[未校訂]扨嘉永七年甲寅六月十五日暁地震をあらまし記
六月十三日午刻過地震ふ事常の年の地震より強く又未
刻過地震事前ニ増る我家の土蔵のかべ一面落かまと五
寸程動夫より明(ママ)動□四五度も有之付て其ハ庭上に蚊屋
をつり畳を伏しぬ早朝ニ雨少しふり出し早々家ニ入
近辺も右の如く町家抔も同様大路へ出夜をあかしぬる
よし 十四日も朝より震響ハあれとも前日よりハ輕く
相成故いかにや〳〵と思ふから前夜家外に伏又ハ終夜
不寝故其夜亥半刻頃ゟ障子を明置震ふ時早々出ん用心
して伏しけるたま〳〵恐怖甚しきハ百人に壱人庭上薮
ニ伏有とか去程夜丑之刻過地大ニ震ふ余ハ未寤迠ニ家
倒れぬ
○我家有しさまを先しるすニ妻ハ一番に目をさましたる
に川水の出るか如き音する様ニ思ひ起かへるニたちま
ち家ぐわら〳〵といひて壓かゝりし故其まゝ三才の小
児をはらの下に入伏居ぬ余ハ目をさまし見れハ背の上
へ何かおひかゝりし故されハ地震ニ而家倒かゝりしと
思ひ暫いかにして出んやと考居るに又々ゆりけれハ何
れ棟落て死するとも一先出んと手を上て上の方をやる
に蚊屋かゝりあれハやふりつり天井をやふり天井の上
へはい出て母上并妻小共(ママ)の安否を聞(カ)ニやう〳〵皆声を
合せ母上ハいます所少々ハゆるミ有此きはに中の小児
六才ニ成物をいたき居られけるよし妻ハ前ニしる□如
く故動ハ出□す八才ニ成小児ハ重く壓られて故早く助
出してくれよと云ハいさ助んと行ともくらくて所をし
らす將天井庄屋つり天井かへ抔重りし下なれハ所を分てわ
ずらふ所震ひハ止時なくそのうへ材木天井の上に重り
ありし故助ん方なく案しる己(ノミ)とても小児ハ助るべくも
あらす母を出さんと天井をやぶりやうやう助出し六才
の小児もとも出□(け、カ)れハ先よろこべとも妻と小児弐人し
かれ居れハ心おちつかず母とともに助んといへとも六
才の小児のまとひよれハ怪我せん事もはかられずふ当
思ふに我家ハふるく修覆のとゞかされハ倒れしならん
隣(カ)の主人海津氏を頼て助もらハんと呼んとすれとま
だわら屋根の上にあれバ声出上いかすいさ出てよバん
と思ひ屋根瓦ふらんとすれ中々あぶれさる故あたりを
見れハはふに家□のほりぬきてありしより明る透し故
其をたよりにやぶり出隣(カ)をを見れハ隣もたをれ壁石垣
土蔵門小屋ニ至まで残りなく倒れ居し故ことさらに恐
怖ましけりさて隣の主人よぶに又隣の主人戸波氏答て
云海津ハ父子壓れて声もせす今呼さかし居也云へハさ
てハ早勢なしと又はふより母を同じ穴より出し□□又
入見れハ妻の云けるハ毎々のゆりにおされ身少しも動
すなりぬ三才小児も死に及ん早く出しくれよとあれバ
さぐりより頭の方と思ふ所を堀けれハ漸頭蚊屋をかぶ
りながら出ける故蚊屋をやぶり髪をもちて引にさてハ
出かたし先小児を出し給(カ)へよとあれバ小児をいだき出
し母に預置又入て妻の上に重りし材木かべ抔をこじて
漸出しぬ此時七ツ過也さて妻と弐人して八才の小児を
助んと互ニ手を尽せとも出す様なし然るに屋根より母
人のいわるゝにハ西の方ニて出火と見えて火の手上り
しと申されしかハ大地震ニ火事ありといへハ火事なる
べしさらハ小児ハ不便ながら其まゝ置て迯んといひけ
れハ妻ハ小児の声のする程ハたとひともに焼死とも助
て見んといひしかと余ハ先程よりのはたらきに力もぬ
けてせん方なし当すゝ口に入てのんどかはきいきも絶
へき思ひ也しかバ屋根に上り水を求れとも水とてハ濁
たるもなしせん方なき所に横目渡辺栄造なる人門前之
大道ゟ妻を問くれしに大に力を得国内不残家も倒しか
と思ふ所にさあらぬ所も有やと少しハ心おちつき未小
児壓いたし居候故何卒人を遣しくれよと頼けれハ其段
承知にて帰ぬ其ゟ互ニ手尽すといへとも小児ハ追々い
きもせまりし様ニ而只水をこふ己又入て妻の出し穴に
入見れ小児の足の所手に当り尚手を入見れハ鴨居にて
□の上より頭上へかけておさへする故手ハかたのあた
り迠とゝけとも引見れハ頭みけると申故さてハ大疵付
てあしけりなんと少しゆるめ又屋上に登り休ふ所ニ夜
も明わたり六半頃ニ郡方手代成者□野村大工惣太夫と
申者をつれ来りくれし故早速頼候処大工故早速屋中に
入くれしにのこきりなくてハかなハすといへハ壱人の
者九兵衛殿江参のこきりをかり来りおしかゝりし材木
をきりて漸に出し来りし故大ニ悦家内不残打そろひし
故不思涙はら〳〵と落てけり尚震ハ不止凡丑時より朝
迠ゆりつけ也其中大震毎々来り恐しき事かきりなし
こゝにて漸々地震のはけしきを心附たりしさて小児無
つゝが見えけれど頭肩間に一寸はかり打こみ疵出来あ
りし故屋上に伏しぬさて食時すべき様なく見つろふ所
九兵衛殿内飛田ニ而すゝまじりのめしもらひ来り家内
一椀ツヽ食しける二椀とハくへすあまり驚気上升しや
手足だるき己腹のへりを覚えす其外親類西山林小川来
りくれ世上の様子聞ける又入□ゟ僕来り直ニ家一統
為つれされ 入□(更カ、地名)に遣しける其より大名小路は出て
見るに大家向も大半倒れ壁落し土蔵ハ上々也夫より大
手石垣壊れし故往来出来す京口ゟ入□江参り同十九日
薮の内ニ仮屋を建漸入□ゟ帰りける
○同時の様子筆に尽しかたしといへとあらまししるすは
十五日朝ゟ黒岩万三郎藤堂与吉津江早便ニ参る又十六
日昼後ゟ恒川浅之進大瀬彦右衛門江戸江早便ニ参る此
時 君上御在府なれハ也□(転カ)損し所を見るに御城ハ御玄
関長国院ゟ采(ママ)女殿居宅不残壊れ武具蔵の上方壊れ芝の
手北の池の上も壊れ 御殿ハ御奥向大ニ損し名高き御
茶屋抔も大損し又長蔵中蔵半分倒外大損し武具蔵大損
し北長屋ゟ御厩屋根共小田村江壊落北谷長屋大半壊少
し残りしも其まゝ屋地(ママ)壱間程下り夫より役所〳〵ハ大
破損西東大手ハ多門倒石垣壊京口橋西の方下り候故往
来止殊ニ御城ゟ蛇谷二の丸西の丸北之方烈しく大底家
倒れ忍丁辺大ニ輕けれとも大損し也西連寺堂くりとも
倒寺町妙典寺□町西念寺堂倒其余寺々大破損併(カ)神社ハ
少しも不倒拝殿倒ても社ハ無難也神国のありかたさい
ちしるし乾の方御時山震動はけしく三田村東村殊ニは
げしく死人おびたゝし上野ゟ南の方村々ハ大軽き故倒
家少し東村前川水よどみ淵となる長五丁横三丁深さ二
丈有といふ長田川川下迠水よどみ下上りしといふ十五
日八ツ時過芝の手ニ而黒米の溺(粥カ、ママ)たき出し御下中江被下
壱人前しやくに壱はいときめ人数に応し被下候十九日
ゟ右之溺(ママ)相止御下行米被下尤□士ニ米壱俵七月八日独
礼以上芝之手御召ニ而百石ニ付十五両ツヽ御下行被下又
無利□同数拝借被仰出 其上大工材木等急(カ)々御世話被
成難有事無此上町家の倒家ハ米壱俵被下借家持へ借家
倒壱家ニ付金弐両被下百姓ハ米弐俵金三両被下右之通
段々御世話あり又七月十六日於服部河原ニ壓死したる
人の為諸宗僧集り供養公より被成しか朝より風雨しき
りにて仮屋倒し僧俗雨にぬれて其日の供養ハ止ぬ同廿
日ニ又仮屋を建供養相済給震ハ廿日頃迠ハ日夜ニ何度
といふ数をしらす六月末に至り日々廿度三十度位も震
ふ七月中旬頃十四度夫より追々□ニなりて此頃ハ日ニ
三四度より四五度又一度位ニなりて今八月の末つたに
も三四度の震時ありける
(注、以下はすべてミセケチ)
○町人ハ□と馬場講武荘なとに仮家を建妻子ハこれに居
あるし□(壱カ)人ハ守りの為町々に居夜中招(ママ)子木を灯火の廻
りきびし
○六月十四日地震後の火災は馬苦労町ニ而七軒町家焼亡
ス其所ニ而壓せられし上へ火のかゝりたれハ焼亡□人
ありしといふ
○御国内壓死五百九十三人とそ此時和刕古市も大地震
ニ而□木集壓死磯(カ)矢氏も同様也古市ハことに震ふ上に
山岸の池壊れ家をひたし大ニ困しよし
此度余ハ危難をのかれ出ける故此上なき㐂也しかれと
道具類ハ残少くなりけりさハあれかゝる難を迯れしハ
神の加護又先祖おかけとしんしおこたらすおこりの心
をはふきゆめ〳〵此時をわすぬ為に記のこしぬ