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項目 内容
ID J3000931
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東~九州〕
書名 〔四日市市史 第十七巻通史編近世〕H11・3・31四日市市編発行
本文
[未校訂]安政元年一一月の地震
以上記した嘉永七年六月一五日に起こっ
た地震も一〇月初旬鎮まったかに思えた
が、一〇月二〇日ころから微震がしきりに起こり、一一
月四日辰中刻(午前八時)ころ突然大地震が起こった(同
年一一月二七日安政と改元、のち「安政の東海地震」と
呼ばれる。)。この地震の震央は遠州灘沖で、マグニチュ
ード八・四の規模と見られる。被害は東海・東山・南海
諸道に多く、とくに沼津から伊勢湾にかけての海岸がひ
どかった。地震による全国での家屋の破壊、焼失は三万
戸にのぼり、死者は二〇〇〇~三〇〇〇人といわれた。
四日市付近でも、六月の微震の数倍にする激烈さで、し
かも震動の時間が一時間ほどと長かった。午前一一時こ
ろ、二度目に猛烈な高潮が襲来した。野寿田新田(昌栄
新田)の大手堤下の田畑が一面に青泥を吹き出し、悪水
樋類は残らず潰れて、滅亡同様になった。
 一一月五日、申の中刻(午後四時ころ)、夜戌下刻(夜
九時ころ)、亥下刻(一一時ころ)と三度の大震動があっ
た(昭和五年版『四日市市史』西村孝之助文書)。地震の
震源地は潮岬沖で、マグニチュード八・四、畿内・東海・
東山・北陸・南海・山陰・山陽道とその範囲は広かった。
被害は全国で家屋全壊約一万戸、焼失約六万戸、流失家
屋約一万五〇〇〇戸、死者は約三〇〇〇人に達した。津
藩領の報告によると寺方村では、家・物置、また道路の
損壊はなかったと報告がある(服部家文書)。津方面では
翌六日朝六時にも強震があり、その後微震が毎時四~五
回あり、午後五時にまた微震が襲った。六月より震動は
やや軽微であったが震動時間は非常に長く余震が続き、
夕方七時から夜一二時までの間に強震が数回あった。そ
の後、一一月一三日ころまで小震は続いた。四日・五日
による地震での四日市周辺の被害は家屋の全半壊一五六
戸で、六月にくらべて軽微であったという(「岡安定日
記」)。
 翌安政二年(一八五五)には六月三日に台風で高潮が
沿岸を襲い昌栄新田が消失、同四年五月一七日~一八日
には台風が襲来、三滝川と海蔵川の洪水で川原町では土
橋が流失、人家も押し潰された。また、末永村、浜一色
村でも被害があった(昭和五年版『四日市市史』)。これ
より二年後の万延元年(一八六〇)五月一一日には、台
風で高波潮高にて海岸部は破堤し、潮入りの被害を受け
た。これによる潰家は一七軒、大破二〇軒、半潰家七九
軒であった(同)。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 四ノ上
ページ 853
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 三重
市区町村 四日市【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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