[未校訂](注、個人的記述及世相の記述が多い。はじめの10日分を
掲載する。あとは必要と思はれる所のみを採用する)
大正十二年
九月一日 晴
午前八時半出勤、銀行にて十一時四十分例の通り事務
室を出、控室にて拙者一人食し終り立たんとするに際し
震動し来り逃げ出さんとせしに、室内にて二、三回顚倒
し恐怖する間も無く鴨居も落ち小壁落ち、次に天井と屋
根が落ち来り、事務室の瓦葺き二階家は[青物町|あおものちょう]の道路に
向って倒壊せしに、控室は、亜鉛葺きの平屋にて事務室
の二階に取り付けたる際より家屋の引き放れ、幸いその
間となり負傷も無く這い出せしに、足部に重き物[載|の]りし
を感じければ、力を出して乗り出せしに、後にて考えれ
ば、着衣の裾の物に引っ掛かりしなり。
身体の自由を得、倒壊せし亜鉛屋根に出でしに、続い
て行員沖津、萩原もそこより出で来り、配島〔留吉〕は
二階の裏窓より出で来りしに、いまだ二人不足にて高声
に呼ばれば事務室より応声聞こゆるも引出す手順なく、
やむを得ず屋根より土蔵の間に飛び下り、隣家との板塀
を破り目下、町役場新築準備のため移転執務の仮役場脇
に出でたるに、負傷者も見え知りたる役場員も自失して
立ち居りしも、安否を問うの間も惜しく、そのまま[唐人|とうじん]
[町|ちょう]通りより青物町に廻りしに、両側の家屋も倒壊し、〈
となりし下を潜り抜け、銀行前に至り幾度も高声に呼び
しに、屋根より顔を出し無事なりと聞き、最早これにて
責任を果せし如くに安心し、咄嗟の場合金庫も現金も忘
れて後を頼んで駆け出せり。
その間に余震も震動の響も救い求めし人もありたらん
も何も耳に入らず。
両側倒潰の大手通りに出れば、火煙の登るを見る。小
学校なりと云う人ありしも、これもただ聞くのみにて、
堀端に出て見渡せば、[一木|いっき]氏〔枢密院顧問官一木喜徳郎
別邸〕の二階家は、自宅の地続きの高地になるに、倒壊
せしか見えざれば、今迄は震災にもと多少は注意したる
家なれば大丈夫と思いし自家を気遣い脇目もふらず走り
帰れば、門は倒れ屋根は平潰れとなり、その屋根にて孫
の龍夫の瓦を放しおれり。
立ち入れば幸子、泰子の姉妹は、屋根の下敷きとなり
しと聞くも如何とするも能わず、往来の人に手助けを哀
願するも、震動を恐れて省みる者も無かりしに、尾崎〔亮
司。片岡丞左衛門の娘婿〕は、最早焼失し下女の逃れ来
りたると思い、救助に来りくれる有様に云い遣いし、な
おも清吉を呼び来たらんと飛び出せしに、道路は亀裂、
家屋は倒潰し、歩行も自由ならず。
[大工町|だいくちょう]に出でて倒れし屋根の下を潜り、又は乗り越え
て新道に曲がらんとせしに倒れ家にて路の塞がりたれ
ば、本源寺に入り本堂脇を抜けて行きしに、清吉は隣の
畑に家族と避難し、家も傾き今や火災にかからんとする
に拘らず直ちに同行したるも、気は焦心するも足は思う
様に進まず。
ようやく帰れば尾崎芳子〔片岡永左衛門の娘、尾崎亮
司の妻〕の危急の報により、路傍の人を強請し、二人を
連れ来たり、姉妹を取り出せし処にて、いまだ体温もあ
れば、病院に送らんと[彼是|あれこれ]なせしにどの道路も破壊し、
あるいは失火中なれば、止むを得ず医師を迎えたくも、
使いにては、来診思いもよらざれば、また走り出し学校
の火災にて焦る如く堀端を過ぎ、[瓦長屋|かわらながや]〔南町一丁目〕
に至りしに、前方に黒煙の巻き昇れば、[何処|いずこ]なりと思い
しに、足柄病院〔南町一丁目九番〕と聞き落胆し、十間
ばかり引き返したるが、また、思い直し駆け出し天神社
前に至れば、病院には焼死人も有りと聞き絶望し到底医
師の来診は不可能を断念し、仮に戸板に二人を載せ、そ
の上に雨露の覆いをなし合掌念仏を唱えしが、大震災に
意識の変調してか、悲哀の感じも容易に生ぜず呆然とし
て、そのときの心はなんとも紙筆に書き現わし難く、こ
のとき始めて銀行の事も思い出したるに、既に焼失と聞
き、一層落胆し万事休すると思う刹那に世の無常を切実
に感得し悲哀も生死も慾得も[所謂|いわゆる]理智も外見も超越し、
真誠に天地任せの偉大意志を体得し、心身共に軽きを感
じたり。
町は、数ヵ所より出火し猛威を振い盛んに延焼するも、
意に介するの余裕もなかりしに、両人の始末となり少し
落ち着きたるに、五時にも何処よりかゴーゴーと非常の
響きあり。何事かと門に出れば、[海嘯|かいしょう]なりと逃げ来る者
甚だ多きも判然とせず、その真相をと学校前に至れば、
龍巻の諸所に起り、器物人体も半天に巻き揚げたりとの
事なれば、一度帰宅し家人に安心を与え、銀行もその後
の様子如何にと、龍夫と同行すれば、先刻銀行より駆け
付けての帰途は心も心ならずも気付かざりしに、今見れ
ば、さしも堅固に築きし城の石垣は殆ど全部崩壊し、樹
木の堀に倒落せしは、今更に驚嘆せり。
裁判所前通りより町役場脇に出れば、この辺一面火の
海にて、旧城外郭の老松は、いま盛りに焼けその音はす
さまじく危険なれば引き返す。
途中、半潰の駄菓子屋に一人男あり。店頭の菓子を取
り出すを見て食物の用意に気付き、立ち寄りて少し売っ
てもらんと云しに、お取りなされと云いながら出て行き
たるが、包むものなく摑んで袂に入れしに、又一人の男
来り取るはよきも、無断とは云いながら裏の方へ行くを
呼び止め、無断に非ず、今ここに居たる者に断りしと云
いしが、先の男は小略奪者にて、後は店主なるべきも、
この際は人の心も常と異なり、強いて拒絶もせざるは、
自分の物として持って避難も出来ず、何事も成り行きと
の心に成りしならん。
幸いにも自宅にては、四、五日前に買い入れし白米二
俵あり。これを俄作りの[竈|かまど]にて米を炊き握り飯となし僅
かに飢えを[凌|しの]ぎたり。
尾崎一家〔小伊勢屋〕のものも逃げ来り、倒潰せしも、
この家のありてこそ火にも追れず逃げ迷わず、飢えも凌
ぎたりと大いに喜べり。拙者等は、何が何やら種々気を
取られ、空腹を覚えず一個を食したるを覚えたるも、井
水は俄に濁水となり、それは困りたるも、製氷会社より
氷を取り来りこれを解かし飯は出来たるも、それ以前は
止む得ず濁り水に喉を潤おしたり。
晩景となり畑に蚊帳を吊り、尾崎一家と廿余人わずか
に膝を入れしも徹夜数度の震動に皆々安き心もなし。地
内にも避難者幾組も入り来り、いずれも露地に夜を明か
せり。
夜に入るも油・[蠟燭|ろうそく]の用意なければ灯火もなく、蚊帳
には入るも寝るにあらず覚めるにもあらず。猛火の響と
天を焦がす火光に恐怖と不安に明くるを待つともなく安
眠せられぬままに
人の世のとみも何なるうたかたの覚めてあとなく暁
のゆめ
この日自宅に在りしは、老妻と孫龍夫、幸子、涼子、
素子と下女二人なりしが、中食の仕度も出来、龍夫は、
文武館開館式に出席の都合にて真っ先に膳に向いしに、
震動始まりたれば裏庭に逃げ出し、動揺し甚だしきため
に樹木に取り付きながら居宅を見れば崩壊し、祖母は縁
先にて震落したる小壁の下となりたれば、走り来り声を
掛けながら引き出し、畑に避難させ、次に下女二人は壁
の下より声を揚げ救いを求め、居所判然したれば直ちに
引き出し、妹三人を呼びしに、涼子は倒壊の屋根下より
声を立てれば、今直ちに出す少し辛抱せよと声を掛け、
声を心当りに屋根瓦を放し、下地を破りて引き出したる
が、震動と同時に立ち揚りし際に天井の落ち来るを覚え
たるも何事もなく、そのまま兄の声を力に立ち居たるに
引き出されしと。これは幸にも天井の落下する時に破壊
したる間に頭部の入り天井と屋根裏の中間に在りて、負
傷もせざりしなるべし。同じ座敷に居りし幸子泰子の両
人は始めより何等声のせざりしとなれば、初めに急所を
打たれて即死せしに相違なし。もし、龍夫の居合わせざ
れば、なお、他にも傷死の有りしなるべし。何れにせよ
龍夫のありしは一家の幸せなり。
尾崎芳子は、屋根より表に出て地続きの[代官町|だいかんちょう]より出
火し自宅に延焼するを見て、姑と数人の下女と他より来
り居りし数人の子供を引き纏めて逃げ来りしに、主人と
舅の見えざれば心配せしに、屋根より裏に抜け出て、最
初より福田寺に避難したりとて、四時過ぎに来り、一同
倒壊した八ツ棟造りの「ういろう」五十嵐写真館撮影
安心せり。(続)
(編集付記)
片岡永左衛門が遺した関東大震災の日録は、『片岡日
記』と、謄写版刷の原本『駅鈴余音』に収めた「明治大
帝御賜名旭日桐と小田原の大震災」の二通りあるが、本
稿は、『片岡日記』を手直しした『駅鈴余音』に載る分を
選び、標題を「震災日記」と改めた。
また、読みやすくするため、次のように整理をした。
1 旧仮名づかいを現代仮名づかいに改めた。
2 句読点を整理し、段落をふやした。
九月二日 晴
早朝、清吉棺弐個を持ち来る。埋葬は、明日午後まで
親一〔永左衛門の長男〕等の来着を待つ事とし、埋葬の
手続に奔走し、診断の医師は、警察より午後までに来る
相談をなし、大蓮寺〔小田原市南町二丁目〕に至れば、
本堂は全潰、庫裏は半潰、各墓標は押し倒れしも、拙者
の先年建立せし萬霊塔は、少しく動きしまでにて、巨大
なるも倒壊を免れたり。
住職に埋葬諸事の打ち合わせをなし、行員篠窪行雄方
には、老人と産婦のありしに気付き回り見れば、家は半
潰にて負傷も幸になし。
[山角町|やまかくちょう]に至れば、全潰半潰何処も同じ。小西にて罐詰
一個をようよう買い求め帰宅し、停車場辺に至れば、京
浜の被害も幾分知り得るかと行きて見れば、この辺は、
倒壊せしも焼失せざれば、避難者に停車場荷物は食品に
限り、自由に諸人に解放すとの風聞に混雑するも、京浜
の情報は不明なりしに、避難者中に知己眼科医[五十嵐|いがらし]力
君の夫人と子供一人、下女二人あり。
これも借宅丸焼に加へ、君は、昨日朝上京中にて、安
否の程も知れず、途方に暮れる様子なるも、拙宅は、未
だ膝を容れる仮宅も出来ざれば、連れ来るも得ざるに、
見れば、この炎天に[冠|かぶ]る物も無し。
拙者の冠り居りし麦藁の海水帽を脱いて、[是|これ]にてもと
差し出せしに、足袋の不用も有らばと乞われしも、差し
当り困りたれば、履き居りしを脱ぎて差し出し、立ち帰
りて握り飯を下女に持たせ遣わせしも、食物総て不足の
時なれば、充分には心に任せざるは止むを得ざりし。
午后、大蓮寺上人来り、露天にて読経せるも、未だ医
師来たらざるに、足柄病院長岡田氏の子息実君見舞に来
りたれば幸いと、診断書の依頼を伝言す。
なお、京浜の安否もと再度停車場付近に至るも不明な
りしが、カフェーレゾートの前に来れば罐詰あり。買い
受けを交渉すれば、売り値なれば差し上げるも、食用に
不足なればと応諾せず。強いて懇願し、今口を切りしカ
ルルス一罐を買い受けしが、場合により、かくも心の[賤|いや]
しきかと、自分ながら呆れはつ。
薄暮、岡田小三太君は、不自由の身を実君と看護婦の
方に[縋|すが]りて来診、拙者の手を執り無事を[悦|よろこ]び、同家は、
長男豊副院長等三十五人死亡せりと。互いに涙の内に談
話したり。
昨日の火炎は、[中宿町|なかじゅくちょう]中程より以東[万町|よろっちょう]中程まで、
裏町は、[代官町|だいかんちょう]以東万町中程裏まで、[青物町|あおものちょう]より左右[竹|たけ]
の[花|はな]・[中新馬場|なかしんばば]入口迄を焼き払い、[凡|すべ]て町中の四分の三
に及び、山角町・[筋違橋|すじちがいばし]・[欄干橋|らんかんばし]・[茶畑|ちゃばたけ]・[中宿|なかじゅく]の中程
の左右、[西海子|さいかち]・[御花畑|おはなばた]・[新久|あらく]・[早川口|はやかわくち]・[幸田|こうだ]・[弁財天|べざいてん]・
停車場付近・竹の花以北・[七枚橋|しちまいばし]付近・[新宿|しんしく]・[古新宿|こしんしく]を
残し、午前三時頃にもはや鎮火せるも、[余燼|よじん]は中々終熄
せず。
三日夕刻 小雨
東京より来らざるも、止むを不[得|えず]両人〔孫二人〕を大
蓮寺に埋葬する事とし、拙者、淳子と来合わせたる村瀬
と三人にて送る。
俄に降雨となり、寺より一足先に淳子を返せしに、洋
傘を傾け寺門をいで行く後ろ姿を見れば、哀れにも[憔悴|しょうすい]
し、暗然たり。
町役場は、御用邸の正門前に[纔|わずか]に卓子を置き執務すと
云うも、只呆然として何も手に付かざる様子なりしが、
今日は高等女学校の敷地内に移り、昨日午後[不取敢|とりあえず]通商
銀行の倉庫の在米五百俵を町に買い受け、壱人玄米二合
宛を施米し、町民の飢えを凌ぐ事となせり。
今日も、停車場より食物[已|のみ]ならず諸品掠奪し、古新宿
の漁民は、材木などを手当り次第に持ち去り、甚だ[不埒|ふらち]
なるも、此の際にて警察署も制止する者無く、後には付
近の商家[迄|まで]も掠取せられたりと。
午後よりは、横浜監獄を開放せられるたる邦人、朝鮮
人、社会主義者と合同し襲来し、毒薬を井戸に投ずると
か、掠奪殺害するとの風聞盛んとなり、各区俄に竹槍を
作り警戒に努め、人心[恟々|きょうきょう]とし、まさかと思いしが、婦
人十一人は半潰の物置に、男五人と清吉は今日出来し亜
鉛葺きの四坪ばかりの疎造の仮小屋に、[棍棒|こんぼう]を備へ、灯
を消し、人語を絶ち閑居せしが、市中よりは警戒の振鈴
も聞え、不安を感じたり。
東京の消息は、不明なるも、風聞甚だ悪しく心痛この
事に集まり、龍夫も悲観し、東京は家族全滅として後来
の方針を予め定むるの要ありと云へるも、当地の如何に
成り行くや、銀行も営業開始の見込みも付かざる場合に
は、一家を離散し、龍夫は大坂なり何処かに求職し、拙
者は淳子を連れ三人にて出来得る限り生活する事と、老
妻涼子に不安を与うるに忍びず、密かに龍夫の意思を探
り決心はせるも、甚だ心細き限りにて終夜眠りにも入れ
ず。龍夫も安眠を得ざりし様子。
四日 晴
大蓮寺に墓参せしに、境内に借地せる東京人大澤某よ
り、通信未開に付き自転車にて、東京の事務所に特使を
遣わす由に付き、親一及び会社に安否聞き合わせの書状
を依頼す。
神奈川県に戒厳令施行せられ、十五師団司令部を小学
校焼け跡に置き、小田原警備隊司令部も設置となり、死
体の発掘等にも従事し、市外にては架橋も始めたれば、
警察の不備にて不安を感じたるも、[是|これ]にて安堵せり。
小田原警察署は倒壊し、小田原区裁判所は焼失したれ
ば、箱根口内御用邸裏門前に、一日より警察署、小田原
区裁判所検事出張所とをテント張りにて仮設し事務を取
り扱えり。
電気会社製氷部の貯水は、諸人の争って自由に取り来
たりしが、本日よりは医師の証明にて病人に限り警察署
の許可以外は禁止となれり。
保勝会は、警察署の証明書を持ち、会員河部潤三、倉
橋某を慰問品募集の為、大阪方面に出張せしめ、物資の
供給に尽力せり。
今日も幾度も親一方の安否を言い出しては、四人共に
憂愁に沈み、夜も焦燥し、安眠を得ず。
五日 晴
仮屋に畳六枚を敷く事出来、幾分[寛|くつろ]げり。
兵庫県赤十字支部、医員看護婦来着、治療を開始せり。
六日 晴
汽車未だ不通なれば、自転車にて親一より無事の使い
来る。一同の喜びは[譬|たと]うるにものなし。東京にては当地
の震害をこれ程とは思わざると、通信交通の不便の為に
延引し、大澤氏に託送の書状にて、初めて詳細を知り驚
きしも、書状の様子にては姉妹の変死は知って奇異を感
じたる如し。
午後四時、工兵少尉山崎武夫君東京より来り、これも
亦、親一方の無事を報じ、仮宅に止宿せり。
今日は初めて食物に味を覚えたるが、拙者は[已|すで]に非ざ
るべし。
震災の夜を思ひて
大地震にたけりて燃ゆるまっか火のほのをの上に
澄める月かげ
一木喜徳郎氏夫人と子息令嬢は、避暑 別荘に滞在中、
此の大震となり、家屋は全壊せしも、鉄道は破壊し交通
不便の為帰京するを得ざる[已|のみ]ならず、東京の消息も不明
にて進退に窮せられしも如何ともし難く、一日一日と送
り居りしに、今日漸く東京より自轉車にて使い来り、東
京は安全なりしも汽車の何日頃開通する見込みもなく、
止むを得ず箱根を越え沼津に出、中央線に依り帰京と決
し、今朝歩行にて一行出立せり。
震災以来、鉄道の開通せざれば、京浜より帰国する者
出先きより帰京するは、箱根越えにて山中も旅人の往来
多く、菓[子]食物を売り不当に利を得し者もあり。当
町も避難者の婦人子供を連れ重荷を負い、疲労の足を引
き行く幾組も見受け、旧時代の感あり。
七日 晴
今朝五時、東京の使者に書状を持たせ帰す。
当地銀行協議会を停車場の客車内に開き、其の善後策
として金融を其の筋に請願の為、小田原銀行・通商銀行・
足柄銀行の三行は、横浜に出発する事となれり。
八日 晴
墓参りし、大澤氏に東京に書状託送の礼に寄り、巻紙
を送る。帰途身体に異状あり。岡田氏に診断を受けしに
疲労なるべしと服薬す。
今夜、仮宅に畳も敷き増し出来、畳の上に手足を伸し
安眠。
九日 晴
昨日、大船迄汽車の開通し、親一、三時頃帰着。一同
大喜び。今夕、始めて純白の飯に鮭の罐詰を切り、葡萄
酒を抜き祝杯を挙げたり。大牢〔立派な食事〕の珍味も
是には過ぐべからずと思う。
十日 雨
午后下女君江の親父、大島より水雷[艇]風早にて東
京に便乗し、汽車不通道具不便と聞き、八王子を迂回し
来る。大島は震源地の風聞にて、全島全滅し或いは死亡
せしかと思いたる親に面会し、親子抱擁し声を放って泣
く至情、然も有るべし。柳川弘氏来診。
陸軍警備司令部にて自動車を徴発し、大船小田原間の
所々にて区二、三里間宛て、婦女その他必要と認める者
は無料にて交通の便謀られ、諸人大いに喜べり。
(続)
(編集付記)
今回は、『駅鈴余音』に載る震災日録は、『片岡日記』
に較べ、省略された箇所があるので、その箇所は、『片岡
日記』を引用した。
なお、読みやすくするため前号と同じように①旧仮名
づかいを現代仮名づかいに改め、②句読点を整理し段落
をふやし、③[ ]で言葉や意味を補った。
十四日 雨
大蓮寺に墓参す。余震毎日なるも、昨夜はかなりの大
震、人々又驚く。
十九日 晴
昨日より[桜馬場|さくらのばば](小田原市城山)柑園、物置小屋崖下
に崩落せしを取り方片付けに着手し、今日は人夫、清吉等
と共に行いしに道路何れも破潰し、車の通する見込みな
し。園の北方の土地は崩落し、風除けに植付けたる松杉
は、大なるは三尺辺りも有りしに無残土地と共に崩落し、
道路は殆ど完全な所なく、南方御耕地(閑院宮家耕地)寄
りは、諸々崩落するも橘樹には格別被害なきも、道路不
通の為、成熟するせる場合も搬出の手段なく、途方に暮れる。帰
途[山角町|やまかくちょう]道は如何にと視察せしに、それは殊に甚だしく
破潰し断念して帰宅す。
廿三日 晴
一宮老母病死す。同人は若き時より出入りし居りし者、
悔みに行く。
震災以来海岸は、海水引き去り、防波堤より波打ち際
の間以前より、七、八間(12・6m~14・4m)も広く
なり、防波堤も数箇所破潰し旧観なし。
被害地を一覧したきも昼間気の毒に堪えず、夜に入り
[青物町|あおものちょう]・[高梨町|たかなしちょう]を見しが、気の毒は通り越し、いやにな
れり。
十月十二日 雨
この程、[石橋|いしばし](小田原市)の者の談話に依れば、過日震
災にて、[聖ヶ嶽|ひじりがたけ]の頂辺の[崩潰|ほうかい]し、その[山嘯|やまつなみ]のため、[根府|ねふ]
[川|かわ]は一部落[殆|ほとん]ど全滅となり、聖の崩潰跡は二個の池とな
り、大雨のためもし破潰するとせば、石橋は、根府川の
如き被害を受くべしと、未だ不安の日々暮し居れりと。
十七日 晴
午後より倒潰の善後策のため、高井作次郎同道大蓮寺
に至り、本堂・[庫裏|くり]等の処分を相談す。今回倒壊の本堂
を佛具等の取り出しのため発掘せしに、その物[什物帳|じゅうぶっちょう]
にも寺伝にも在らざりし、蓮台共々四尺余りの木彫り阿
弥陀の尊像を発見せしが、足部に焼痕有るより推考すれ
ば、弘化年間(一八四四~四八)に本堂の火災に遇いた
る時の本尊にして、その際には、灰中に埋没せしを焼失
と誤り、新たに今の釈迦如来を本尊にせしものか、果た
して然れば、火災中に没し震災に顕れし不思議な尊像な
り。
十八日 晴
例年より暖気にて余震未だ止まず。人々不安を感ず。
震災につき木材騰貴し、凡て三割五分を騰貴し、目下
の相場は柱壱本分貮拾五円なり。災後物資は、総て一般
に昇騰せしも、九月初旬に関西より仕入れし物は、交通
不便のため運賃多額となり、利益なく損失せしもの多し
と。
廿八日 曇
龍夫(永左衛門孫)帰京も一両日に迫り、震災中の悲
惨なる[根府川|ねふかわ](小田原市)を一覧し度しとの事にて七時
半両人同行。早川(小田原市)も可成の被害。鉄道線路
は甚だしく破壊され、道路も破潰のため村端より鉄道線
路を縫って歩行す。[石橋|いしばし](小田原市)に至れば、村中に
架したる高架の鉄道は、二三カ所陥落したるが、被害は
早川より少なきが如し。破潰の真[田|さなだ]神社の坂下を過ぐれ
ば、道は海中に陥落せし。断崖絶壁を[纔|わず]かに歩行の跡を
付けたるばかりにて、その危険は言語に絶せり。手に汗
を握り漸く通過し、[米神|こめかみ](小田原市)の村に達し山上よ
り見下せば、村の中央は、山津波にて破潰し、十九戸は
一カ所に埋没し、その跡は新に小山となり、頂辺に追弔
の塔婆を新しく建てり。この地は石橋以上の被害なり。
破潰の道を右、左に迂回し、倒壊して更に焼失せし根
府川小学校を少し行き過ぎて小丘より見れば、熱海線根
府川停車場の建物は跡形も留めず、海岸迄墜落と共に数
十戸埋没し、所々に温州柑の見ゆるは、付近の柑橘畑の
右方の山上より陥落し来りたる跡を留めしなり。
目を奉ずれば、前方に新たに高陵の出現せるは、強震
数分の後に二里余りの奥に在りし[聖嶽|ひじりがたけ]の一部崩壊の結
果山嘯となり、谷川に添って押し出し来り、海中に及び
し数十の人家も田畑も埋没せしに、殆ど同時に谷川の上
流にありし発電所の堰場の破潰し、貯水は、一時に土石
を押し流し、谷川を形作りたれば、此処に居住したる者
は、耕作又は出稼ぎに出居りし者の外は、殆ど全部圧死、
今日に至るも発掘出来ざる者多しと[惨|さん]の惨たり。
渓頭の石上に腰を下ろし、握飯を食しながら熟視すれ
ば、埋没の[隧道|ずいどう]口には数名の工夫働き、数組の鉄道省吏
は測量に従事するは、熱海廃線の説を伝うる者有るも、
近々工事を進行するの準備ならんか。
これより引返し、往路と反対に米神より山を登り、真
田社の脇を下り、龍夫の[守|も]りをなせし石橋村の某方立ち
寄れば、竹も在宅し、龍夫の幼時など談話し大喜びなり。
十二時帰宅。
十一月十二日 曇
震災にて海底降下し(実際には土地が隆起)、海岸も、
それ以前より七、八間(約12・7~14・5m)は引き下
がり、この頃に至り井水減少すること多く、飲料も不自
由をなすも多きに、幸いに私宅の井戸はその後異状なし。
十三日 晴 大風
昨夜より大雨に風も加うるに、未明より止まる。不快
にて欠勤。一日大震に引き続き余震あり。去月二十三、
四日より一時余震も止み、地震も忘れんとせしに四、五
日過ぎ又々強震二、三日続き、その数は今に少しの余震
毎日なり。
廿三日 晴
倒壊の物置もトタン屋根も完全にて、柱等残らず破損
せるが漸く修繕も出来、幸に休日を利用し防寒に反古張
りを仮宅になし居たるに、十一時過ぎ一日以来の大震あ
り。近来大本教にては、本月廿四日大震有りとの予言せ
しとて、人々恐怖の際なれば(ど)屋外に逃げ出さん者殆ど無
かりしと。
十二月十日 雨
この程の調査によれば、震災にて当地の死亡四百三十
四人、この内、他所にて十四人なり。
十九日 晴
午後より復興会道路調査の為め緑町、新玉町を踏査し、
帰途、今回地震にて天守石垣破壊し内部より元禄十六年
震災にて修繕せし事を彫刻せし石の出たるを実見に来り
たる東京帝国大学文学部史料編纂掛り内史学会委員鳥羽
正雄氏に行き逢い、拙者所蔵の其の当りの記録を書き送
りする事を約し、尾崎に立ち寄り帰宅。
廿四日 晴
九月一日以来、地震殆ど打続きしに今日も強震人々驚
き、多くは屋外にかけ出せり。
大正十三年
一月十一日 晴
昨夜も又地震、大震以来四カ月余なるも、大小は有る
も殆ど毎日なり。近来に至り井水何とも減少し掘り替え
れば、何れも一間位で出水の箇所降下せり。地震に就い
ての変調なり。
十三日 晴
昨日は、夜にかけ余震四、五回に及べり。
十五日
午后より雨模様
前五時四十五分強震と思う間に電燈消え棚より物の落
ちる音に驚き戸外に逃げ出ししに余震度々有り。
暫くして内に入り蠟燭を付けて見れば、時計は止まり、
仏壇は前に墜落し、手洗鉢の水は四面に流落し、台所は
器物乱雑に倒れたるも、其の他格別の事無きも宅地内の
他所にも亀裂を生じ井水は濁る。
戸外に火を燃やし暖を取り居りしに、亮司、関四郎見
舞いに来る。
市中は所々新築に倒潰もあり、大震に引き起こし修繕
せし家も倒壊、半潰、亀裂も有り、轉々停車場付近に多
く、少し傾きしとか、壁を落とし数寸動きしなどは多く
あり。
電話も不通、汽車も夕刻迄は不通、市内電燈は復旧せ
しも、自宅には遂に来たらず。