Logo地震史料集テキストデータベース

西暦、綱文、書名から同じものの一覧にリンクします。

前IDの記事 次IDの記事

項目 内容
ID J3100507
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1872/03/14
和暦 明治五年二月六日
綱文 明治五年二月六日(一八七二・三・一四)〔石見・安芸〕
書名 〔金城町誌 第一巻〕○島根県金城町誌編纂委員会編H13・3・31 金城町発行
本文
[未校訂]第二節 浜田地震
 一八七二年(明治五)二月六日(旧暦)午後四時半、
石見地方に大地震が発生した。この地震は浜田地方が最
もひどかったから、一般に浜田地震といわれている。
 当時の概況を『浜田市誌』は次のように記している。
浜田を中心として発した激震は全壊家屋四千余戸、死者
実に五百数十名、負傷者約五百七十余と伝えられている。
田畑、堤防はもとより、水源、溜池、用水池、道路、橋梁
等の破壊、山くずれも著しく、石見地方古今みぞうの大震
で明治二十四年の濃尾、同二十七年の酒田、同二十九年の
陸羽地震とともに明治時代の四大地震の一つにあげられ
ている。その被害は東は宍道湖の西方より簸川平野の沖
積地一帯におよび西は鹿足の奥部にまで及んだのであ
る。震源地に近い石見一円の被害もさることながら中心
地たる浜田の恐怖と惨状は言語に絶する状況であったこ
とは当時の記録に、また古老の語り草に今なお浜田地震
として恐れられている。
 『新修島根県史史料篇近代下』に大要次のような記録が
ある。
一 七日判任平野忠守を遣し大蔵省へ上申(現代文に訳
す)
 本月六日夕五時より地震、県庁官舎及び浜田市中人家
おおよそ押潰れ、処により出火、直ちに消防の手段がなく
この勢ならば如何程延焼するやもはかり難く、勿論圧死
怪我人等夥しくあると思われるけれども、在所のことは
まだ消息がわからない。何様古来未曽有の凶変につき、取
あえずお届の為に判任平野忠守を差出しますから、委細
お聞取り下されたく、余は追々お届けいたします。
一 同日各郡在勤の官員及び村役人等への達し
 昨六日夕、稀代の震災にて、県庁始め市中一円押潰し、
焼失、圧死、怪我人すべて数えることができない。其の部
内(村内)でもあらまし一般と同様と察せられるので、速
やかに拙者出張すべきところ、目前直隷の郡市の救済の
ため行くことができないので、潰家、焼失、死人、怪我人
等あれば、差し当り救助はその役所限りで取計らってお
き、詳細を取調べ救済の見込みを立て伺出ること。
一 二月中に大蔵省へ遂次届出たこと
 本月六日震火の両災にて、市中其外圧死、焼死の者夥し
く、未だその数相分らず、追々届出のあった内には、一戸
残らず死亡又は親子を失い、一戸一人残り居る部も少な
からず、殊に弔すべき手当もない状態であるので、震災の
ため死亡の者へは、葬祭料として一人に付金二両を差遣
し、又怪我人が多数あるけれども、市中に医師が少ないの
で直ちに貫属の医師を呼寄せ、仮設病院を設け施行して
いるが、怪我人其外三百人余になり、専ら薬を与えてい
る。この二件は一応伺の上取計らうべきであるが、緊急で
片時も放置することができないので、取あえず施行して
委細は追々取調べて申出ます。
 本月六日の地震に付、山崩れや潰れた土中よりは石、
砂、泥水、火気等吹出し、村々人気は勿論、田畑、堤防、
橋梁、道路共破損甚しく、その後も震動やまず、殊に山国
であるから潰れ入甚しく、昨日まで通行した処も今日は
往来できかねる次第で、遠い村では荒ら届だけで明細の
届出がなく何程の損害か計り難く、然る処追々農事に向
い堤防の営繕等は急務であるから、取りあえず官員を
処々に手配りし、回村して取調べている。追って明細書を
お届けします。
 今般震火の両災で農具焼失の者へは、御規則の通り其
の土地相当の価をもって貸渡しを取計らい、追って総計
をお届けすべきの処、紙漉を始め大工、木挽等の類、職具
焼失の分は差向き買整へるにも蓄への金がなく、そのた
め休業の者も多く、飢渇に及ぶを捨て置き難く、取りあえ
ず救い置いたので、農具代等の拝借を仰せつけられたく、
お差図あればそれぞれ取調べてお届けします。
 震災に付田畑其外破損の所を見分のため、取りあえず
官員を差し向け追々取調べたところ、数か村の田畑、山岸
崩れ等にて荒地となった箇所は実に数え難く、中でも用
水路、溜井、堤防等は至急修繕を取計らねば、追々苗代の
時季に迫り、又山裾、棚田等は天水受の場所少なからず、
これを捨ておいては収穫が減じ、住民の困窮は一方なら
ず、その上銘々の居宅は皆潰れその生活すら出来がたく、
今日の生業に外れる地域も多く、差し向き自力を以て修
繕も出来ない有様につき、先づその飯米だけ渡し置き、追
って取調べの上公費に該当しない分は年賦拝借等につ
き、追々算出し申し出ます。
 過日取りあえずお届け致しました当県稀代の震災に
て、浜田町家屋過半沈没或は田方用水の源を塞ぎ、差向き
耕作できない場所も数か所あり、現在取調べ中でありま
す。死者には埋葬料を遣し、傷者には仮に病院を建て治療
を施し、其他凶災に罹った窮民には焚出し、救米等を与え
ました。今もって昼夜数十回震動していますがおいおい
平穏に向っています。近日権参事渡辺積が上京しお届け
します。
十三日浜田町浦、松原浦等の人に出した告諭
 夫れ天に鳴雷有り地に震動あり、其の激発するや必ず
其の殃を受くるは天地間免れ難き凶変と言うべし。時本
月六日申の中刻に当り、石見国一円地震を発し、山崩れ地
裂け、これのみならず所々出火、家屋の焼損人民の死傷幾
百千と言うを知らず。或は父兄に離れ或は妻子を失い、悲
泣の声四方に満ち実にふびんと言うも余りある次第な
り。因って先づ死亡の者には金を与えて葬の営みを助け、
活ける者には食を与え且つ雨露を凌ぐべき仮りの設をも
取しつらえ、今日までは一日一日と送り来り候へども、所
詮此の儘荏然過ぎ行候はば、また本業に復るべき目途な
く、詰る処東西に散り南北に呻吟し、此の浜田町も荒涼た
る郊原と成り果つべきは目前の事にて、深く御憂慮在り
なさる儀と恐察奉り、何とも恐れ入る次第なり。然りと言
へども此人民あり、此土地あり。今日始めて此世界に生れ
出し思をなし、各自奮発して今日より其の職業を励みな
ば、数年を出ずして翻って昔にまさる繁昌を観んこと豈
難からんや。銘々篤と思案を定め将来の活業を計るべき
こと肝要なり。因って此度管内人民の為め更に授産会所
を建設、又傍大に工役を興起し男女を撰ばず強弱を論せ
ず、皆其の分に応じ其の力を量り職業を課し、以て其の離
散の憂を救い、遂に管内一般繁昌の基を立つる事を決定
せしめ候条、蒼生の為に斯く憂慮する真実の意を了解し、
号令に遵い速に前途の目的を定むべき者也
同記録による被害の状況は次のとおりであった。
 この震災による被災者に対する救助の状況を、『石見年
表』には次のように記載されている。
二月十九日 震災で即死した者に対し金二両宛を賜う。
二月 震災で困窮の男子十六歳から五十九歳までの者は
米三合宛老少婦女に対しては米二合を数日賜う。
十一月 震災救助金一万六千三百七十二両の内百四十九
文七分宛は焼失潰家 半潰家 農具 即死 怪我 医師
薬種 病院 窮民 郡蔵破損等に対し年賦で貸付け こ
の額が一万三千四百四十六両三分 差引二千九百二十五
両減、米は二千百五十六石三斗指令されたが必要量は六
千五百三十九石九斗七升三合であったので、差引四千三
百八十三石六斗七升二合六勺増となる。
 『明治ニュース事典』(明治五年三月 新聞雑誌)によ
種別


家屋
死者
負傷者
牛馬死
牛馬傷
道路堤防
橋梁山崩
総数
747町6614
130町9718
13,199戸
419人
755人
103頭
75頭
17,847か所
内那郡賀
340町9129
54町6408
7,614戸
272人
530人
9,996か所
ると、島根県の地震として次のように報じている。
 二月六日震災につき浜田県庁より届書に云う 過日と
りあえず御届け申し候当県内稀代の震災にて、浜田町の
家屋は過半が♠破焼失、死去五百人ばかり、傷者二百四拾
七人ばかり、なお在々の儀も軽重はこれあり候えども、ほ
ぼ一般の儀にて人民の死傷かつ山崩れ地裂け、堤防井出
道橋等の破損夥しく、はなはだしきに至りては一村過半
沈没、或は田方用水の源を塞ぎ、差向き耕作相成らざる場
所も数ヶ所これあり、この節官員差出し取調べ中に御座
候。右の次第に付き、死者には埋葬料差遣わし、傷者は仮
に病院を取建て、治療を施し、その他凶災に罹り候窮民共
には焚出し救米等相与え申し候。なお今以て昼夜数十回
震動致し候えども、まず漸々平穏の方に御座候云々。
 浜田測候所による調査では浜田地震は一八七二年(明
治五)二月六日(太陽暦三月十四日)に発生したが、そ
の被害が大きく惨状甚だしかったにもかかわらず、その
資料は乏しかった。一九一二年(大正元)に至り浜田測
候所長石田雅生は、状況調査の必要性を痛感し、美濃、
那賀、迩摩、安濃、邑智、簸川、飯石の各郡役所、小学
校、町村役場の協力により調査し、大正元年十一月一日
浜田地震報告としてまとめた。
 これによると、
発震時刻は明治五年二月六日(太陽暦三月十四日)午後四
時四〇分頃としているが、一か月前那賀郡、迩摩郡の沿岸
及び簸川郡の北半に未曽有の大雪あり、約一週間前より
附近の海陸に鳴動を発し、数分前に至り海底の変動のた
め退潮を来たし、遂に午後四時四〇分浜田西北西方に当
り地鳴を発して発震するに至った。烈震区域は約一四〇
方里に達し、死者五五〇人負傷者も略同数、全潰家屋四三
二〇余戸(浜田町三四% 那賀郡一二%)激震区域は那賀
郡井野村から浜田附近を経て伊南村、川戸村から北東君
谷村に達する石英粗面岩の地方で、約一五里にわたる帯
状をなしている。
とある。また、
 この地震を明治四十二年八月十四日の近江地震に比較
すると、烈震区域は略同一なるも被害程度は全潰家屋約
三倍、死傷者約二倍に達しその急性なることがわかる。発
震当時は夕食準備中のため家内に居る者多く、又火災が
多かった。
等としている。
 同調査による各村報告中近隣村の特記事項を次に掲げ
る。
 久佐村 負傷者の原因は重に家より飛出んとして柱又
は屋根のずり掛りしたためなり 死者一名も家より飛出
んとして柱に圧死せられたり。八幡神社の石燈籠所々の
樹木橋山腹の岩石等悉く倒れしも方角に至りては詳なら
ず。震動を始むるや俄に井水河水共増水し濁れり。
 雲城村 西北西遠雷の如く震動の前に聞く。断層は大
字七条と石見村との境界なる柿の木山字一ツ[空|ウツ]にあり、
深さ四尺長さ不明。大字上来原は微震にて記すべきこと
なし。
 美又村 半潰家屋一五四戸皆修繕せざれば入る能はざ
りしと。全潰家屋六戸、郷、大久保、福原。多くは減水し
何れも濁れり、一〇年[計|ばかり]の後はまたもとにかえれり。
 波佐村 発震時刻記録に七ツ時とあり、明に人の顔を
見得たりとのこと。死者二名家屋外にて山崩のため圧死。
土地の崩壊は概して山の東側に多く、大なるものは幅五
○間に及ぶものあり、小は枚挙にいとまあらず。字臼井谷
字河上其他数か所当時の山崩の痕跡今尚存せり。
 伊南村 全潰戸数後野一二・三戸、佐野六戸、字津井な
し。岡本俊次郎方(後野字辻堂)居宅土蔵等悉く倒潰せし
中に本家は棟の中央より裂けて東西に倒潰し、土蔵は其
位置より二間余を隔てたる南方に飛んで倒潰したるを発
見。後野一ノ渡附近(石見村境)は巨岩転落して交通を遮
断せられ凡そ三・四か月間は鬼山道にて僅かに浜田に往
来す。大震以後昼夜共鼕々の音あり小震を発し人心恟々、
凡そ三・四か月間位は仮家を設けて起臥せり。此震動のた
め用水枯渇し田植をなし得ざる場所凡そ村内を通じて二
○町歩を越えたりしならん。倒潰家屋は概して瓦葺のも
のにして草葺のものは其難を免れしものの多きやの感あ
り。
 都川村 之より前十二月二十六日の夜北方の天赤く焼
け山林の樹木を数え得る迄に明るくなりて、村民は外国
に大火ありと言い合い居りしに、それより四〇日に此地
震ありとぞ。
 和田村 水は一般に減少して飲料水を失い或は潅漑水
を失いて耕田の荒蕪に帰せしもの多く、八年間位も旧態
に復する能はざりしという。前年旧暦十二月三日頃の夜
北西の天焼けて明きこと月の如く、皆翌年が豊年の徴と
なせしに豈計らんや大震災なりしと言う、又地震の前狐
の鳴くこと甚しかりしとも言伝う。
 有福村 水源の涸水せること一四・五年間に及べるあ
り、今に水なきに至れるあり。温泉の湧出三月十五日迄止
む、七月七日の大水の時全く旧に復す。犬の死せるもの多
かりき。
 石見村 全潰戸数一六戸、負傷者八人、死者二五人多く
は建物の倒潰せる下となり負傷又は死亡せるものにして
山崩による死者一人火災による死者一人あり。大字長沢
美ノ越より鯉ノ橋迄及び大字浅井郷は約五尺の陥没。
 下府村 継続時間は約一五分にして上下動なりき。報
告者も遭難者の一人にして文久三年上瓦を以て葺替たる
生家の屋根瓦は一尺以上に反撥せられて一旦唐草瓦(此
瓦は縄を以て結びつけたり)の上に数枚重り合い地上に
落つる光景悽惨を極む。激震中は歩行し得る者一人もな
し。低き土地は裂目より水及び砂泥を噴出し、甚しき所は
水柱を数尺の高さに噴出し下府川の水は増水するに至る
という(数尺)。
国分村 家屋倒潰のため圧死老婆一少女一。国分寺の
塔石中央以上の分八個南々西に向って元位置より約六尺
距離の下方に墜落せり。国分久代海岸は隆起すること二
三尺より五六尺なり。小字松島金周布辺は四五尺、畳ヶ浦
は三四尺、唐鐘海岸は五六尺なり。海水一時は一町位減水
せしも更に旧に復せり。
 二宮村の報告書に添付しているいろは口説があるので
次に掲げる。
今回震御取調に相成に付ては地震野□□屋にて
地震の有成をいろは口説に曰く
いしでかためた石見のくにも
ろくじう余州にあかれたものか
はれてゆく年明治の五年
にかつ六日のたそがれ前に
ほんにまれなる地震のさわぎ
へんぴまち〳〵津々浦々も
ともに泣く〳〵手を引き合うて
ちえもちからもおよばぬ事よ
りん家あつまり 野宿のしたく
ぬけつやぶれつ 地はさけわれて
るいをあつめて くやんでみても
をよそ死人や 潰れた家は
わずかはかりか 書きつくされぬ
かわをつとうて 津波のけしき
よにもまれなる たいへんなれば
たれもとほうに くれいるばかり
れいぎさほうも みなうしないて
その日〳〵の 露命をつなぎ
つねの心は みないれかえて
ねてもおきても 念仏ばかり
なにをいうても かえらぬ事の
らちもない事 悔みの咄し
むりのないのは 天地のをしへ
ういたこの世じや 浮世と名付け
ゐてもおきても 心の内で
のちはどうなる 行末知れぬ
おもいまわせば 我が気に迷い
くにのなんかや 諸国はぶじで
やらせないほど くやんで見ても
まこと天地の をさへと見える
けがのないのが 信心ものと
ふるき書物の ひかえを見ても
これは天命 いましめらしき
えどやいなかに みもんの恥よ
てんのいましめ あらおそろしや
あとやさきやと 気遣い咄し
さだめなき世の 中とはいえど
きくもおそろし 昼夜ひびき
ゆるぐ地鳴も 三十余日
めったやたらに 気遣うこども
みちのゆききも ついなりがたき
しじゅうしまいは どうなる事か
ゑらい世界に 生れたいんが
ひとりくよ〳〵 考えみるに
もとのくにには ついなりがたき
せめてわれらは 死んだがましだ
すへはどうなる 行末知れぬ
一に御上のおじひにすがり
二度とこういう 災難あれば
三途川へと おもむくほどに
四のう工商 みなもろともに
五じよう仁義の 道をば守り
六じゆ世界と 代のおさまれば
七十八十の 老人までが
八苦わすれて 気を落付けて
九めん苦面の 普請のしたく
十所屋敷の 土地かえ致す
百度参りの 心願たてて
千秋ばんざい ゆたかなように
万ご地震の 退散御祈禱
億れながらも 神世といのる
右四十年にも相成一段と不覚案思記候 御覧被下
御眼覚御覧笑
右 □本慎四郎
一 七条地区の震災の状況
 浜田地震による町内における被災状況について、小笹
村及び七条村の「明治五年壬申二月六日稀代の地震震災
に付損所夫積」によって七条地区の様子を知ることがで
きる。この書類には、災害のか所、種別毎にその数量と
復旧作業の見積りが表示されている(『岡本文書』)。
 この調査に基づいて、小笹村組頭梶原覚治と、庄屋岡
本新右衛門から、七条村組頭半田寅十郎 新開所庄屋岡
本與一郎 庄屋岡本優次郎から、それぞれ「御願申上候
事」として願書を差し出している。これによると「震災
につき、数十ヶ所の損所出来仕り候へ共、差し向き捨て
置き難き場所の取りつくろいに付およそ夫積りつかまつ
り候処、前記の通りにござ候、此の段よろしく願い上げ
候」とあり、損害のまとめとして次のように記している。
小笹村
自普請所
一、田方水掛溝筋土手潰所 弐拾五ヶ所
此間数 凡百間
此仕調人夫 三百五拾四人
一、同溝筋の内惣樋 五拾弐間
但山崩れ溝手堀り付難く相成り、此度総樋に仕調
之候分
此仕調之人夫 百八拾四人
自普請所
一、小川土手潰所 百ヶ所
此間数 三百九拾壱間
此仕調之人夫 千三百七拾七人
自普請所
一、堤土手損所 拾八ヶ所
但繕い方仕らずては水留め相成り難き分
此仕調之人夫 千百拾人
自普請所
一、浜田通い往還筋潰所 三拾六ヶ所
此間数 凡弐百五間
此仕調之人夫 六百拾三人
自普請所
一、後野村通い往還筋潰所 八ヶ所
此間数 凡五拾五間
此仕調之人夫 弐百四拾九人
人夫〆 三千八百八拾七人
七条村
御普請所 壱所
自普請所 七拾五ヶ所
一、田方水掛り溝筋 土手潰所 六拾壱ヶ所
此間数 凡千弐百六拾三間半
此仕調之夫 三千百五拾弐人
右同断
一、同溝筋の内掛樋 百六拾壱間
但山崩れ溝手堀りつけ難く相なり、此度総樋に付
調候分
此仕調之人夫 八百九拾壱人
自普請所
一、川土手潰所 六拾三ヶ所
此間数 凡五百七拾壱間
此仕調之人夫 弐千六百拾八人
自普請所
一、堤土手損所 五ヶ所
但つくろい方つかまつらずては水留相なり難き分
此仕調之人夫 七百五拾弐人
自普請所
一、往還筋潰所 四拾 七ヶ所
此間数 凡五百四拾八間
此仕調之夫 二千百四拾五人
自普請所
一、橋梁潰所 六ヶ所
此間数 長サ弐拾弐間
此仕調之人夫 五百三拾八人
自普請所
一、井手樋潰所 弐ヶ所
此間数 拾八間
此仕調之夫 九百六拾五人
人夫〆 壱万千六拾六人
 これに対し二月二十二日、御書下が達せられ、小笹村
に対し「米拾四石五斗七升六合」、七条村に対し「米三〇
石」を損所仕調夫の飯米として貸し渡すから、早々に取
りかかる様達せられた。この書類は山内善一郎印 湯川
権少属の連名となっている。
二 伊木八幡宮の棟札
 伊木八幡宮の神楽殿は浜田地震により損壊し一八七二
年(明治五)八月に再建された。その棟札に震災の状況
が書かれている。
 これによると、家屋被害では、伊木の田中の住宅と八
幡宮の神楽殿、小笹の村社の本殿と神楽殿、六路の住宅、
岡広屋の納屋、青原では森脇の門長屋、お局給の土蔵と
客殿、よこやの門の涼み殿、♠ケ原の住宅、合計一〇棟
であったほか、半壊の家屋が多かった。また、伊木の鈩
の向の山が崩れて田が埋り立木の被害があったことも記
されている。
茲ニ明治五年壬申二月六日皆[晻々|えんえん](うすぐらいさま)ト
シテ終日曇天晴レズ晩暁ニ至リ 図ランヤ[忽然|こつぜん]ト大地震
[発|おこ]リ甚ダ鳴動スル殆ンド二昼夜須[臾|しゅゆ]モ止ム事ナシ 此
レガ為ニ本土ノ人民家屋ヲ捨テ薮中ニ臥シ 或ハ野原ニ
[嗷々|ごうごう]トシテ叫ビ日夜寝食ヲ全フスル[能|あた]ハズ 此故ニ[亦損|またそん]
[崩|ほう]スル者 本里ニハ田中ノ居住 当社ノ神楽殿コレナリ
且鈩ノ向山横[潰|つえ]シ田面及立木等多ク破損ス [将|は]タ[近里|きんり]小
笹ニ村社ノ本殿並ニ神楽殿損崩及ビ六路ノ居宅、岡広屋
ハ納屋ノミ[顚倒|てんとう]シ 青原ハ森脇ノ門長屋 [於局給|おつぼねきゅう]ニハ
土蔵並ニ新客宅、[神代屋|よこや]ハ門ノ[涼殿|すずみでん] [♠|あと]ケ原ニ居宅崩失
[総|すべ]テ十棟ニ及ベリ [此外|このほか]半潰ノ家屋村中ニ数多シ 殊ニ
浜田ニ於テハ損崩ノ家屋過半ト[謂|いう]ベク 死亡ノ者百余人
[怪我人|けがにん]其ノ数ヲ知ラズ 此他処々山岩[夥|おびただ]シク崩土シテ
田[甫|ほ]ヲ損シ 或ハ湧水[涸|かれ]変シテ田面間々荒地トナリ 農
夫産業ヲ失スル者偶[々|たまたま]有ト[雖|いえど]モ[枚|まい]挙スルニ[遑|いとま]アラズ
[実|げ]ニ我石見国前代未曽有ト云フベシ [嗟仰天|ああぎょうてん]シ驚懼セ
ザルナシ 然レ共本里ニ於テ亡命傷身ノ者[敢|あえ]テ無キ事
[蓋|けだ]シ[神助|しんじょ]ノ為ス可キナラント益々敬神ノ念起リ、氏子一
統[戮力|りくりょく]協心シテ[曩|さき]ニ損崩ノ楽殿建築ノ議ヲ開キ 直チ
ニ事決シテ同年八月吉日撰択シ此ノ殿ヲ作ルト云[再|いう]
五人組 渡辺砂右衛門 同 山藤嘉蔵 同
佐々木仙太郎 宮役人兼普請係 渡辺庄八 宮役人
兼世話人 山藤仙治 世話方 岡本與六 棟梁大工
藤田梅吉 棟梁木挽 林市助 同 藤田寅吉 惣
氏子中
三 波佐地区の状況
 波佐『栗木田文書』によると「明治五壬申年旧二月六
日午後五時大地震アリ 河上前ノ上潰ケ原大潰 前畑戸
主礒治長安村ノ住人常治二人臼木谷潰ニテ亡ス 其外損
害前代未聞ノ事也村内各外ニ小屋ヲ掛ケ四五日モ居リ久
シク止マス」と当時の様子が記されている。
『佐竹文書』に、鈩に関して次の記載がある。
 明治五年壬申二月六日暮六ッ上刻大地震にて、桂迫鈩
勘場始下小屋に至る迄悉く潰け、支配人泉屋庄作儀住居
相成らざるに付、二月十日竹岡部屋へ当分乍ら借室引越
し、続いて鈩付諸道具弋手方へ取り寄せ、何かと取片付け
三月十九日地床もそれぞれ差し戻し、挨拶の為古和文一
罷り越し、右諸道具は三月二十七日佐竹要助殿参られ、委
細引払帳にこれ有る通りそれぞれ諸仕分け申し相済み申
し候事
 波佐のうち東谷村と大井谷村は、一八七二年(明治五)
の震災によって受けた道路・用水路・橋・堤防・水除(悪
水路)等の損傷を、県又は国から拝借した米銀によって
修理していた。
 東谷村の合計は二石八斗五合(夫九七五人)とあり、
内訳の合計とちがう。資料のままのせておく。
 大井谷村の合計は四斗二升六合(夫一四〇人)であっ
た。
東谷村
大井谷村
修繕場所
堂迫前道
下河内下モ道
筏津ヨリ室屋マデノ道
寺前道
寺前ヨリ石田屋マデノ道
鍛冶屋田道
橋詰瀬戸道
上才ヨリ傍示マデノ道
弥五郎溝手
松ケ岡瀬戸道
郷蔵脇溝
神田横川溝手
拝借米
斗合
五八
八六
三天五
四六
二〇一
四四三
一七
二三〇
八六
三五
八六
四六
修繕場所
小田ケ原溝手
同所
中江田溝手
畑前ヨリ下モ溝手
徳田屋溝手
一寸原瀬戸溝手
松ケ岡瀬戸溝手
大溝手
畑上ヱ溝手
平谷溝手
上田屋溝手
合計
拝借米
斗合
六九
七二
四六
五八
五八
一四四
一五
二九
八六
一九〇
六九
四二六
修繕場所
畑溝手
堂迫溝手
筏津橋
堂迫溜井
広田溝手
合計
拝借米
斗合
二三
五八
四六〇
八六
三九
二八〇五(ママ)
備考 瀬戸は背戸であろう。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 四ノ下
ページ 1767
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県
市区町村

検索時間: 0.001秒