つまり供出してしまったという。史料
群に写真が残っており、『景翁伝』にも同じ写真が載せら
れている。県政資料館の像と比較しても同じサイズ・ポ
ーズではないため、別像であることがわかる。本像に関
しては製作の経緯が不明で、御子孫の伝聞としても残っ
ていないようだ。
おわりに
以上のように戦前の県政がもっとも成熟した時期に県
知事となった服部一三はその資料にも彼の人生の一部が
反映されている。書簡が多く、読みにくい字も多い、と
いうハンデ(?)があるものの、ひとたび史料の背景や
記されていることを読み解いていくと、なかなか奥深い
史料が多かった。
事件などを探るにはあまりに断片的な史料であるとい
う欠点はあるが、他の史料や参考書などと結びつける事
によって、謎解きができるという楽しみもあった。
本史料が近代の県政や国政の参考としてより活用され
ることを願ってやまない。
写真6 上村松園のはがき
注
(1) 昭和十八年(一九四三)
(2) 一八三〇~一八九八 アメリカの宣教師。オランダ
生まれ。安政六年(一八五九)布教のため来日。長崎奉
行支配の済美館、佐賀藩の到遠館で長崎の留学生の指
導にあたる。明治二年(一八六九)大学南校頭取、明治
政府の外交・教育・法律制度顧問。明治十九年(一八八
五)明治学院神学部教授、のち理事長。日本にて六十八
歳で死亡。
(3) 岩倉具忠『岩倉具視―『国家』と『家族』―』 二〇
〇六年 財団法人国際高等研究所刊
(4) 『男爵団琢磨伝』 昭和十二年(一九三七)
(5) 服部一三知事関係資料 史料三一
(6) 服部兵次郎『炉辺夜話』 昭和五十年(一九七五) 一
二四頁
(7) 『服部一三景翁伝』
(8) ハーンの就職を服部一三が世話したという説があ
る。たしかに面識があるし、就職斡旋の話をしているこ
とはハーンの自伝などにも述べられている。しかし、今
回事実としては確かめられなかった。
(9) 服部一三知事関係資料 史料九四・九六
(10) 服部一三知事関係資料 史料二八九
(11) 服部一三知事関係資料 史料七一
(12) 服部一三知事関係資料 史料二九
(13) 服部一三知事関係資料 史料一三五
(14) 服部一三知事関係資料 史料五
(15) 服部一三知事関係資料 史料二七二
(16) 服部一三知事関係資料 史料三四七~三四八、三五
一~三五四
(17) 服部一三知事関係資料 史料一四八 円山応挙や酒
井抱一など著名絵師の作を所蔵していたことが史料で
確認できた。
(18) 服部一三知事関係資料 史料二五五・二七三
(同志社大学非常勤講師・県政資料館嘱託職員)
付録二