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項目 内容
ID J3000948
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東~九州〕
書名 〔諸記録に残る「南海地震」~安政の大地震を中心にして~〕田中弘倫著「熊野誌第48号」H14・12・25 二河通夫発行
本文
[未校訂](注、既出のものは除く)
【新宮市】
・「…新宮御城下表町家御屋敷共津波の障りは無之候
へ共地震殊の□之大ゆ里にて寺院二ケ寺光行寺長徳
寺皆つぶれ町家御屋敷方共九分通りゆりつぶれ□で
聞及ばざるの大変に候然共怪我人壱人老人養生不叶
同日死去いたし候……」(勝浦「新田家過去帳」)
・「十一月大地震……十一月四日の朝四ツ半時再震動
所々土蔵、土塀、石塔、石燈籠不残崩れ、諸人皆畏
れて色を失ひ、竹林或は廣野をしつらひ、居宅、財
寶、金銀を置逃走す、凡半時許、此時海銕炮と申し
て、洋中にて炮音の聲聞え、西の方に當りて空中に
折々ドンドンの聲甚敷、諸人膽を冷し、只御念仏を
唱ふる外他なし。……翌五日に成り、日輪の色赤く
耀き、晝七ツ半時大きに震ひ出し、其時には家居不
残倒れ掛り、其音甚敷事言語には述べ難し、人々魂
天外に飛、色を失ひ、泣きさけぶ聲四方に起る、日
暮迄大震ひ、下横町不残家倒れ、続て、元鍛治町、
才加町邊、別当屋敷往来不成、家根の上を歩行して
出火を防ぐ、就中横町、別当屋敷、馬町、初の地通
烈敷ゆり潰し、女二人被押殺、橋本御石碑倒れ、全
龍寺殿石碑を倒し、御代々様の御石碑皆倒れ、全龍
寺、本廣寺本堂倒れ、庫裡大に狂ふ。妙體寺無事庫
裡破却、専光寺、長徳寺、光行寺堂破れ、浄泉寺堂
傾く。東仙寺中傷、其外諸寺院門戸を破却し皆膽を
冷す。御役所半崩る。假御役所出来る。所々より出
火起り候へ共火方より直に慎る。即時に突浪川口よ
り入り来り、熊ノ地材木、牛の鼻迄登る、其後夜五
ツ時、又々中ゆり、皆小屋にて念佛を唱へ夜を明し、
其後より時々大ゆり絶間なし。」『小野翁遺稿 熊野
史』(註7)
・「新宮は殊の外大地震のよし、大破にて無事なる家
は、六・七軒計りも残りたりとなん」(新鹿坪田氏述
「安政大地震」中根七郎氏控)
・「今日ノ地震新宮家□大半揺倒ル」(同上「大地震ノ
記録」新鹿坪田氏述)
・「甲嘉永七年 寅極月書改 新宮地震ニ而人家七・八
分通リ潰込候」(中根七郎氏所蔵『古座切目屋文書』)
・「新宮 四日ノ地震イト甚ダシク五日ノ津波□クカ
リシヨシサレド家ハ多ク損シタリトゾ」(同上、熊代
繁里翁「嘉永七年大地震津波之記」―私記抜粋)
・「新宮御城下家数三千軒と申所津波無之候得共大地
震にて震潰候本潰半潰共七分通有之候事、但し人死
は二人有之候由」(『新収 日本地震史料別巻五』―社
団法人日本電気協会〔三重県南部災異誌所収〕)
・「……御城下元ニハ御屋敷方町方迄も大半潰れ申候
……」(「安政四巳二月越水記(ママ)禄帳―清水寺)
・「嘉永七寅六月十四日夜九ツ大地震同十一月四日昼
四ツ時寔ニ大地震無間も都波同五日昼七ツ時大地震
此山門之義者大地震後五ケ□□□安政□五午六月□
出来
□月十七日成就仕候」(平成十三年一月佐野南珠寺山
門改築時に発見)(註8)
(註7)『熊野川林業誌』にもこの内容と同じものと思われ
る史料が出ているが、誤字・脱字があり、いささか
不備である。また、中根七郎氏所蔵史料の中に、昭
和七年発行「紀州の地震と安政大地震洪浪之記」
(山下破竹)があり、「新宮町誌編纂材料中抄出」
として同じ内容のものが掲載されているが、表記
がいささかおかしかったり、間違いなどもあるよ
うに思われる。
(註8)「十一月四日昼四ツ寔ニ大地震無間も都波」とある
が、地震によって山門が潰れたのか、それとも津波
によって流失したのか、これだけでは何とも言え
ない。また、「『紀伊半島地震津波史料―三重県・
和歌山県・奈良県の地震津波史料1』(昭和五十六
年十一月 科学技術庁国立防災科学技術センタ
ー)」掲載の「真砂貝岳氏文書」によれば、「一、…
且又新宮辺ニも地震ニ而天守落其上津波ニ而大ニ
破損之様子風聞有之候…」とある。が、「新宮辺=
地震=津波」と読みとれば、「辺」に津波が来襲し
た、ということになる。
 「安政の大地震」に関する史料は、新宮市の場合、前述
したように残念ながら震災・戦災によって焼失したとい
われている。ここに列記した史料の大部分は、他の市町
村が所蔵する史料の中に伝聞として記されているものが
ほとんどであるから、地震の発生、震れ、正確な被害の
状況、津波の様子についてははっきりとしない。唯一、
比較的詳しいのは、『熊野年代記』で、『小野翁遺稿 熊
野史』所収の「熊野年譜」の史料もこれを元にしたもの
と思われ、「新宮町郷土誌編纂材料中抄出」もこれによっ
て書かれたものであろう。ただし、この史料は、『新宮町
郷土誌』には、掲載されていない。
 さて、「天守落」、「新宮御城下三千軒…震潰」、「町屋御
屋敷方共九分通りゆりつぶれ…」とあるから被害は甚大
であった。とりわけ、横町、元鍛治町、別当屋敷、馬町
などが大被害を受けている。そして、殊の外堅牢と思わ
れる全龍寺や本廣寺の被害が目立っていることに注目し
なければならない。
 津波による被害は、史料を見る限りにおいては、なか
ったようである。「熊野年譜」にみえる「牛の鼻まで舟や
材木が流された」程度ですんだものと思われる。
【那智勝浦町】
・「…同日巳の上刻より地震ゆり出し始めのほどは常
の如く思ひしに次第次第に強く相成浦中家毎町中に
逃出老若男女の分かちなく立ち騒き泣きさけぶ声は
誠に身の気(ママ)もよ立おそろしき変事にて候地震もよふ
よふにゆり止み如何なる事の至る事も斗りかたしと
怪しむ内濱側に地震逃れ居候者より大津波のよせく
ると泣きさけんで一命限り親をおひ子を引立我先き
東向きの人は泣て城山に逃げ上り(ママ)気点の者は男女差
別なくかせにつなきし舟に取り乗り大混雑の折中へ
逃場の気てん何れをよしと定めかたく候得どかよう
の節津波抔の時はかなら須舟に取り乗る事の第一随
分可心懸事や、此已来迚大地震ゆり候はゞ極而津波
来ると夜中は尚更心かけ……海翁寺へよふよふ逃上
り、……一命からがら裏の山の小高き所に逃登り津
波終り迄此所に逃れ居候……津波は昔より聞及候に
大地震ゆり候跡□而汐道半途引候ハヾ飯壱鍋焚候ほ
どの間もありと聞傳候得共此度の津波は聞及とは違
ひ地震ゆ里止み兎角する内何之気色見へず高波ニ而
吹屋より同時に打上り湊の中へやりぬけ高波二時斗
り地下中に打上り高さ執札場にて汐口四尺五寸家居
高ひくによって四尺より五六尺汐口上り候大勝浦両
濱側すじ十軒余も床より上り候得共余は別条なく存
の外軽き事にて在中壱人怪我人等もなく仕合せ第一
の事に候当浦は家屋流死怪我人等も無く候得共濱の
宮村は別而高波打上補陀落山御社六尺余り浪つかり
□御保ちのほども無覚束見へ候へ共……然共同村は
津波格別事にて在中家財はもちろん俵敷家居とも不
残流失仕地跡白浜の如く相成流死の人男女九人前代
未聞歎ケ敷事に候……天満村も下地筋新宮郷詰所始
め十軒余流失流死女子壱人是は天満野畑農業に出女
子の儀に候ゆへ高波に取回され溺水死致候須崎村不
残流失流死の者無之候……浦神地下半分流失死人九
人宇久井三輪崎両浦格の事茂無く候へ共……昔より
傳聞候に津浪は一日一刻之事と心得居り候所翌日五
日午の日に至り最早災難も相逃れ候と安き思ひ之者
も在中には相見へ山々に逃上り流失の家財諸道具ひ
らい取之者も相見へ兎や角山々に而評議驚(ママ)脚取々の
所皆も夕七ツ頃過きと思しき時又候大地震強くゆり
出し家居も保ちかたく寺社大家石垣ともゆり倒し
家々の屋根石抔(ママ)中ウに踊て落ち(ママ)古かる事甚だしうし
て津波も是に應じ候へ共昨日より浪の上り軽く見へ
地震は二倍の大ゆりにて候 前々書す通り記録大地
震ゆり候得ば何れ近き内にゆり候と斯くの如く両日
之有様是心懸之第一に候右四日巳の刻よりゆり始め
昼夜共五日六日十日頃迄大体弐百度余もゆり申候夫
れより段々うすらき候得共矢張り昼夜共十五度より
七八度冬中ゆり申候……」(勝浦町新田家過去帳写
「乙安政二年 子孫永く為心得急変控書」)(註9)
・「那智町では安政の地震と大津波には、押しよせた激
浪は牧野々地域までも達している。
 孝明 安政元年甲寅 同十一月四日朝四ツ時(十
時)大地震起る、またたく間に土蔵など崩れ皆々山
手に遁れる 凡半時海鉄砲と申してドンドン沖合に
て鳴響く皆々肝を冷やし念仏して無事を祈る 山小
屋にて飯を焚き夜を明かす 泣き叫ぶ声四方に起る
日暮頃震動甚しく此時、あたりの家倒る、多し 魂
飛び足地につかづ 動く事能はず 皆々かばひ、励
まし合ふ、五日一先づ家に帰りしに七ツ時又又震動
起り、間もなく ゴウと音して津波押しよせ、見る
見る間に大波来るといふに、おそれおののき、皆々
又山中に逃げる 逃げおくれて流死になるもの数知
れづ四ツ時半頃より次第に薄らぎ九ツ頃静まる
在々の悲惨目(ママ)状すべからず、浜の宮、川関汐をかぶ
り、浜の宮、天満、須崎、下地、西野中、塩屋、天
満野、大勝浦 悉く押し流され、高處の家のみ残り
しと、其後も連日小揺り起り安堵ならず 村中の死
人四十七人、怪我人二百余人、家の流れなるもの三
十一軒、勝浦損害甚しと村々の損害を受けざる所な
し」(関玄卿手記による―『那智勝浦町史史料編三』)
・「安政元年十一月四日……那智山は所々大崩れ奥の
院地蔵堂は逆に倒れたり……」(嘉永七『地震洪浪乃
記 草稿』中根七郎氏控)
・「宇久井、三輪崎無事とあるは、家屋の流失なかりし
ことを指せるにて、……皆老幼相たづさえて密柑山
に逃れて夜を明かしたということである。また津波
は東勇助の庭前まで押寄せたとのことである。」(『宇
久井郷土誌』) (註11)
・「……浦神にては床より五尺上り死人七人 向ヒ浦、
高芝無事……」(『紀州の地震と安政大地震洪浪之記
全』中根七郎氏所蔵)
(註9)新田家は、勝浦仲の町の海寄りにあり、前は、「城
山」である。しかし、現在御子孫は仲の町を離れ、
朝日町に住まわれている。元の新田家は、果物、乾
物を売る店になっていた。「新田家過去帳」は、東
京在住の新田正名氏にお会いしてその所在につい
て尋ねたが、昭和三十年頃どうやら焼却されたよ
うである。大勝浦や天満の様子がよくわかる貴重
な史料である。現在大勝浦に在住の米津梢(90)さ
んは、「安政の大地震の時、仏壇に魚が入っていた、
という話を聞いたことがある」と語ってくれた。
(註10)「越水記(ママ)禄帳」に出てくる清水寺は、勝浦駅北西国
道42号北に木下医院があるが、その医院の駐車場
辺りにあったといわれている。江戸期は、勝浦駅や
役場付近は海若しくは浜であり、したがって津波
は現国道を越えて登ってきたのであろう。
(註11)安政の大地震で「宇久井……無事」とあるが、東勇
助氏の子孫にあたる東利根男(91)氏の話によれ
ば、「『……津波は東勇助庭前まで……』ではなく、
東勇助宅一軒だけが流された」ということである。
その屋敷跡が国道42号から延命寺・フェリー港に
続く道路のすぐそばにあり、現在は、その屋敷跡よ
り1~2メートル高いところに子孫が住居を構え
ている。津波は、この住居すれすれまで来た、と伝
えられている。
昭和6年、宇久井村は、国の「経済更正指定」を
受け現国道42号と延命寺を結ぶ道路が取り付けら
れた。それまでは、一帯は海若しくは浜で干潮を待
って山際にそって道路に出たという。現在は、宇久
井港を一部埋め立て、延命寺・フェリー港を結ぶ立
派な道路沿いに住宅が建ち並んでいる。「安政の大
地震の時の津波は、上地の浜(佐野湾側)と宇久井
港(通称前の浜)の両側から押し寄せ、延命寺のと
ころでぶつかり、波嵩が延命寺の石段上から二段
目まで来た、という話が伝わっている」とも話して
くれた。「無事」ではなかったわけである。
 なお、昭和19年の「東南海大地震」の時の津波も
ほぼ同じ規模であったようである。
 安政の大地震では、那智勝浦町天満、浜の宮、大勝浦
が津波によって大被害を受けた。つまり、那智湾に面す
写真2 宇久井延命寺の石段、左右から押し寄せた波がぶつ
かり、点線の所まで来たという。東南海地震の時も
同じような状態であった。
写真3 手前のブロックで囲んだところは、東勇助氏の宅跡
で、安政の大津波は、点線の所まで来たという。東
南海地震の時も同じ所まで来た、といわれている。
る部落と現勝浦港が犠牲者を多く出している。津波は、
潮が引いてから飯壱鍋焚く時間があると聞いていたが、
今度の地震は地震揺りやんで「兎角するうち」変わった
様子もないのに高波が吹屋より同時に打ち上がり、湊の
中へやり抜け、高波が床上まできた、とそのすごさを生々
しく具体的に記録している。地震の直後に大津波が押し
寄せ、そのため逃げ遅れて多くの犠牲者を出した。
【太地町】
・「……太地浦 水の浦八十軒余流失死人二人……」
(「新田家過去帳」)
・「……安政寅年十一月古来ニナキ地震海嘯アリテ家
屋ヲ崩シ、大納屋(村内字向島ニアル捕鯨器具置場)
共激浪ニ流失(本宅・大納屋)共書類物品破損失亡
ヲ被リ、漁業中数百人ヲ管理スル混雑言語ニ絶ス
……」(太地亮著『太地浦捕鯨沿革記―八代目太地
角右衛門頼成―太地角右衛門と安政捕鯨Ⅳ』)
(註12)
(註12)太地町に、「新屋敷」という地名があるが、これは、
安政の大地震によって角右衛門の屋敷が流された
ため、新しく屋敷を開いたことによる、という話が
ある。
【古座町・古座川町】
・「一……同月四日晴天四ツ時ヨリ諸国大地震別而ハ
壱時計之間大震ニ而在中一統上エ之山又ハ寺抔へ
逃退候折から間もなく津波打来り誠以恐敷事ニ御
座候乍併格別之高波ニ不有下地石垣壱はい之浪ニ
候夫故人家壱軒も損シ無之在中大井ニ悦其夜帰宅
致候者も有之又ハ翌朝戻ル者も有之候
一同五日七ツ時ヨリ又大地震ニ而諸国大混雑別而当
所之人者前日之津波を恐れ又々上エ野山へ逃去ル
有様ハ父ヨ母ヨト泣声ハ蚊の啼如にて見るに見ら
れぬ次第なり
扨夫ヨリ何国ともなく雷の如く鳴来り在中驚入候
中間もなく大津浪打来り壱番の浪ハ左程ニもなく
其後川口ヨリ黒嶋辺迄河原の如く汐干キ切リ其有
様佐もすさましき次第也又夫れより弐度目の浪来
り候汐嵩弐丈五尺計之高サニ而打来り其浪去りニ
而鯨場ヨリ下へ家廿軒上へ五拾軒ハ去り之浪ニ而
流失致し又夫ヨリ弐ツ三ツ打来り候へ共前ヨリ小
浪ニ御座候
扨家流留マリ者下地広小路ヨリ上ミへ弐三軒目ニ
而絶り夫ヨリ流残り之下タ町者納屋石垣抔者川中
へ漬込町筋ハ札場迄潰家流物抔ニ而山の如く打寄
せ是ヨリ上ミの町筋ハ痛無之左候へ共川端石垣納
屋□□少々痛有之候
一川内ニハ大船小船共廿艘計繫居候所小船ハ古田村
池之口村辺迄流込候大船ハ中州畑中へ打寄セ又ハ
古田辺迄流込候も有之由大船弐艘破船ニ相成 此
船日置船水主ハ無別条皆々無事尤右弐艘之破船ハ
川口悪敷候ニ付川外ニ而荷積致居候船也
一此度ハ川口悪敷候而州鼻堤の如く相成汐干ニ者壱
艘も通イ兼候様相成夫故川外ニ而津浪山の如く打
合イ其汐嵩四丈計りニて下地川口山足迄打揚ケ夫
故人家壱度ニ流失ニ相成、乍併川口悪敷事故浪打
込方優敷候ニ付上之町仲之町ハ壱軒も流無之候
一津浪川長へ打込候処ハ川口村迄池之口小川筋ハ池
之山迄参ル、尤汐嵩池之口村ニ而中之段壱ばい池
之口村宇津木月之瀬辺ニ而海魚沢山ニ拾ひ候者多
ク有之候
一地震ニ当所者潰家壱軒もなく候へ共土蔵は少々痛
ミ当山金堂石段者大痛ミ池之口山王社石の鳥居折
レ同所橋抔ハ地震ニ川中へ潰込候……」(中根七郎
氏控『古座切目屋文書』)
・「……一姫串本は川筋へ汐いれとも何事もなし
一神野川は是も川筋斗り故障もなし
一西白(向)井無事
一古座川六左右衛門広小路より汐揚り家数凡七十有
餘大破のよし、大納屋も大破、夫より下筋十二軒
も家は残れりと聞ぬ。
回船は破損多くあるよし、地下中上野山又は獨活
谷又はお老婆江小屋を作り、暫く住居したりとい
ふ。
一中湊には四日には中の壇迄汐満たり、五日には其
うわかさといふ。在中一統正法寺の田面又は其邊
へも小屋を作り雨露を凌きしとなん、……
一四日の津浪は古座川丈ケ月の瀬村禊の淵迄波留し
とききぬ、五日は高瀬村迄登りしとききぬ。
一津荷は格別の事はなしと、下田原は川口近處川邊
の家は多く破損したり……」(中根七郎氏所蔵『紀
州の地震と安政大地震洪浪之記 全』)
 古座・古座川町に関する大地震については、故山出泰
助氏が、昭和五五年に「古座の文化と歴史 第6号・7
号」で、詳しくまとめられている。それによると、「十一
月五日の大地震は、震源地は潮岬の沖五十キロで、M8.4
上野山、正法寺へ避難、侍四人、刀も忘れて、潮ひき赤
ぬたの海底 黒島の三本脚あらわる」など具体的に検証
している。なお、串本町については、紙数の都合で割愛
した。
2、前兆的現象・津浪について
 各地の記録から「前兆的現象」をひろい出して記すこ
とにする。
 津浪が来襲する前に、何らかの異常が発生しているよ
うである。
 この場合、安政の大地震に限らずこれまでの大地震に
ついて考えてみることにする。
[新鹿]
・「池中ノ水地ニ湧クガ如ク」
・「大空ニ鉄砲ノ音ナル響キアリ」
・「キジノ声四方ニコタへ猫又井戸ニ水有ヤ」
・「五日ハ日色ハ黄ニ見エタリ」(中根七郎氏控『大
地震の記録』新鹿坪田氏述)
[尾鷲]
・「朝食が済んだ頃地鳴りが始まり」(「郷土むかしば
なし」尾鷲市郷土友の会)
[古座]
・「地震と同時に雷の如き大音響と間もなく津波押
来る」
・「雷の如く(ママ)鴨来り……間もなく大津波打ち来たり」
(『洪浪之記』)
[新宮]
・「此時海鉄砲と申して洋中にて砲音の声聞へ、西の
方に当たりて空中に折々ドンドンの声甚敷」(『前
掲書』)
[那智勝浦]
・「海鉄砲と申してドンドン沖合にて鳴響く」(那智
勝浦町史)
[その他]
・南塩屋「海中鳴ル事タビタビナリ」
・北塩屋「大きな大きな大砲ども何とも知れん地鳴
りが3回鳴りました」
・南部地方「海底鳴動して津波寄セキタリ」(以上『前
掲書』)
・伊賀上野「其日ドロドロと言う音始終不絶」(『続
古地震―実像と虚像』萩原尊禮編著)
 以上、地震発生時の「前兆的現象」を史料の中にみた
のであるが、「地鳴り」「海鉄砲」と言われているように、
津波が押し寄せてくる前に何らかの大きな音が聞こえる
ようである。それに、多くの場合、潮がどっと引き、古
座で見られたように島の根っこが現れるという現象も起
っている。
 東南海地震の時にも、浦川和江(70)さんの話によれ
ば大勝浦では、弁天島まで潮が引き、砂浜がずっと続い
たという。下里の橋本エミコ(故人)さんは、東南海地
震発生の前には、これまで獲れたことの無かったスルメ
イカが近くの海で大量に獲れ、みんなお金儲けが出来た、
と語ってくれたことがある。
 この「前兆的現象」については、力武常次東大教授が、
『地震前兆現象』の中で、「地震発生に先立って何か前兆
的現象があるらしいという認識は、一〇〇年を越える日
本の研究をふまえて、一九六〇年ごろには多くの地震学
者の認めるところとなった……大地震の予知につながる
可能性があることは当然である」「……特に器械を必要と
しない人体感覚で捕えられる前兆があるという報告が相
ついだ、鳴動、地下水異変、動物異常行動、発光現象、
火球現象などが地震に先行する……」と述べられている。
そして「将来、これらの地震とほぼ同様のメカニズムで
ほぼ同地域に大地震が発生するとすれば、前兆出現パタ
ーンにもかなりの類似性が期待できるであろうというの
は、そう無理な考えではない……」とも言っている。
 引用が少々長くなったが、こうした前兆的現象を軽視
せず、まじめに耳を傾け、研究する必要があるように思
う。
はじめに
 東海地方における大地震の危険が叫ばれ始めてから数
十年を経た近年、防災対策強化地域の指定が見直し、拡
大され、様々なメディアを通じて地震災害に対する国民
の関心が集まりつつある。東紀州地域も新たに指定を受
けたうちのひとつであり、今後は過去から学びながら、
精神的にも物質的にも備えをしておくことが必要であろ
うと思う。
 以前に発生した東海地震の例として最も近いものに昭
和十九年(一九四四)の昭和東南海地震があるが、さら
に遡って江戸時代には、その規模をさらに超えると言わ
れる大きな地震が二度ほどこの地域を襲っている。それ
が宝永四年(一七〇七)の宝永地震と安政元年(一八五
四)の安政地震である。これらの地震は各地で建物を揺
り潰したのはもちろんのこと、それに伴って巨大な津波
を発生させ、在地に計り知れない打撃を与えている。
 奥熊野地方においてもその影響は大きく、東京大学地
震研究所の羽鳥徳太郎氏は三重県下の浦村へ到来した津
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 四ノ上
ページ 925
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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