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項目 内容
ID J3000952
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東~九州〕
書名 〔紀州熊野長島浦の宝永・安政大津浪の記録〕小倉肇著「熊野の自然と暮らし」二〇〇三・三・二四 みえ熊野学研究会企画・発行
本文
[未校訂]三、安政大津浪
 寛政九年に、橘南谿が長島浦を訪ね、仏光寺境内の宝
永津波流死塔の前にたたずんだ時は一基しかなかった供
養碑が、現在二基並んで建っている。
 宝永の碑のむかって右に建つ流死塔は嘉永七年(一八
五四)六月十四日の大津浪の死者を供養して建てられた
もので、碑文は、
「嘉永七甲寅六月十四日丑の刻夫より十一月迄、震動
数度、同四日巳の刻大地震直津波、流家四百八十軒
余、汐入三百十軒余、流死人弐拾三人におよぶ、則
宝永塚有之通、自今大地震の時は覚吾有事」
と刻まれている。
 嘉永七年は、この後、安政元年に改められたため、こ
の大震災は安政大震災、あるいは安政大津浪として後世
に伝えられる。
 碑文は「嘉永七年は六月十四日を皮切りに、同年十一
月まで何回も地震が起った。そして十一月四日の午前十
時半ごろ大地震があり、直ちに津浪が押し寄せた。四百
八十戸が流され、三百十戸が浸水した。流死者は二十三
人であった。大地震があったら、直ちに津浪が襲ってく
ることを覚悟して皆高い所へ何をおいても避難すべきで
ある」という宝永流死塔碑文と同じ主旨である。
 当時は旧暦であるから、これを新暦に直すと、十二月
二十三日ということになる。この安政大震災については、
全国的な記録もかなり残されている。
 震源地は遠州灘の海底とされ、当時伊豆の下田港に寄
港していたロシア船ダイアナ号も沈没している。
 しかも、十一月四日以降も余震は一週間ほど続き、庶
民は不安におののいたという。
 長島浦の氏神である長島神社には、御館家十七代御館
磐彦神主によって記録された『嘉永五年津浪記録』なる
文書が保存されている。代々書家を出すことで知られて
いる御館神主家の当主らしい端正な筆致で記されたこの
記録は、何故か嘉永五年とあるが、嘉永七年の大津浪の
記録であると判断されている。その内容は非常に冷静的
確に大津浪の様相を叙述している。大意を記す。
「そもそも嘉永五(七)年六月十三日午之上刻(午前
三時)常よりも大なる地震あり。地下中の人一旦戸
外の広き所に出たれども地震度々にして止まらず、
是によりて寅の時分、町内の人々残らず山に逃げた
り―中略―我れ思うに、この時津波来たらば、
地下の人恐らく七分通りまで流死の災を見るなら
ん。いかにとならば夜中でありしこと。二つは女子
供まで山へ逃げることを知らず、諸人何ずれも浜に
出て、家財道具等を取りまとめたりして家を離れず、
その故は宝永年中の大津浪より百四十余年を経たれ
ば、その恐ろしさを知らず、ただ昔話のように思い
いたりし為なり。今より後世に及ぶまで大地震の時
は、一足も早く戸をあけて近くの山に逃げ登るべし、
殊に海に近き家は家財等に心をうばわれ、あたら尊
き命を捨つべからず―中略
 さる所、十一月三日夕、酉の刻(午後七時)大地
震、次に四日、辰の刻(午前九時)おどろくべき大
地震起きる。この時、我れ大病にて臥しいたるが直
ちに門に出て心中思う様、常々仏光寺の津浪供養碑
を見るに、宝永四亥十月四日大地震、直きに津浪と
あり、この度も冬の地震とあらば必ず大津浪来るべ
しと地震の鎮まるのを待って、大切なる書類を始め
衣類等を少々携へ老母を引き連れて本社の前に登り
町々を見渡たすに、町中は大洪水の如く家々はあた
かも材木を流したるが如し―中略―さてこの津
波神社前より眺めたるに横町のひる子神社の松の
梢、少こし見えたるを思えば、潮の高さ凡そ二丈ぐ
らいと覚ゆ。
―中略
 後日、聞くところによれば、大阪の大津浪にて数
万の人流死せりという。―中略―同月二十八日
にも余程の大地震ありたれど、今度は幸いにも津浪
来たらずして鎮まれりければ、それより家を失ひた
る者は自分の家敷に仮小屋を建て移るもありき。さ
れど、その後も山に逃げること一再にとどまらず、
また、そのまま正月まで山にて暮らす者も多し。
 この津浪にて流死する人、長島にて二十三人、流
失家屋は横町、裏町、新町は長楽寺前より西、往還
町、西町、本町合せて四百軒ほどなり、依て記録如
件。
長島神主家」
 長島浦の隣村にあたる二郷村(現紀伊長島町東長島)
の養海院にも、十四世祖晧和尚の残した『大地震津波記』
という安政大震災の記録が現存する。
 この記録を書いた祖晧和尚自身は嘉永七年当時は赤羽
川上流の村、大原の大昌寺に勤めていたが、震災後、養
海院住職として転任してきたところ大津浪の記念碑を建
立する志を持っていた同寺の総代であった長井藤右衛門
の依頼により、碑文の原案として作成したものであると
伝えられている。
 祖晧和尚は呼崎地区の人々より聞いた話として、こち
らは農村ではあったが、海に面した呼崎地区の住民が川
をへだてた山寄りの井の島地区に逃げんとして、両地区
の間にかかっていた馬橋に殺到し、十二人が溺死した惨
状などを詳細に記録している。そして、呼崎地区でも高
い所、養海院周辺まで潮は来ないので大津浪の時でもあ
わてて、他所へ逃げる必要はないと後世の人々に呼びか
けている。
 安政大津浪の時の潮位もほぼ宝永の時と同じであった
とされている。『紀伊長島町史』によれば、仏光寺の床下
二尺まで浪が寄せてきたとされている。裏町、横町は家
屋はほとんど流され、無人の浜と化したとも記されてい
る。
長島浦の死者二十三人の内訳は、
横町十名
松本四名
裏町四名
六大夫町二名
地蔵町一名
新町一名
引本一名
であり、潮位は同じほどでありながら、流死者の数が宝
永大津浪の五㌫以下に減少しているのは、日中であった
江の浦大橋より見た長島浦
こと、事前に何度も前ぶれがあったことを差し引いても、
宝永大津浪の教訓が浦人たちに生きていた事を物語って
いる。
 特に、宝永時に第一波で流木が山積し町民の逃げる道
をさまたげたといわれる仏光寺門前の道では、松並木が、
よくその効果を上げて、海岸地区より寺山に避難する
人々の山に逃げるのを容易にならしめたことなど、百四
十年前の人々の配慮が後世に効を上げたのである。
四、宝永・安政の災害記録に学ぶもの
 江戸時代の中期・後期に約百四十年間の時をへだて、
長島浦は、その戸数の九十㌫を流失するという大災害を
経験しながら、その復興を驚くべき早さでなしとげてい
る。
 具体的に記録をたどれば、長島浦だけで五百人余もの
死者が出た宝永大津浪より、四十年後の延享三年(一七
四六)の人数調べでは、長島浦総人口二千六百十六人に
もどっている。
 このことは安政の大津浪でも四百軒を上まわる家々が
流されながら、それより三十五年を経た明治二十一年の
長島浦の戸数は、震災時をこえて七百十六戸、人口は三
千四百七十二人と大きくのびている。大災害をものとも
せず、生き抜いてきた郷土の先人たちの意気が強く感じ
られる。
 また、当時の住職、神官、村役人といった庶民の中の
指導的立場にあった人々の大震災に対する冷静な対応ぶ
りと、客観的に実態を理解し、これを記録し、郷土に生
きる後世の人々への教訓として残そうという、幅のある
人間としての思想の豊かさに心惹かれる。
 戦時中の情報管理下という特殊事情はあったにせよ、
安政の大津浪より九十年後にあたる昭和十九年(一九四
四)の東南海大地震の記録がほとんど残っていない事と
比較すれば、郷土の将来についての考え方にまことに顕
著な差があるといわねばならない。
 紀伊長島町西長島の仏光寺境内に今もたたずむ二基の
津波流死塔は、いつくるかも知れないが、必ずやってく
る火山国日本としては宿命というべき天変地異に対し、
不断の備えの必要性を、郷土に生きた先人達が後世に生
きる我々に語り続けている貴重なモニュメントである。
【参考文献】
『長島組庄屋文書』(紀伊長島町郷土資料館蔵)
『紀伊続風土記』(昭和五十六年刊 厳南堂)
『見分闕疑集』(尾鷲市立図書館蔵)
『西田益三郷土資料集』(紀伊長島町郷土資料館蔵)
『嘉永五年津波記録』(紀伊長島町長島神社蔵)
『紀伊長島町史』(昭和六十年刊 紀伊長島町役場)
『大地震津波記』(紀伊長島町養海院蔵)
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 四ノ上
ページ 950
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 三重
市区町村 紀伊長島【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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