Logo地震史料集テキストデータベース

西暦、綱文、書名から同じものの一覧にリンクします。

前IDの記事 次IDの記事

項目 内容
ID J3000949
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東~九州〕
書名 〔近世東紀州における大地震と津波について―災害後の復旧と民衆の防災意識―〕縣拓也著『紀伊長島町の研究』二〇〇二年度研究報告書「三重の文化と社会」掲載二〇〇三・一・二五 三重大学大学院人文社会科学研究科発行
本文
[未校訂]波の高さを震源位置や被害から推定してゆくと、紀伊国
尾鷲・新鹿辺りに約十メートルにも及ぶひとつのピーク
があったとされている(1)。よって近隣に位置する紀伊長島
をはじめとした周辺地域も、それに匹敵もしくは準ずる
被害に見舞われたのである。
 とはいえ、この地域全体に巨大な津波が到来したとい
うわけではなかった。「見聞闕疑集(2)」によれば、宝永地震
から起こった津波によって「長島・三浦・引本・錦…新
鹿・大泊・小泊・曽根・古江」が「浦々浪入」であった
一方、「木本・波田須・盛松・須野・早田・道瀬」といっ
たところは「浪不入浦々」であった。これを見てわかる
ように、沿岸線の比較的緩やかな所に位置するか、逆に
海岸がリヤス式に入り組んだ所にあるかは、津波が入っ
て甚大な被害を受けることと深く関係していたのであ
る。
 このような地形的要素による津波入込の有無は近世段
階のうちに認識されていた。十八世紀末に諸地を巡りな
がら紀行文を記した久居藩医師橘南谿は、「西遊記続編」
のなかで
 其地理を考うるに、幅狭く海の入込たる常々は勝手よ
しといふ湊は、皆其時津波来りて人家皆々流れたり。海
の幅広く常々は舟のかかりあしく、しかと湊ともいひか
たきほどの所は其時津波高からず人家流るるほどのこと
はあらざりしとなり。(句読点は校注者付記)
と指摘している(3)。
 従来の研究では、これら地形や所在地などの要因から
現れる各浦村毎の津波の高さ・被害状況が、紀伊半島沿
岸や東海地方沿岸といった規模で詳細に取りまとめられ
てきた(4)。また中田四朗氏等は、特に三重県熊野灘沿岸部
を中心として津波来襲の様子から藩の救済などまで幅広
く調査されており(5)、参考とすべき所は非常に多い。しか
し、これらの研究は地震・津波の規模や被害の面に偏重
するところが大きく、災害後における在地の状況変化に
ついて十分な考察がなされているとは言い難い。
 そこで本稿では、三重県下で深刻な被害を受けた志摩
半島から熊野地方にかけてのほぼ真中に位置する紀州藩
領長島組、現在の紀伊長島町を取り上げ、周辺諸地域の
史料と合わせながら、人々が災害の後如何にして過ごし
生活の場を復旧させていったのか、在地と藩の関係、及
び住民の自主的な活動との両面を意識しつつ考察してみ
たい。それによって、今後予想される震災に備えるため
の一助になればと考える。なお宝永地震後の状況に関し
ては残存史料の量に限界があり、やむを得なく安政時に
関する事例が中心となっている点を予め断っておきた
い。
第一章 地震の発生と津波の到来
 ここではまず前提として、宝永・安政両地震及び津波
の発生当時における状況と被害概況について、比較しな
がら簡単に整理しておきたい。
第一節 災害の概況
 宝永地震が発生したのは一七〇七年十月四日(現在の
暦で十月二八日)の正午頃、その後揺れが鎮静化すると
井戸の水と海面が引き、地震から「半時計過」ぎて(約
一時間後)実質的に被害を与えた津波が到来したと伝え
られている。対してそれから一四七年後に当る一八五四
年十一月四日(現十二月二十三日)の午前九~十時頃に
発生した安政地震では、紀伊長島を含めた周辺各浦にお
いて、「井の水をかわくもの…平生に変る無之」、「津波時
海堙潮並井戸水皆干…聊無其例(6)」といった記述が多数と
なる。また地震から津波到来までの時間差も、宝永時と
比べ「即刻之事」であって、慥柄組贄浦(現在の南島町)
辺りのように「煙草五ふく位の間」「五六丁程行之間(7)」と
の具体的な報告もなされている。もちろんこの感覚は主
観によるところが強く、実際宝永時においても津波は「直
様来」と感じられている場合や、志摩に近い地域では安
政時でも潮が引いた記事はは多くある点も十分考慮しな
ければならないが、前述したような具体的な記述がある
ところ見ると、やはり紀伊長島においては両度での現象
に少なからず変化があった可能性は十分あると考えてよ
いのであろう。
 両地震は比較的近い時間帯に、規模としてはどちらも
マグニチュード八、四程であったと推定されており(8)、そ
の点で特徴に共通性を見て取ることができる。しかし一
方で、安政時には四日に東海地震、翌五日に南海地震が
起こっているのに対し、宝永では両所で併行して地震が
発生したという相違もあった。関係は今のところ明らか
とはなっていないが、津波までの現象の相違はその辺り
に起因するのではないかとも言われている。次に紀伊長
島町域における具体的な被害状況をまとめておきたい。
 「嘉永五(七の誤り)長島神社記録」によれば、安政時
には横町・裏町から長楽寺前、往還町・西町・本町まで
家が流され、自社でも軒下まで水が来ているほか、呼崎
にある養海院の辺りでは馬橋が流され、井の島への避難
路が断たれてしまった。また宝永の津波によって長楽寺
の宝物が一部流失したと伝えられているほか、安政時に
は錦浦で境内などにあった御制木の楠三十六本が「汐入
込ニ付立枯ニ相成(9)」との被害も報告されている。住民の
避難地にもなる寺社も無事では済んでいないところに、
これらの災害の大きさを窺い知ることができよう。
 その他具体的な数字を見ておこう。長島浦の死者は「仏
光寺過去帳」にある分で横町・裏町を中心に宝永五〇二
名、安政二三名に及んだ。これに仏光寺檀家以外の死者
を加えると、延享期の長島浦人口が二六一六人である
から(10)、宝永地震ではわかっているだけで実に全体の約四
分の一に当たる人々が亡くなったことになる。また安政
時には長島組で全一〇〇〇余軒のうち四八〇軒が流失、
三〇〇軒が汐入したと伝えられており(11)、約八割の家で被
害を受ける結果となっていた。また宝永の家屋流失状況
は明らかでなく、仏光寺の流死塔に「在中不残流失」と
ある程度である。一般的に流失家屋数は安政になり減少
傾向にあるなかで、尾鷲では逆に増加している浦もあっ
て、長島浦における宝永の津波の高さは、安政時の約二
丈、六メートルという数字に一定の上乗せが必要となる
かもしれない。
 そこでここまでのことを整理してゆくと、宝永地震か
ら安政地震にかけて、近しい規模の津波が到来するまで
の予想が難しく、尚且つ避難のための時間も短縮されて
いた可能性があったことになる。にもかかわらず、流死
者は大幅に減少したのである。災害概況に関しては今後
更に多くの史料発見が待たれるところであるが、周辺で
尾鷲の流死者数が約五分の二、錦では約四分の一になっ
たという減少率を考えれば(12)、長島の約二十分の一という
のは飛び抜けた数字と言ってよい。では人々が避難する
のに不利な状況になりながらもそのような結果が生まれ
た背景とは、如何なるところにあったのだろうか。次節
では災害発生当時における人々の行動を中心に、在地住
民の被害抑制に対する意識を探ってみたい。
第二節 住民の避難と防災
 紀伊長島において住民の行動を最も詳しく記している
のが、「長島神社記録」である。これによると地面が大き
く揺れ始めると人々は一旦家を出、鎮静化後に「家へ入
り大切なる書類をはじめ衣類などを携え老母を連れて本
社前に登り」、子供たちは「何れも我が家に帰らずすぐ山
へ登り」との様子であった。これは六月十四日に起こっ
た比較的大きな地震で「町内の人残らず逃げ」るも、避
難完了は地震発生から四時間後の午前四時となってしま
ったことを考えると、人々は格段に急いで避難するよう
になり、状況は一気に好転したかのようにも思われる。
 しかし現実には「家財道具などを取りまとめ家を離れ
ず」というのが実態であり、各地で多く見られるような
諸道具を高いところの家・蔵へ預けに行く・井戸に入れ
るなどの行動が少なからずあったことは想像に難くな
い。また山など高い所ではなく、逆に浜へ避難し舟で沖
へ逃げるといった習慣も根強く存在しているようで(13)、す
ぐさま高い所へ避難することが住民に徹底されていたわ
けではなかった。
 ただ一方で前節にも述べたように、錦浦や養海院など
の記録で昔の言い伝えから井戸水の変化に注意を払って
いる様子が記述されているほか、汐の引き幅などに関し
ても一、二丁引いた、三度目の引きが大きかった、どこ
の岩が海面に現れたなど具に観察している例は各地に多
い。また地震に際しては「失火あらんことを恐れ竈に水
をそゝき」「用心致候様小前へ申間かけつけ廻(14)」と、火の
処置に多分な気が遣われていたようである。これは六月
十四日の地震で全国的に話が波及するほどの大火災が四
日市に起こったことの影響が大きかったものと思われ
る。
 安政地震の後には「長島神社記録」のように、宝永地
震から一四七年を経て人々はその恐ろしさを知らずと評
されることもしばしばあった。しかし当時の記録類を見
てゆくと、通常では風化してしまうようなその昔の経験
が、実際には一五〇年後の人々の行動に活きていたので
ある。更にそれは近世社会の情報化と共に伝わってくる
風説と相俟って、紀伊長島地域の防災意識を高め、厳し
い条件下での大幅な死者の減少となったのではないだろ
うか。よって住民が諸道具を懸命に保管するなどの行為
も、無知や欲からとしてではなく、状況を把握し予測し
た上で、災害後の生活維持との攻めぎあいのなかより導
き出された結論として捉えるべきであろう。
第二章 藩の復旧政策
 この章では藩による救済などの政策方針を軸に、在地
活動との関係がどのようなものであったのか述べてお
く。
第一節 窮民への救済策
 前章に述べたような未曾有の大災害によって多くの
人々が家族や住居、生活道具を失い、そのため厳しい生
活状況に置かれざるを得なかったことはいうまでもな
い。領主としての藩は、そのような難渋者となった領民
への救済が当然の務めであった。
 長島組の御救米帳(15)によれば、長島組十三ヶ村の内、島
勝・白・長島・三浦など八ヶ浦の対象者四一〇〇人へ、
八歳以上は「壱人壱日弐合 日数五十日分」、五歳から七
歳までには一合を同じく五〇日分が支給されている。た
だし、特に成人男子の一日に食する量は2合を超える場
合も多かったであろうから、実質五〇日分とは言えなか
った。ちなみにほかの紀州藩領では、尾鷲組で同様に二
合の五十日分が与えられているが、「尾鷲大庄屋文書」に
よれば当初尾鷲組からは五合の五〇日分を願ったが受け
入れられず、木本組の例で二合を了承したとのことにな
っており(16)、長島組の救いもそのような経緯から設定され
た可能性が高い。
 もちろんその他にも仕入方などへ願い出て金子を借り
受けることは多々あったのだが、救いとして下されたと
いうことでそれ以前の救い米との比較しておこう。例え
ば正徳二年(一七一〇)の大時化の際には、須賀利浦で
「弱気者」二一人に一人一斗、六八人に六升宛の救いが
あったほか、明和二年(一七六五)の罹病流行時には、
尾鷲で十歳以上に一人米一斗、九歳から六歳のものに七
升五合、五歳以下の者に五升が与えられている(17)。残念な
がら長島組での事例は発見できていないのだが、どうや
ら地震の際には一人あたりに特別多くの救い米が設定さ
れるわけではなく、それまでの一定の基準が存在し、そ
れに基づいていたらしいことがわかる。
 一方在地のなかでも救いというものがあって、小前か
ら講のようにして払い合うこともあったが、主には庄
屋・大庄屋を含む「頭立」と呼ばれる有力者層によって
行われることが多かった。よく知られているところでは、
安政地震の後に大庄屋土井八郎兵衛から米三〇石と荒布
六〇〇貫を施行している。当然これらは藩の救いと比べ
れば規模ははるかに小さいもので、「多人数ニ而行届か
ね」ともなりかねないものであった。
 ただし、在地の救いの長所はその規模によるのではな
い。というのも藩からの一次救済は帳面上地震の起った
十一月四日から何日かという計算で記載されているが、
実際にその日から支給することは不可能な話である。そ
こで例えば、尾鷲南浦は五日に地価蔵の濡米を評議の上
住民に配当していたり(18)、賀田村においても「大かま貮ツ
三ツかまへ地下蔵より残米(19)」を炊きだすなど、藩の施行
がされるまでの間に在蔵の濡米が迅速に有効利用されて
いた。また土井氏が林浦に対してのみ藩の救いを超える
三〇石の施米をしているように、その臨機応変なところ
も在地の救いの特徴的な面であった。そこまでの規模に
至らなくても、普済寺では須賀利・島勝・白・矢口の各
浦への救済によって藩から褒章を頂戴しているし(20)、布・
小屋掛藁の組内救合が行われるなど、物資が局地的に
様々な形で賄われていた。つまり在地内部での救いは、
地震のような突発的災害の発生直後に住民の生活を支
え、その後の大規模ながら押し並べて一様である領主の
救済を土地の状況に合わせて補ってゆくという、藩との
役割分担のもと機能したのである。
第二節 普請と人足
 物資救済と合わせて、災害により破損した諸施設を補
修することで領民の生活復旧をすることも、支配者にと
って大きな課題であった。
 現在紀伊長島には、嘉永六年から安政年間、および万
延にかけての普請帳が残されている。藩の復興への方針
を探るためには本来、地震の前後数年に掛けて普請規格
の変化などを比較するべきであろうが、安政二年分が欠
如し安政三年以降の修理分が地震での破損か安政二年の
大雨によるものか判別することができない。そのため今
回は、主に嘉永六年と嘉永七年(安政元年)の普請帳(21)を
使用することとする。
 両普請帳を見ると、破損による修繕箇所として「大川
筋御仕入前武兵衛地通川除」・「大川筋下地半左衛門地行
手右同断」・「鏡地要水尻浪除堤」の三ヶ所が一致する。
まずその規格について長さが異なるのは当然として、高
さ及び横幅については、どれも地震を挟んで変化は全く
見られていない。また坪当たり何人かという人足の掛け
方も、それぞれ五人・二人五分・五人と変らず、その人
足賃も日用が米一升七合、所人足が七合五勺と据え置き
となっている。「南紀徳川史」によれば、藩は難渋者の救
済と復旧を兼ねて「道筋築地等普請ヲ弱人共へ仰付候」
とされているが(22)、少なくとも長島組の様子を見る限り、
普請当所からの人足と他所からの人足とで人数や給米の
比率に変化はなく、普請が積極的に救いとして利用され
た様子は見受けられない。またこのような状況は尾鷲に
おいても同様であった。要するに藩にとっての復旧政策
とは、文字通り災害以前の状態、つまり旧を復すること
であったと言ってよい。
 そのため災害後に様々な人足を用いているのは、各浦
村及び組としての会合所であった。後で詳しく述べるが、
「在中流失道具は地下より手当仕向井はい鼻より二ツ口
迄いさば船尚淡路百五十石程積船にて網アリアバ結置船
に拾ひ遣(23)」わすための人足、潰れた家や地面を掘り返す
人足、さらには畳を干す人足まで使われており、住民の
生活を支えていた。尾鷲の会合所が安政二年十二月に作
成した勘定帳(24)のなかで、商人より買い入れた米を一旦被
害を受けた九ヶ浦へ割り当てた後、改めて行野・大曽根
へ人足代として二重に渡しているところなどにも、前例
に従いながら進められる藩の復旧方針のなかで、当時の
経済状況に応じて形を変える在地の姿勢がよく示されて
いると言えよう。
第三章 災害後の状況
 この章では主に在地による自主的な復興を取り上げ、
災害以前と比べ浦村のなかにいかなる変化を生んだのか
見ておきたい。
第一節 流失物の処理
 尾鷲南浦の医師若林多仲は安政地震の後に、「つなみの
跡は人の心いつれも皆賊心おこり」「正直なる者はあほう
の如くおもひ」と記し、浜へ出て流失物を拾得する人々
に批判を加えている。家や蔵が破損し物品が流失したこ
とは一般的な話であって、津波の後には誰のものとも分
からない木材や諸道具が在中に多く散在していた。十一
月十二日には流失物を拾って売り払っている者への浦々
からの注意が触れられており(25)、商売にまでなっていたこ
とが分かる。
 それではその落ちているものは自由に拾得して問題が
なかったかといえば決してそのようなことはない。紀州
藩領においては村役人が人足・番人を連れて取り集めた
後、流失したことを申告してきた者には「相対を以」返
し、その他流家した者共を会合所へ呼び出して「右品物
一品宛出し此品物誰ものぞと御尋被下候…何人迄出候共
其内慥成証拠を以相渡し候御取捌方」にすることが地震
後に決められており、在地で責任を持って管理すること
が原則であった(26)。また紀州藩田丸領においてもほぼ同内
容で代官より触れられ、持ち主不明分は庄屋預かりとな
っている。
 しかし、現実問題としてそれらの管理を徹底させるこ
とは非常に困難で、前述の管理法例を記した著者も「着
類夜具等拾ひ候者は御詮議ニ付山林へ隠し…或者相賀村
へ持出…金銀拾候者大体隠し候と相見へ」るのが実情で
あることを洩らしている。
 さらに流失して問題になるのは在地の建材や道具だけ
ではない。例えば安政の津波の際には、長島で丹州峯山
の和泉屋という者の帷子荷物が流失している(27)。

一、帷子地 壱反
 右者去寅十一月四日異変之節所持之荷物流出ニ相成候
処、木り帷子拾ひ上ヶ有之御役元へ御取り上ヶ御座候処、
全私所持之内相違無御座色々厚御苦労被下候共難相下、
此節国元へ引取ニ付右代呂物御下(被、欠カ)ケ成下難有ニ受取申
候、恐々謹言
丹波峯山 和泉屋与兵衛 印
長島宿 庄右衛門 印
長島浦 御役人衆中様
陸揚げして売ろうとしていたのか、船が一時的に留泊し
ていたところを流されたのか詳細は不明であるが、右の
ように和泉屋が帰国した後に木こりが見付け、長島役人
衆中より国元へ届けられた。津波による流失物の取り戻
しや拾い賃の支払いなどを巡って、各浦村内部や他組の
大庄屋同士の折衝にまで及ぶ争論(28)が引き起こされていた
なかで、流失物処理のあるべきひとつの形がここに示さ
れているといってよい。ただしこの事例通りに物品と所
有者が結び付きやすい例は稀な方であって、通常ではむ
しろ見つからないことが多々あったことは想像に難くな
い。その場合、庄屋方に残った品物はどうなるのであろ
うか。
 これに関しては前出した尾鷲会合所の勘定帳が、ひと
つの参考になるものと思われる。この内容を見てゆくと、
仕入方からの拝借金返済の割振りや流失物の所有者調査
費、果ては荒れ模様を見聞に来た役人の接待入用など、
災害後における苦しい会計の模様を窺い知ることができ
るのだが、問題となるのはそれらの捻出方法にある。と
いうのも、ここでは十一月までに「引上もの売払」とし
て三〇匁を得ているほか、仕入方返納入用のための一貫
一九九匁二分に「拾ひ物引上売払」としての収入一貫九
五九匁七分を当て、残りの金子を「津波所入用の内」へ
組み込んで、今度は大庄屋土井氏拝借金からの返済に使
用しているのである。全体でも仕入方からの拝借金一五
〇両の内約四分の一を補塡しており、その効力は小さく
なかった。このことは前出の流散物管理規定と相反して
いるようであるが、この史料が仕入方拝借筋の勘定とし
て、九ヶ村庄屋肝煎連名で作成されているところを見る
と、どうやら隠密に行われたというわけではなく、一定
の間保管した後は流散物の処分権が認められていたもの
と考えてよいのではないだろうか。
第二節 建造物の復旧
 地震・津波によって諸道具だけでなく住居や蔵などま
で流失・破損した人々にとっては、生活する場としてそ
の再建及び修築は大変な急務であった。前述の通り長島
でも約八割が被害を受けており、最重要懸案のひとつで
あったと言ってよい。また垣などの破損も甚大で、安政
地震後には仏光寺の崩れた石垣を長島から尾鷲の三組寄
進により修復しているように(29)、厳しい経済状態のなかで、
次節災害が発生したときに備えることも、在地にとって
は大きなテーマであった。つまり建造物の復旧といって
も、今回の二の轍を踏まぬよう工夫することが必要とさ
れるのである。
 まず手段のひとつとして、波が来ないような所への移
築が考えられよう。寺社では錦神社の明治八年記録に「大
破により氏子衆議の上社地移す」とあるほか、三木里の
貴船神社でも宝永地震後に「上岡に社替え(30)」をしている。
またこのような災害対策は集落のレベルにまで適用され
ていたようで、志州甲賀村などでも宝永の地震後には漸
丘地への移転が行われたと伝えられている(31)。しかし経済
的にも大きな被害を受け、生活・生業の場として海に接
していた浦村にとって、それは有効な方法であったとし
ても決して容易なことではない。そのためやはり、同じ
場所での生活の継続を前提としたうえで、この課題は克
服されるべきものだったのである。
 そこで中心となるのは、尾鷲などの記録に「津波之後
家毎に浜納屋屋敷共壱尺弐尺程も上げ申候(32)」や、「納屋の
屋敷一尺程も積上」「拙家前之浜之石垣此時一尺余も
積上(33)」とある様に、復旧過程のなかで家屋や蔵、石垣な
どを高く再建・修築する手段であった。また現実に実行
されたかは不明ながら、尾鷲組九木浦では「町も高くす
へし」との構想があったことが知られる。このやり方は
夥しい数の家屋が浸水した在地にとって自然な発想であ
り、海面上昇や地盤沈下の記述に比較的多いのが一、二
尺程度であることに一致する。
 と、ここで改めて考えてみなければならないのは、長
島浦でも流失にまで及んだ家屋だけで半分近くにのぼ
り、それ以外でも道具が流出するほどの汐入があった事
例は計り知れなかったということである。それほどの津
波災害に対し、前述のような一、二尺程度の底上げで、
果たしてどれほどの成果が期待できたかという点には疑
問を持たざるをえないであろう。
 それに対する答えとしては、前出の九木浦宮崎氏が
後々における町中の積み上げを構想する上で「風雨当た
り勢和ふかに覚へ」ており、さらに隣家松蔵が家を高く
したことによって「津波有之候節者古名地入込候浪之勢
ひ大半松蔵納屋ニ而和可申」との考えを示している点に、
ひとつの可能性を見出すことができると思う。つまり建
造物を高くすることによって、浪などの勢いを弱め被害
を抑えることができるという意識があったことになる。
多くの住民が逃れて助かることも考慮されたのではあろ
うが、ここではこのような改築によって「流れ来る品□
相防キ候得者利也且又…大ニ徳用」であると、むしろ流
れる道具類を留めるところに重点が置かれているのは注
目に値する。
 というのも、紀伊長島から尾鷲にかけての熊野湾沿岸
部は、耕地が僅少で漁業関係の従事者が非常に多いとこ
ろであったため、生業のための道具、例えば網や山稼ぎ
道具などの流失によって、在地は致命的な事態へと追い
込まれかねない可能性があった。実際、宝永地震によっ
て国崎や島勝などでは実質的にこの津波で捕鯨業を廃し
ているし、尾鷲のほうでは近海漁業の柱となる名吉の網
が安政の津波で流され仕立てたところ、結局二年後の納
品となってしまい翌安政二年には漁ができずに藩へ拝借
を願い出ている(34)。
 加えて在地では津波で流され水に浸かった木材であっ
ても、生活の場を確保する時間と費用を節減する工夫と
して、それを拾い上げて小屋掛けなどに使用していたよ
うである。流失物の管理規定に触れる事項だが、木材は
所有者の確認が極めて難しく量も多かったため、半ば容
認されていたか布告前に使ってしまったものと思われ
る。まして前節でも述べたように、その他流失物も拾得
することが半ば一般化してしまった状況を見れば、決し
て人命を軽視しているわけではないが、後々の生活を考
えると道具流失への危惧はますます膨らんでいったこと
であろう。
 また似たような目的から、松の新たな使用法というも
のも安政地震後には顕著になっている。倒れにくく根腐
れもしにくいということで以前から防潮・防風林として
利用されていたことから注目を浴びたのであろう。安政
地震の後に慥柄組新桑竃(南島町)では、川堤の普請が
完了してから「此堤に並松あれハ松にて家留」として松
を植樹し、難渋しても売買のため伐り取らぬよう「村定」
をして流出防止の意気込みを見せている(35)。同時期の長島
浦においても仏光寺前に流失物が山積し住民の避難に支
障をきたしたとして、江戸屋長兵衛の寄付によって松樹
が植えられており、枯死したら西田常蔵が補植すること
が定められた(36)。長島浦の方は道具保全と若干異なるのだ
が、流れる物を防ぐという点で近似した考え方といえよ
う。
 各浦ではこのように、大枠で藩から示される一定の方
向性に従い、また金子などを拝借しながら、実務的な処
理に大きな責任を背負って災害後に現れた諸問題を乗り
越えていったのである。
おわりに
 これまで見てきたように、宝永と安政の大地震・津波
という未曾有の事態に対して藩は、一定の決まりごとに
従い莫大な資本などを下賜・貸与しているが、末端にお
いてアイデアをめぐらし在地を復旧させ、しかもそこに
防災という要素を付け加えたのは、紛れもなく当の住民
たちであった。
 もちろんそのような復旧も、藩からの支援がなければ
不可能であった部分が多いことをここで否定するもので
はない。しかし困窮した民衆が領主に頼んで物を与えて
もらうといっただけではない、緊急時における在地の臨
機応変な力というものの一端でも示すことができたので
はないかと思う。
 宝永地震後に記された仏光寺流死塔碑文の末には、以
後の地震への備えとして「覚悟可有之」とある。地震が
発生する前、発生している最中、「覚悟」を持っているこ
とこそが、死者数を減少させ、それら住民による地域復
旧を実現する原動力となったのではないだろうか。
参考資料
(1) 羽鳥徳太郎「三重県沿岸における宝永・安政東海地
震の津波調査」(東京大学地震研究所彙報五三―四、
一九七八年)
(2) 「見聞集」を基に写したといわれており、宝永地震
による被害や発生当時の状況を詳しく知ることので
きる貴重な史料である。著者は尾鷲組大庄屋の仲源
之丞。
(3) 「西遊記続編」(橘南谿著、宗政五十緒校注『東西遊
記』二、平凡社、一九七四年)
(4) 「歴史地震の研究(五) ―宝永四年十月四日(一七
○七年十月二十八日)の地震及び津波災害について」
(『愛知工業大学研究報告B』十七、一九八二年)や
「嘉永七年(安政元年)十一月四日(一八五四年十二
月二十三日)の安政東海地震の震害、震度分布及び津
波災害について」(『愛知工業大学研究報告B』二〇、
一九八五年)のなかで羽鳥氏の成果を踏まえつつ、新
たな資料からの情報を示されているのが、飯田汲事
氏である。
(5) 中田氏は奥熊野地方に関わる地震研究として、「三
重県下の熊野灘沿岸における宝永の津波」(『三重史
学』二一、三重史学会、一九七八年)のほか、地震の
後各地に建てられた供養塔などの分布や碑文内容を
記録した「志摩から熊野灘にかけての沿岸にある津
波の碑の語るもの」(『温故稽古』七九、三重県海村史
研究会、一九七七年)など貴重な資料情報を残されて
いる。
(6) 「大地震津波記」、長島浦養海院(紀伊長島町郷土資
料館)
(7) 「地震津波記」、慥柄組新桑竃(『新収日本地震史
料』)五―一 一三九〇頁、東京大学地震研究所、一
九八五年)
(8) 東京天文台編『理科年表』―七五―一七六頁、丸善
株式会社、一九八一年
各地の震度などから震源地の推定されており、宝永
東海地震は北緯三十四・四度・東経一三七・八度、南
海地震は北緯三三・二度、東経一三四・八度。対して
安政東海地震は北緯三四・○度・東経一三七・九度、
南海地震は北緯三三・一度・東経一三五・〇度となっ
ている。
(9) 「明治二年大差出帳 長嶋組」(紀伊長島町郷土資
料館)
(10) 「延享三年大差出帳 長嶋組」(紀伊長島町郷土資
料館)
(11) 「仏光寺流死塔」、長島浦
(12) 宝永地震による死者は、尾鷲で五三〇人余り(「見
聞闕疑集」)、錦浦で二五人(『鵜倉村誌』)。安政地震
の方は尾鷲で二〇〇人余り(「九木浦庄屋宮崎和右衛
門御用留の一部」「津なみ」)、錦浦では九人(「錦浦津
波略記」、紀伊長島町郷土資料館)となっている。記
録によって若干のばらつきがあるものの、おおむね
これに近い数字がでている。
(13) 若林多仲の「津なみ」(『大地震津波史料』、尾鷲市
郷土室)によれば、当時「沖に出居たるは無難とされ」
ており、「嘉永海嘯記」(同断)では著者の妻が子を「い
さば船に乗沖へ逃げんと欲」、自身も「直に浜へはひ
出し」ているように、このような習慣は端的に見られ
る。
(14) 前者は「津なみ」、後者は慥柄組贅浦の「宝永四年
嘉永七年昭和十九年津波記録」(『新収日本地震史料』
五別巻五―一 一三九七頁)
(15) 「去寅津波ニ付窮民共江被下候救米帳」(紀伊長島
郷土資料館)
(16) 「嘉永七年御用留」(「尾鷲大庄屋文書」)
(17) 『尾鷲市史』上巻 三九三頁、昭和四四年
(18) 右同断 三九八頁
(19) 「大地震津波記録」、尾鷲組賀田村(『大地震津波史
料』)
(20) 「御用状留」(「須賀利浦方文書」)
(21) 嘉永六年「奥熊野日々来ル寅毛付前後御普請請人
夫積帳」と嘉永七年「奥熊野長島組在々来卯毛付前後
御普請御入用積リ帳」(紀伊長島町郷土資料館)
(22) 堀内信編『南紀徳川史』第一〇巻 二九六頁、名著
出版、一九七一年)
(23) 「嘉永海嘯記」(『大地震津波史料』)
(24) 「去寅十一月四日津波流散救振跡あらけ等諸入用
銀各凌当テニ御仕入方ニ而御金拝借筋と差引勘定
帳」(「尾鷲大庄屋文書」)
(25) 「嘉永七年御用留」
(26) 「尾鷲浦蛭子屋武蔵作之書」(『新収日本地震史料』
五―一 一四三七頁)
(27) 「川口家文書」(紀伊長島町郷土資料館)
(28) 「嘉永七年御用留」によれば、尾鷲浦から流れ出た
木材を引本・古本で相賀組の者が拾い取ったとして、
土井氏より相賀組大庄屋玉置氏へ抗議がされてい
る。
(29) 西田半白著『新長島風土記』一七頁、紀伊長島ふる
さと懇話会、一九九六年
(30) 錦神社は〔明治八年雑掌記写〕(紀伊長島町郷土資
料館)、貴船神社は倉本為一郎編『熊野灘漁村資料集』
(三重県郷土資料刊行会、一九六八年)に拠った。
(31) 「享保三年差出帳」のなかにある志州甲賀村妙音寺
「地震津波遺戒」(『新収日本地震史料』三―別 二八
八頁、東京大学地震研究所、一九八五年)
(32) 「嘉永海嘯記」
(33) 「九木浦庄屋宮崎和右衛門御用留の一部」(『大地震
津波史料』)
(34) 「嘉永七年御用留」
(35) 「地震津波記」、慥柄組新桑竃(『新収日本地震史料』
五―別五―一 一四一〇頁)
(36) 『新長島風土記』一八頁
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 四ノ上
ページ 934
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 三重
市区町村 紀伊長島【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

検索時間: 0.001秒