[未校訂] 浜田地震 凶作による飢餓がまだ十分に[癒|いや]されない
明治五年二月六日、新暦でならば三月十四日、ここにま
た思いもかけぬ災害が[出来|しゅったい]した。浜田地震である。これ
は浜田地震とはいうが、その実、西は北九州から東は出
雲に至るまで強い影響を及ぼした大地震で、ここ神門地
方でも相応の被害を生じた。
幸い大津では倒壊家屋を見なかったようであるが、今
市では古家二〇軒余も倒れたとあるから(今市町遠藤家
蔵「家督自知録」)、大津でも震れることは当然震れ、そ
れなりに恐怖の日夜をすごしたものに違いない。この災
害にあたり、遠藤家では当日の夜、「倒レ所、半倒レニ而
三十軒余へ食を黒塗はんぼに一ぱいつゝ入、直ニ潰し、
一統歓申候。此米弐表斗リ、三千貫文郡中へ労リ遣ス」
とあるが(同前)、大津の[頭|かしら]だった者の中にも[罹災|りさい]者に
金・米を差し出すむきが少なくなかった。それに対する
県からの褒状が本森広家などには残っている。
こうして、この前後には、維新による政治的・経済的
変動に加えて、天災地変による社会的・心理的不安も少
なくなかった。
なお災害としては、このあと明治六年七月の大洪水も
あり、とくに出[雲|しゅっと]郡では[求院|ぐい]切れによって郡内一帯が
湖水のようになったとあるが(『斐川町史』)、神門郡では
幸いそこまでにはならなかった。しかし田畑が冠水し、
収穫に多大の損害を与えたことはいうまでもない。