Logo地震史料集テキストデータベース

西暦、綱文、書名から同じものの一覧にリンクします。

前IDの記事 次IDの記事

項目 内容
ID J3200635
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1792/05/21
和暦 寛政四年四月一日
綱文 寛政四年四月一日(一七九二・五・二一)〔島原・肥後〕
書名 〔新熊本市史 通史編第四巻近世Ⅱ〕新熊本市史編纂委員会編H15・3・28 熊本市発行
本文
[未校訂]島原大変
寛政四年(一七九二)正月一八、九日ご
ろから島原の雲仙岳の噴火が始まった。
三月一日熊本では地震六〇回をかぞえ、噴煙が見られた。
四月一日暮六つごろ大噴火が起こり前山(眉山)が崩壊
して大津波を引き起こし、対岸の玉名・飽田・宇土郡の
海辺村々のほか天草郡にも大きな被害をもたらした。
 藩域の被害状況は史料によって小異があるが五月八日
付けで幕府に次のように届けられた。
 一、田畑二三三一町余 潮入・荒地
内 田一五六四町余 畑七六七町余
但、菜麦等干し置き候分は悉流失、刈り申さざ
る分は潮浸り、皆無に相成り申し候
一、塩浜 六一間 破損
一、潮塘 二五三四〇間 同
一、川塘 一六九〇間 同
一、樋口 一〇〇 流失・破損
一、波戸 三一〇間 破損
一、橋大小 一五八か所 流失・破損
一、船大小 六九七艘 同
一、御高札建置候所 四か所 流失
一、遠見番所 一か所 破損
一、同燈篭堂 一か所 同
一、浦番所 七軒 流失
一、津方役所家 二軒 同
一、普請小屋 六軒 同
一、寺 一か所 同
一、同 一か所
但、表裏門並びに橦鐘堂打崩し申し候
一、庵室 二か所 流失
一、社 四か所 流失
一、鳥居 二か所 流失
一、侍家 一一軒 流失
一、扶持人家 一八軒 同
一、土蔵 四軒 同
一、百姓家 三二八六軒
内 二四五五軒 流失、八三一軒 潮浸・破損
一、侍並びに従類共溺死 二七人
内 男一八人 女九人
一、扶持人又者並びに従類共に溺死 一一八人
内 男五五人 女六三人
一、出家・社人並びに従類共溺死 一七人
内 男八人 女九人
一、町在の者溺死 四六七三人
内 男二二六六人 女二四〇七人
一、怪我人 八一〇人
内 男五五〇人 女二六〇人
一、溺死牛馬 二八二疋
 なお損毛届は、この津波被害のほか五月一九日から二
一日までの大雨・洪水の被害もあり、一二月一六日付で
損毛高三六万九八〇〇石余と届けられた。
 表19は玉名・飽田・宇土郡の手永ごとの被害状況であ
る。飽田郡でみると溺死者の多くは五町手永に集中し、
田畑・潮塘の被害は四手永に広くみられる。
 表20は溺死者七六五人を数えた五町手永のうち海辺四
か村の被害状況である。この四か村は背後に山をひかえ、
打ち寄せる波はいちだんと強く、被害も大きかった。こ
の七六五人の溺死者の多くは青壮年で、
「船を繫ぎ、或いは米銭・衣類・諸道具
など片付け」の最中に高浪に呑み込まれ
た。生存者の多くはいち早く避難した老
人や子供のほか病者であったという
(「寛政四年津波記録 上妻文庫」熊本県立図書館蔵)。
 このほか各村の船囲いの波戸は跡形も
なく破損し、耕地も少なく漁業に依存し
た生活は壊滅状態となった。
 つぎに右の四か村のうち近津村につい
てみると、惣人数三七一人のうち溺死人
数二六三人(七〇・九㌫)を数え、生存
者は一〇八人(二九・一㌫)であった。
この一〇八人のうち働人は三五人で生存
者中三五・四㌫にすぎなかった。
 また全竃数八五竃のうち八〇竃(九四
㌫)が流失し、全牛馬二七疋はすべて溺
死し、村は壊滅的打撃をうけた(『新熊本市史史料
編近世Ⅲ』)。船津村の蓮光寺では本堂再建中
であり、家内二〇人余のほか大工・雇人
全員が溺死し、木材も流失した。
 このほか、川尻では藩船泰宝丸の新造
出帆式が行われたが、津波で銭塘手永二
表19 郡・手永別被害

手永
潮浸田畑
根切・破損潮塘
溺死人数
溺死牛馬
流出破損家
玉名
小田
坂下
荒尾
294町
177
228
4,892間
3,203
4,809

13人
305
745

11人
420
727
1(馬)疋
38(馬)
68(馬)
飽田
銭塘
横手
池田
五町
92
170
146
15
1,640
208
2,104
1,213
82

53
407
82
2
87
358
18(馬)
1(馬)
19(馬17、牛2)
50(馬49、牛1)
宇土
郡浦
松山
130
141
4,105
1,068
645
36
91
6
91
2(馬)

2,331
27,030
4,692
280
3,286
『飯田町誌』より
表20 五町手永海辺村々の被害
村名
―溺死男女人数
流失家数
死牛馬
近津村
263人
80竃
駄馬27疋
川内村
127
53
駄馬7
白浜村
22
50
駄馬4、牛1
船津村
353
199
駄馬11

765
382
駄馬49、牛1
「寛政四年津波記録」より作成
丁村に乗り上げた。高橋町や半田村では「波先五尺ばか
り」上がり、高橋川口で碇泊中の二五反帆の関船が橋の
袂まで押し上げられ、他船の航行を妨げた。また銭塘手
永では田方八〇〇町が損所となり、高一万八〇〇〇石余
の被害を受けた。
 八月二八日には藩主斉茲は被災地を歴覧し、翌年に溺
死者の供養碑の建立を命じた。梅洞(松尾町)の波先を
示す記念碑のほか、蓮光寺などに供養塔が残されている。
写真は熊本中古町別当友枝太郎左衛門・省吾兄弟が願主
となり寛政五年(一七九三)二月、本妙寺(現熊本市花
園四丁目)本堂前庭に建立した「溺死萬霊供養塔」であ
る。このような供養塔は寛政五年から七年にかけて被災
した各海辺村に建立された(『新熊本市史別編民俗・文化財』・『河内町史』)。
 この災害復旧にあたり、寛政四年九月幕府から同六年
より一〇か年の年賦返済で金三万両を拝借した。幕府記
録『続徳川実紀』には「この日肥前国島原の地、酉の刻
過る頃海上より津波をし上げ、肥前島原・肥後熊本の地、
家屋の流失男女の死亡又甚し」と記している。
 なお、この年の損毛届は、津波被害のほか五月一九日
から二一日までの大雨・洪水の被害もあり、一二月一六
日付で損毛高三六万九八〇〇石余と届けられた。
島原大変の復興
四月一日の津波で家を失った人たちが熊
本町の西光寺・順正寺・延寿寺をはじめ
諸寺院や町家を頼り、八、九〇〇人が集まった。町家も
日々施行した。藩では下河原に小屋をしつらえ、賄を施
し、医者を遣わした。この世話を紺屋町別当が担当した。
また奉行や郡代は被災地を検分し、施行のための救米を
下げ渡した。
 いっぽう、被災地の復興に当たっては領内に明俵三二
万俵の拠出を命じた。また生存者の離村を禁じ、散乱し
ている竹木を取集め、田畑に杭柵を設け、筵などを敷き
雨露をしのぐだけの仮屋をしつらえ粥を施した。このほ
か、飽田郡の海辺四手永の惣庄屋は連名で諸上納の減免
を願い出た。
溺死萬霊供養塔(本妙寺)
 ここで五町手永海辺四か村のうち近津村の復興の取組
みをみることにする。村高八三石四斗余で、田畑面積は
田一畝余、畑九町九反余、野開畑六町九反余で、畑作中
心の村である。田畑の多くは谷川沿いの山の斜面にみら
れ、農隙には漁稼で生計を立てていた。先述したように
二六三人の溺死者と八〇竃の流失により生存者は五竃一
○八人となり、高主のいない高地を多く受け持ち諸上納
を負担し、苦しんだ。
 寛政六年(一七九四)三月高森手永から着任した惣庄
屋園田養助は同年冬から村内を巡覧し、翌年三月諸上納
の減免や荒地認定のほか、作馬二一匹の購入代銭二貫五
二〇目(一匹一二〇目)のうち半高一貫二六〇目の拝領
と、残る半高の寛政八年より無利息一〇年返上納での拝
借を願い出た。同年六月「別段」の計らいで寛政八年よ
り全額一〇年の年賦上納が認められた。
 このほか津波の直後には「船作料」八貫六七五匁が寛
政五年より二〇か年の年賦返上納で拝借が認められてい
たのであるが、これらの返上納が始まった矢先、寛政八
年六月一一日の「古今未曾有」の大洪水によって返上納
の計画は頓挫したのである。したがって船作料残高六貫
九四〇目、作馬購入代銭残高二貫二八六匁の返上納一〇
年猶予を願い出たため、例外措置として五年間の猶予が
認められた。
 跡形もなく破損した四か村の船囲いの波戸復興は寛政
七年春以来、夫飯米拝領とともに願い出たが翌八年には
「未曾有の洪水」もあり「水利・塘手等」のように年貢
徴収とは関わりがないとの理由で認められなかった。
 生計の過半を漁稼に依存する村々にとって船囲いの波
戸は村の存亡に関わるものである。同九年各村の波戸普
請の夫賃銭を五貫目と定め、うち二貫目を「御救立御銀」、
残る三貫目を郡割賦で賄うことで普請は認められた。普
請は同年冬に始まり翌年に完成した。この間、船津村の
波戸は規模も大きく、庄屋志水寿平次が差出した寸志を
加え完成した。村人数が少ない近津村では惣庄屋の五か
村組庄屋への呼び掛けで嶽村・野出村・東門寺村・大多
尾村・平山村の惣人数が加わった。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 5ノ上
ページ 249
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 熊本
市区町村 熊本【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

検索時間: 0.001秒