[未校訂]四一二自弘化四年三月至同 年四月老中宛大地震被害届け書(松代)
「(状袋ウハ書)弘化四丁未
御届ケ書帳面入信州松代大地震
三月廿四日 」
「(表紙)地震御届ケ書写
」
御用番御老中江御届ケ
私在所信州松代一昨廿四日亥刻頃ゟ大地震ニ而、城内住居
向櫓并塀等夥敷破損、家中屋敷・城下町・領分村々、其外
支配所潰家数多死失人夥敷、殊ニ村方ニ者出火茂有之、其上
山中筋山抜崩犀川江押埋水湛追々致充満、勿論流水一切
無之、国(北脱)往還丹波島宿渡船場干上りニ相成、此上湛水押出
シ方ニ寄如何様之へん地茂難計存(ママ)奉候、且今以折々相震申
候、委細之儀者追而可申上候得共、先此御届ケ申上候、以
上
三月廿六日
左之通、猶又御届ケ書御用番、戸田山(忠温)城守様江御留主居津
田(うたた)転ヲ以持参、御取次ヲ以指出シ候所被成御落手候段、
被仰出候由、罷帰り申聞、
私在所信州松代去月廿四日亥刻頃ゟ大地震之義、先達而
先御届ケ申置候之通り御座候所、其後今以相止兼候、昼
夜何ヶ度と申儀無之折々相震、同廿九日朝・晦日夕両日
ニ三度強震有之、手遠之村方ハ相分兼候得共、城下町ニハ
猶又潰家等茂有之、近辺之山上ゟ巌石夥敷崩落、且兼而申
上置候犀川上手ニ而せき留候場所之儀者、更級郡之内安庭
村・山平林村両村之辺ニ岩倉山と申高山半両端ニ抜崩、壱
ヶ所ハ三拾町程、壱ヶ所ハハ(衍)五町程之間川中江押入、其辺
押埋候村方も有之、然所多分巌石之儀付迚茂水勢ニ而押切
兼候様子、依之次第ニ湛水平水ゟ凡七、八丈ニ茂可及、就
夫数ヶ村水中ニ相成、其辺湖水躰ニ御座候、勿論種々手当
申付候得共、大山殊ニ巌石押入候儀ニ付人力ニハ何分届可
申哉、且亦川中島平之者共ハ、右湛候水何方江一時ニ押出
シ可申ヤ難計ト恐怖仕山手江立退罷在、丹波島宿等も同
様之義ニ而、人馬継立等茂出来兼申候、猶精々手当申付置
候得共、先此段御届ケ申上候、委細之義ハ追而可申上候、
以上、
四月朔日 御(真田幸貫)名
御用頼大御目附 堀伊(利堅)賀守様江同断御届ケ、右同人持参、
御用人ヲ以指出シ候所被成御落手候段 被仰出候由、罷
帰り申聞、
前文同断
右之通り御用番様江御届仕候、
四月六日
御名家来津田転
(「松代真田家文書」 東京都 国文学研究資料館史料館所蔵)
【解題】弘化四年(一八四七)三月の大地震の二日後、幕
府老中へ提出された届書。城内の破損、城下・村々の潰
家、死人などの被害の概況を報告。その後四月一日・六
日付けで具体的に被害を老中・大目付へ報告している。
四一三 弘化四年四月 大地震死傷人・潰れ家等届(松代)
覚
一死人・怪我人共四千人程
一潰家一万軒ニも及可申哉、
一斃牛馬等二百疋以上ニ及可申、
右村々今日迄訴之処凡如此御座候得共、混雑中増減等
訴直しくるも在之間、実ハ明細之儀相訳り兼候、御支
配所之儀者別段ニ在之、未届等無御座候、
(弘化四年)四月九日
(「松代真田家文書」 東京都 国文学研究資料館史料館所蔵)
【解題】地震から一六日後の四月九日に提出された届書。
死者・負傷者とも四〇〇〇人ほど、潰家一万軒、死牛馬
数二〇〇匹以上とある。被害数の訂正など情報の混乱が
つづいていると記されている。年次不詳文書だが、内容
からこの年次と推定される。
四一四 弘化四年四月 松代藩宛善光寺大勧進・大本願救難
米借用証文(善光寺)
借用申証文之事
一亥米㊞五百俵 但 壱俵ニ付弐斗八升入
内
弐百五拾俵 大勧進権僧正之分
弐百五拾俵 大本願上人之分
小以
右者、寺領此度之大難米穀必至与差支、無拠借米之儀奉願
候所、書面之米高御貸下被下慥請取、急難相救難有奉存
候、返上納之儀者来ル十月中正米を以俵数相揃、無遅滞急
度可致返納候、右引当之儀者寺領七瀬村収納之内を以差
出置候間、万一返納致遅滞候者、右村方ゟ此書面を以右借
用俵数御取立可被下候、其節異乱申間敷候、為後日借用
証文仍如件、弘化四未年四月善光寺大本願役人山極亦兵衛印
嶋(付箋)□「出府ニ付印無之」之助
中大勧進役人野治兵衛㊞
今井磯右衛門㊞
菊池孝助殿
永井忠蔵殿
右之通、相違無御座候ニ付致奥印候、以上。
本大勧進権僧正役僧覚院㊞
宗大本願上人役僧(付箋)光「印形□□故改印」寺印
(「松代真田家文書」 東京都 国文学研究資料館史料館所蔵)
【解題】地震後、善光寺大本願・大勧進が松代藩勘定所へ
提出した借用米証文。玄米で各二五〇俵ずつ借用。返済
の引き当てには寺領七瀬村の年貢米を充てるとある。七
瀬村の地震被害が稲作に支障のない程度であったことを
うかがわせる。
四一五 弘化四年五月 水内郡北長池村宛高井郡福島新田
村流失品請取証文(松代)
一札之事
一柳籠裏壱ツ 但 横七寸程、竪壱尺三寸程
右之内ニ入置候品左之通り
一木綿丈壱尺六寸・幅八寸、薄柿色染込福田屋与有之、
一木綿足袋裏壱束
一木綿白布弐尺
一糸巻 但 紺糸・浅黄糸・白糸巻込
一木綿浅黄紺茶 但 小切七品
一木綿黒方きれ、木綿白切五寸程〆弐品
一綿ほうし并木綿古手掛四筋
一木綿縞縫交裏木綿青茶染小蒲団
一木綿浅黄細立縞前懸壱ツ
一絹継交珠数入 壱ツ 但 中珠数壱連銭拾七文有之、
一木櫛三枚、真鎮(鍮カ)簪壱本并きやまん簪壱本
一木綿紺浅黄女物半天裏木綿茶色
〆拾七品
右者当村磯五郎同宅いき所持之品御村方江流品候処、御引
揚被下忝仕合奉存候、右品御渡被成下千万忝奉存候、此
品之義ニ付如何様之義有之候共、御当村江決而御難渋相懸
申間敷候、為後日一札差出申候、仍如件、
弘化四未年五月福島新田村名主常八㊞
北長池村御役人中
(長野市北長池 北長池共有文書)
【解題】地震の山崩れで生じた、犀川の[湛水|たんすい]が決壊し、洪
水となった。そのさい千曲川東岸の福島新田村から対岸
の北長池村への流着品一七点の請取の一札。「いき」とい
う女性の持ち物であり、災害時の流失品処理をきびしく
おこなっているようすがうかがえる。
四一六 弘化四年十一月 中之条役所宛水内郡金箱村凶年
備蓄出穀拝借証文(幕府)
「(表紙)弘化四年
凶年備出穀拝借証文
未十一月信州水内郡金箱村 」
籾弐石五斗六升八合 戌 年返納○申・酉年ノ記載ナシ、
籾弐石五斗六升八合 亥 年
籾弐石五斗六升八合 子 年
此小前
一籾弐斗四升 武左衛門㊞
一籾三斗六升 清助㊞
一籾三斗六升 平太夫㊞
一籾壱斗弐升浪市後家きミ㊞
一籾三斗六升 豊八㊞
一籾八斗四升 初治郎㊞
一同六斗 藤治郎㊞
一同六斗 兵蔵㊞
一同四斗八升 善兵衛㊞
(ママ)一三斗六升 しま㊞
一同三斗六升 儀左衛門㊞
一同七斗弐升 治三郎㊞
一同四斗八升 定右衛門㊞
一同三斗六升 清八㊞
一同三斗六升 幸七㊞
一同七斗弐升 伊右衛門㊞
一同四斗八升 岩吉
一同四斗八升 吉五郎㊞
一同弐斗四升 清吉㊞
一同七斗弐升 久右衛門㊞
一同壱斗弐升 ふき㊞
一同七斗弐升 七治郎㊞
一同六斗文太夫㊞
一同弐斗四升与作㊞
一同壱斗弐升りわ㊞
一同四斗八升清兵衛㊞
一同六斗伝兵衛㊞
一同弐斗四升要右衛門㊞
一同三斗六升勝右衛門㊞
一同壱斗弐升政吉㊞
右者当三月廿四日夜大地震潰家、并水災流失家等ニ而極難
之もの共可及飢躰ニ付、不取敢凶年備出穀之内を以、急夫
食拝借儀奉願上候処、御貸渡被成下、年賦詰戻之儀御取
調之上御伺被成下置候処、当未壱ヶ年延来申ゟ子迄五ヶ
年賦、書面割合之通年々詰戻、其時々御届申上候様可仕
旨、御下知之趣被、仰渡難有奉拝借候、仍小前惣連印拝
借証文差上申処如件、
弘化四未年十一月信州水内郡金箱村百姓代源左衛門㊞
組頭源 助㊞
名主銀右衛門㊞
川上金吾助様中之条御役所
(長野市金箱 刀根川千尋所蔵)
【解題】地震で多数の極難人が生じた金箱村は、郷蔵に備
蓄してある米を代官所に願いでて拝借した。そのさい年
賦詰戻し計画を求められ、返済は一年据え置きのうえ五
ヶ年賦とされた。
四一七 弘化四年 信州大地震瓦版(松代等)
弘化四年三月廿四日夜五ツ時後ゟ廿五日四ツ時過大ぢし
んにてあわれ成べし、善光寺町家の義出火おこり、町々
三十五丁のこらずるい焼シテ本堂のミのこりける、是全
(閻浮檀金)ゑんぶたこんのいとく成べし、南ハ松本辺、江戸海道ハ
上田・小諸城下・西ハ戸隠道、川東ハ松代城下悉そんじ、
中野・飯山、越後道高田城下辺マテ凡二十里四方ほとの
内出火あるいわ地われ、家ヲたおし山くすれ等ニ而人馬ヲ
そんじたる事其数しれず、其略図ヲ之にあらわすもの也、
夫天地の変どうするハ陰陽じゆんくハんの多少によるも
のにして、人力にておさむへきものニあらす、弘化四未の
とし三月廿四日夜四ツ比江戸を始其外地しんする、此も
とハ信州水内郡善光寺より北の方吉田宿・いなつミ村・
山口西条・あら町宿・徳間村・新(真)光寺・神山・中宿・高
さか・むれ宿・小ふるま・大ふるまハ甚しく黒姫山ニいた
る、南ノ方石堂村・問御所・中御所・あらき村・わだ・
かざま・松岡新でん・上高田・下高田・権堂町・桐原此
近へん牛馬多くそんじ、夫ゟ高井郡にいたり、東の方小
ふせ宿よりすさか御城下近へん迄大地さけて土中より水
わき出、にけまよふて多ク死す、○更しな郡たんば島近
へんより東西九十余村、おバすて山迄、此へんぢしんの処かハりてゆる事つ
よく天地さけ、土中より煙のこときもの吹出眼をさへきり落入者多し、
はにしな郡松しろ御城下近へん七十余ヶ村、夫ゟ小サか
た郡上田御城下近へん百四十三ヶ村、▲追分・かるい沢・
くつかけ・上州口迄、此へん山なりうごき其音らいのこ
とし、●筑摩郡松本御城下近へん百余村、此のへん同様ニ而、ことに
ふるいつよく家居たおるゝ事多し、
西方みだけ山ゟしほじりまで、此へん前同様にて人馬多
く死す、夫ゟすハ郡高島御城下ゟ西の方ニいたり百四十
余ケ村、此内すわの海あぶれ上り人馬・家々多くゆりな
がす、▲佐久郡此へん以の外つよく、家・くら大地へめ
りこミ死人多し、▲安曇郡北の方百三十余ヶ村はそん
す、此外悉筆紙ニ尽がたし、村々在々老たるをたすけおさ
なきをつれ、女ら火ニむせびなきさけぶ声天地ニひヾきて
おびたゝし、されと善光寺如来当時開帳まし〳〵諸国ゟ
参詣多く其騒大かたならず、此地しんニ坊舍のこらずゆ
りたおしたれど、御堂のつゝがなくおわす事三国一体の
仏と申べし、翌廿五日朝六ツ時やう〳〵納り、御地頭・
御代官ゟ御手配あつく、人民を助ケ出火を取しづめ大水
をふせぎ給ふ事有がたき事ニあらずや、爰においてやう
〳〵あんどの思ひをなす、誠ニ前代みもんの珍事なれバ
申参候通あらましを書たり、天地和合のもとひにして天
地の静謐なる事を、つたなくも
神国のしるしの見へてかけまくも
げにかしこくぞ知さふる御世
(「松代真田家文書」 東京都 国文学研究資料館史料館所蔵)
【解題】善光寺地震を伝える、数多く発行された瓦版のひ
とつである。発行時期は犀川[湛|たん]水決壊の記載がないから、
四月十三日以前であろう。地震発生の日時、善光寺町の
火災、被害の村々の名前などや、越後国・江戸まで地震
のおよんだことを記す。
四一八 弘化四年 大地震見聞狂歌集
(松代・善光寺・上田等)
地震見聞のあらまし
より初る時ハ弥生の末四日夜るの五ツそ大地震なり
神仏地震に頼む方便て我か家に何の別条ハなし
石火矢にまかふ程成音のして
とんというゟ家ハきし〳〵寝もやらず起て計ハ身もつかれ
眠らんとすれハ石火矢のおと
水出んと川中島の人か来て赤坂山ハ黒山となり
矢の倉の薮に数多の人か寝て泊り雀のさわくちやくや
火こにも成かハしらぬ赤坂の山にかの子か生れ出るわ
潰る家にこセの命のたすかるハ火(炬)燵の中に雉子隠れして
大地震軒を離れて小屋かけて町在中に仮住居する
鐘楼をもかたけて廿五日より大英寺にて時のかねつく
小市ゟまかミの成か抜落てさいきり止る犀川の水
大地震悪心するか先道と家て火を焚人迚ハなし
地ハ割れて石垣萌(崩)れ大岩も落る計そ鞍骨のしろ
膳椀の音ハかたほち仮住居
むくらのぬくるすきとてハなし
光るよりはや鳴渡る響こそ空鉄砲を打やとんとろ
袷着る時とや見へず高妻や稲(飯)綱の山ハ雪そ降りける
清き野へ川中島かむれてきて神事に増る十億の人
古しひハ空に鼓か声すてふ今の地震は石火矢の音
弥生ゟ未の九日に産神て地震除成御祈禱そある
犀川を止めたる土手を縄下ケて見れバ水迄九丈あるよし
一日に八寸計水あがり何十日て土手に乗やら
よつて来る百万べんや地震除念仏も高き源のてら
林正寺仮宅に来て子をうんでおかしくも有哀成もの
清きのゝ寺〳〵又ハ縁者へも仮宅に来ル川中の人
堂宮の石垣又ハ塀夜灯墓の転ふハ数〳〵の事
塩崎の光東寺又小松原天正寺迄倒れけるとそ
酒蔵ハ五明今里清きのも潰れて外ハいたむ計か
早鐘に欠(駆)出ミれハ九の所地震の中に火事ハ大変
善光寺ハ廿四日の宵の火事翌の夜明の前にしつまる
セ(善光寺)んこしや上ハ石堂下吉田焼て残る御堂山門
稲荷山地震に潰れ焼失て残りし家ハ唯四軒なり
篠野[井|い]やミろく地蔵により潰し残りし家ハたった三軒
人ハミな[家内|かない]残らず引連て小やて飯たき喰ふ哀さ
清きのゝ新松原や近藤島大地か割れて泥をより出ス
あまさがる岩の崩れて落る時地しん〳〵と響きこそすれ
御私領の死したる人ハ晦日迄弐千四百と七十人の余
瀬原田に倒れて焼る高雲寺馬場真勝寺ハ只潰れける
梓三(神)子地震の時やきらわれん今にも爰へよつて来るかと
清き野ハ仮の富貴と成にけり馬て附込簞笥金箱
清きのゝ丹後の山に引越て丹波の島の水におそれて
清き野へ川中島の人々か馬て附込荷物俵粮
山抜て舟にて渡る丹波島地震に止る犀川の水
川中の人ハ千曲の川越ておもひ〳〵にかたに宿りぬ
松代のことをハ言次便り毎委敷知れん大変ぶりの
越中の立山焼る取沙汰で見届に行人も有よし
上田にてたすけの小やにまかなふハ川中島の御私領の人
赤坂の山や岩のゝ山の小屋川中島の人の数〳〵
見聞たることハあらまし写セとも
もるゝ所ハいか計りそや
なと恥入他見恐る、
(「真田家文書」 長野市 真田宝物館所蔵)
【解題】善光寺地震のさいの清野付近の人の狂歌集。内容
は災害直後の恐怖、火災、避難のようす、余震、救済に
ついてと多様である。御私領での死者「晦日迄弐千四百
と七十人の余」と記す。地震に対する庶民の思いがうか
がえる。