Logo地震史料集テキストデータベース

西暦、綱文、書名から同じものの一覧にリンクします。

前IDの記事 次IDの記事

項目 内容
ID J3000811
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/07/09
和暦 嘉永七年六月十五日
綱文 安政元年六月十五日(一八五四・七・九)〔伊賀・伊勢・大和・山城・近江・河内〕
書名 〔日永の郷土史〕○三重県四日市市日永郷土史編集委員編H1・6・30 日永郷土史研究会発行
本文
[未校訂]安政の地震と日永
一、安政の大地震(省略)
二、震源地
 六月十四日の夜中の[八|や]ツ時(本当は十五日午前二時ご
ろ)に起きたもので、震度はマグニチュード六・九であ
ったという。震源地は木津川(奈良県)断層の活動によ
るものであった。従って伊賀上野方面の被害は大きくて、
どこの家も全部崩れたのである。
 上野城は城内の建物の多くは倒れ、石垣も大半崩れた。
また町方の被害も大きく、
全壊家屋 四四八戸 半壊家屋 五一九戸
死者 一二五人
 村方の被害は、
全壊家屋 一八六三戸 半壊家屋 三三八〇戸
死者 四六一人 であったという。
それでは日永村の被害はどうであっただろうか。
三、日永村の被害
一、天白の興正寺
 本堂と庫裏が倒壊した。これが為に第二十二代智廓
は之が復興を図ったが、日永町民の方々の被害が甚大
であるので、この際元通りのものを建てることは良策
でない事を了知し、仮住居を建てて本尊と同じ棟に在
ることとし、万延元年(一八六〇)に庫裏を再建し、
慶応二年(一八六六)に本堂再建の起工を行い明治七
年(一八七四)落慶を見るに至った。それが現在の本
堂である。
二、興正寺門徒の死亡
 天白の興正寺の過去
帳を見ると、特に『安
政地震によって死す』
と朱記して二十六名の
方の俗名と法名が記し
てある。その数を地区
別に上げると次のよう
である。
○興正寺だけの門徒だ
天白
南市場
中瀬古
大瀬古
曽井
四日市浜
四日市南町
川原町
合計
死亡者数

1
2
1
1
1
6

6
2
5
4
1
1
1
20

7
4
6
5
1
1
1
1
26
けでもこれだけあったのであるから、他のお寺にも、
こういう記録があるべきでしょう。
○日永全体では相当の数あったと思う。
○女子に死亡者が多いのも考えさせられる。
三、泊村の光明寺
 この地震で倒れた寺院は四日市と三重郡とで八十五
か寺あったという。泊町の光明寺もその例にもれず、
やはりこの時に倒壊したのである。それが為、安政五
年(一八五八)に本堂の再建が行われた。その時の棟
札が保存されている。
四、日永村の被害
 『三重県の地名』(平凡社)という本の泊村のところ
に次のように書いてある。
 嘉永七年(一八五四)六月十五日この地方を襲った
地震は大きな被害をもたらした。当村に関しては不明
であるが、隣村の日永村とその飛地である追分に関し
ては『大半家ツブレ』た。このようで東海道は足の踏
場もない程であった。また同書の日永のところに『こ
の地方一帯に大き
な被害を与えた。
四日市町では地震
の際の出火によ
り、多くの死者を
出したが、日永と
追分でも多数の家
が潰れ、日永では
五六〇人が、追分
でも四〇人が即死
した。という』と
書いてある。


五、加藤弥兵衛(三代足袋屋)の店於呂志帳に書かれた
記録
 嘉永七年(一八五四)六月十四日夕(本当は十五日
午前二時)八ツ時大地震にて本家残らず崩れたり此の
時、家内五人、奉公人三人〆て八人一人も出るを得ず、
然れども怪我なし、当村大半崩る。負傷五十余。怪我
其の数を知らず。この近辺の寺々残らず崩る。
右につき諸商売不景気と相成り難儀と相成たりその後
八月下旬より普請に掛る。
六、神戸藩高野家記録
 安政大地震は嘉永七年(一八五四)六月十四日夜八
ツ時発生した。神戸藩領十九か村のうち、被害は町方
(鈴鹿市神戸町)で家の全壊三十七軒、半壊六軒で、
子ども五人、大人六人計十一人が即死した。また郷方
(村方)は家の全壊一四四軒、半壊一〇三軒日永村の
三三人を初め汲河原村二人、高岡村の一人で計三十六
人が即死した。その他竜光寺、観音寺をはじめ十六寺
社が全壊した。この為神戸藩主本多忠康は、米五十俵
を出して難民救済にあたった。神戸城も櫓、石垣、へ
いなどが大きな被害を受けたので、江戸出府の延期を
願い出た。また同年(一八五四)十一月には居城修復
の願書を出し、安政元年(一八五四)十二月、幕府か
ら一五〇〇両を借りて復旧にあてた。
三代目弥兵衛(注、日永の足袋屋・藤屋)
 文化六年(一八〇九)に生まれた三代目弥兵衛は、二
十六歳で父を失ったが、少しもひるむことなく、父から
習った足袋作りの家業に専念した。時は天保五年(一八
三四)十二月五日であった。
表面
天保十一年
萬覚帳
正月吉日
裏面
藤屋弥兵衛
(天保十一年は一八四〇年)
(よろずおぼえ帳)
この帳簿を見ると、物の値段、卸売り覚、掛売り覚など
が記録してあるし、仕入先が京都四条柳馬場近江屋定七
とか桑名金一とか丹波屋などがあったことが分る。(中
略)
表面
嘉永六年
店於呂志帳
正月吉日
裏面
藤屋弥兵衛
(嘉永六年は一八五三年)
(店おろし帳)
この帳簿を見ると、安政地震の事が記してある。
嘉永七年寅六月十四日夕(本当は十五日午前二時)八
ツ時 大地震にて本家残らず崩れたり 此の時家内五
人奉公人三人[〆|しめ]て八人、一人も出るを得ず 然れども
[怪我|けが]なし 当村大半崩る 負傷五十余 怪我其の数を
知らず この近辺寺々残らず崩る
右につき諸商売不景気と相成り難儀と相成たり
その後八月下旬より[普請|ふしん]に掛る
とあって、だれもが節約をせまられて、足袋の売行きも
落ちて来たのである。とは言え、冬ともなると足袋の需
要もおいおいと増して来るようになった。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 四ノ上
ページ 542
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 三重
市区町村 四日市【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

検索時間: 0.002秒