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項目 内容
ID J3100775
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1923/09/01
和暦 大正十二年九月一日
綱文 大正十二年九月一日(一九二三)〔関東〕
書名 〔高下日記第一集〕○藤沢市用田(自宅)御所見小学校(勤務先)H16・3・30 大和市発行
本文
[未校訂](解題)
(五)関東大震災
 一九二三(大正十二)年九月一日に起きた関東大震災
は、東京・神奈川など南関東一帯に空前の大災害をもた
らした。御所見村の被害も大きかった。家屋の被害は全
壊五〇戸半壊一五〇戸で甚大であった。しかし人的被害
は死亡二人、負傷者三三人で比較的軽微であった(『藤沢
市史 第三巻』)。一方学校は「校舎ノ被害南北両棟(十
一教室)半潰、東棟(七教室)僅ノ傾斜、壁全部剝落、
窓硝子戸、其ノ他ノ戸障子殆ド飛バサレ硝子ハ殆ンド破
損セリ、児童便所三ヶ所潰滅、外一ヶ所暫ク使用シ得ル
ノミ」(『藤沢市教育史 史料編』第三巻)で、教具備品
等を含めて、損害額は約一万三千円と報告されている。
児童生徒も帰宅後で、家庭での負傷者僅かに一名であっ
た。この大地震当日の模様を、高下日記では次のように
記してある。
 朝は雨降りしも十時頃より晴る。正午南西之方面
より地震来る。外に出ればますます甚しく、遂に亀
裂来り一所にある能はず。人皆這ひ又は戸板上に□
くる始末、それより数十回の震あり。
 例の如く始業をなし、生徒を帰らしめて事務室に
会し、雑談せるに、地震よの声に外に出れば、大音
響と共に海軍火薬庫の破裂を見、黒煙天に(後略)
 学校から帰宅してみると恭介の家屋は、幸いに倉庫が
壊れた程度で無事であった。
 この日を境に状況は一変した。どこへ行っても、震源
地の話や東京・横浜方面の被害状況や、朝鮮人襲撃の噂
などでもちきりであった。それに連日のように、余震の
来襲で安心して家の中に寝泊まりもできず、戦々恐々と
して過ごす日々が続いた。しかし教師たちは、災害当日
から機敏に行動した。その夜、村内居住者全員が学校に
宿直して警備に当たり、翌日から毎夜半、交替で警備に
歩いた。翌二日には全職員で村内の震害状況と生徒の調
査をしている。そして二日以降は学校を休業とし、九月
二十五日から二部授業で学校を再開することにした(前
掲『藤沢市教育史』)。この間の恭介の日記には、学校を
宿舎にしている戒厳令下の軍隊のことや、各地から送ら
れてくる慰問品の分配のことや、鶴間の本家をはじめと
する親戚の安否の確認のことなどが列記されている。
 一方学校では、十月二十五日足立原慶蔵校長が転任し、
後任として望月郷次校長が着任している。足立原校長と
は、恭介が御所見に新任以来の長い付き合いで、個人的
にも親交のあった人であった。同校長とはその後、大和
小学校で再びめぐり会うことになる。恭介のその後の日
記をたぐっていくと、十月末に至って余震も静まり、村
の災害復旧事業も一段落して、平常の生活に戻ることが
できた。
(日記本文)
 九月一日 朝は雨降りしも十時頃より晴る、正午南西
之方面より地震来る、外に出れはますます甚しく、遂に
亀裂来り一所にある能はず、人皆は這ひ又は戸板上にさ
くる始末、それより数十回の震あり
例の如く始業をなし、生徒を帰らしめて事務室に会し雑
談せるに、地震よの声に外に出れは、大音響と共に海軍
省火薬庫の破裂を見、黒煙天に、自分等は学校の化学薬
品の仕末をなし、一先帰宅し家を見しに、倉庫は倒れ、
諸君は身をもつてのかれ、戸板の上に身も振はし居りて、
子供等は泣顔なし居りしもあはれ深し
地は振ひ地は裂けつゝ天か下
如何になり行く事かとを思ふ
あらかねの地は振ひて見る見るに
家のはたはたたふるゝそあはれ
幼児を抱きし人のあれあれと
声のみ立てゝ腰のたゝなく
夜は道旁に避難所を作り、伊東、中島の三家一つにかた
まりて、ない時々に来る、東京横浜火災
九月二日 晴、地震来る、しばしば
今日も此所に雨露しのく仕度して、震源地につきては筑
波と言ひ函(箱)根と言ふ、余は三原山と思ふ、予想、大島の
全滅、然らされは海中一島の出現、大島の隆起等の思ひ
に心をやる、午後横浜方面よりの避難の人そくそくと来
る様目も当てられず、即ち両氏と図り、湯茶の給与又飯
の給与等をなす、いろいろの説をもたらすあり、中にも
我々を脅威せしは不逞鮮人の暴動也、警官の注意に依り
避難所を物陰に移し、もしもの要意に武装す、消防隊は
出てゝ万一を警戒す、風声におとろきて婦女子のかくれ
しこと二回、地震に加ふるにこの騒ぎ、さたかにはいね
られず
九月三日 晴、地震来る事十数回
夜は明けぬ、子供等顔青さめてあはれ、それに中島の妻
君顔色をかへ声をかへて物言ふことの、子供の心をいた
ましむること甚し、村中を歩きて震害の様子を見る、倒
れし家数知らず、その為め死せしは和田梅太郎氏の北堂
と妻君とその近所の老母、角田勘一君の長女、井出いち
子?、林某老女等、怪我せしもの数人、伊東卓三氏、伊
東経喜氏は汽車中にて怪我、しかし卓三氏はさのみなら
ねと、経喜氏はなかなかの重態なり、鶴間より昨日一回、
今日一回使来る、人は無事とのこと
九月四日 晴、今日も地震数回、海なり耳につく
東京方面の避難者あとからあとからと来る、社会主義鮮
人の暴行を伝ふ、聞くに絶(耐)へず、にくきは日本人にして
日本をのろふが如き人々よ、鮮人来るの噂来ることしげ
し、かくて人を驚す者共の心何なるか、伊東氏宅の厄介
となる、村を見廻る
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 四ノ下
ページ 1820
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 神奈川
市区町村 藤沢【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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