[未校訂]二二 安政の大地震、津波
嘉永七年(一一月二七日安政と改元)一一月四日(新
暦換算一二月二四日)午前九時ごろ東海道を中心にマグ
ニチュード八・四の大地震が発生し、同時に大津波が関
東から九州に及ぶ沿岸を襲った。志摩地方も沿岸各村は
津波による被害が大きく、中でも和具村、越賀村は大被
害を被った。幸い浜島村、迫子村、塩屋村、檜山路村は、
海岸近くの新田が潮入のために耕作不能となったが、人
畜、家屋ともに被害はなかった。南張村は海岸近くの家
屋が浸水し、郷蔵に詰めてあった米六〇俵が濡れ米とな
った程度であった。
嘉永七年(一八五四)一一月には全国で三回の大地震
が発生し、死者一万六〇〇〇人という未曾有の被害とな
ったため年号を安政と改元したが地震はやまなかったの
で、この年の地震を安政の地震と称えるようになった。
浜島、南張にこの時の記録が残されており。浜島の記
録は庄屋清六が次のように記している。
津波家々へ五六尺は波押入、村中半分は二三尺[斗|ばかり]も波押
上り候へども、格別の[痛無之|いたみこれなく]、四日より東村は東岡へ、
中村は世古ノ岡へ、西村は寺岡へ小屋立、四日より十二日
迄小屋[住居|すまい]致し、漸く十二日に家ニ帰り候へども、日々地
震有之[安堵難出来|あんどできがたく]日々送り候(中略)其時の大地震、
大津波ニて村々流失、大痛多く人死有之、前代ニも
[不及聞|ききおよばず]候へ共、当村方は格別の様子も無之[難有仕合|ありがたきしあわせ]
ニ存候(後略)
この津波のために城山と中山を結ぶ堤が相当傷めら
れ、翌安政二年八月二〇日の暴風雨により決壊し城山が
孤立した。当時城山に三家族が居住していたため堤を大
改修し、完成したのは安政三年の春であった。
一方、南張村庄屋、市兵衛は在勤中、安政の地震に鳥
羽の[旅籠|はたご]で遭遇し、その体験記を「大地震、津波実記控
帳」として一冊にまとめている。
この実記録は和紙一五枚にびっしり書きこまれ、前代
未聞実記、大地震津波の事、当村汐入の人数、組内(大
庄屋組)流失潰家の事、当村両堤大破の事、遺戒録の六
項から成っている。
中編の「大地震、津波の事」は、当日の鳥羽町の様子、
鳥羽から南張に至る道中の模様などが詳しく書かれてい
るので次に全文記載する。(注、「新収」第五巻別巻五ノ
一、一三五一頁にあり省略)
なお、「当村汐入の人数」によれば、床上浸水九戸、床
下浸水五戸、郷蔵の詰米六八俵が沢手米(濡れ米)とな
り前浜堤防大破となると記している。隣村の流失家屋は、
和具村一三六軒(流死人三六人)、越賀村四四軒、田曽村
一六軒と津波の被害記を書いている。
鳥羽藩から救助のため、沢手米約二千俵、金千両を下
されたが、南張村は米四三俵一斗七升、金五両二歩ト四
匁七分配分されたとしている。しかし、鳥羽藩の財政は
破産状態で、堤の改修、潮入田の復旧は農民の負担とな
り農漁村の疲弊はこの災害により一段と進む結果となっ
た。