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項目 内容
ID J3200888
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1853/03/11
和暦 嘉永六年二月二日
綱文 嘉永六年二月二日(一八五三・三・一一)〔小田原附近〕
書名 〔南足柄市史6通史編Ⅰ自然・原始・古代中世・近世〕H11・3・31南足柄市編・発行
本文
[未校訂]嘉永の地震
幕末期の小田原藩領は、地震をはじめと
して、洪水、流行病の天災に毎年のよう
に襲われた。このため人びとの生活は幕府・藩からの支
配とともに、災害によっても大きく規制されたのである。
この節では幕末期、市域の村むらを襲った天災と、被災
した人びとの対応について時代を追って述べて行きた
い。
 ペリー浦賀来航の四か月前、嘉永六年(一八五三)二
月二日昼四つ時(午前一〇時)すぎ、小田原地方はマグ
ニチュード七の地震に襲われた。石橋克彦『大地動乱の
時代』によれば、この地震は一〇分か一五分の間に二度
大地震があったらしく、震災がひどかったのは足柄平野
西縁の村むら(大雄山線に沿った地域)と平野の北東側
(大井町付近)で、推定震度は六から七であり、藩内の
被害は百姓家の全壊八四二軒、半壊一四〇五軒、破損一
二〇〇軒以上で、死者は幕府に届けられた数は二四人だ
けとしている。
市内の被害
さて、当市域は実際にはどの程度の被害
をうけたのだろうか。現在では残念なが
ら市域全体の被害状況は明らかにできていないが、部分
的な被害の様子は、史料の残存する市内旧各村や組合村
(近世後期、小田原藩が支配体制強化のため編成した、
数か村から十数か村を単位とした組織)の記録から知れ
る。では史料に沿って具体的に見てみよう。
 まず人的被害であるが、「御手元金被下置並無利息拾
ヶ年賦拝借金割渡帳」(中沼 杉本晃蔵)に、藩から中沼
村組合(中沼・狩野・飯沢・猿山・雨坪・福泉・弘西寺・
関本の各村)の即死一人につき一両の見舞金が支給され
たことが記載されている。これにより、震災による即死
者数が中沼村、狩野村、飯沢村、関本村に各一名ずつ、
計四人いたことが知られる。これにはけが等により、し
ばらくして死亡した人数は記載されていないので、実際
の死者数はこれよりも多いと思われる。
 中沼村では幕末期、名主の杉本田造(先代田造の実弟
で養子となる。名主見習い時は市兵衛を名乗る)が「大
地震風雨洪水飢饉弐病難等記録」と表題のついた長文の
書き置きを残している(以後「記録帳」と表記、『史談足
柄』第24・25集、原文書は現在行方不明)。嘉永地震の様
子については、二月二日の四つ時におこり、小田原城下
では上幸田、下幸田、丸の内、山角町が、村方では岩原、
塚原、中沼、狩野、関本、壗下、竹松、和田河原、曽我
(小田原市)の被害がもっともひどかった。次に駒形新
宿、炭焼所(生駒)、飯沢、猿山(広町)、怒田、宮台(開
成町)、牛島(同前)、吉田島(同前)、曽比(小田原市)
の被害程度が高く、そのほかの村むらはこれらの町・村
に比すると軽微な損害ですんだという。中沼村では余震
が一四、五日間あり、三六軒が全壊し、九軒が半壊、久
兵衛の女房が死亡したと記録されている。不幸中の幸い
として、地震に襲われた時刻が、昼食の準備にとりかか
る前であったので出火はなかったという。
 また同村には、震災後直ちに藩に提出された被害状況
報告の下書きも残っている(「地震破損村中内見分付立
帳」中沼 杉本晃蔵)。この報告書は、「記録帳」をまと
めた田造の先代の名主田造の手によってまとめられたも
のと思われる、藩への報告書の控書である。その内容を
表7―2にまとめたが、村内五一軒(隠居分など六軒を
含む)のうちすべての家が何らかの被害をうけている。
さらに、「報徳水車」と呼ばれた水車も破損し、田畑の境
の「まま」や、狩川の堤防・出し・水門も崩れてしまっ
ている。人的被害については杉本田造の「記録帳」と同
じく久兵衛の女房が即死し、喜右衛門とその女房、茂右
衛門女房、只八女房、多左右衛門娘の五人がけがをした
ことを報告している。また田造家では、甲州道沿いの村
内字押切で文政二年(一八一九)から質屋を営み、嘉永
二年(一八四九)一〇月から醬油醸造業を始めたが、こ
の地震により蔵が潰れ、他の建物は大破してしまい、商
売にさしつかえるほどの被害を受けた(『市史』2No.162)。
 班目村では、全村六五軒のうち珠明寺を入れた二三軒
の家で何らかの家屋の被害があった(『市史』3No.95)。
その内訳は表7―3に示した。ほかに村内にあった藩の
籾蔵が一棟潰れ、文命宮(現福沢神社)が半壊し、文命
東堤碑が倒れ、穴水門や二の水門も一部が崩れている。
特に二の水門は取水口や、大口堤をくりぬいた隧道部分
が破損している(『市史』3No.115)。班目村の南隣の千津
島村では、全戸数七一軒のうち、五軒が潰れているが、
東隣の岡野村(開成町)では潰れた家は一軒もない(『市
史』3No.99)。しかし、班目村や千津島村、岡野村の人的
被害についてこれら史料中に記載がないためわからな
い。
 そのほか、前出の「記録帳」によれば、塚原村の山下
では崖崩れがおき、狩川の支流の[浮気|ふけ]川・泉川をふさい
だため・狩野村分の田へ水が流れ込んでしまったこと。
この崖崩れに塚原村山崎の三郎右衛門がまきこまれた
が、首から上が出たので一命をとりとめたこと。三郎右
衛門はけがを治すために、湯河原に湯治に出かけたこと。
中沼村近村の死者数は塚原村八人、狩野村四人、和田河
原村三人、飯沢村では崖崩れで、男性が一人生き埋めに
なり、狩野村では馬が同様になったこと、が記載されて
いる。
 弘西寺村では・地震に襲われた年の一一月に田畑の地
表7-2 嘉永地震中沼村の建物被害状況
皆潰れ
九分潰れ
八分潰れ
五分潰れ
三分潰れ
二分潰れ
大いたみ
いたみ
破損少々
無難
合計
本家
20軒

10軒
10軒
3軒
3軒
4軒
1軒


51軒
灰家
17軒


8軒





18軒
43軒
馬家
7軒

5軒

1軒



13軒
26軒
物置
3軒


1軒



1軒

3軒
8軒
土蔵
4軒


2軒


1軒



7軒
酒造蔵
1軒









1軒
籾蔵









1軒
1軒
水車






1軒

1軒
「地震破損村中内見分付立帳」(中沼 杉本晃蔵)より作成。
震被害復旧計画書が書き上げられている(『市史』3
No.100)。被害のほとんどが「まま崩れ」や、「地割れ」で
あると考えられる。そのため水を張る必要のある田の被
害面積が大きいが復旧の見込みについては、田は三年以
内であるのに対し畑はほとんどが五年となっている。米
の生産が第一とされていた時代なので、当然田の復旧を
優先させたのである。しかし当分の間耕作放棄や、畑と
なったり用水路用地となったりした田もあった。
復興に向けて
さて震災後の三月六日、藩主大久保[忠愨|ただなお]
から次のような告諭書が出されている。
 「村役人たちへ。先の大地震で
は、多数の家々が損害を受け、
人馬の死やけがが多かったこと
について、何とも嘆かわしいこ
とである。とくに潰家や田畑の
被害が多かった村は、ひとかた
ならぬ難儀のことと深く感じて
いる。この上は村民一同で力を
合わせ、お互いに助け合い、こ
の地の農業に励み、心をおちつ
けてゆくことを第一にするこ
と。以上のことを名主が、村の
百姓たちに読み聞かせよ。」(「心
覚」中沼 杉本晃蔵を要約)と
いうものである。
 また農民たちからも藩へ要求
が出されている。和田河原村組
合では、地震発生から一〇日近
表7-3 嘉永地震班目村の被害状況
本宅
厩(うまや)
灰小屋
鍛冶屋小屋
皆潰れ(全壊)
5軒
角右衛門後家
助右衛門
作兵衛
杢右衛門
長左衛門
3軒
杢右衛門
源左衛門
伊兵衛
7軒
助右衛門
弥次右衛門
五兵衛
利兵衛
忠五郎
九左衛門
珠明寺
1軒
角右衛門後家
半壊
1軒
九左衛門
破損
10軒
小八
新左衛門
五兵衛
忠兵衛
太治右衛門
六左衛門
九左衛門
用左衛門
仁兵衛
玄都
『市史』3No.95 より作成。
くたっても藩の役人が震災状況を調査に来ないので藩へ
見分願いと救援金の嘆願をしている(『市史』3No.96)。
この文書の中で組合村の代表は藩にたいして、早急に検
分に来ていただけないならば、村民たちが騒ぎだし、収
拾がつかなくなると言い切っている。このような嘆願が
功を奏したのか、震災の翌月、さっそく和田河原村組合
を含めた一二か村へ、藩から一〇両の貸付が[地方|じかた]代官黒
柳九兵衛により行われている(『市史』3No.97)。この貸
付の性格ははっきりとわからないが、緊急避難的な当座
の貸付であると思われる。
 中沼村組合では三月二一日付で藩から、九両二分余り
の下賜金と、一〇年無利息で三二七両の貸付が行われ、
早速各村へ分配が行われている。また中沼村へは、殿様
御手許金一両銭五〇〇文が下賜され、さらに天保八年(一
八三七)に殿様御仁恵金として頂戴した五両を加えた合
計六両銭五〇〇文を、村方軒数四五軒で割って配布して
いる(「大地震ニ付殿様御手本金梅干被下小前頂戴控」中
沼 杉本晃蔵)。
 壗下村では家作料として藩から一二〇両、幕府から三
一両が、村内の三二軒へ、家の規模に照らし合わせて無
利子で貸付られている(『市史』3No.98)。ここでは名主
の与惣右衛門の一五両がぬきんでており、以下六両貸付
の一〇人がもっとも多く、二両以下が八人いる。返済は
翌年の嘉永七年から一〇年間で行う計画で、それぞれの
家が毎年いくら返済するかその額が明示されている。
 このほかに藩から救援の目的であろうか、中沼組合へ
梅干六樽、千津島村と岡野村(開成町)へあわせて一樽
が下賜されている。一樽にはおおよそ一三〇〇粒前後入
っていたようだ。中沼村では人数割りで一人に六粒ずつ、
千津島村・岡野村では家割で地震で潰れた家に二五粒、
そのほかの家には一三粒ずつ配られた(「大地震ニ付殿様
御手本金梅干被下小前頂戴控」中沼 杉本晃蔵、『市史』
3No.99)。この配布は被災した小田原藩領すべてに行き届
いたかどうかはわからないが、かなり広範囲で行われた
と思われる。
復興に活躍する人たち
大きな震災被害を受けた中沼村におい
て、名主の田造父子の行動は目を見張る
ものがあった。父子は村の指導者として村民の先頭に立
ち、復興に取り組んだのである。とくに、父の田造は二
宮尊徳と親交のあった、熱心な報徳仕法の指導者であり、
その教えの体現に努め、震災復興に大いに活躍した。
 まず、嘉永二年(一八四九)に新築したばかりで被災
した名主本宅はさておき、村内の潰れた家に、自己所有
林の木材を切り出して建築をすすめたり、最乗寺領山林
の材木を柱材として購入したりした。さらに沼津や伊豆、
藤沢、遠くは江戸から職人を雇い、大破の家の修理を行
った。被災しなかった村内の籾蔵を職人たちの宿にして、
大急ぎで家の普請をした結果、他村よりも早く、九月下
旬までに大半の家の新築がなった。また震災後すぐの春
先の[夫食|ふじき]の手配をしたり、夫銭や助郷勘定にも差配をふ
るい、このおかげで中沼村は震災の年でも盆祭りを行う
ことができたという(「記録帳」)。
 このほか組合村で積み立ててあったと思われる非常時
備蓄金八五〇両のうち、三五〇両を困窮人への拠出金と
することを決めている。以上のような献身的な働きが藩
に認められ、彼には「杉本」の名字使用差し許し等の免
状が震災の翌年、嘉永七年一一月に下賜された(『市史』
2No.161)。また破損した本宅よりも、潰れた醬油蔵と穀物
蔵の建築を優先させ、両方とも震災の年の一一月には修
復を完了させている。あとまわしにした本宅の修復はよ
うやく翌年の七月に取りかかっており、名主田造家の商
い活動を第一とする、在方商人としての活動の一面をの
ぞかせている。
 狩野村極楽寺では本堂・庫裏が大破し、本山の鎌倉円
覚寺より大工や鳶職が遣わされた。ところが寺は、まず
は村の復興のためにこの職人達を村へつかわし、そのあ
とで寺の修復を行った。この寺の行為に、藩からと思わ
れ褒状が出ている(『市史』8No.106)。雨坪村でも名主七
兵衛が震災復興に尽力したことが藩に認められ、袴着用
等の免状が下賜されている。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 5ノ上
ページ 444
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 神奈川
市区町村 南足柄【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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