[未校訂] 安政の地震・津波 嘉永七年(一八五四)六月一四日
夜、大和・伊賀・伊勢を中心に地震がおこり、石垣・鹿
猪垣がくずれるなどの被害が出ている。
この年の一一月四日朝、大地震が起こった。間もなく
安政に改元されたので、世に「安政の大地震」といわれ
る。地震から約一時間あとに大津波が当地の沿岸におし
寄せている。尾鷲組では六八三軒が流れ、一九五人が流
死した。長島浦では四八〇軒が流れて二三人が流死して
いる。
横町一〇名 松本四名 裏町四名 六太夫町二名 地
蔵町一名新町一名引本一名
この地震では仏光寺の椽下二尺まで浪が来ている。ま
た、門前まで高浪が打ち寄せたと記録されている。裏町・
横町が残らず流失し、新町は長楽寺門前より仏光寺門前
まで流れ、平岩町も流れると書きとめている。
御救米 安政元年(一八五四)は地震・津波の多
い年で、六月一四日、丑の刻(午前二時)に大地震があ
り、その後も何度も余震が起きている。同じ年の一一月
四日、巳の刻(午前一〇時)に、また大地震が起こり、
その後すぐに津波が押し寄せている。長島組の被害は甚
大で、流れた家
は四八〇余軒、
汐入り三一〇軒
余に及んだ。流
死人は長島浦二
三人、三浦五人、
二郷村一二人、
錦浦九人であっ
た。
この時の地
震・津波に対し
て、藩が御救米
を浦村に下付し
ている。この記
録によると、地
震・津波による
窮民に対して、
八歳以上の者に
は一日米二合、
五〇日分、七歳
から五歳までの
者には一日米一
合、五〇日分を
分け与えている。長島組では七浦一村がその対象となり、そ
れは臨海の浦村である。八歳以上一九二三人、七歳から五歳
まで二〇五人に対して、三九〇石三斗にも救米が及んで
いる。一覧表にすると上のようになる。
嘉永七年の大地震の記録
「長島神社 嘉永七年津浪記録」
「そもそも嘉永七寅六月十三日午之上刻常よりも
大なる地震あり。其の夜、子ノ刻亦大地震にて地下
中の人一旦戸外の広き所に出たれども地震度々にて
止まず。是に依て寅の刻時分町内の人残らず山に逃
げ避難す。それより夜明くるまで大小の地震幾度か
ありて止まず。
翌十四日、朝より次第に静かになり其の後も小さ
きは度々繰り返したれども二十一日になりて遂に鎮
まりし故町中の人大方は家に帰る。然る処二十一日
夜亥ノ上刻重ねて大地震あり。尤も十三日の夜より
は小さし。然れ共町内の人々怖れて大体は山へ逃げ
登りそれより七月上旬まで山に住む人多し。今度も
それより追々静かになり行きて全く止みたれば人々
町に下り安どして家にかえる。
我れ思ふに、此の時津浪来らば地下の人恐らく七
分通りまで流死の災を見るならん。いかにとならば
表12安政元年(1854)寅11月地震・津波二付、窮民共江御救米被下帳
(長島組)
浦村名
島勝浦
白浦
道瀬浦
三浦
錦浦
海野浦
二郷村
長島浦
計
8歳以上
人数
325
331
61
349
627
73
42
1,923
此米
石
32.5
33.1
6.1
34.9
62.7
7.3
4.2
192.3
373.1
7歳~5歳迄
人数
37
30
0
26
43
3
0
205
此米
1.85
1.5
0
1.3
2.15
0.15
0
10.25
17.2
米合
石
34.35
34.6
6.1
36.2
64.85
7.45
4.2
202.55
390.3
内
救米
石
8.0
13.3
0
9.5
0
3.6
0.8
22.0
先貸
石
18.22
5.4
0
2.4
3.4
0
0
39.83
第一に夜中でありしこと、二つには女子供迄山へ逃
げ登ることを知らず、諸人何れも浜に出て或は家財
道具等を取りまとめたりして家を離れず。其の故は
宝永年中の大津浪より百四十余年を経たれば、其の
恐ろしさを知らず。ただ昔話の様に思いいたりし為
なり。尤も津浪は冬分に限ると云う事あれ共計り難
し。
今より後来世に及ぶ迄、大地震の時は、一足も早
く速かに戸を開けて近くの山に逃げ登るべし。殊に
海に近き家は家財等に心を奪われ、あたら尊き命を
捨つべからず。常にこの記録を読み置きて町内の
人々にも心得させることをくれぐれも忘るべから
ず。」
「さる処、十一月三日夕酉ノ刻突如、亦々去る六月
十三日位いの地震、是も常の地震より大なり。次に
翌四日朝辰の刻驚くべき大地震起こる。
この時我れ四五日前より大病にて臥しゐたりし
が、直ちに門に出で心中に思う様、我れ常々仏光寺
の津浪供養碑を見るに、宝永四亥十月四日大地震、
直(じ)きに津浪とあり。此の度も冬の大地震なれ
ば必ず大津浪来るべしと。地震の鎮まるのを待ちて
家に入り大切なる書類を始め衣類等を少々携え老母
を引き連れて本社の前に登り町々を見渡すに、町中
は大洪水の如く、家々はあたかも材木を流したるが
如し。
時に、小児等は六月の地震に山へ逃げ登りしこと
を思ひ出し、習子(ならいこ)始め、何れも我が家
に帰らずすぐ山へ上りたる者多し。
此の津浪若し六月に襲来せば、流家の男女は九分
通りまで流死すべかりしを、幸い日中でもあり、又
六月の記憶も新しければ、それと思ひ出して逸早く
逃れる事を得たり。
さて此の津浪神社前より眺めたる時横町のひる子
神社の松の梢、少し見えたるを思へば、潮の高さ凡
そ二丈ぐらいと覚ゆ。尤も往還町にては高さ五尺位
也。それより夕方に至り大いなる地震度々にて浪も
次々と押し寄せたれど、次第に小さくなりて遂には
常の大潮よりも僅かに大きい位になれり。」
この記録は嘉永七年一一月の津波の前半部分である。
地震にあった御館神主の行動が詳細に述べられている。
特に本社の前に登り、町内を眺めた時の様子もすさまじ
いものであったことがうかがえる。
嘉永七年一一月の津波記録の後半部分である。三日の
夕方六時ごろ突如地震が起こり、六月一三日ぐらいの大
きさであった。しかし、四日の朝八時ごろにおどろくべ
き大地震が起こり、大津波がきたのである。この部分は
明けて五日の夕方から年末までの余震の状態と人々の生
活の様子が詳述されている。
「明けて翌五日、夕方迄に地震も追々鎮まり同日未
ノ刻頃に至り流されざる家の者少々我が家に反り火
など用意するところ、亦々大地震ありて是れも余程
激しかりければ、右の人々慌てふためき、我先にと
山へ逃げ上る。然る処へ、申の刻に至り西の方に当
り天地の間にて雷の様にてその実雷鳴にあらず。大
いなることあたかもおびただしき大太鼓を一時に打
鳴らすが如き物凄き音響き渡る。後日聞くところに
よれば、丁度此の時刻に大阪の大津浪にて数万の人
流死せりといふ。それより人々また山を住場とす。
その後も常より大いなる地震一日に四五度づつ揺り
返し返してありしが、十日過ぐる頃より漸く鎮まり、
今日気遣う程も無ければとて、家有る者は家に反り
家無き者は皆そのまま山に住み付ける。然る処亦同
月二十八日にも余程の大地震ありたれど、今度は幸
いにも津浪は来らずして鎮まりければ、それより家
を失ひたる者は自分の屋敷に仮小屋を建て、移るも
ありき。されどこの後も山に逃る事一再にとどまら
ず、また其のまま翌年正月迄山にて暮らす者も多し。
此の津浪にて流死する人長島にて二十三人。流失
家屋は横町・裏町・新町は長楽寺前より西、往還町・
西町・本町合せて四百軒程也。依て記録如件。
長島神主家」
なお、この長島神社記録には「長島神社嘉永五年津浪
記録」とあるが、内容からみて嘉永七年であると判断し
て、文中、嘉永五年の文字は嘉永七年に訂正して論を進
めた。
養海院蔵の「大地震津波記」(注、「新収」第五巻別巻
五ノ一、一四一一頁に全文あり)
養海院蔵の「大地震津波記」を記録されたのは養海院
第一四世祖晧で、今から一二〇年前の地震・津波の様子
が詳細にかかれている。
この「大地震津波記」には
「時コレ嘉永七甲寅ノ年、六月十四日夜半子ノ刻ノ
コロ、ニハカニ地大ヒニ震フ。老若男女皆驚キテ早
速庭前ニ出ス。東方ノアクルニ至リテ、震動ノヤム
コトナシ。ソレヨリ孟秋ノスエニ至ルマテ、折節震
動アリ。余コノ時ニアタッテ大昌ニ守株タリ」
とある。地震のあった当時、祖晧は大昌寺に住んでお
り、地震は嘉永七年(一八五四)六月一四日、夜一二時
ごろ起こった。みんな驚いて庭先に飛び出している。夜
明けになっても微震が続き、陰暦の七月末までときどき
起こっている。
「同暦十一月四日朝辰ノ下刻、マタ地大ヒニ震ヒ、
諸方ノ山嶽クズレ人家土蔵テンフクセント欲スルニ
至ル、ソノ土ホコリ、アタカモ霞ノ如シ。マサニ巳
ノ上刻ニ至リテ、津波海汀ヨリ起リ湧キ出ズルソノ
勢ホイ天ヲケル、高サオヨソ二丈アマリ。ソレヨリ
海面ト陸地トニワカレ、低地ニちょう流スルコト、
ハナハダ疾シ。」
この年の一一月四日午前九時ごろ、また大地震が起き、
大津波が襲ってきている。人家とか土蔵がくずれおち、
たちあがる土ぼこりを「霞のようだ」と表現している。
津波の押し寄せてくる高さも三メートル余と記録してお
り、すさまじい地震と津波であったことがうかがえる。
「長島ニオイテハ人家流失スル者五百余軒。或ハ農
夫ハ農ニ趣キ、しょう童ハ山ニ趣ク。家業ノ折節ユ
エ、親ハ子ヲタスネ、子ハ親ヲ慕ヒテ、タカイニテ
イ泣ノ声聞クニ忍ヒス。ナホ、当郷ハ地面高シトイ
ヘトモ、波ノ高低ハカリカタキカ故ニ、井ノ島ヘニ
ケント欲スレトモ、馬橋クスレオチテ路ノ通スルナ
ク、シカレトモ、カタハラサイハイ肥舟アり。コレ
ニ乗シテ、河ヲワタラント欲シテ、河ノナカハニ至
リテ、タチマチ怒潮ニタタヨハサレ、舟橋クイニ横
タハリ流木ニツキクスレ、破船ニ及フ。人タチマチ
浪ニ没シテ、カタカミノ池ニ漂流セント欲ス。或ハ
クイノカシラニカカリテ、浪ヲシノクモノアリ。浮
木ヲ得テ、岸ニ到ル者アリテ、漸ク死ヲ免ガルル者
五十余人。勢力ツキテ溺死スル者十二人。マコトニ
アワレムヘキコト、視ルニタエス。コノ時ニオイテ、
老若貴賤トモニ皆山頭ニトウシヨク。漸ク露命ヲツ
ナクノミ。シカリトイヘトモ呼崎ニオイテハ中道ヨ
リ西ノ方干原地辺ニイタリテ、浪郷中ニ入ルコト、
浜ノ並木松ヨリ漸く二三間、低地ハ四五十間ニ過キ、
当院境内マテ地ヲうるフスノミ。ユエニ浪人家ニ障
ゲナク、カエッテ逃ケ残リノ者、此ノ難ヲマヌカル
ルヲ得タリ。ヨッテ今ヨリ後津浪ノ時ハホカノトコ
ロヘ逃ケルニ及ハス。タタ村中地面ノ高所ニヨリア
ツマルヘシコレ肝要ナリ。モシ田野ニアリテ、山へ
逃ケント欲スル者ハ必ス嶮ソ巌壁ノホトリヲ避クヘ
シ。ソノクツルルヲ恐レテナリ。」
養海院のあたりは人家も無事であった。今後津波の時
はほかの所に逃げる必要はなく、避難するのであれば、
村中の地面の高い所に集まるようにと警告している。
一一月四日午前九時ごろ大地震が起き、津波が襲って
きている。明けて五日の午後三時ごろ、また高波が起き
ている。けれども、前日ほどのことはなかった。夕方六
時ごろ、東南方向に黒雲がさかんにたちこめ、人々はお
それをなしている。しばらくして南西の方角に太鼓を打
ちならすような響きがして、人々は生ける心地をなくし、
ただただ神仏を念じている。
養海院の第一四世祖晧が古老から聞いていたことによ
れば、津波が起こる前兆として、海辺の潮や井戸水が皆
干してしまう。そうして二四時間後に津波がおしよせて
くるものだとのことだったが、今考えてみると、いささ
かもそのような例がないとのべている。そうして自分が
体験したこの地震をあげて、午前九時に地震がおこり一
〇時に津波が襲ってきているとのべている。また、今日
も仏光寺にある宝永四年の記碑をあげ「直ニ津波在中ニ
入ル」と記している。
「明ケテ五日未ノ下刻マタフタタヒ高浪起ル。シカ
レトモ前日ヨリハ低シ。ソレヨリタソカレ酉ノ刻ニ
東南ニアタッテ黒雲アイタイタリ。ハナハタ人ヲ驚
カス勢ヒアリシバラクアッテ、未申ノ方ニ当テ鼓ヲ
打ツカコトクノ響キアリ。コレ聞キテ人民皆驚キオ
ソル。生ケル心ナシ。斯ノ如キノ天災皆骨髄ニ徹シ、
余念ナク仏神ヲ念スル人ノミ。モットモ田(等ワ、カ)ホウ処々
多ク荒沼トナル。故老伝ヘテ曰ク。津波有ラント欲
スル時ハ海カハホトリノ潮並ニ井戸水皆干ス。ソレ
ヨリ二十四時ヲ経テ後ニ津波有リト。今考フルニイ
ササカモ其ノタメシナシ。スデニ辰ノ下刻震動巳ノ
上刻高浪起ル。マサニ仏光境内宝永タヒノ記碑ニモ
大地震直ニ津浪在中ニ入ル云々。」
祖晧は宝永四年(一七〇七)の津波から今度の嘉永七
年(一八五四)まで一四八年になるが今後もこのような
天災があるのだから「必ス覚悟アル可クナリ」と指摘し、
警告を発している。
現在の養海院に祖晧が当時移り住んで何年か経た年
に、長井藤右エ門の懇請により、津波略記碑の碑文を作
成したのである。しかしながら、建立されたとするなら
ば養海院境内になくてはならない。浄財が集まらなかっ
たとも考えられる。
「則チ宝永四丁亥ノ津波ヨリ、今嘉永七甲寅ニ至リ
テ一百四十八年今ヨリ後、此ノ如キノ変災有ラル必
ズ覚悟有ル可クナリ。愚とつ津波ノ後、千峰ヨリ移
ッテ当院ニ住ス。ココ二年有リ。
コトシ長井氏津波ノ略記碑ヲ建テント欲シテ、碑
文ヲ書カンコトヲ請ワレ、ヨッテイササカコレヲ記
ス。略文別ニアリ。」
補
一大地震津波等ノ節ハ牛馬ヲ殺サザルヨウ心得ルベ
クコト。コレ平生ヨリ其ノ心得有ルベクナリ。
一津波ノ後折節震動有リ、ソレユエ山頭ニ逃ゲテ仮
屋ニ居ル者オヨソ二三十日、ソレヨリ漸ク山ヲ下
ル。
一津波ノ前後米価百文ニツキ壱升五六合位、今此ノ
記ヲ編スル―津波ヨリ十二年ヲ過ク―時ハ百文ニ
ツキ五合位。
一慶応二丙寅ノ年、津波ヨリ十三回ニ相ヒアタル、
事ニ因リテ米価甚タ高シ。百文ニツキ二合三勺位。
慶応改元乙丑五月
住当院一四世祖晧ソウ書誌之
印印津波略碑 施主 長井藤右エ門
他の浦村からみた記録 町内の神社・寺院に残る記録
から、江戸末期の地震・津波について紹介してきたが、
今度は海山町の記録をもとにみてみよう。
嘉永七年は一八五四年で、この年から一〇年余りは天
変地異が多くたび重なる地震・津波が起こっている。
嘉永七甲寅六月十四日夜九ツ時大地震、同七月閏
月有、度々大小之地震有リ。同十一月四日戊巳取(ママ)十
朝四ツ時大地震。浜ノ汐五尺余直ニ津浪来リ渡リ町
渡シ場ヨリ下町筋津浪通ル。渡シ場より上ハ津浪不
通也。当組引本浦人家汐入、吉祥院門迄津浪来リ死
人弐人。同矢口浦人家流失。但し津浪本地札場迄、
鰹舟鷲下迄流行。
尾鷲浦津浪在中人家過半流失、死人帳附三百人余、
旅人多死、浄土真宗光円寺流失。
長島浦在中人家半分流失。仏光寺、長楽寺両寺ハ
汐入、死人帳附十人余、此震サイ諸国也。
其外海辺之浦村江津浪押入人家ヲ流シ死人数不
知、以来大地震之節ハ早速覚悟可有者也。
安政二乙卯十月二日夜四ツ時、江戸大地震御城大
破損、為ニ人家打倒し、死人数不知…(中略)…
其後安政七庚申年ヨリ文久四甲子年迄廿五ケ年之
間度々大水、床ヨリ五尺有余上ル。
(海山町相賀・庄屋文書)