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項目 内容
ID J3200885
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1853/03/11
和暦 嘉永六年二月二日
綱文 嘉永六年二月二日(一八五三・三・一一)〔小田原附近〕
書名 〔小田原市史通史編近世〕H11・3・15 小田原市編・発行
本文
[未校訂]嘉永大地震と三か年御取り締まり仕法
 この基点となったのが、嘉永
六年(一八五三)二月二日に小田原
地方を襲った大地震と六月のペリー来航であった。とく
に小田原地震の被害は甚大なもので、マグニチュード
六・五と推定されている。九日に江戸屋平右衛門から鴻
池家にもたらされた速報を「小田原掛合控 二」によっ
てみれば、地震が起きたのは二日巳の中刻(午前一〇時
ころ)のことで、小田原宿一〇里四方を中心に、家屋の
全半壊、即死人・怪我人を多数出すという被害をもたら
しながら、四日午の刻(午後一二時ころ)まで余震がつ
づいたという。また、一七日の加島屋からの廻状には、
天守閣は小破でまぬがれたものの櫓や本丸・二の丸・三
の丸の塀、番所、御用米蔵・家中扶持米蔵、諸役所など
の施設、および家中侍屋敷・長屋、町家などが受けた多
大な被害が書き上げられている。領内でも、さっそく各
村むらに被害の状況を報告させ〈Ⅲ210・211など〉、それ
に応じて郷蔵にある種籾や藩主の御手元金をはじめとす
る金銭の貸与、圧死者への見舞い金、はては梅干しの支
給など、さまざまな救済の手が講じられた〈Ⅲ215・216な
ど〉。そのいっぽうで藩は、復旧資金として幕府からあら
たに公金一万両を拝借するとともに、江戸城[西丸|にしのまる]普請の
ために予定していた領内の石の献上を免除してもらって
いる。ちなみに、この翌年の安政元年(一八五四)一一月四
日には伊豆地方で、さらに翌々年の一〇月二日には江戸
で大地震が起きているから、小田原藩としては三年続け
て大地震に見舞われたことになる。
 アメリカ遣日特使ペリーが東インド艦隊を率いて来航
したのは、嘉永大地震の爪痕がいまださめやらぬ六月の
ことであった。その時の海防動員もさることながら、ペ
リーは国書への回答を求めて翌年の再来航を約束してい
たから、さらなる負担の増大は目にみえていた。こうし
た事態に対処するために[忠愨|ただなお]は、[直書|じきしょ]〈小田原有信会文
庫〉をもって三か年間の徹底した倹約取り締まりを命じ
ている。一一月一四日のことで、いわゆる非常事態の宣
言である。
 この直書のなかで忠愨は、嘉永の大地震とペリー来航
を直接の契機とした危機感、とりわけ多大な出費にとも
なう藩財政への圧迫が家臣への俸禄米の支給を著しく減
少させ、それが家臣の意欲をそぐことを懸念しつつも、
小田原は「都府の[咽喉|いんこう]」「海陸の要地」であり、その心構
えが国の栄辱に繫がっていること、それゆえに武備をは
じめとして、幕府に対する要務は何をさしおいても果た
せるようにしなければならないと述べている。実際、同
日付けで忠愨は、兵制規則や平常出役規則の改正を申し
渡した直書も出している〈小田原有信会文庫〉。幕府に対
する役儀と藩体制の維持・再建、その狭間で苦悩する小
田原藩であったが、ともかくも現状では家臣への俸禄米
の支給を減らし、できるところから冗費を省いて倹約を
推し進めなければならないというのである。また、倹約
については「守倹専一」であることから、享保の御制度
に基づいて、[音信|いんしん]その他を改正することも申し渡してい
る。これらの点を家老の添え書きによって補足すれば、
武備に関しては忠愨の遺産であった軍用金までも使って
しまっているのが現状であり、やはり両三年の間は格外
の減米を命じなければ入用を埋めることができない。ま
た、藩主の入用をはじめ、普請向きなども省略するつも
りであるが、いまだ不足しているので、仕方なく当丑の
暮れから来る辰(ママ)年(安政二年)までの三か年の間、御張
紙をもって俸禄米の減米を命じる。さらに御凌ぎのため
に、享保の御制度に基づいて、音信・贈答・振る舞いな
どの制度を改正し、これまた三か年の間きびしく取り締
まるということであった。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 5ノ上
ページ 439
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 神奈川
市区町村 小田原【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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