[未校訂] 嘉永七年(一八五四・一一月安政と改元)六月には伊
賀盆地を震央とするマグニチュード六・九といわれる強
い地震が発生した。桑名藩家老の記録「嘉永甲寅六月地
震記」(「岩瀬文庫」)によれば次のように記されている。
六月一三日正午から激震、午後二時には軽震が起こ
った。一四日夜(丑刻二時)大地震が起こり、夜明
けまで二〇回に及ぶ激震、六時ごろには二回の強震、
一時間に二~三回の横揺れ、空は暗黒で丁度日食の
ときのようであった。
午前一時小雨、蒸し暑く終日余震、人々は仮屋で夜、
[蚊帳|かや]を[吊|つ]って過ごした。
一六日は小雨。毎時三~四回の震動。
一七日余震連続、午後二時と四時に強震、夜数回震
動。
一八日午前二時強震、余震減るが昼夜五~六回震動。
一九日午前二時、昼間六~七回、夜間二~三回に減
る。
二〇日、午前二時強く、深夜二~四時までに微震一
七回。
二一日一一時強震。微震三~四回。
二二日昼夜六~七回。
二三日昼夜三~四回、二四日、二五日同様。
七月には一日に一~二回。
七月九日正午に強い地震、午前二時強震。
[閏|うるう]七月微震、七月六日午後三時、一六日午前二時、
二〇日午前六時、二四日午前一〇時強く地震、九月、
一〇月に入っても余震がある。
このように六月一三日から一〇月に至るまで震動が続
いたが、ことに六月一四日夜から一五日にかけては伊
賀・伊勢から近畿に及び、四日市をはじめ北勢や伊賀に
も甚しい被害を与えた。
四日市町の被害を一覧表(表117)に示す。これは信楽
代官所への報告書からであるが、「嘉永甲寅六月地震記」
と少し被害の状況が異なるので、これからも被害状況を
左に抜き出しておく。
六月一五日、家屋焼失六二、同土蔵小建物六三、潰
家三四一、外に寺院堂八、諸堂一五、潰土蔵・小建
物六九、半壊家二六三、小破損一一二〇、焼死人六
八、怪我死人八七。
なお、被害が大きかったのは火災を伴ったからである。
右の記録によるほか、死傷者は多数であったと思われ
る。その中には旅人や飯盛女、又は近在から遊びに来て
いて地震に遭った者も多く含まれていたはずで、これに
ついては地震当夜、四日市町では[祇園会|ぎおんえ]が行われ、諸方
から多くの人々が入り込んでいた。特に旅籠に多くの飯
盛女を抱えていた北町・南町には泊客も多く、町の家屋
が倒壊し、火災が発生したからであった。出火の始まり
は地震にて南町の扇屋破損し、出火は少々。大火になっ
たのは七ツ(四時)ころ南町浜田屋より出火が始まり、
三度の火の手が上がり三軒焼失し、半時ばかりで火は鎮
まった。ところが、七ツ半(五時)ころ北町新竹屋慶助
の料理場から出火、風がなかったが追々大火になった。
大火となったのは消火する人が五人ばかりで、多数の人
が集まらなかったことにもよる。扇屋は地震のため建物
の破損散乱で、道路の中程まで潰れていた。それに火が
移り、四方へ燃え立ち、大混乱となった。そこへ朝六ツ
過(六時)ころ地震の揺り戻し
があり、驚いている内、北町田
端屋より西側鶴屋まで焼失し、
種屋より東側長崎屋の空屋まで
焼失。ようやく信濃屋岸にて火
が止まった。それが鎮火したの
は一五日の夜九ツ半頃(一時)
であった。大火となった中でも
悲惨であったのは、南町山田屋
作兵衛方で、亭主作兵衛、その
妻、子供二人、下女三人、宿泊
者二人、計九人が圧死した。ま
た、家の下敷のまま焼死した者
は六八名に達した。その焼死地
は、北町東側九五間四尺、西側
一〇四間半、南町西側一二間四
尺であった(昭和五年版『四日
市市史』「清水太兵衛日記」ほ
か)。
この地震の被害は、町ばかり
でなく、村々も大きかった。そ
の状況を津藩の肥田組大庄屋服
部家文書から市域に限って一覧
表117 「安政の大地震」四日市町の被害状況(安政元年〈1854〉6月14日)
町名
西町
久六町
比丘尼町
南町
上新町
北町
十軒町
建福寺前
立町組
川原町
中町
四ツ谷新町
七万町
八幡町
浜町
北条町
下新町
蔵町
北納町
中納町
樋ノ町
中南納町
大南納町
新丁
合計
死傷者
死者
3
5
2
27
6※
23
6
1
4
2
1
2
2
3
87
焼死人
68
68
焼失
家屋
4
58
62
土蔵
10
10
全壊
家屋
35※
22
14
21
5
4
10
5
44
18
25
4
15
25
28
5
6
15
4
24
31
11
371
半壊
家屋
38
16
13
1
5
18
31
29
6
18
3
13
17
3
25
4
30
8
5
33
26
5
347
備考
※内小家2軒
外に物置56焼
※魚町
ほかに10力寺全壊
陣屋すべて全壊
昭和5年版『四日市市史』より作成。
にすると表118の
ようになる。
また、被害は
家屋ばかりでは
なく川堤などに
も大きな被害を
与えた。
三滝川の場
合、堤南北両側
延長およそ二七
〇〇間ほどが残
らずひび割れ
し、四日市町近
傍の土地は、お
よそ二尺ぐらい
低下したと推測
されている。
一五日の地震
後四日市町民は
おしなべて、畑
に[菰葺|こもふ]きで住居
し、宿場継ぎの
役もできず、他
国の武士や、大名等は八幡宮の白砂に菰葺きにての宿泊
の状態であった。食糧も水車が破損したため白米が不足
し、他所から入れるのにも道路が不通にて入らず、玄米
が売られた。
この大地震は、震央と推定される伊賀地方では被害甚
大で、伊賀上野城は大破し、町方四四八戸がほぼ全壊、
半壊一九戸、死者一二五人、村方では、全壊一八六三戸、
半壊三三八〇戸、死者四六一人を出している(『津市史』)。
復旧への取り組み
震災のあった日より後、六月二三日、信楽
代官より出役本庄彦作が実地見分をした。
震災後倒壊した陣屋の取片付けに人夫四八〇人、この賃
金は約二〇両で、一人につき二匁五分ずつ与えた。また
焼失した焼跡の整理に延総人員一四七〇人、外に北町分
として一一一三人が当たった。
東海道の通行、伝馬役にとって一日も早い復旧が必要
であったので、本陣・旅籠屋・伝馬役・歩役より震災復
興費として信楽代官へ金銭拝借を願い出た。その拝借が
できたのは、安政二年正月一一日で、金八六五両一分、
永七九文であった。その内容は潰家本陣二軒、金二百八
十五両、焼失脇本陣一軒、金七一両一分、旅籠屋・伝馬・
歩役金五百九両七九文で、七年で返納であった。なお、
このうち本陣・脇本陣拝借金の返済は三ヵ年延びそれよ
り一〇年賦の借財であった(昭和五年版『四日市市史』)。
表118 「安政の大地震」津藩関係など村の被害状況
村名
寺方村
日永・追分
東中川原
東坂部村
赤水村
松本村
貝塚村
佐倉村
桜一色
川原町
死傷者(人)
死者
1
1(女)
3(女)
1
怪我人
2
7
全壊
家屋
2
1
1
23
18
12
土蔵
2
8
7
4
寺本堂
1※
1※
1※
1
小屋
18
10
5
半壊
家屋
3
1
32
15
19
小屋
※3
10
4
備考
大半潰れ
※正覚寺
※遍照寺
※氏神
寺1、※便所2
堤防210間
「服部家文書」より作成。
震災の被害に対し津藩では三重郡を含む村々に対し、
全壊家は一戸について銀五〇匁、半壊はその半額を支給
した。津藩の伊勢領分は支給総額一五〇両であったが、
その多くは三重郡など北勢であった(「岡安定日記」)。