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項目 内容
ID J3100776
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1923/09/01
和暦 大正十二年九月一日
綱文 大正十二年九月一日(一九二三)〔関東〕
書名 〔寒川町史研究第17号〕寒川町史編集委員会編H16・3・31 寒川町発行
本文
[未校訂]〈特集・寒川の災害〉
特集にあたって―関東大震災と寒川―
内海孝
 揺れる前に、東の方から「ブーンと地響きというか、
地鳴りというか」音が聞えた。それは「腹の底に響くよ
うな音」であったと、小谷の阿諏訪庚二はいう。
 関東大震災当時、満一三歳であった阿諏訪は、九三歳
になっても、右のように鮮明にかたりかけた。彼は昼食
をとったのち、昼寝をしているなか、体験したことであ
る。
 農村部の寒川では夏は、夜明けが早い分、都市部にく
らべると、昼食の時間帯は早い。都市部での震災被害に
火災が多かった一因は、昼食準備中に震災が発生したた
めであろう。寒川地域では、火災による被害はあまりな
い。
 大曲の村会議員であった高橋勘之丞は、震災当初のそ
の瞬間のことを「異怪な響き」と表現した。表に飛びだ
すと、歩くこともできなかった。表士が「三四尺の大波
のうねり」のように上下しているのを目撃している。植
木につかまって、辛うじて転がるのをこらえつづけた。
 平塚の銀行で執務中だった一之宮の入沢鋹二は、事務
室が傾斜し、部下の五名が帰宅してしまったなかで後始
末をし、付近の安否をさぐりつつ徒歩で自宅にもどった
のが午後六時ごろであった。自宅は全部が倒壊、家族は
竹藪のなかに避難していた。
 一之宮、田端、倉見などは相模川の砂利や砂が埋まっ
ているので、地盤があまり強くなく「被害が大きかった」
のにたいして、小谷、大蔵、小動は関東ローム層の地盤
であったから被害が「ほとんどなかった」と阿諏訪は指
摘している。卓見である。
 ところで、入沢は帰宅した後、海嘯(津波)や「朝鮮人
ノ襲撃」のうわさを聞き、人びとの「人心恐々」たるさ
まを冷静に受けとめながらも、近所の桑畑に避難した。
 一方、高橋勘之丞は同様のうわさを伝え聞き、竹槍、
日本刀、槍などを持ちだし、大曲では「男という男は警
戒の任」にあたって徹夜した。翌日も、同じように警戒
態勢をとっている。
 三日めの晩、一之宮では警鐘を鳴らし大声を発し、呼
ぶ笛を吹くなか、木島医院の木島鄰は堀部安兵衛のよう
ないでたちで、白♠に伝家の宝刀「赤鞘の太刀」を背負
って真剣であった。うわさに東奔西走し、人びとの「不
安の状態」はくりかえされた。
 竹槍は小谷では、竹職人がいたので万一に備えて作ら
れた。それは阿諏訪によると、竹を斜めに切っただけで
なく、節の一番堅いところに菜種油を塗り、火であぶっ
て叩く。そうすると「先が堅くな」ったという。
 七日になると、寒川村では村議会がひらかれ、震災被
害にたいする「前(善)後策」が協議された。村の事業として
は一人一升ずつ、一三石六斗八升の救助米をだすことを
決議したことが、高橋勘之丞の回想録から判明する。大
曲の救助米供出が寒川村では「第一等」に早かったもの
の、村としての対応策がしだいに打ちだされていった。
 そのなかで、注目していい活動ぶりをしめしたのは村
の青年たちである。高橋勘之丞によると、一之宮の「火
事騒ぎ」を大火事にせずに済ませたのは中瀬と大曲の青
年のおかげであった。田端の青年会も救助活動に努力し
た様子がみてとれる。
 震災の片づけ仕事のあいまに、田端の岩田溢は四日め
には、ソバや大根の播きものをした。農民のしたたかな
姿が、ここにあるといわねばならない。
 聞き書き・関東大震災の記憶
語り手 阿諏訪庚二
聞き手 高木秀彰
[解説]
 今回の特集を編むにあたって、震災を実際に経験され
た方にお話を伺い、文字に残りにくい貴重な証言を記録
にとどめようという方針が町史編集委員会で話し合われ
一之宮の被害状況(『神奈川県農会報』より)
た。ただ、八〇年もの時が経過しているため、適任者は
それほど多いわけではない。大正十二年当時、寒川に住
み、せめて一〇歳以上になっていなければ、鮮明な記憶
をもとに語っていただくことはできないので、九〇歳以
上が必須である。また、なによりお元気で調査に協力を
して下さらなければならない。
 そのような条件に当てはまったのが阿諏訪庚二さんで
あった。阿諏訪さんは明治四十三年(一九一〇)四月一
日、寒川村小谷の生まれ。関東大震災当時は満一三歳で、
寒川尋常高等小学校の高等科二年生であった。
 聞き書き調査は、平成十五年(二〇〇三)六月十七日
に、小谷のご自宅に訪問しておこなった。このときは大
まかな話を教えていただくにとどまったので、そのメモ
を整理し、足りない部分について、七月八日に再訪して
補充させていただいた。古谷は寒川の中では震災の被害
が比較的小さかったので、あまり参考にならないのでは
と謙遜しておられたが、やはり直接見聞きしたことがら
を順序立てて話してくださったので、たいへん貴重な証
言となった。
 再訪のおりには、震災の話だけでなく、相模鉄道に勤
務していた頃のこと、戦後の第一回公選による町議会議
員になったときのことなども断片的に話してくださった
が、時間が足りなかったので、後日また詳しく教えてい
ただくようお願いすることにした。
 ところがその直後、訃報を耳にすることになる。阿諏
訪さんが亡くなったのは八月二十二日のことであった。
戦後の町議会のことなどをじっくりお聞きすることがで
きなくなったのは口惜しいし、何よりも本稿を阿諏訪さ
んご自身にご覧に入れられなかったのは残念でならな
い。あらためてご冥福をお祈りしたい。
 なお、調査および本稿作成にあたっては、阿諏訪ナカ
さん、加藤菊枝さん、阿諏訪青美さんらご家族の皆さん
にご協力を賜った。この場を借り、改めてお礼を申し上
げたい。
揺れた瞬間
 ― 今日は、関東大震災の時のことをお聞かせいた
だければと思います。覚えていらっしゃる範囲でかまい
ません。私が質問をしていきますので、どうぞよろしく
お願いいたします。
 阿諏訪 わかりました
 ― まず教えていただきたいのは、お生まれの年で
す。明治何年でいらっしゃいますか。
 阿諏訪 明治四十三年四月一日。西暦でいうと一九一
〇年だな。
 ― そうすると、震災のときは……。
 阿諏訪 数えで一四歳。
 ― 学年でいうと何年生だったのですか。
 阿諏訪 高等科二年だった。尋常高等小学校の。
 ― では、一番上の学年ですね。そのときごきょう
だいは。
 阿諏訪 きょだいは四人。
 ― 何番目ですか。
 阿諏訪 男二人の女二人で、末っ子です。女、男、女、
男という順番。兄貴は若くして亡くなってしまったので、
私が家のあとを継いだんです。
 ― では、地震のときはお兄さん、お姉さんたちは
学校に行っていたのではなくて……。
 阿諏訪 そう、みんな家で仕事をしていました。
 ― 地震のとき、大正十二年九月一日、庚二さんは
どこでその瞬間を迎えたのですか。
 阿諏訪 ちょうど昼ご飯を食べ終えて、横になってい
たところでした。
 ― 九月一日って二学期の始業式の日ではなかった
んですか。
 阿諏訪 いや、そこがよく覚えていないんです。学校
へ行って、式だったために早く帰ってきたのだかどうだ
か、そのへんの記憶がない。なにしろ友達と魚取りに行
く約束をしていて、その子が迎えに来た瞬間でした。小
出川でも近くの水路でもフナやナマズ、コイなどよく取
りに行っていたからね。あと、岡田のオコヅカ(おこり塚)
の上と下とに分かれてチャンバラをやったり、いろいろ
外で遊んだものです。で、揺れる前に東の方からブーン
と地響きというか、地鳴りというか、音が聞こえたんで
す。あとになって人と話をしていて気づいたんですが、
この音は聞えた人と聞えなかった人がいるみたいなんで
す。「おれは聞かなかったよ」なんていう人もいたから。
でもなんだかすごい音だったんだよ。
 ― 揺れが始まるどのぐらい前に聞えたんですか。
その音は。
 阿諏訪 直前です。それが鳴っているうちに揺れてき
た。
 ― 体に響くような感じですか。
 阿諏訪 腹の底に響くような音でした。それを聞いた
直後に、ぐらっと感じた。昼食後、田の字型の家のナン
ドという部屋に寝っころがっていたから、余計に感じた
のかもしれません。目の前に机があって、それが転がっ
たので、びっくりして起き上がったけれど、もう立って
いられない。でも外へ飛び出したよ。
 ― 揺れはかなり長く続いたんですか。
 阿諏訪 そうだな、一〇分ぐらいは揺れたような気が
します。本当のところはわからないけれど。そのあと、
余震も来たし。
 ― 余震はすぐあとから来たのですか。
 阿諏訪 すぐあとから、弱いのは何度もありました。
震度一程度の弱いやつなら、気が付かないのもあったか
もしれない。でも一番大きかったのは、翌年の一月十四
日の晩にあったやつです。あとはそんなに大きな余震は
なかったけれど。
 ― 揺れる前に、音のほかに予兆のようなものはあ
りませんでしたか。
 阿諏訪 あとで聞いた話で、私が実際に見たわけじゃ
ないけれど、田端に小川商店というのがあるでしょう。
その前の川にナマズがあがってきたそうです。
 ― 花川用水ですね。
 阿諏訪 そうです。あと、小出川でウナギがたくさん
とれたらしい。
 ― 地震よりどのくらい前のことですか。
 阿諏訪 一か月前ぐらいかな。
家と近所の被害
 ― 揺れた瞬間、ご家族は全員無事だったのですか。
 阿諏訪 それは大丈夫でした。
 ― よかったですね。母屋が倒れたりとかは。
 阿諏訪 母屋も、シモヤも大丈夫でした。シモヤは堆
肥をしまっておく小屋で、母屋の裏にあったのですが、
うちの大きさは二間×三間ほど。よその家の小屋は倒れ
たようだけど、うちのは柱の組み方がよっぽどよかった
のか、ぜんぜん壊れませんでした。母屋もまったく無事
でしたが、余震に備えて念のためつっかえ棒をしました。
うちで壊れたのは蔵の壁が落ちたぐらいでしたね。
 ― 近所で倒れた家はありましたか?
 阿諏訪 どこも母屋はほとんど大丈夫でした。一軒だ
け潰れた家があったけれども、あとは大丈夫。関東ロー
ム層の地盤なので、強いのでしょう。小谷のほか、大蔵、
小動も被害がほとんどなかったんですが、それは地盤の
おかげなんでしょうね。それに対して、一之宮とか田端、
倉見などは相模川の砂利や砂が埋まっているので、地盤
があまり強くなくて被害が大きかったんだと思います。
小谷の原町はとくにオカバショ、つまり高くて畑が多い
場所と呼ばれていましたから。
 ― 小谷でけがをした人は少なかったんですね。
 阿諏訪 手足を折ったなんていう人は、かなり少なか
ったと思います。よそでは亡くなった方もいるくらいな
のに、地盤の影響が大きいということですかね。
 ― じゃあ、避難などもとくになさらなかった?
 阿諏訪 いや、近所の人や親戚の人たちがうちに集ま
りましたよ。うちの敷地に孟宗竹の林があってね、そこ
に五軒ぐらいの家族、二〇人以上がふた晩ほど寝起きを
していました。これも余震に備えて念のためということ
です。
 夜は竹に蚊帳を吊って寝るんですが、暑い時分だった
のでなかなか寝られなくて大変でした。それで、父親が
シモヤの中の堆肥を全部外に出して、きれいにしてから、
みんなしてそこで寝たんです。
 三日目ぐらいから余震もおさまって、母屋に入っても
大丈夫だとわかってきたので、昼間は家の片づけを始め
ましたが、夜だけは竹藪で寝起きをする家もありました。
結局竹藪には一番長い人で一〇日間ほどいたんじゃない
かな。
 ― 親戚というのもご近所に住む方なのですか。分
家とか……。
 阿諏訪 いえ、一番遠くから来たのは東寒川(横浜市)
に嫁いだおばの家族です。家が地震で潰れて、建て直す
までの間なので、三~四か月ほどはいたんじゃないでし
ょうか。最初は近所の人が竹藪に来たけれど、そのうち
に親戚の人が家がつぶれちゃったといって、頼って来た
んです。つっかえ棒をした母屋にね。
 ― やっぱり横浜のほうが被害が大きかったんです
ね。
 阿諏訪 場所によるだろうけど、たしかに矢畑(茅ヶ崎
市)の親戚は来なかったからな。でも泊まりに来なくて
も、食糧の買い出しに来た人は大勢いました。親戚だけ
でなくて、知り合いにも米や野菜をわけてやりました。
都会の方は食糧が不足していたのか、つても頼って多く
の人がリュックサックを背負って来たんです。それまで
は荷物といえば風呂敷包みでしたが、リュックが流行っ
たのはこのころからじゃないかな。
学校のようす
 ― 九月一日が始業式だとしても、授業はすぐには
できなかったのですか。そもそも校舎はどのくらい被害
を受けたのでしょうか。
 阿諏訪 学校は全壊しませんでした。学校のある宮山
の根岸はちょっと高台で、関東ローム層の上にあるので、
小谷や大蔵などと条件は一緒ですから。だけど床はガタ
ガタになっていたので、補修は必要でした。その補修は
生徒がみんなでやったんです。九月の何日から学校へ行
き始めたか、詳しくは覚えていないけれど、そういく日
も休まなかったな。でも学校にでても、ほとんどが授業
じゃなくて補修作業なんです。
 ― 作業というのはどんなことを?
 阿諏訪 床を貼り直したり、ハメをはったり、ギコギ
コタントンと、まあ大工さんのまねです。午前中はちょ
っとは授業をやったけれど、午後は大抵ギコギコタント
ンだった。
 ― でも最終的には建て替えますよね。大正十五年
ごろ、村役場と一緒に。ということは、生徒が大工仕事
をしたというのは、応急措置ということですか。
 阿諏訪 そうです。建て替えは私が卒業したあとだけ
れど、校舎も村役場も木造平屋建てだったのを立派な瓦
葺きのに変わりました。
 ― 震災前の校舎も瓦葺きじゃなかったんですか。
 阿諏訪 いや、トタン屋根でした。
 ― 一之宮などの地区では被害が大きかったようで
すが、そういうところから来る友達もいたんですよね。
高等科なら寒川じゅうから来るわけですから。その人た
ちもすぐに通学を始めたんですか?
 阿諏訪 中には自宅が全潰なんて人もいたけれど、壊
れなかった親戚の家に厄介になりながら、そこから通学
していたようです。私たちの学年では、高等科まで行っ
た者は男で二二、三人、女で二〇人ぐらいでした。たい
ていの人は六年まで終えると、家の仕事をしたり、大和
の持田などの製糸工場へ行ったりしていたからね。でも、
その四〇人あまりのうち、家が倒れた人はどのくらいい
たのか、今となってはよくわかりません。
他地区のようす
 ―小谷の被害は比較的少なかったそうですが、他
の地区で見聞きしたことはありませんか。
阿諏訪 大蔵には沼地があってね。[追出橋|おんだしばし]の南側、今の
青少年広場のあたりです。震災の影響でそこに大きな穴
が空いたんです。東岡田との間に七、八か所ぐらいでし
ょうか。そこからブクブクと水が湧きっぱなしになって
止まらない。そこは昔からドブッタといって、深い田ん
ぼだったので、ワタリギと呼ばれる板に乗っかって田植
えをしていたのですが、水が湧いてきたために、もっと
深くなって、腰ぐらいまで浸かつるようになってしまい
ました。しばらくすると湧いてくる水量は減ったものの、
それでも湧き続けていましたが、昭和五年に耕地整理が
完成して、やっとそれが治まったのです。
 ― 記念碑が建っていますよね。越の山のへりのと
ころに。
 阿諏訪 そう、その工事なんです。あと、断層がはっ
きりあるのが宮山の根岸でした。皆川寛さんの記念碑が
あるでしょう。そのちょっと南あたりで段差ができたん
です。
 ― 今の県営新橋アパートの近くでしょうか。
 阿諏訪 そう。元の町営プールのあたりです。
 ― 段差の高さはどのくらいでしたか。
 阿諏訪 一メートルぐらい落っこちたかな。
 ― その断層を実際に見に行ったりしたのですか。
 阿諏訪 小学校のすぐそばだからね。しょっちゅう見
に行っていました。
朝鮮人のうわさ
 阿諏訪 私が直接見聞きしたわけじゃないけれど、朝
鮮人が地震を期に暴動を起こすなんていう噂が流れて、
茅ヶ崎のある会社の社長が、それを未然に防ごうと近く
にいた朝鮮人を日本刀で斬ってしまったんだそうです。
当時、寒川にも茅ヶ崎にも砂利取りのために朝鮮人が大
勢働いていましたからね。寒川でも、川原のほうにいる
朝鮮人をやってしまえなんて息巻いている人がいたらし
いのですが、砂利会社の経営者が、そんなことをすれば
俺がそいつをぶった切るぞって脅かしたので、特に問題
が起きずに済んだのだそうです。その息巻いていた人た
ちは竹槍を持ったり、刀を研いだりして準備していたの
だそうですが。
 ― その人たちはごく少数だったのでしょうか。
 阿諏訪 やってしまえというのはごく少数だったので
しょうが、竹槍はみんな作って万一に備えてはいました。
小谷には竹職人がいたから、その人がうちの竹薮の竹を
切って、うちの分の竹槍を作ってくれました。竹を斜め
に切っただけじゃ使えない。節の一番堅いところに菜種
油を塗り、火であぶって叩くんです。そうすると先が堅
くなる。
 ― 竹槍で警戒をしていたのは何日間ぐらいだった
のですか。
 阿諏訪 いつごろまでだったんだろう。ちょっと思い
出せないけれど。
 ― 竹槍を作れなんて、お達しが出ていたわけでは
ないのですか。
 阿諏訪 それはないけれど、もし暴動なんか起きたら
自分たちのことは自分たちで守らなきゃということだっ
たんだと思います。それが口から口へと広まっていって、
だれかれとなく自主的に竹槍を作ったんでしょう。幸い
なことに、それを使うような事態にはならずにすみまし
たけれど。
復興にむけて
 ― さきほど、学校の校舎を生徒みんなで補修した
という話を伺いましたが、それ以外の復興はどうだった
んでしょうか。電気はいったん止まって使えなくなった
と思うんですが、元に戻るまで時間がかかったんですか。
 阿諏訪 復旧は年内だった、年明けだったか、ちょっ
と忘れてしまったけれど、中瀬の小泉という電気屋が一
軒一軒まわって、復旧工事をしていました。
 ― 小泉さん一人で寒川じゅうの工事をしていたの
ですか。
 阿諏訪 倉見の方までそうだったかどうか知らないけ
れど、少なくとも小谷の場合は、中瀬から修理に来てい
ました。まだどの家もランプを持っていたから、それほ
ど復旧も焦っていなかったんじゃないかな。寒川で電気
がつくきょうになったのは、私が小さいころでしたが、
電灯の数は限られていたので、完全に切り替わるのでは
なくて、両方使っていたんです。ランプのほや掃除は子
どもの仕事でした。子どもは手が小さいのでほやの中に
手が入るからと、ほや掃除をよくやらされたものでした。
だから、震災の時に電気が止まっても、ランプがあるか
らあまり困らなかったんです。
 ― 家の建て直しなどはどうでしたか?
 阿諏訪 もともと小谷は、立て直す必要のある家は少
なかったのですが、被害の大きかった地区の中で復興が
一番早かったのは倉見だったと思います。藤沢房吉さん、
前の町長のお父さんですけれど、この人が自分の屋敷を
抵当に入れて、駿河銀行からお金を借りて、その資金で
近所の建て直しを手伝ってやったんだそうです。
 ― 今日は貴重なお話をどうもありがとうございま
した。震災ほかにも、相模鉄道に勤めて鉄道や砂利の現
場にいらしたときのこととか、戦後に町議会議員として
どのような活動をなさったのかとか、教えていただきた
いことが山ほどあります。またの機会にぜひよろしくお
願いいたします。
史料紹介・関東大震災の記録
はじめに
 本稿では、寒川町に残されている関東大震災に関する
記録史料を網羅的に翻刻掲載する。いまのところ確認さ
れているのは次の一四点である(敬称略)。
1 田端 田端自治会 ☆田端青年会日誌(抄)
2 田端 菊地勝 岩田溢の日記(抄)
3 一之宮 入沢章 入沢鋹二の日記(抄)
4 大曲 高橋聡暢 関東大震災(高橋勘之丞)
5 大曲 高橋聡暢 わが春秋の道(抄)(高橋誠)
6 大蔵 大蔵自治会 ☆震災ニ救助被救助者控
7 小谷 大久保芳正 震災時の情景
8 宮山 寒川神社 重要日誌摘録
9 宮山 寒川神社 庶務回議綴(大正十二年)
10 宮山 寒川神社 庶務回議綴(大正十三年)
11 宮山 寒川神社 宿直日誌
12 宮山 寒川神社 ☆社務日誌(大正十二年)
13 宮山 寒川神社 社務日誌(大正十三年)
14 倉見 北村嘉久 ☆北村勝乗の日記(抄)
 この一四点はいずれも、関東大震災の瞬間やその数日
後の寒川のようす、あるいは大正十三年一月十五日に起
きた最大の余震について記録したものである。体験した
その日に綴った日記もあれば、日が経ってから回顧録的
に書かれたものもあるが、いずれも具体的な記述にあふ
れているものばかりである。このうち☆印は、すでに『寒
川町史』5資料編 近・現代(2)で活字にしているが、
本特集の趣旨に照らして、これらの史料を一同に集める
ことに意義があると考え、再掲載することにした。
 史料のうしろには簡単な解題をつけたが、大半を椿田
卓士が執筆し、高木秀彰が加筆修正した。
 なお、震災に関する記念碑は町内に四か所あるが、そ
の写真と銘文は『寒川町史調査報告書』9「近現代の石
造物」に載せたのであわせて参照されたい。
 また、家屋や道路の復興などについて記した記録は数
多い。とくに寒川神社には、社殿をはじめさまざまな建
物について膨大な再建の記録がある。しかし、紙面の都
合もあり、地震の揺れと被害に直接言及した史料にとど
めた。
 ところで、この史料の一部には差別的な表現や呼称な
どが見受けられるが、当時の社会の実相を物語る歴史的
な記録として、差別のない社会の実現を願う見地から、
そのまま掲載した。ご理解を賜りたい。
1 田端青年会日誌(抄)
九月一日 関東一帯ニ亘ル未曾有ノ大地震突発スルヤ我
会員諸彦ノ宅モ、此ノ大震災ニ対シテハ皆多大ノ被害
ヲ受ケタルガタメ、同一ノ歩調ニヨリ罹災者ノ救助、
食糧ノ配給ニ全力ヲ尽ス能ハザリシモ、幸ニ農村ノ我
ガ支部ハ飢餓ニ迫ルモノ無ク、死亡者モ尠カリシタメ
狼狽混雑ヲ来タシタルコト無ヲ以テ自家ノ危急ヲ見ナ
ガラ各方面ニ相当善後救済ノ心掛ヲ忘レザリシハ、此
ノ存亡ノ秋ニ当リ、最モ我ガ支部関係ノ人々ノ美事タ
ルヲ失ハザリキ
九月十日 当部落有志ノ震災困難者ニ米十数俵篤寄贈ア
リシカバ、此ノ美拳ニ対シ絶体賛崇ノ念ヲ起コシ、進
ンデ之ガ配布方ヲ努力シ大ニ相互扶助ノ実現ヲ期シタ
リキ
九月十八日 朝出ニテ会員一同、鎮守社貴船社ノ災害建
物一部取リ片付ヲナス、其他道路ノ復旧、橋梁ノ修理
ハ数日ニ渡リテ会員ノ労力ヲ要シタリ
九月二十三日 午後会員結束シテ堤防ノ急破工事ヲ行フ
九月二十九日 若干ノ役員ハ他ノ支部役員協力混合シテ
震災倒潰セル本村小学校々舎ノ取片付ヲ為ス、本日当
郡田名村青年団員五十余名来援、大ニ同情ノ美事ニ尽
セシタリシコトハ、記念ニ価スルモノアリタリキ
九月三十日 本日モ引続キ前日同様出動作業ニ従事、尚
全国同情者ヨリ成ル震災救護ノタメ寄贈セラレタル配
給米ヲ藤沢町迄搬入方トシテ出動セラレタル会員数名
ニ及ビタリ(但寒川村罹災者救護ノ意味ナルモノ)
十月十五日 今年一月ヨリ開始シタル本支部経営ノ共同
貯金モ此際払戻ノ必要ヲ認メ、応急ノ処置トシテ元利
合計(八ケ月分)金八百八拾参円五拾九銭ヲ各割賦分
配スルコト々シタリ
十月十七日 十八日 十九日三日間部落村里道ノ道芝ヲ
剪刈シ、交通・運搬ノ便宜ヲ計リタリ
十一月三日 会員総出ニテ震災ニ倒潰セル倶楽部、生往
寺住宅片附ヲ済マス
(田端自治会蔵)
[解説] 震災直後、誰もが自身や自家の安否を考えていた中
で、地域全体の救護にあたったのは、青年団をはじめとする地
元の若者たちであった。彼らは部落全体を視野に入れて、居宅
のみならず道路の復旧や橋の修理、学校の片づけなど地元の
救護活動に取り組んだ。
2 岩田溢の日記(抄)
「(表紙)日記帳
十年九月新調
寒川村田端
岩田溢 」
(前略)
大正十二年 九月 日記
一 大雨 午前 桑ツミ 午后 遊ブ
大晴 大地震物置土蔵タオル
大正十三年 一月 日記
十五 曇晴 遊ブ 明暁大震動アリ
十六 晴 北風 北海道へ送物致す 一日遊ブ
(後略)
(田端 菊地勝氏蔵)
[解説] 岩田溢は、田端の農家出身で、のちに菊地と姓が変わ
る。大正八年(一九一九)から昭和十五年(一九四〇)の間に
八冊の農事日記を書き残した。ここでは大正十二年の関東大
震災および翌十三年一月十五日の相模地震の部分をそれぞれ
掲載した。
3 入沢鋹二の日記(抄)
九月一日 暴風雨后快晴
此朝午前七時ノ一番ニテ平塚ニ出勤ス、此日朝多少ノ雨
天ナルモ気候何ントナク生温ルキ模様ニテ大暴風雨ノ警
戒シ居タリ、果シテ正午ヲ過ギ零時十分、俄然大地震ニ
テ忽チノ内事務室全部及ヒ応接室・宿直室・小使室全部
ヲ傾斜シタリ、此日昨日祭日ナルト明日日曜ナルト
ノ干(関)係ニテ朝ヨリ来客多ク、殆ンド休息ノ余地ナク店員
一同大活動シツゝアリ、之レガ為メ事務室ノ倒壊シタル
トキニハ内藤、斎藤、金子、原田、杉山、亀山、原田丈
ケハ皆埋没セラレ、自分ハ第一石倉ノ傍ニテ九死ニ一生
ヲ得タリ、内藤氏ノ母圧死トノ事ニテ同人蒼白ニ飛出シ、
其他、斎藤、金子、原田、原田ノ五名ハ皆自宅ニ参リ其
儘帰行セズ、依テ決死隊ヲ組織シ現金及ヒ帳簿ヲ片附ケ
倉庫内ニ修容シ、バケツニ水ヲ入レ倉庫内ニ入レ門扉ヲ
鎖シタリ、夫レヨリ踏切ニ参リタル所、「チカ子」家屋ハ
二階丈ケ助カリ下座敷全部破損セリ、「ソメ」大丈夫、木
村徳太郎ハ東京ニ出稼キ病院前ノ家屋ハ半潰、病院ハ殊
ノ外悪ク死傷者ヲ収容シ居レリ、院長ニ面会五藤ノ母堂
ノ安否ヲ訊問セシ所大丈夫トノ事故、同人方ヲ訪ヒ安心
シタリ、夫レヨリ銀行ニ帰リ窪田氏ト共ニ帰途ニツク、
尤モ三時間前亀山氏オシテ一之宮模様ヲ探クル為メ派出
セシモ、何等返事ナキ故心配シテ小使ニ頼ミ自分等ハ徒
歩帰宅ス、途中馬入川ハ渡船ニテ二人ニテ拾銭、窪田氏
立カヘタリ、途中新田ノ力蔵方ニ於テシドロン一本ノ馳
走ヲ受ケタリ、午后六時頃漸ク一之宮ニ着、然ル所自宅
全部倒壊シ居リ、家族一同其身着儘ニテ薮ニ住居シ避難
シタリ、此夜海嘯ノ誤伝ヤラ朝鮮人ノ襲撃ヤラノ噂ニテ
人心恐々、又々竹薮ヲ出テ入沢由太郎方ニ逃ゲ去リ、夫
レヨリ十二時頃迄鈴木貞蔵方ノ桑畑ニ避難シタリ、乍併
皆何レモ誤伝ニテ何等ノ事更ニナシ、此夜木島氏方ヨリ
蒲団一枚ヲ借リ受ケ母上丈ケニカケシタリ
九月二日 晴天
此日朝竹薮ノ中ニテ一日ヲ暮シタリ、此日窪田氏方等訪
問、皆何レモ同様大破損被害一之宮全部ニ及ブ、此夜鮮
人ノ襲撃アリトノ噂ニテ巡査始メ全部員一同ニテ竹槍ヲ
拵ラへ、中ニハ日本刀又ハ鎗ノ抜身ヲ携帯頗ル殺気張リ
タリ、自分ハ木島氏方ヨリ仕込白梢(ママ)ヲ借用シ部落内ヲ警
備シタリ、乍併徹夜シテ準備シタルモ何等異状ナシ、此
日茅ヶ崎町ニテハ鮮人ノ親分日本人□□某ヲ切リ即死セ
シメタリトノ事、此夜モ竹薮ノ中ニ寝リタリ、蒲団漸ク
二、三枚出テ始メテ蒲団ノ上ニ眠リタリ
九月三日 晴天后雨天
此朝干物場ノトタン物置ヲ掃除シ畳ヲ引出シ寝室ヲ拵ラ
ヘタリ、乍併鮮人ノ騒キノ為メ母及ヒ婦人等転住ヲ拒ミ
引移セラレズ、恐ル〳〵此夜ヨリ引移ル、此日午后二時
頃ヨリ平塚ニ参リ知己ヲ訪問セリ、夫レヨリ真田上野方
ニ参ル、途中片岡ニテ豚肉ノ馳走ニナリタリ、依テサイ
ダー二本ヲ買ヒ一本ヲ出シタリ、午后七時頃着、徒歩ノ
為メ捗取ラズ、然ル所途中道路ノ陥落甚シク六尺位ノ亀
裂ヲ生シ居タリ、此日上野方ノ損害ハ却テ自宅等ヨリ甚
シク、酒造蔵全部酒ナク、本宅ハ半屋敷二丈有余ノ陥落
ニテ、穀倉ハ地中ニ埋没シ、文庫倉ハ大松ノ為メニ破壊
サレ、サスガニ堅固ナル槻普請ノ大屋モ七分通リノ傾斜
ヲ来タシ、新築家屋ハ遠慮ナク地中ニ六尺有余埋没シ、
殆ンド見ル形姿ナク、実ニ見ル物聞クモノ皆驚カサルハ
ナシ、乍併又一方ニ於テハ両親始メ一同無事ニ□為□、
殊ニ父上ノ如キハ家上ヨリ這ヒ出サレタル勇気実ニ驚嘆
ノ外ナシ、此夜横浜ヨリ赳夫参ル、之レニテ大塚ノ家族
ト穣ノ消息丈ケトナル、厚木ニテハ内田保死去、其上全
部町内焼失セシ内薬店モ同様、乍併薬店ノミハ無事トノ
事、此日正男厚木ニ見舞ニ参リ、丁度自分ハ馬入川ニテ
正春死去セラ(レ脱)タリトノ誤聞、尤モ平塚町ニテ厚木ノ人ニ
保死亡トノ事確聞シ直ニ真田ニ報告スベク参リタリ、然
ル所已ニ正男参リ慥ニ分明ス、此夜柳川久方ニ見舞シ東
京行ヲ相談シタリ、下男ヲ赳夫カ同伴セシムル事トシタ
リ、午后十一時頃上野方ニ帰リ泊リタリ、金百五十円也、
預リノ分ヲ返却シタリ
九月四日 晴天
此朝午前五時起床、夫レヨリ朝飯ヲ食シ直チニ支度ヲ為
シ、赳夫同伴柳川方ニ参リ下男ニ支度ヲサセ七時東京ニ
出立ス、自転車持参、但シ自分ハ東京ニ預ケアリタル故
徒歩ニテ同道シタリ、此日平塚ニテ別カレ自分ハ銀行ニ
立寄リ平の内方ニ立寄ル、此日午前九時頃上野方ノ買物
ヲ平の内方ニ届ケ置キ、自分ハ昨日買ヒ置キタル分ヲ持
参シ徒歩ニテ帰宅シタリ、此夜又々鮮人ノ騒ギニテ少シ
モ安眠出来ズ
九月五日 晴天
此朝午前八時頃小田原支店ヨリ小使松五郎見舞ニ参ル、
小田原二軒、横スカ、厚木、鎌倉ノ五支店全部焼失、死
人厚木ハ西川、鎌倉ハ根岸、山口、小使ノ三名、此日本
店ヨリ三名視察傍見舞ニ参ル、生憎面接セズ、此日茅ヶ
崎支店ノ広田氏ニ聞キ合セ明日参リ報告書ヲ差出ス事ト
ノ事、此夜小谷及ヒ大蔵ニ於テ大騒動アリタリ
九月六日(晴天)
此朝近所へ見舞ニ参ル、広田栄太郎方ニテハ三人負傷シ
タリ、窪田方ニ参り銀行へ可参相談シタリ、午前八時頃
平塚支店ヨリ小使見舞ニ参ル、丁度本店ヨリ三名ノ視察
団参リ居タル旨申セシ故、即時出張ノ準備中、窪田氏ト
午後三時半頃迄待チ合セタルモ参ラズ、此日鳶三名銀行
ニ参リ片附ケタリ、洋服及簞笥其他ノ品出タリ、此日窪
田帰宅シ鮮人警備ノ為メ終夜各所ニテ徹夜シタリ
九月七日(晴天后雨天)
此朝徹夜ニテ居タル故、午前六時頃自転車ニテ帰宅シ、
鮮人等件ニ付キ警察ト打合セ、人夫ノ配置等協議中ノ所
へ小使銀行ヨリ迎ニ参ル、依テ同道シタリ、本店ヨリノ
使二名ニ面会シ報告書ヲ提出シタリ、午后三時頃本店ニ
帰ヘラレタリ、然ル所急雨ノ為メ大磯ヨリ引返ヘシ自転
車二台ヲ松田方面ニ預ケ置ク事トノ事、此夜委員会アリ、
各自米五俵ヲ寄附スル事トス
九月八日 晴天
此朝部落内ニ米五俵也ヲ寄附スル事トシタリ、昨夜委員
会ニ於テ協議ス、青年会員一同ニテ参リ裏穀倉ヲ破壊シ
タリ、漸ク横手ヨリ出シ一等米二俵・二等米四俵計六俵、
及ヒ自家用分糯米一俵ヲ出シタリ、右ノ内一俵分ハ金拾
参円也ニテ譲渡シタルナリ、此日青年会員ノ飯焚ヤラ汁
ヤラヲ出シタリ、午前十一時頃ヨリ中郡役所ニ参ル、途
中銀行ニ立寄リタル所、已ニ内藤氏参リタル由、依テ自
転車ニテ参ル、此日ヨリ平田自転車ノ為メ折能ク出タリ、
尤モ等シクハ傷ミ居タリ、銀行家トシテハ相模ノ佐藤、
秦野ノ長谷川、大磯ノ長島、関東ノ(長島、田中駿河ノ入沢・内藤高橋
以上八名、町村長トシテハ上野兄上ヲ始メ全部十七名集
合セラル、以上ノ側ヨリ請求ハ、此際一時支払ヲ為サレ
タキ条件ナレトモ、銀行側トシテハ何分ニモ金庫内位ノ
金員ニテハ如何トモシカタク、兎ニ角東京・横浜ノ各銀
行通達ノ上ナラデハ支出不能ニ付キ、此際ハ県庁ニ願出
テ同盟会ノ承認ヲ経テ、政府ヨリ三百万円也ノ救済ヲ仰
ク外無之、依テ至急其手続ヲ実行スベクトノ条件ニテ此
日ハ終了ス、丁度此時四時頃ナリキ、夫レヨリ銀行ニ立
寄リ兄上ニ面会シ帰途ニ着ク、此日ズボン一着請取ル、
黒セルナリ
九月九日 晴天(夜分雨天)
此日早朝鮮人松本外三名ヲ雇ヒ入レ始メテ取片附ヲ為シ
タリ、何分大シタル破壊故瓦ノ破損等容易ナラズ、鮮人
及ヒ下男謙一、自分婦人達迄大尽力ニテ幾分片附ケタリ、
此日米櫃出テ白米弐斗許カリ大助カリナリ、午后五時仕
舞フ、此日三時頃相紡ヨリ事務員及ヒ杉山民之助同伴至
急特別ヲ以テ金二万円位預金支出スベキ様申出テラレタ
リ、依テ自分ノ意見ニハ今日ノ場合出来兼タル旨申渡シ
タリ、此日午后六時頃古ちや(知屋)庄太郎参ル、横浜無事トノ
事、此夜亀山方ニ参リタル所本人出京不在、明十一日沼
津行ニ同伴スベク相談セシ所、不能ノ為メ杉山民之助ヲ
同伴セシタル事トシタリ
九月十日 雨天后少雨曇
此朝大雨天ニ付キ一日休息ス、午后二時頃ヨリ雨止ミタ
ル故下男・下女等掃除ヲ始メタリ、此日城所ノ瀬尾太市
氏被参タリ、茅ヶ崎支店ノ坂巻参リ藤沢及ヒ鎌倉支店ヨ
リノ名刺ヲ持参シ、明日藤沢支店へ出張協議致度様被申
出タリ、此夕刻軍人中尉兵士十八名巡査駐在所ニ屯ス、
此夜ヨリ一同安眠シタリ、此日広田孝基氏召集セラレ出
発ス
九月十一日 晴天
朝曇リ居リ幾分疑ハシキ天気ナルモ快晴ノ模様ナリ、此
日大豆ヲ見セタリ、二三日猶予出来ルトノ事、此日鮮人
松本外参名参ル、生憎同人足ヲ傷ケタリ、此日藤沢支店
へ協議ニ参ル、茅ヶ崎支店長、戸塚石井、鎌倉支店長、
藤沢支店長及ヒ自分ト種々評議ノ結果、総代トシテ小生、
随行員ニ藤沢ノ宮嶋、戸塚ノ石井二人ヲ選挙シ、明朝八
時馬入川渡船場落合ノ約束ニテ参ル事トナル、依テ自転
車三台ヲ米山方ヨリ買入レ、自分ノ分ハ修繕ヲ依頼シ、
午后六時帰途ニ着ク、途中パンクセシ故又々米山方ニ戻
リ、午后十時半帰宅ス、夕食ハ米山方ニテ馳走ニナル、
此日厚木内田薬局ヨリ西山藤沢迄尋ネテ参リ、火災保険
ノ件ニ付キ依頼サレタリ、買物ヲ済マシ午后十時半帰宅
セシ所、東京ヨリ信二参リシ事茅ヶ崎支店ニ立寄リ松永
ニテ寸及ヒタリ、明日小泉庄太郎ニ出張セヨトノ依頼ヲ
シタリ、同人承諾セリ、此夜信二仮小屋ニ泊ル、午后十
二時就眠セリ
九月十二日 晴天
此朝五時起床、夫レヨリ沼津行ノ準備ヲ為ス、古知屋庄
太郎・小泉庄太郎参ル、鮮人松本外三名参ル、信二厚木
ニ午前八時頃出立ス、自分ハ八時半自転車ニテ馬入川着、
已ニ弐名待チ合セ被居タリ、早時平塚ニ参リ支店ニテ休
憩シ、内藤ヲ呼ニヤリ片附ヲ依頼シタリ、此日金員六十
円余出タリトノ事内藤氏ヨリ聞キ及ヒタリ、丁度小田原
支店ノ小使松五郎参リ、本店ヨリ鎌倉支店長ニ出行スベ
キ旨ノ書状ヲ伝達ス、此日小田原外郎方ニ立寄ル、丁度
十一時、依テ昼食ヲ為シ十二時自転車ニテ湯本へ向テ出
発ス、午后一時湯本出発、途中箱根ノ峻険ヲ踏破シ、午
后十時漸ク三島ニ着、夫レヨリ市川氏ニ面会同人ノ力ニ
テ同所ヨリ自動車ヲ頼ミ、沼津ニ十時半無事着、直チニ
桔梗屋ニ投宿ス、幸ヒ藤野高橋氏参リ居ラレ先着セラル、
湯ニ入リ高橋氏ト同宿シ同人ニテ協議シ、明朝頭取方ニ
可参事トシ、十二時頃就眠ス
九月十三日 曇天少雨
此朝八時頃頭取方ニ四人ニテ出頭、幸ヒ吉浜ヨリ三人ニ
テ杉山引率シ、頭取方ニテ落チ合ヒタリ、早速奥ニ入リ
仏前ニ参拝シタリ、夫人及ヒ令嬢(小泉氏ニ嫁サレタル
人)遭難誠ニ御気の毒ノ事ナリ、夫レヨリ幸ヒ本日重役会
ナルガ故立会ヒ呉レトノ事故出会ヒ、松田支店ヨリモ弐
名行員(栗田奥津)参ラレ、種々協議ノ結果兎ニ角臨時出張所
ヲ平塚ニ置キ、重役一名出張セラルヽトノ事、金員ハ兵
士ノ保護ヲ受ケ送付スルトノ事ニテ、自分打合セヲ引受
ケタリ、大磯郡役所ニ出頭スル事トセリ、此日小田原稲
葉支店長モ被参タリ、午后十時頃ヨリ雨天トナル、小生
足ヲ傷タメ歩行不自由ニテ豆四個ノ為メニ跛ヲ曳キ自分
ナガラ困却ス、此夜豆ノ治療ヲ充分ニシ、高橋氏ト二人
ニテ十二時頃談合セリ、石井・宮嶋ノ二人ハ外泊ス
九月十四日 (雨天 強風雨)
此朝早朝出立スベキノ所、生憎雨天ノ為メ一時延引シ、
午前八時半本店ニ立寄リ出立ス、証明書ヲ本店ニテ貰ヒ
雨合羽ヲパイロット屋ニテ貰ヒ出立シ、停車場迄同行六
人ニテ参ル、九時十九分ニテ御殿場迄汽車便ノ予定ノ所
宮嶋・石井ノ苦情ニテ行路ヲ変更シ、箱根ノ元路ヲ踏破
スル事トシタリ、沼津駅ノ接待所ニテ弁当梨ノ馳走ヲ受
ケ出発ス、十一時半(ミルクト弁当ノ馳走ニナル)三島ヲ
経テ坂口ニ参リタル所、憲兵隊ノ証明書ナキ者ハ通行サ
セズトノ事ニテ、又々後ニ引キ戻リ、石井・宮嶋ノ両名
ニテ三島憲兵屯所迄戻ラレ証明書ヲ貰ヒ受ケ、正午十二
時同所出立、夫レヨリ途中幾多ノ困難ト危険ヲ冒シテ漸
ク湯本畑の宿油屋ニ泊ル、維時午后五時半ナリ、此日途
中ノ山崩レノ凄キ事筆紙ニ尽シ難シ、冒険家モナカ〳〵
尻込ミノ状態ナリ
九月十五日(強風雨后大雨)
此朝風雨ヲ冒シテ午前六時出立、高橋、宮嶋、石井、自
分ノ四人達ト東京□人足立(小田原ノ石井幸之ノ身内)某及
案内者ノ六人達ニテ危険ノ最中道路ノ吐絶セシ所ヲ踏破
シ、幸シテ湯本ニ八時半頃着一同無事ニ到着セシ事ヲ祝
シタリ、依テ記念ノ為メ写真ヲ湯本ニテ取ル、福住ニ立
寄リ小田原二見氏ニ面会ス、同氏モ烏有ニ帰シタル由誠
ニ御気の毒ノ状態ナリ、午前九時同所ヲ自転車ニテ出立、
途中小田原外郎方ニ立寄リ稲葉氏トノ干(関)係ヲ同人ニ注意
シ、夫レヨリ平塚迄宮嶋、石井ノ両人ハ先ニ参ル、高橋
氏ニハ国府津停車場ニテ別レ、夫レヨリ大磯郡役所ニ立
寄ル、生憎郡長馬入川出水予防ノ為メ出張不在中無様ニ
他ニ面会シ、副官ニ其旨願出タリ、此日午后四時頃平塚
ニ着、馬入川出水ノ為メ路止メニナリ、宮嶋、石井、自
分ノ三人ニテ内藤氏ニ泊ル、此夜諸所ヲ尋ネタリ
九月十六日 曇天后雨天
此朝河止メノ為メ病院及ヒ倒壊家屋ヲ見廻ル□上ニ先方
ニテ□□□病院々長避難シ居リ、金山博士参リ被居避難
旁々治療ヲナシ居タル、依テ後相談トシタリ、午前十一
時三人ニテ河ヲ渡タリ一時頃無事着シタリ、此日庄太郎
赤羽根ヨリ人足二人連レ居タリ
九時十七日 晴天(后雨天)
此朝赤羽根ヨリ人足三人参ル、早朝亦吉不来ニ付キ断ニ
参リタル所、庄太郎氏丈ケ鎌倉ニ参リ、他ハ仕度出来タ
ル故参ル、自分ハ夫レヨリ藤沢ニ行キ待チ合セ、午前十
一時頃広田支店長参ル、依テ相談シ書面ヲ弐通作製シ、
一通ハ郵便ニ他ハ支店順ニ伝達スル事トシタリ、自分ハ
此日米山自転車やニ立寄リ買入レ自転車ヲ直シ、金仙ニ
テ屋根釘ヲ買入レ午后二時頃帰宅シ、又々田村渡船場ヲ
経テ平塚ニ参ル、此日高梨方ニ立寄ル、午后松五郎方ニ
モ立寄ル、午后六時半帰宅セリ、此夜大雨ニテ出水ノ恐
レアリ皆警戒ス、午后十時頃就眠セリ
九月十八日 晴天
此朝亦吉方ニ参リ同人ヲ依頼セシ所、木島方ニ参ル故明
后日ナラデハ参リ兼ヌル旨被申、無様赤羽根ニ源蔵ヲ遣
ハシタリ、此日庄太郎外二人参ル、自分ハ自転車ニテ用
田ニ参リ伊藤両家及ヒ杢[]訪問ス、途中角右衛門氏
方ノ倅ニ出会ヒ何レモ大破損ナリ、夫レヨリ中新田ニ参
リ大島正秀方ニ訪問ス、同家ニテモ正秀氏本家蚕室ニ於
テ死亡セラル、静岡高等学校ノ生徒被参途中ノ難様ヲ被
話タリ、夫レヨリ正忠氏方ニ参ル、此所ニテモ女児二人
死亡セラルヽ由誠ニ御気の毒ノ有様ナリ、夫レヨリ厚木
ニ参ル、途中篠崎助一郎方ヲ見舞イ無事丁度雅蔵氏被参
サン(惨)状ヲ物語ラル、夫レヨリ駿河支店ニ立寄ル、安西氏
外行員高梨・内藤氏ニ面会、先頃本店ニ出張セシテン(顚)末
ヲ話シ本店ノ意向ヲ話シタリ、岡本氏本店ニ本朝出立、
一時郡役所ヲ借入レ一時支払ヲ為スベキ旨ヲ被話タリ、
本日金庫ノ風入諸帳簿ノ始末ヲ為シ居ラレタリ、夫レヨ
リ内田両家ニ参ル、何レモ悲惨状態ナリ、午后三時頃内
川・飴幸方ヲ訪被参タリ、平塚ニ帰リ内藤氏ニ面会シ宮
崎技手外諸職人ニ面会ス、木村徳太郎方ニ立寄ル、此日
鍼刀屋松五郎仕事ニ一ノ宮ニ参ル、午后六時四十分自宅
ニ帰ル、此日委員会ヲ開キタリ
九月十九日 (晴天)
此日庄太郎外二人参ル、此日午后二時頃ヨリ下男ヲ連レ
平塚ニ参ル、馬入川ノ橋畔ニ荷車ヲ置キ自転車モ預ケ、
夫レヨリ徒歩ニテ参ル、銀行ニ立寄リ宮崎氏不在鎌倉ニ
参リシトノ事、内藤・亀山・斉藤・高梨・杉山、五人出
張シ居タリ、種々打合セヲナシ、可成早々本館ノ出来上
ル様依頼シタリ、夫レヨリ木村徳太郎方ヨリ亜鉛板十八
枚、松五郎方ヨリ五枚(一、四五□□)ヲ持参シ□長トサシカツ
ギニテ馬入川ヲ渡ル、誠ニ滑稽ノ有様ナリ、午后六時半
帰宅ス
九月廿日 (晴天后雨天)
此朝鳶ヲ依頼セシモ承知シマヽ延日トナル、此日庄太郎
外二人参ル、木口ノ選択ヲナシ積ミ重ネタリ、午后〇時
五分頃ヨリ雨天トナル、依テ□時仕事ヲ為シタリ、此夜
□□方ニ参リ亜鉛板百枚足立[ ]依頼シタリ、此日
岸錦氏被[ ]弐人分明日遣ハス旨被申タリ、足立氏
ノ被害モナカ〳〵多キ由聞キ及ブ、此日謙一不快ニテ休

(後略)
(一之宮 入沢章氏蔵)
[解説] 日記の記録者である入沢銀二は、震災同時、駿河銀行
平塚支店長であったが、当日は勤務先において罹災した。朝鮮
人暴動の流言や津波についての情報が、被災当日の夜に届い
ていることは注目される。
4 関東大震災原稿
「(表紙)関東
大震災 原稿
大正十二年九月 勧農鳥識」
大地震
大正十二年九月一日午前十一時五十八分、寒川村ノ被
害損傷 圧死者三十一名、傷者二十七名、全壊母屋五
七五、半壊母屋二三八、土蔵物置下家全壊七二八、半
壊三二九、合計壱千八百七十棟(役場実地調査)
強い南風が吹いて揚げ雨が時々きつー(ママ)降る。巽の方に当
つて面白からぬ怪雲が立つた。今日は秋蚕の一期の繭代
金を純水館から受取つて来たから分配して居た。座談に
大山講が[目録|もくろ]まれて石塚君が注進がてら先発に出掛けら
れた。徒歩連も昼飯を食つて先へ出掛けた。自転車連は
後から出発する事になつて話して居た。家の時計が十二
時を打つと表で異怪な響きがしてグラ〳〵とした。アラ
地震だと六感的に僕が一番先に表へ飛び出した。他の諸
君も飛び出した。出たらばゴウ〳〵グラ〳〵、ビシャ〳〵
どうしても立ちて居られない。歩くことも出来ない。天
地晦瞑上下動で表土のうねりが三四尺の大波のうねり
だ。コンクリ溜の底水が飛び出し、土蔵がメラ〳〵と崩
れる。門が打ち倒れる。母屋がギチ〳〵傾く。地球が滅
するのかしら。今に泥ろ海になるのかしら。人類滅亡の
時かしらと思つた。転がるばかりの所を命惜しやと植木
につかまって辛じて居た。そこへ倅の誠が一人飛び出し
て来て、「お父ーさん」と泣く声も出ないやうにかぢり附
いた。「おゝ」とつかまへて二人で立ちすくんだ。其
の殺(刹)那、妻と他の子供はどうしたらう、助けやうと思つ
ても歩くことが出来ない。只不安に震へて居るばかりだ
つた。その中稍々静まつて歩ける様になつたから家の中
を覗いて、早く出て来いと奴(怒)鳴つた。蚕具雑乱の室の中
から妻と子供と下女ところげる様に飛び出した。皆無事
を喜んで南門の大西の畑の中へ避難さした。ドロ〳〵と
爆音が聞える。ユラ〳〵と動く。皆な生た心地もないや
うだ。表(竹内さん)の家族も同所に集合された。地震
前に居合わせられた、鈴木亥代治、伊澤三五郎、久保田
順之助、岩崎市蔵の諸君は雲を霞と駈けて行かれたのは
いつであつたか、夢中で気が附かなかつた。鈴木亥代治
君は握つた百円札をおつぱなして吹き飛ばして行かれ
た。僕が後で夢中で拾って置いて渡してやつた。お互ひ
によかつた。大西の畑中に二三家族が固まつて居ると平
塚の火薬厰が爆発して凄ごい音響と火焰が濛々と揚がつ
て、大地がグラ〳〵ムク〳〵、其の度毎に一団は堅く固
まる。集合の人々はまるで生色なく世が之でお[終了|しまい]にな
るのかと思はれた。竹内さんは一之宮学校が気遣はれて
見に行くと言はれた。独りでは危ないから僕が同行する
ことにした。附木屋(家号)も倒壊した。[間道|すぐじ]を通つて地蔵堂の
倒れかゝつた所を[潜|くヾ]つて石塔散乱の中を飛び〳〵行く。
大西の土蔵が今にも崩れさうだ。母屋は倒壊した。危な
くなつて道が通れず甘藷畑を通つた。大西の家も避難中
だ。大山街道へ出ると火薬厰の火焰は濛々を物凄い。秦
野町方面の猛火は噴火口と間違へられた。街道の道の亀
裂はゾッとする。大西の石垣はメチャ〳〵、一之宮の家
並はペエチャンコに低く全壊したと見えて立つていな
い。不安にかられて駆け足で行く。亜鉛葺の中瀬の二軒
と景観寺が倒れかゝつて建つているのみで外全部倒壊し
て、惨惨の状は何んとも言ひあらわせない。救助を求む
る声、婦女子の泣き叫ぶ声、此所彼所に起つて何とも手
の附けやうもない。水を求むる者多い故、空手如何とも
することが出来ぬ為め自分は直ちに引き返して部落の青
年を督励して配水に務めた。「一之宮の川原から大山講の
徒歩連が青くなつて引き返した者の言に泥水が噴出して
膝迄も浸水した。之は泥海になると思つたと話された。」
(一之宮の井戸は泥ろ濁りで飲水に大欠乏したのであ
る。)屈強の青年八人に馬臀二つづゝ揚げさして、榎木堂
の井戸が澄んでいたから各二杯宛揚げて配水しようと出
掛けたら(綿友)(家号)さんの倒壊した草葺家から発火して火
事騒ぎとなつた。配水用の水は忽ち鎮火用の水になつた。
中瀬と大曲の青年で辛くも鎮火さして大事に至らずさし
たのは不幸中の大幸であつて、万一あれが大火事になつ
たらそれこそ目も当てられない悲惨事になつたかもしれ
ない。鎮火後再び配水を青年に托して、自分は寒川醸造
会社田端支店へ駈け附けた。全滅々々三百五十二石六斗
八升の清酒がダブ〳〵竈口に泡を吹いて亀裂に染み飽き
ているのを見ると、啞然たらざるを得ない。田端部落も
実に酷い惨めさだ。関澤常務を訪問して支店の生き垣に
つかまつて暫く話した。別れて我が部落へ帰つた。他部
落に比して自部落の被害は比較的に軽い事は天祐だっ
た。一之宮の倒壊の圧死者の噂さが大変になつた。夕方
組合五軒組は力を合せて避難所を裏門先に作つて、共同
して其所に避難をすることにした。浜ノ郷の千秋さんが
安否の見舞に来てくれた。其の話しに石坂家は全滅した
との事だ。併し怪我人は無いとの事で安心した。震動は
時々揺り返しが来て怖じけた神経を尖らせ縮み上げた。
夕方東の方を見れば天を焦すように真赤だ。
鎌倉より飛び帰つた人(補線工夫の鈴木萬蔵)の話しに依れば鎌倉大町は倒壊に
火災で全滅だ。汽車は転覆、線路は飴のように伸曲し、
破損し、電線は切れ交通機関は全部駄目だとのこと。茅
ヶ崎駅新町は全滅、死人沢山、藤沢町の全滅死人無数な
どの情報は刻々に来た。殊に横浜の惨状は目も当てられ
ぬとの事は伝心的に伝へられた。隣の豊さんが横浜へ出
稼ぎに行つたきり頼りがない。妻が心配して泣き込む其
所へ豊さんの実弟和助が藤沢の日の喜(桜本)で圧死さ
れた通知が来る。目も当てられぬ騒ぎだ。不安々々に夜
の幕は下りた。夜警に出た。夜九時頃西久保より香川の
御聖天山に提灯が降るように上下する。人々の叫ぶ声、
泣きわめく声囂々と響いた。耳を澄ますと忽ちに誰かが
海嘯だ々々々と叫ぶ。それ逃げろと云ふ怒鳴声愕然と立
戻つて避難所に注進した。それつと一同の騒ぎ。上を下
への狼狽。老弱男女背負ふ、抱く。家を忘れ、財を捨て、
我先にとヨイシヨ〳〵([中道|なかみち])を這ふように駈けて一部
落一族悉く下寺尾の上原へと避難した。闇の中で橋が陥
落して随分危険だが夢中であつた。原へ駈け上つたら東
京横浜方面が闇に物凄い程真紅で時々電光のようにチラ
〳〵火の渦巻が閃めいた。二時間ばかり固まつて居たが
耳を澄まして海嘯の襲来するけはいもない。涛の音はゴ
ウ〳〵と鳴るが来さうもない。青年を派して実否を探ぐ
らせたが大丈夫来ないとの情報であつた。南湖から夜中
来た人の話しに、そんな気配はないとの事に一同やつと
安心して戻つた。それは海嘯があるだらうと云ふ危憂心
が一犬嘘(虚)を吠えて万犬実を為すと云ふ事で、集配人由太
郎の円蔵西久保の騒ぎを誤報した事に神経過敏の恐怖心
が風声鶴唳に驚いて逃げ出したのだ。併し後では馬鹿気
た事も其の時は夢中に先入して、真切り海嘯だと思ひ込
んでしまつた。一同帰村し避難所に入り、自警団を作つ
て警戒しようと相談をして居たら、不逞鮮人が蜂起して
暴れるから自警せよと唯(誰)れ云ふとなく伝はつて、竹槍、
日本刀、槍など持ち出して男といふ男は皆警戒の任に当
つて徹夜した。夜がら夜つぴて東京横浜方面は真紅であ
つた。横浜辺の石油タンクの爆発でもあつたらう黒煙
濛々と物凄かつた。夜明けて浜ノ郷ノ妻の実家の倒潰見
舞に往つた。其序に新道も見舞つた。大山街道及び新道
の梅田橋附近の亀裂は実に戦慄した。午后一之宮の知巳
の倒潰した見舞に訪ねた。其の惨状はお気の毒とも何と
も言ひ様はない。帰つたら隣の豊さんが無事に帰宅され
た。私が怒つて何んてい馬鹿野郎だ。人々の此の心配を
よそにして悠々翌日の午后三時頃帰るなんて、妻子を放
たらして近所の世話になつて、近所隣へ済むまい。鎌倉
でも逗子でも大抵昨日中に帰つた。横浜でも帰へれぬ事
はないのに而も早朝に来るなら格別、午后三時とは如何
にのん気も程があらうと言つた。夜は又徹夜に竹槍日本
刀を持ち出して警戒した。時々地震もくる。横浜の惨状
や東京の大火災も鮮人の暴行も社会主義者の煽動で火
附、毒薬投下するなど宣伝されて、戦々兢々いよ〳〵神
経が尖つた。第三日目になつた。根岸から倉見の醸造会
社に見舞に行くべく途中で、宮山の架橋が陥没して交通
杜絶に引き返へす。それから部落内で相談の上、総人足
で倒潰せんとする傾斜の家を被害の大なる所より修繕恢
復にかゝた。東(家号)し、豆腐屋新宅等を起した。其晩隣村に
て警鐘を鳴らし大声を発し、呼ぶ[笛|コ]を吹く。朝鮮人数百
名現はる。ソレ応援しろと日本刀竹槍を掲げて下寺尾に
馳せ、田端神の倉に馳せ東奔西走した。其の都度木島先
生は白♠に伝家の宝刀赤鞘の大刀を背負ひ差の雄姿。
堀辺(部)安兵衛其侭其れに従ふ雑兵夥多緊張の眼光物凄い。
やれ小和田で五人やつた。高田で二人やつた。矢畑では
梅田橋の手前、蛇塚のあたりで九州人が砂利部に居つた
が、鮮人六・七名連れて茅ヶ崎へ移動した途中服装が鮮
人に似て居ると云ふので、茅ヶ崎の向ふ見ずの石長の弟
が水も滴たる日本刀でいきなり首をチョン切り落とし
た、などの情報で変態心理になっちまふ。まるで無政府
無秩序である。人を切る、人を殺す。殺討の気分は充満
している。地震は間断なく揺り返す。不眠不休で不安の
状態は繰返された。当部落は此時ぞと一致団結して秩序
を保ち、倒れかゝつた家を起し、修繕して張り木をかい
順々に務めた。夜は鮮人襲来、不良分子の侵入防止の為
め巡羅(邏)警戒した。のみならず思想悪化防止策として、部
落有志として鈴木金太、石塚錠市郎、高橋勘之丞は各米
一俵宛、石塚要之助、大野、利七、竹内八十八は[思召|おぼしめし]と
して救助米を募つた。大野、竹内は快諾され分相応の出
米があった。それで集まつた米を下大曲へ壱俵見舞ふ事
にし、残米を困窮人に按梅救与した。之は寒川村第一等
我が部落が早かつた。之は石塚善一君が率先した為めで
ある。
七日には村会召集あり。何より果より前(善)後策として救助
米を出す協議をなす。村会半ばに、大蔵の或る資産家は
米を不当に騰げて売つたり、竹槍の濫筏(伐)を止めたりした
為めに部落民が激昂して突き殺すの騒ぎに、土下座陳謝
して命拾ひをしたの、小谷部落では某資産家に米の譲与
を迫つて入れられず遂に暴動化し、資産家要撃の情報
頻々たるもので村長は直ちに警察署に急報し軍隊の応援
を求めた。用田駐屯の十五名の騎兵軍隊急派して鎮撫し
た。そんな騒ぎをしたが村会協議会を纏めて、村の事業
として十三石六斗八升(一人一升宛)ノ救助米を出す事
に決議して散会した。
 九日に倉見の醸造会社へ漸く見舞に行った。毎日家起
しの仕事は続いて十日十二日と経つても地震は時々来
る。十三日に村会召集緊急事項二三を議決した。十五日
長崎醸造会社長の死を報して来た。其の遺骨を持ち帰ら
れたので、共に本社まで送つた。其翌日仮埋葬する事に
なり当日会葬した。又地震あり。踰えて二十六日田端会
社支店の片附けに行く。夕方大地震あり。東京より島田
佐太郎来合せ飛び上つて愕いた。
以上(自部落中心に村本位に書く東京横浜は公刊書で明
かなり)
九月三十日新聞言論は我意見と合致す。
不撓不屈の精神
貴重な人命十五万を失ひ国富百億円を空無に帰せしめ
た。今度の大地震大火災は確に我国空前の禍災であらね
ばならぬ。然も見方に依つては是れ旱天が我が国民を大
ならしめんと欲し、之に一大試練の機会を与へたものと
も想察せらるゝではない乎。
顧みるに最近の我日本は人心緊張を欠き、質素勤倹の美
風も地を払ひ大分奢侈に流れて居た。欧米の諸国は世界
大戦に参加し数百万の兵を動かし相当に苦痛を嘗めたけ
れども、我国のみは交戦国の一とはなり乍ら戦争らしき
戦争はしなかった。青島攻囲やら南洋占領やら孰れも弱
敵に対したもので、その兵力の損傷も軍費も些細なもの
であった。即ち欧米諸国が戦争に依つて受けた試練の如
きは我国の経験し無い所であり、我国民は自力に依らず
唯だ戦争てふ変事の下に生れ出た成金連の跳梁の為め
に、良俗美風を敗壊したに止まつたのである。換言すれ
ば欧州人は戦争に依つて精神的に覚醒し復活したけれど
も我国民はそれがなかつた。従つて欧米人の戦後の活躍
努力、みるべきものある中に我国民は宛然長夜の宴を貪
るの観があつたのである。然るに今回の禍災は不幸事と
は言ひ乍ら少くとも、我国民の愉楽と迷夢とを破つた点
で欧米人に対する世界大戦の如きものがある。国民は之
を好機として奮然努力、新らしき都市新らしき日本の建
設を全うすべきではあるまいか。
或は言ふ「今回の損害や百億円を超ふ、是れ致命的打撃
である」と。吾人は之に対して問いたい。「戦債七百億を
負担し之が利子払に毎年三十億円を支出せねばならぬ英
仏両国と其の損害多少孰れぞやと。要するに我国は今回
に於いても「辛苦は創造の母」てふ格言通りの考へで艱
難と共に勇気を百倍し、百折不撓各その目的の達成に盡
力す可きである。而して最近の消息は我国民の堅忍的特
性を証拠立てつゝあるを思はしむる。即ち東京市各区の
バラック建が浅草区の九千九百、下谷区の六千、深川の
五千六百、本所の四千八百、神田の三千、京橋の二千等
着々急速に推捗し是等が旧営業復活を意味するを考ふる
と、罹災者の勇気勃々たるを感ぜねばならぬ。然もこは
一歩であり、一端である。吾人は我国民の勇気と回復力
が各方面に亘り又久しきに亘つて大に発露せんことを希
望せねばならない。 (十二、九、三〇)
大地震に対する我観想
大地震があつて極端な恐怖心に襲はれ人心動揺して意気
頗る消沈した。或る者は過去の積財を蕩盡したを悲み、
或る者は将来の生活を慮り空手黙々少しも生気がない。
金融機関は絶え交通機関は不通、無警備無秩序、如何に
此の世が展開するものかを杞憂した。それが為めに自警
団が出来竹槍日本刀を舁いで各自団結して警備に当つ
た。其の中戒厳令が布かれ軍隊が派遣されて直ちに秩序
が恢復された。金融もぼつ〳〵預金に限り一ト口金五十
円払戻す事に各銀行組合で開業した。それから倒潰家屋
片附けに労働者が羽が生えて飛ぶようになり、職工は依
頼を撃退するに骨が折れる。米が一俵十三円五十銭のも
のが一気に十五円になつたよりも職人手間が一日金一円
九十銭のものが金二円五十銭の暴騰となり米は廻送が付
くと同時に亦以前の十三円に下落したに拘らず職人は二
円五十銭では来てがない。秘密に祝儀酒手として一日三
円四円五円にもなる様にしなければ機嫌能く来ない。殆
と金の前には義理人情はない。利に誘はれては得意もお
出入りもなかつた。震災直後は金といふても何等権威が
なく各自、[身|み]用心に力らの強いものが強かつた。それが
秩序が整つた今日には金より偉いものはないといふ絶大
の権威を持つようになつた。震災直後金持程戦々競々た
るものはなかつた。金さへ無くば安心だといふ感じがし
たらうに今日は金がないと思ふ事一つも出来ない。やつ
ぱり金があればよいなアと思はれる。一瞬間に斯うも激
しく変るものかしらと思つた。併し金も莫大には無くも
よい。遊んで居て金の利息で食ふなどは望ましくない。
或る程度でよろしいと思ふが、力の養成は実に最後まで
の勝であるから実力の養成こそは肝要欠く可らざるもの
である。力即ち腕力、腕力も相当なくてはならぬ。智力
智力も相当なくてはならぬ。智力と腕力と兼用ある者は
非常時に於て少しも狼狽しなくともよい。さ程悲観しな
くもよい。それが近頃は智力の方のみ先に進み過ぎた為
めに天変地変に邂逅したら最後、意気消沈して為すなき
迄に自失するこそ腑甲斐ない。之れ実力の中の腕力衰乏
に因るのではあるまいか。昔し宝永年間に富士山の爆発
に十三日天地晦冥地震雷降灰実に物凄い状態であつたさ
うな。然るを後日焼砂利が降り積つて良田畑を埋めたを
子孫永遠の為めに孜々営々大なる労力を掛けて其の砂を
搔き寄せ点々小島に盛り上げ、今日其の仕事の如何に元
気に如何に偉大なる事業たりしかは想像するだに及ばざ
るものである。其当時の人々の偉力と元気は此の一端を
見ても驚くの外はない。私は今回の大震災に財産を失ふ
たを悲み空手消沈するをやめ、寧ろ積極的に元気を付け
各自の事業を継続し、金を借りても目久尻、小出の両川
改渫をなし耕整も進めて機械農に展開する機運を作るべ
き時機であると思ふ。 (十二、九、一八)
復興
「焼き尽くされた物は何か?あれはみな人が造つたもの
だ。自然が造つたものではない。然らば人さへあらば必
ず将来に出来るものなり」この心こそ復興第一義である。
 魔の神が打ちて砕きて焼き払ふとも
強きこゝろ信念は永[久|とは]に滅びず
[大地震|おふない]のいましめうけし苦しみを
耐えゆく身の 我れは幸なり
行きつまる幕を張りたる世の中を
只一筋にやりとうすなり
(大曲 高橋聰暢氏蔵)
[解説] 筆者である高橋勘之丞は明治十八年(一八八五)大曲
の生まれで、人物伝である『郷神遺芳』の筆者。大震災当時は
三八歳、寒川村の村会議員在任中であった。原稿用紙に楷書で
書かれているのは、公刊する準備だったのであろうか。資料に
は震災による被害の生々しさとともに、議員として人心の安
定や治安の維持に苦慮する姿がうかがえる。なお、文中には、
この震災によって当時倉見にあった寒川醸造が倒壊したこと
もふれられているが、翌十三年に解散した同社の事業は勘之
丞が引き継ぐこととなる。
5 高橋誠著『我が春秋の道』(抄)
◆関東大震災、北東の空は真っ赤に明るい
 大正十二年九月一日、私が小学校四年、二学期の始業
式を終わり、その日は暑かったので、家に帰るなりユニ
ホームとパンツだけになり昼食を食べている時だった。
 急にグラグラと家がゆれる。父や母が「ソラ地震だ。
早く外に出ろ」とどなる。夢中で外に出た。地面が波の
ようにうねってゆれる。六尺もある外の[溜|ため]を夢中で飛び
越え、裏木戸から畑(今は石塚氏の温室の場所、拙宅の
物干し場として借りていた)に泳ぐように出た。横ゆれ
とともに上下にも激しくゆれる。全く地獄に落ち込むよ
うな感じだった。
 家はものすごくゆれるが、それでも倒れなかった。夏
蚕繭の代金を父が鈴木亥代治氏等に分けているときの事
だったが、皆散り散りになり、どこにも見当たらなかっ
た。後で聞いたが、鈴木氏は地震のおさまりかけたころ、
すぐ自宅にかけていってしまったとのこと。
 当時は一銭の金も尊く百円札等は蚕のとき以外は見る
ことが出来ない。それをフミちゃん(田端三掘(堀)氏に嫁ぐ)
が後で一枚、二枚と拾った。首がとぶような金でも、ひ
とたび地震があれば無欲となり、それと捨てて逃げる。
これを見てもいかに命が尊いかをしみじみ知った。
 余震は数えきれぬ程来たが、何としても夜このままで
は仕方ないと、近所の大人達が集まり相談の結果、裏木
戸の物干し場に板床(養蚕のとき使う畳一畳の大きさの
板の戸)を敷き、ノロで掘立小屋を造った。屋根はない
が、カヤはつれるようにし、町内五軒の者が全員ざこ寝
をする。地震のあいまを見てカマドやカマを出し、村中
の井戸のうちで、にごりの少ない井戸水をくんで来て共
同炊事をすることにした。
 豆腐屋(高橋タマ氏宅)の寅次郎おじいさんが、仏の
如く骨に皮をかぶせたようにやせていながら、口だけは
悪口雑言、一人でいばっている(九十歳以上だったろう)。
[一|かず]さんが背に負ってつれて来た。裸で布団をかぶりなが
らどなっている。全く手におえない雷爺さんだった。
 烏合の衆の中に五郎さんが芹沢に奉公に行っていた
が、地震で頭にカワラが落ち、頂上に穴があき血だらけ
になり、つられて来た。医者もなし、応急の手当てをし
て寝かせるくらいが関の山だった。
 夕方近くなって何だかざわざわさわがしくなった。二、
三の人が聞いて来たら、ツナミが来るとのこと。村(部
落)の代表者が間門橋まで行って、橋の上からごみを投
下したら逆さに流れたといってとんで帰って来た。
 さあ大変だ、皆取るものも取りあえず寺尾の原に急げ
との命令。香川の七面様には提灯の火が今のクリスマス
灯のようにつながって上って行く。ほんとうにたまげ、
皆でかけ足で寺尾の原に急いだ。私は昼のときのユニホ
ームとパンツだけなので、先頭に立ってかけた。母は妹
の幸子をだいたまま寺尾先までかけたと聞く。
 大曲中の者がほとんど集まり皆おびえている。大野手
太郎爺さんは自分のサンゴー樹に昇りロープで体をゆわ
えて残った等の話が出た。寺尾橋は落ち、その上を皆ま
たぎ原の上にあがった。北東方面の空が真っ赤になり、
ものすごい姿だ。だれかが「あれは東京方面だ、東京が
あんなに焼けているのだ」と教えてくれた。
 不気味な夜だった。二時間位して何の変化も表れない。
若い人が代表で村を見に来たが、異常ないとの返事。年
寄りの人が「もう津波は来ないよ」と言い出し、それぞ
れ帰途につく。行くときは夢中で通った寺尾橋だったが、
帰りは女どもはこわくて渡れないと言って、男の人の力
を借り渡った。人間の心理状態がこのように変わるのか
と子供心にもわかった。
 掘立小屋で一晩過ごし、翌日村中を歩いて驚いた。県
道淵の石塚四郎氏宅、鈴木仙蔵氏宅等、皆倒れていた。
県道は鈴木勝比古氏宅前より間門橋に至る間、中央が四
尺位割れ、深さも五尺位あった。父に聞いたら一之宮は
ほとんど倒壊……。炊き出しをしなければいけないと、
皆が右往左往していた。戒厳令がしかれ一之宮木嶋さん
に軍隊が来て、ケンツキデッポウ(剣付鉄砲)でおどか
されビックリしたと父が話してくれた。戒厳令とはどん
なものか、子供の私にはわからないが、父は戦争と同じ
だと教えてくれた。
 人間は冷静を失うとどんなになるかわからない。朝鮮
人騒ぎが起き、ちょっと顔を知られていない変わった姿
をしていると、朝鮮人と間違えられ切り殺されてしまう。
皆、昔から伝わっているワキザシ、刀等を腰にさし、後
ろ鉢巻きで動き回っている。矢畑でも茅ヶ崎でも朝鮮人
が切られたそうだ……等とニュースがひんぴんと入って
来る。子供心にこわいのとおもしろいのと、何が何だか
わからないというのが実感だった。
 余震も漸く治まり一週間程してバラックから各家に移
った。しかし、二、三寸よろけて戸障子の開け立ても思
うようにならぬ。村中の人が相談し協力して一軒ずつ家
を起こして回った。私の家の門も倒れていて仕方ないの
で一緒に起こしてもらい、トタンぶきに変えどうやら門
らしくなった。各家は皆ツッカイ棒の太いので家を支え
て、安心して入れるようになった。横浜では相当数の死
亡者が出、東京では地震より火事の被害が莫大で、特に
被服廠では数万人の人が死んだと聞く。
 私は今にしてつくづく考えるに、人間は平時は欲、欲、
欲で固まって利己的になるが、いったん大災害にあうと
アフリカの野生動物の如く集団となり皆の力の寄せ集め
で自衛して行こうと自然に考える。それがほんとうの姿
なのかも知れない。
 金も物もいらない。ただ生きるために皆が力を合わせ
る姿、これこそ真の人間の姿ではなかろうか。大震災と
いう天災にあい、人のよさを子供心に見たことは私の良
き記憶の一ページだったと信じている。
 戒厳令が敷かれ、残った木嶋医院に本部が置かれ、軍
隊が剣付鉄砲でいかめしく立って居た。 一之宮の通りは
殆ど軒並みに倒れ、無残な姿であった。それでも火災に
ならなかったのがせめても幸いであった。寿司権さんの
家だけが二階を建てていたが、下がこわれ二階がスポン
と下に落ちたのでそれを使い店をやられたのを今でも覚
えている。
 一月十五日、二度目の地震が朝来た。九月のとき落ち
なかった前の倉庫の[庇|ひさし]が大きな音を立て落ちた。びっく
りして皆外に飛び出した。その時の被害は庇だけで他の
建物はツッカイ棒のため大丈夫であった。
 後で聞いた事であるが、東京では地震は我々の所の半
分位であったが、火災のため殆ど大半が焼け、見るも無
残な焼け野原になったとのこと。都会の恐ろしさが子供
心にも頭に焼きついている。
 小学校当時の思い出はあまり多くないが、地震のとき
残った鍵形のぼろ屋で床がガタガタしており、羽目も
所々に穴があいていた。その中で佐藤先生(後の大矢昇
先生)に教えられたことはよく知っている。小さなオル
ガンで唱歌をうたった。
(高橋誠著『わが春秋の道』より)
[解説] 『わが春秋の道』は昭和五十七年(一九八二)に高橋
誠氏が著した自叙伝。子どものころから町長在任中のことま
でを綴っている。そのなかで震災の記録は、家屋倒壊の実態、
避難のようす、津波のうわさなど、詳細でかつわかりやすく描
写されている。
6 震災につき救助・被救助者の控
「 (表紙)九月一日
大正十二年震災ニ救助被救助者控
大蔵部落 」
大正十二年九月一日震災ニ付救助受タル人名
一玄米 五升 栗田源治郎
一白米 壱斗五升 柴田徳太郎
外ニ金五拾銭
堀(掘)立小屋材料若干
一玄米 壱斗五升 藤井佐吉
一白米 弐斗八升 藤井政吉
外ニ金壱円也
堀立小屋材料若干
一白米 壱斗弐升 藤井仁作
外ニ金五拾銭
一白米 壱斗七升 露木峯松
外ニ金五拾銭
堀立小屋材料若干
白米一 七升 藤井ヒサ
一玄米 壱斗 露木林蔵
一玄米 壱斗 藤井福松
一玄米 壱斗 菊地寅松
外ニ金五拾銭
一白米 壱斗弐升 石井文三郎
外ニ金五拾銭
一玄米 壱斗 露木富士松
一玄米 壱斗 石井広松
大正十二年九月一日震災付救助シタル人名
一金九円也 柴田菊治郎
一金拾六円五拾八銭 露木常吉
一金拾六円也 菊地卯之助
一金参円五拾銭 栗田友次郎
一金拾円五拾銭 露木長太郎
一金拾円也 露木啓治郎
一金参円参拾参銭 石井惣治郎
一金参円参拾四銭 露木柳次郎
一金参円参拾参銭 露木忠蔵
一金拾円五拾銭 石井芳太郎
(大蔵自治会蔵)
[解説] 震災直後の大蔵地区における罹災者救助の記録。金
銭はもとより玄米・白米といった当座の食料の支給は、震災直
後の切迫した現場の様子を物語っている。
7 関東大震災時の情景(抄)
大正拾二年九月一日
その日は土曜日でした。私はちょうど奥の番で、がらす
そうじをして二かいそうじもすみました。奥様にお薬を
上げ[様|よう]と思つて時計を見ると、十一時二十分過ぎでまだ
拾分早やいと思つて、それから湯殿そうじをすまして、
廊下へ上がつて来ました。なんだか足がふら〳〵します。
いきなりひつくりかへつて来る戸棚、かはらは落ちてあ
たりはぼうとして何にも見なく、その内に旦那様がはだ
かで裏には(庭)へとび出して、地震だ〳〵とだなりましたの
で、初てじしんと知りましてあわてゝかけ出しましたが、
ゆれかたがはげしくてあるけませんから、はいづつて奥
様の所へ行き、わらぶとんにかじり付いて居りました。
まさ子さんは、はばかりの手あらいはちでひしゃくを持
つて、何かいたずらして居りましたが、びっくりしてか
けてくる。おきよさんはおひるの仕たくをして、あじ(鰺)の
フライを造つてあげおへて上がつてくる所、これもびつ
くりしておくさまの所へかけて来る。四人で奥様のふと
んにかじり付いて居りました。あの時はずい分らくでし
たと今そ(ん脱カ)なことを云つて、旦那様にのんきなやつだと笑
はれました。すこししますと地震もしずまりました様で
す。すると又旦那様が大きな声で、ゆりかへしが来るか
ら早やく出ろ、とどなりましたから、奥様といつしよに
出ました。その時二かいのはしごだん所まで
(後欠)
(小谷 大久保芳正氏蔵)
[解説] 半紙の断片に墨書した史料。誰が書いたものか、どこ
の情景を書いたものか、詳細は不明であるが、おそらく女性で
あろう筆者が、奉公先での被災の様子を記したものと思われ
る。
8 寒川神社重要日誌摘録(抄)
「(表紙)明治四十四年以降
重要日誌摘録
寒川神社々務所
庶第百弐弐号ノ弐 」
(中略)
(大正十二年)
九月 一日 午前十一時五十八分大地震アリ被害甚
大(此日朝来雨、十時頃快晴トナリ 風
強ク吹ク)本殿二尺後方へ移動、幣殿・
拝殿・神門・祭器庫・社務所・二ノ鳥
居大傾斜、神輿殿・水屋・一ノ鳥居倒
潰、参集所・神饌所ハ被害比較的小ナ
リ、余震頻々トシテ十二月ニ及ブ
九月 八日 加城県属震災被害視察ノタメ来社
九月 十五日 降雨増水、馬入橋ヲ始メ其他ノ橋梁通
行止ニ付、避難民十七名ヲ社務所ニ宿
泊セシメ食料ヲ給シテ救助ス
九月 十六日 本タモ同上ニヨリ六名避難ニ付救助ス
九月 十七日 本日ヨリ震災後始メテ郵便ノ取扱ヲナ
シ配達人来ル
九月二十六日 晴、午後五時十五分強震、引続キ二回
来ル
十月 三日 晴、午後一時五分強震襲来
十月 五日 晴、午後十時強震アリ
(中略)
十月 十六日 曇、午前三時強震アリ
十月 十七日 角南内務技師内務技手ヲ随ヘテ震災被
害実地調査ノ為来社
十月 二十日 晴、九月二十日ノ例祭ヲ延期シテ本日
執行、佐藤高座郡長加城属ヲ随へ幣帛
供進使トシテ参向、本日国土安穏民人
除災ノ祈願祭ヲ行ヒ、一般ニ災難除神
札ヲ無料ニテ授与ス
(中略)
十一月 四日 寒川小学校ニ於テ大震災殉難死者追悼
祭ヲ行フ
十一月 五日 晴、午前五時強震アリ
十一月 六日 晴曇、午後九時強震アリ
十一月二十三日 晴、午前十時新嘗祭執行、佐藤高座郡
長弊帛供進使トシテ郡書記ヲ随へ参
向、祭典中午前十一時半激震アリ、本
日農産物ヲ神前ニ奉献セシメ品評会ヲ
催シ優良出品者ニ賞品ヲ授与ス
(中略)
十二月 三十日 浅岡工務所長ノ好意ニヨリ本日及ヒ三
十一ノ両日ニテ拝殿・弊害ノ傾斜ヲ直

大正 十三年
一月 十五日 曇、午前六時大地震起リ拝殿並ニ弊殿
ヲ傾斜セシメ神饌所ヲ西北ニ辷ラセリ
(中略)
四月二十一日 正午、中央気象台技師小野澄之助氏来
社シ地震実地踏査ノ為境内ヲ視察ス
(寒川神社蔵)
9 寒川神社庶務回議綴(抄)
庶第八号
大正十二年九月二日 国弊中社寒川神社宮司河村政士印
神奈川県知事安河内麻吉殿
震災地震被害報告
九月一日ノ地震ニテ左ノ通リ被害有之候条此段報告ニ及
ヒ候也

一本殿、本位置ヨリ約一尺後方へ退ク移動
「(欄外)一木造内玉垣一部倒壊」
一弊殿、半倒壊傾斜
一拝殿、半倒壊傾斜
一石造玉垣、全部倒壊
一神門、半倒壊傾斜
一神輿殿、全部倒壊
一木造二ノ鳥居、著シク傾斜
一水屋、倒壊
一石造太鼓橋、半倒壊
一石造一ノ鳥居、倒壊
一社務所、半倒壊
一神饌所、被害軽微大ナラズ
一参集所、被害同上
一宮司舎宅、同上二寸程移動壁土墜落
一石土籠二基、破壊
一天水桶台二基、破壊
一祭器庫、傾斜
一基他祭器祭具等破壊シタルモノ多シ
(寒川神社蔵)
10 寒川神社庶務回議綴(抄)
境内地立木伐採ノ義ニ付稟請
参集社務所南側
一松 壱本 目通 八尺五寸
末社西側
一柴 壱本 目通 五尺
一杉 壱本 目通 三尺四寸
一杉 壱本 目通 二尺
一杉 壱本 目通 四尺五寸
一杉 壱本 目通 二尺
一杉 壱本 目通 二尺七寸
一杉 壱本 目通 二尺二寸
大門西側
一柴 壱本 目通 四尺
一杉 壱本 目通 参尺五寸
一杉 壱本 目通 三尺
大門東側
一枯損木松 壱本 目通 五尺三寸
一杉 壱本 目通 四尺四寸
一杉 壱本 目通 三尺
一杉 壱本 目通 五尺四寸
一杉 壱本 目通 六尺八寸
一杉 壱本 目通 六尺
計十八本
右ハ客年九月一日ノ震災ノ影響ヲ蒙リテ枯損スルニ至リ
タルモノニシテ、境内ノ樹木ハ一木タリトモ苟モスベカ
ラザルヲ思ヒ種々手当ヲ施シテ一陽来復ヲ待チタルモ、
遂ニ復活ノ見込ナキニ依リ、茲ニ伐採ノ許可ヲ得テ売却
致シ、又黒印アルモノハ当所燃料ニ使用致シ度候間、御
許可相成度、此段及稟請候也
年 月 日 宮司
知事宛
(図有り)
(寒川神社蔵)
11 寒川神社宿直日誌
「(表紙)大正十二年
宿直日誌
寒川神社
第 号二〇 」
(前略)
九月一日 主典
一夜警如例 (地震ニ付キ二回)
一社頭無事
(後略)
「(表紙)大正十三年
宿直日誌
寒川神社
第 号二一 」
(前略)
一月十五日 主典
一夜警如例
一社頭無事
一本朝六時頃大地震起ル
(中略)
八月五日 祢宜
一夜警例刻執行
一社頭異状無シ
一翌朝午前三時四十分地震引続キ、予報通リ降雨トナレ

八月六日 祢宜
一夜警降雨ノタメ中止
一社頭異状無シ
一午後十一時十五分稍強キ地震アリ
(中略)
八月十四日 祢宜
一夜警例刻執行
一翌朝午前三時二分長震アリ、社頭ニハ異変ナシ
(後略)
(寒川神社蔵)
12 寒川神社社務日誌(抄)
「(表紙)大正十二年
社務日誌
寒川神社
第 号49 」
(前略)
九月一日 土曜 朝雨後晴午後地震
一月次祭午前拾時奉仕、宮司・主典奉仕
一午後零時三十分頃大地震起リ神社本殿・拝殿・幣殿等
皆傾斜、但シ本殿ノミハ土台ヨリ一尺位後方ニスベル、
他ノ天水瓶・御奥殿・手水舎・一ノ鳥居等倒ル、其ノ
他社務所破損随神門・二ノ鳥居傾斜ス
一神社附近ノ人家全部傾倒、又ハ倒壊ス、宮司舎宅ハ被
害少ナリ 当直 主典
九月二日 日曜 晴
一日供ナシ地震ニ付キ一時中止ス地震被害ノ後始末
九月三日 月曜 晴午後雨
一地震ニテ社務所傾斜ニ付キ、一時社務所ヲ参集所ニ移
シ種々道具ヲ搬入ス
一一日ノ地震々源地ハ伊豆ノ三原山附近トノコトニ付
キ、今後ハ微動ハアルモ強震ハ無キ見込トノコトニテ、
一般人ニ安心セシムベク二、三ケ所へ貼札ヲナス
九月四日 火曜 晴
一地震後始末、但シ社務所ノ整理ヲナス
九月五日(略)
九月六日 木曜 晴
一日供主典奉仕 当直同人
一本日夕刻高橋祢宜帰任ス、地震ニ付キ遅レタリ
九月七日 金曜 晴
一日供主典奉仕 当直同人
一震災後片付ヲナス
一高橋祢宜本日欠勤ス
九月八日 土曜 晴
一日供祢宜奉仕 当直同人
一高橋祢宜本日ヨリ出勤ス
一加城属震災被害調査ノタメ、午後二時来社、午後四時
半帰庁
(中略)
九月十五日 土曜 雨曇
一月次祭午後二時執行、主典奉仕
一高橋祢宜九月一日震災報告及例祭日問合ニ付キ出県ス
当直主典
一例祭ヲ一月延期シテ十月二十日ニ執行スルコトニ決定

一馬入橋及諸橋梁通行止メニ付十七名社務所へ宿泊ス
九月十六日 日曜 晴夕刻夕立雨
一日供主典奉仕 当直同人
一本日白米五升及甘藷約五貫目ヲ食糧トシテ炊出ヲナス
一本夜モ尚六名宿泊ヲナス
九月十七日 月曜 晴夕刻雨
一日供祢宜奉仕 当直同人
一本日ヨリ郵便開始
(中略)
九月二十日 木曜 曇雨
一日供主典奉仕 当直同人
一例祭日十月二十日ニ延期ス
(中略)
九月二十六日 水曜 晴
一日供主典奉仕 当直同人
一午後五時十五分頃強震引続二回、人心ヲシテ恟々ノ念
ヲ新ナラシム
(中略)
十月三日 水曜 晴
一日供祢宜奉仕 当直同人
一宮司震災被害報告並ニ之ニ対シ復旧工事ニ関スル打合
ニ付キ内務省へ出張
一夜午後(ママ)一時五分強震襲来
十月四日(略)
十月五日 金曜 晴
一日供祢宜奉仕 当直同人
一夜十時強震アリ
十月六日(略)
十月七 日曜 雨
一日供祢宜奉仕 当直同人
一震災倒壊物取片付ケ人夫七人来社シテ整頓ヲナス
十月八日(略)
十月九日(略)
十月十日(略)
十月十一日 木曜 晴
一日供祢宜奉仕 当直同人
一宮司当社御改造協議ニ付キ出県ス
十月十二日(略)
十月十三日(略)
十月十四日 日曜 曇
一日供主典奉仕 当直同人
一宮司寒川村復興会ノ件ニ付村役場へ出張ス
十月十五日(略)
十月十六日 火曜 曇
一日供主典奉仕 当直同人
一夜午前三時頃強震ありたり
十月十七日 水曜 晴
一日供祢宜奉仕 当直同人
一午前十時神嘗祭、遙拝式執行、宮司以下奉仕
一内務技師、技手震災被害実地調査ノタメ本日正午来社、
宮司ノ案内ニヨリテ詳細ノ調査ヲ遂ゲ、午後二時帰庁
セリ
一茅ヶ崎ノ石工富田茂太郎太鼓橋・玉垣等復旧見積ノタ
メニ来ル
十月十八日(略)
十月十九日(略)
十月二十日 土曜 晴
一午前十時例祭執行並ニ国土安穏災難除祈禱斎行、佐藤
高座郡長供進使トシテ加城属随員トシテ参向、秋岡鎌
倉宮々司一員ヲ引率シ、泊瀬川八幡宮祢宜・小出村長・
当村佐藤助役・村会議員数名・宮山委員長・神社係長・
青年支部長・小学生徒ヲ引率シテ参列ス、其数二十有
余名、
祭典後災難除神札ヲ無料ニテ供物トヲ授与ス
震災後ノ祭典トテ淋シカラント思ヒノ外殷賑ヲ極ム
(中略)
十一月一日 木曜 晴
一月次祭午前十時執行、宮司以下職員奉仕
一午後一時御用商人金子松蔵ガ金子喜代ニ交替、報告祭
執行、深水名誉主典モ奉仕 当直主典
一祭典後宮司四日執行ノ追悼会打合ニ役場へ出向
十一月二日(略)
十一月三日(略)
十一月四日 日曜 晴
一日供祢宜奉仕 当直同人
一大震災惨死者追悼会ヲ午後一時寒川小学校々庭ニ於テ
執行ス、神社職員一同・能條社掌参加ス
十一月五日 月曜 晴
一日供主典奉仕 当直同人
一能条社掌午後来社ス
一本朝五時強震アリタリ
十一月六日 火曜 晴曇
一日供祢宜奉仕 当直同人
一午後九時強震アリ
(中略)
十一月二十一日 水曜 晴
一日供主典奉仕 当直同人
一本日新嘗祭献備品受付ヲナス
一本郡神職会主催九月一日震災惨死者追悼会挙行ニ付キ
宮司藤沢小学校へ出張、社僕同判(伴)
十一月二十二日(略)
十一月二十三日 金曜 晴
一午前九時新嘗祭執行、佐藤郡長、郡書記ヲ引率シ供進
使トシテ参向ス
村長・村会議員・神社係・小学校長生徒引率シ参拝、
玉串奉奠ト同時ニ宮司作製ノ新嘗祭唱歌ヲ歌フ 当直
主典
一午前十一時四十分頃強震アリ
一献備品ヲ拝殿内ニ飾置シ一般人ノ観覧ニ供ス、其ノ数
百六十三点ニ達ス
(後略)
(寒川神社蔵)
13 寒川神社社務日誌(抄)
「(表紙)大正十三年
社務日誌
寒川神社
第 号50 」
(前略)
一月十五日 火曜 曇
一月次祭午前十時執行、宮司以下職員奉仕
一本朝六時頃大震起リ拝殿並ニ幣殿ヲ傾斜スルコト非
常、神饌所ヲ西北ニ辷ラス、宮司社宅モ同上(風聞ニ依
レバ北部ハ被害甚大ラシ)
一本日寒川村委員長ヲ招待シテ新年会開催ノ筈ノ処、本
朝ノ地震ニテ一時中止 当直祢宜
(中略)
一月二十九日 火曜 曇
一日供祢宜奉仕 当直同人
一本日神社係長井出幸治外数名ニテ来社、宮山神社ノ傾
斜ヲ修理ヲナス
一月三十日 水曜 晴
一日供主典奉仕 当直同人
一日供後豊漁祈禱祭ヲ主典執行
一本日宮司茅ヶ崎町へ左ノ用件ニツキ出張
1石屋(鳥居戸)へ本殿ノ下及玉垣ノ石垣修理工事依頼
ノ件
2山田表具師ニ社務所壁張替へ依頼ノ件
3浅岡工務所へ御礼旁々御挨拶ヲ兼ネ
4鈴木孫七へ年始及豊漁祈禱神札持参
一竹内主典宮司ニ随行及木村留次郎宅祈禱出張
一月三十一日 木曜 快晴
一日供祢宜奉仕 当直同人
一本日宮司本県庁へ出張
一本日ヨリ石工二人石屋来リテ本殿下石垣修理ニ着手ス
(中略)
八月十四日 木曜 晴 当直 祢宜
一日供祢宜奉仕
一大木僧侶九月一日ノ追弔祭ニ付参社
一午後三時二分上下動ノ微震アリ
八月十五日(略)
八月十六日 土曜 晴 当 祢宜
一日供祢宜奉仕
一河村宮司寒川村役場へ震災一周年追悼祭ノ件ニ付出張
一郵便配達昨今来ラズ
(後略)
(寒川神社蔵)
[解説] 寒川神社に残る諸記録から、地震に関する史料を掲
げた。関東大震災発生時の様子から、被害の状況および修復の
経緯についてその状況をうかがうことができる。震災直後も
しばしば余震があったことが読みとれるが、その中でも翌年
一月十五日の早朝発生した余震は、丹沢山付近を震央とした
震度六の烈震でその最も大きな余震であり、震災に追い打ち
をかけるかたちとなった。修理が進んでいた寒川神社でも、再
び拝殿や幣殿などが傾斜し大きな被害となった。
14 北村勝乗の日記(抄)
(表紙)「大正拾弐年日誌」
(前略)
九月一日 晴 正午頃昼休みをしていると、大地震でも
早□まるで天地せんばかり、目をさますと母とすぐ表
の庭をころがっているのを見た。家ハつぶれて、自分
と時子とヒサ子、家と共にあわやつぶれる処を助かっ
て出る事が出来た。母ハ家ガ東へ寝たので、庭であっ
たのがやはり家の下になられて後から出られた。古き
物置、湯殿ハつぶれて、茅場と堆肥舎ハぶら〳〵にな
って残った。他家を見ると、隣ハ手水場が残て、他ハ
土蔵もつぶれ、新屋ハ湯殿が残り、いなりまヘハ手水
場が残り、あらやハ湯殿と土蔵がぶら〳〵ながら残り、
前ハ(ママ)もつぶれ、町内ハ全滅の有様で、門沢橋の方
を見ても中倉見の方を見ても家ハ見へない。浦(裏)の田ハ
稲がうまりてやっと首を出している。地震ハ後から
〳〵とゆり続けでうか〳〵出来ない。地面ハえみさけ
て二尺や三尺の口を開ている所ハ沢山ある。東京、横
浜の方面ハ火事と見へて、夕方から真一面ニ赤く見え
る。寝所ハ地震が続て来るので外へ仮屋をつくて不安
ながら一夜を明した
二日 晴 つぶれた後の片付け。手も付け様もない有様
だ。門沢橋方面一円ニ半鐘が鳴る。火事かと思て見れ
と煙も見えぬ。其の内ニ、朝鮮人の暴徒だ早く用意し
て宮山へ知らせろー、となつて来た。それ大変と各々
万能を持て集つた。青山街道を二百人もをしよせて、
厚木の橋が落たので下へ来る噂で、馬橋の門へ集ると
又茅ヶ崎方面ハ馬入橋が落ちて八王子街道を北へ来る
と、巡査の通知で群集ハ実ニ中倉見へ集つて、各地へ
斥候を出して驚(警)戒した。各方面で半鐘ヤ太鼓が鳴るの
で戦地も及はぬ有様で夜を明した。
三日 晴 片付け、朝鮮人征伐、老人女子供ハ山へかく
れ或ハ桑園等の人気のなき場所ニ入りて、男ハ皆竹槍
を持て警戒ニ夜を明す
四日 井上連作先生ニ面会した。茅ヶ崎方面でハ毎日朝
鮮人を毎日殺して居るとの事
五日
六日 毎日〳〵地震が後〳〵ゆるのと朝鮮人さわぎで、
中郡方面でも鐘、太鼓が毎夜鳴る
七日
八日 父ハ、中野・川端・大谷・中瀬、大工や仕事士の
処へ行て来られた。時々雷雨来りて荷物を湿らす
九日
十日 入場がなくて屋根もこわせず
十一日 母屋の屋根をむき始めた。市川氏来らる。入浴
ハ毎日あらやと交ニ風呂をたてゝいる
十二日 晴 昼前新屋へ手間かわりニいつた
(中略)
廿四日 強風北風強し。鳶親方を市川氏の尽力にて頼み
来り午後から早仕舞いにて帰る
廿五日 晴 大工の初三午前来てくれた。博三帰る。夜
十五夜月見、瀧蔵君来られ久しく話して帰る
廿六日 晴 畠作り物。夕方又地震あり
(後略)
(倉見 北村嘉久氏蔵)
[解説] 倉見の北村勝乗は、数えで二六歳となった大正五年
(一九一六)以降、日々の出来事や家族の様子を日記に認め
た。自身の主観もふまえて事細かに書かれたこれらの日記に
は、震災当時の様子もまた臨場感あぶれる内容で描かれてい
る。特に、九月二日から広まり始めた朝鮮人暴動の流言をめぐ
る記述は七日の条まで続いており、当時の人心の動揺を如実
に物語っている。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 四ノ下
ページ 1823
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 神奈川
市区町村 寒川【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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