[未校訂]宝永期の改修
元禄十六年(一七〇三)十一月、房総
沖を震源とするマグニチュード八・二
の大地震が発生し、南関東地方では、江戸期を通じて最
大の被害が出た。大磯も花水橋附近に泥水が噴出し、山
も崩れ、海岸が隆起して磯が二丁も先になった。津波の
襲来で多数破船し、沖にいた三〇〇石積の船は磯に乗り
上げた。村人は津波を恐れ数日山へ逃げていた(『[祐之|すけゆき]地
震道記』)。各河川の堤防も崩れ、土砂で川床が上昇して
合流点では逆流し、少しの出水にも氾濫するようになっ
た。翌宝永元年(一七〇四)六月、金目川は満水となり
御普請が行われたが、その翌年六月にも大雨で堤防が
所々決壊した。そこで宝永二年(一七〇五)、金目川通二
八か村組合は、永続して安定した農業ができるよう、丈
夫な堤防の御普請を幕府に嘆願した(『平塚市史』4資料
編近世43)。同年閏九月、代官平岡三郎右衛門・同小長谷
勘左衛門が見分し、十月、目論見のため代官手代四名が
出張した。川幅の狭い個所は拡幅、曲流部分は直線に筋
替え、合流点をずらすなどの金目川を体系的にとらえた
治水計画が発表された(『平塚市史』4資料編近世48)。
高麗寺村にも大きく湾曲する区間の寺領内貫通という
花水川の新川案が提示された。直後の十一月、村民は耕
地の減少、海からの差し潮の頻発などを理由にあげて、
死活問題だと代官に訴訟した(『町史』1近世109)。同時
に、寺の本寺であり、幕府の将軍菩提寺として権威のあ
る東叡山寛永寺に助力を願うため、名主市平らが赴いた。
寛永寺では役者(後年執当の号となる)衆・僧正等が評
議して、勘定奉行衆に聞き合わせたうえで、代官へ違憲
を伝えるのが良策と決まる。十二月、宮様の御供で登城
した鷲代僧正が、勘定奉行月番荻原近江守へ、御用部屋
を通して尋ねると、「代官から絵図・書付が未だ出ておら
ず、出されてから吟味となる。若し紛れることがあって
百姓難儀になれば、直ぐに呼び出し尋ねることとするの
で、気遣い無いように」との返事を受けた。この運動は
効を奏し、代官平岡より寺領内の新川筋替えを中止する、
そのかわりに橋下出洲を横二〇間(三六メートル)切り
広げることを打診された。この出洲は四畝六歩の田地に
なっていて、五筆に分かれ四名で所持していた。宝永三
年(一七〇六)三月八日、出洲引渡しの時、名主は代官
に再び新川を打診され反対した。早速この旨を寛永寺に
訴え、その指図により三月十四日代官に新川反対の訴状
を出した(『町史』1近世110)。三月二十七日、名主は出
洲の土を東海道に嵩上げすることを条件に、切り広げを
承知した(『町史』1近世111)。しかし、この切り込み土
は往還には上げずに、川沿いの田に積み置かれたまま土
手になった。八月、勘定所より代官平岡三郎右衛門に、
この代地として、本年より大磯町から一石五斗余の年貢
地を渡すことが達せられた(『町史』1近世112)。八月十
八日、領主(高麗寺の領主は住職で地頭という)は代官
平岡にこの代地について口上書を出し、大磯町は「御供
田」を指定したが、それでは「御供田」からの年貢で賄
う寺の祭礼費用が不足するとして、字「鳥居の脇」を要
望した(『町史』1近世113)。
金目川の改修
宝永二年(一七〇五)、大畑村の耕地(七
石)を潰して鈴川を筋替え、大根川と
の合流地点をずらした。同三年(一七〇六)二月より、
飯嶋村から東流し長持村で鈴川と合流していた金目川
を、広川村(六石分)・入野村(五七石分)・長持村(七
六石分)の田地を潰して東南の方向へ筋替え、南原村に
かけて長八三〇間(一五〇〇メートル)、幅二五間から五
〇間(四五~九〇メートル)の直線にして鈴川と合流さ
せた(『平塚市史』4資料編近世292、『風土記稿』、山崎孰
子「金目川の治水」『地域史研究』三)。また、河口近く
を築堤し、長三六七間(六六四メートル)・敷二間・馬踏
六尺・高七尺の直線に普請した(『町史』1近世29)。こ
の他にも川通りの各所で御普請がなされ、同四年(一七
〇七)、金目川取水堰の位置・分水量などを改めて取り決
めた(『平塚市史』4資料編近世45)。