[未校訂]三 道路の破損
浜田地震の災害の見出しで、矢富熊一郎は『石西国道
史』で次のように書いている。
明治五年二月六日、午後五時ごろ、一大音響とともに、
突如那賀・邑智・迩摩・安濃・美濃の五郡と、出雲簸川郡
にわたって、大地震があった。震源地は浜田沖におこっ
た、断層地震に起因した。この時管内の損害は、田畑荒所
一三九七町九段一〇歩、潰家四五八八軒、半潰家八三六五
軒、焼失家屋二一四軒、郷蔵並びに土蔵三二棟、死人四九
八人、怪我人七五五人、死牛馬一一二匹、同怪我七五匹、
堤防七一一五所、運路橋梁五三四四所、山崩五〇八八所を
届けでておる。この外に美濃郡から道路・橋梁・堤防・田
畑岸の損所一〇一五所を教えておる。もってこの度の地
震が、どんなに大々的な、ものであったかが察せられる。
とりわけ浜田は、震源地であっただけに、その被害は目を
[蔽|おお]うほどで、藤井宗雄は「浜田鑑」に、その惨状を次のよ
うに述べておる。
浜田は新町より火出で、四十軒ばかり焼失せ、田町は残
りなく火焰となり、神社は外浦の金比羅社、海中へ倒れ
しが、神体は岩上に、屹立して在りし。寺院は光西寺・
観音寺・洞泉寺・宝福寺・地久寺・玉林寺等倒れ、県庁・
諸役所を初め、市中端々の小屋まで、残少に転び倒れた
り。就中て哀れなるは、新町の長橋屋藤助と云うは、夫
婦に二子ありしが、残らず焼亡せ、道具屋庄次郎は、夫
婦に子供・下女と六人なりしが、庄次郎一人助り、残五
人焼亡せたり。石屋幸助と云う、旅籠屋あり。大森の某、
納金六千円ばかり持来り、洗足の間に、一円も残らず灰
とせり。
牛市の沢屋甚助と言ふは、子の生れ七夜の祝とて、近所
の者を招待し、酒宴半ばなりしが、来客十四人ばかり、
同席に焼失せたり。此中に沢屋常吉と、云う者の姉に
お信(ママ)とて、四十三歳の婦あり。常吉は以前長門国、伊佐
に行きて、当時在住せしが、姉の於信は此夕尋行きし
に、[須臾|しゅゆ]にして見失いぬ。常吉は不審に思い、十日に浜
田に来り尋ぬれば、於信は右十四人の中にて、甚助方に
て焼失せたり其霊魂の弟常吉が、伊佐に在りしを慕行
きしならむ。此外に[憐|あわれ]なる死を遂げしもあり。不思議に
助命せしもあり。親を慕い子を尋ね、即死怪我人を、背
負ひて行くあれば、骨骸を袖に包みて帰るあり。生残る
も、雨降り風吹けども、身を寄る処なく、餓労れても飯
を炊く鍋なく、食を盛るにも器なく、此末如何にと、安
き心も無き折から、県庁より大橋河原へ、長屋を数処建
てられ、病院を設け、怪我人の治療をせられ、即死のも
のには、葬送料を賜ひ、貧民の男に米三合、老少婦女に
二合を、数日宛行はれ、仮屋を建つるには、竹木縄藁を
下され、非常を禁じ、盗賊の探索を、厳重にせられたり。
馬関御行在の砌には、金三千円を賜はる。天朝の広き厚
き、御恵は申すも中々恐こし。一は県庁の御美政なりし
(「浜田かがみ」)。
この震災のため、家屋がことごとく、消失したので、三
重の河原から、焦土の焼跡を見通して、浜田浦の海が遠
く、望まれたと言う。ために街道の交通は、一時麻痺状態
となった。
地形の変動から見ても、松原浦の西詰(小浜)では、従
来の三分の二は潮水がさして、わずかに一分の砂浜が残
り、又青川の海岸は、冬季に波浪のひどい時は、岸を洗い
去っていたが、災後は却って、九尺も高い崖となったこ
と。又、大橋川は元水が深くて、小船を浮べたのが、災後
は裾をからげて、徒歩することが出来るようになった。
震災によって、著しく変ったのは、街路の家屋である。
維新のころまでは、藁ぶき屋根で、二階作りのものは、絶
対に無かったのが、震災後は、県庁の奨励により、二階建
て瓦ぶきの構造を有する、宏壮なものが出現して、町の体
面を一新したが、矢張り震災に懲りて、二階だけは家を低
く作っておる。この種の家は、今日でもなお、浜田市内の
新町や、旧益田市の本通りに、見ることが出来、石西民屋
史の一端を見せておる。
四 浜田地震後の土木復旧
東谷村と大井谷村(両村とも明治八年長田村に、明治
二十二年波佐村となる)は、明治五年の浜田地震によっ
て受けた道路、用水路、橋、堤防等の損傷を県(又は国)
から拝借した米銀によって修理した。
拝借米銀は合計、東谷村二石八斗五合(夫九七五人)、
大井谷村四斗二升六合(夫一四〇人)であった。修繕場
所と拝借の詳細は『災害編』に載せてあるのでここでは
省略する。
この修繕では、地震前に損傷していたところもあった
が、これを機会に修復したところもあったであろう。