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項目 内容
ID J3000687
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1847/05/08
和暦 弘化四年三月二十四日
綱文 弘化四年三月二十四日(一八四七・五・八)〔北信濃・越後〕
書名 〔長野市誌 第四巻 歴史編 近世二〕長野市誌編さん委員会編H16・1・20 長野市発行
本文
[未校訂]第三節 善光寺地震
一 江戸時代における地震
地震災害とおもな地震
地震は地震動と地殻変動によって、地域
社会に大きな影響をおよぼす。地殻変動
は活断層が原因である。地震にともなう現象としては山
崩れ・地割れ・地すべり・土石流・噴砂などがある。こ
のほかに地鳴り、発光現象、地下水や温泉の変化などが
ある。二次災害として山崩れが川を[堰|せ]きとめ、湖をつく
り後日に湖が決壊して、下流域に水害をもたらすことが
ある。また、地震動により建造物が倒壊して居住者を死
傷させ、器物の転倒や落下も死傷や火災の原因となる。
地震のときには同時に多発的に出火し、消火の対応も弱
くなっているので大火災になりやすい。火災が地震の被
害を大きくした事例は多い。また、道路・用水・農地の
破壊は、交通・食糧・物資の供給にも支障をもたらす。
地震災害は、被災した人びとの心理的・精神的な痛手と
いうメンタルな面での被害も忘れてはいけない。このよ
うに、地震の災害が生じるとその社会的影響はとくに大
きいのである。
 長野市域には、地震の原因となる活断層が多くみられ、
長野盆地西縁活断層系といわれ、南端は長野市篠ノ井小
松原の小松原断層から北端の飯山市飯山の長峰断層まで
図4 長野盆地西縁活
断層
(信濃毎日新聞社編『信州の
活断層を歩く』より)
表18 長野市域の被害地震
年月日(西暦)
寛永4年(1627)9月14日
宝永4年(1707)10月4日
正徳4年(1714)3月15日
享保3年(1718)9月12日
元文2年(1738)11月13日
寛延4年(1751)4月26日
天明2年(1782)7月14日
弘化4年(1847)3月24日
弘化4年(1847)3月29日
嘉永5年(1853)12月17日
安政元年(1854)11月4日
安政5年(1858)3月10日
M
6.0
8.4
6.4
6.2
5.5
6.4
7.3
7.4
6.5
5.9
8.4
5.7
地域・名称
長野市松代地域
宝永地震
信濃北西部
飯山市域
信濃北部
越後地震
相模・武蔵
善光寺地震
越後頸城郡
信濃北部・善
光寺町
安政東海地震
信濃北西部
被害概要
松代潰れ家80・死者あり
松代家中・町家など113棟倒壊
善光寺石垣崩れる。金堂破損あり、石灯
籠残らず倒れる
飯山城、町家など大破損
青倉(栄村)で家屋破損
松代領潰れ家45・半潰れ32・死者12
松代領軽微の被害あり
長野市域の被害甚大
善光寺地震と区別できない被害がある。
尼巌山の大岩落下
松代潰れ家23、善光寺町で町家が破損
松代領潰れ家152・半潰れ576・死者5
松代領で潰れ家・半潰れ家あり、山中筋
で山崩れ、地裂あり
注:Mはマグニチュード
(『理科年表』2002・『日本地震史料』・『増訂大日本地震史料』①~③により作成)
おもな断層が九つ判明している(図4)。市域の被害地震
は、図4からわかるように、いわゆる「信濃川地震帯」
でほとんど発生している。江戸時代の市域で発生した最
大の被害地震は、弘化四年(一八四七)三月二十四日発
生の善光寺地震である。市域では、表18から地震が二〇
年に一度の割りで発生していることがうかがえる。しか
し、記録されない、資料が残らない地震も考えられ、じ
っさいはもっと多かったと考えられる。近年の地震学で
は、善光寺地震を起こした活断層の周期は約九五〇年と
いう見解が発表されている。いずれにしても市域は地震
の巣といわれるなど、今後も地震に関心をもつことは肝
要である。
 長野市域のおもな被害地震として、宝永四年(一七〇
七)十月四日の「宝永地震」があるので、その概要から
みていく。この地震は、わが国最大の地震といわれ、被
害は広範囲におよび全国で死者約二万人といわれてい
る。東海地方南西部・紀伊半島・伊勢湾で被害が大きか
った。信濃国では松本城下で[潰|つぶ]れ[家|や]三七〇軒、飯田藩で
死者五人、潰れ家一五〇軒の被害があった。市域の松代
城下では昼八ツ時(午後二時ころ)に地震が起こり、五
日まで余震がつづき、[肴|さかな]町・中町で町家など一一三軒が
潰れる被害が出た。
 寛延四年(宝暦元年、一七五一)四月二十六日朝七ツ
時(午前四時ごろ)に起きた「越後地震」は、高田藩で
死者一一二八人の大きな被害が出た。松代城下では、潰
れ家が百姓家四〇軒、町家五軒生じた。松代城の被害は
本丸・二の丸・大手[櫓|やぐら]の石垣が四四間余り崩れたとある。
越後に近い下駒沢村(古里)では、六九軒のうち潰れ家
五〇軒、半潰れ一五軒と壊滅的な被害が出た。人的被害
として松代領で死者一二人、怪我人四二人であった。藩
主の真田信安は復旧工事費として、幕府から三〇〇〇両
を拝借し、一〇年賦で返済することにしている。
 弘化四年(一八四七)三月二十四日の善光寺地震につ
いては後述するが、江戸時代の長野市域で起きた地震の
なかで善光寺地震は最大の被害をもたらした。安政元年
(一八五四)十一月四日、朝五ツ時(午前八時ころ)過
ぎ、長野市域で地震が起きた。「安政東海地震」である。
東海地方南西部から近畿地方にかけて震動が強く、各地
に被害が出た。とくに沼津(静岡県沼津市)から伊勢湾
にかけての沿岸地域での被害が大きかった。長野市域で
は松代城下での被害が大きく、家中分として潰れ家二九
軒、半潰れ大破一四四軒、町方分として潰れ家一〇三軒、
半潰れ二〇二軒で、中町・肴町・田町・[鍛冶|かじ]町では被害
が大きく、人的被害も死者五人、怪我人一八人が出た。
村方分は潰れ家二〇軒、半潰れ二六〇軒、怪我人一一人
と死者はなかったようである。藩は中町に[救恤所|きゅうじゅつしょ]を設
置し、金銭・食糧をあたえ救済している。真田家の[菩提|ぼだい]
[寺|じ]である長国寺は、本堂・[庫裏|くり]が破損するなど被害が大
きく、藩は寺僧へ五〇人前炊き出しの救済をしている。
また、この地震のときに月番家老であった[河原綱徳|かわらつなのり]は「虫
倉後記」のなかで「四日朝五ツ過ぎ、大地震ありし、過
ぎし[丁未|ひのとひつじ](弘化四年)の[大震|おおない]に引きくらべては、其の半
ばに至らざりし様に思われし」とのべている。その理由
として「その時(善光寺地震)は、居間向より表の方ま
で障子ははづれ倒れしが、このたびははづれざりし」と、
善光寺地震の体験を生かし冷静な観察をしている。
 安政五年(一八五八)三月十日[辰|たつ]の刻(午前八時ころ)
過ぎから長野市域で地震があり、松代城下で半潰れ・大
破、在方では潰れ家・半潰れ・怪我人が出た。[山中|さんちゅう]筋で
は山抜け・崩壊・地裂が生じ、また旭山で崩壊が少しあ
った。善光寺町では、暮六ツ時(午後六時ころ)に強い
揺れがあり、人びとが家屋から逃げだすほどであった。
人的被害については史料がみえず不明である。この地震
について、三月二十三日に松代藩から幕府御用番老中久
[世大和守広周|ぜやまとのかみひろちか]へ届け書が出されている。
善光寺地震の発生
善光寺地震の呼称については、当時の文
献に「信濃大地震」、「信越大地震」、年号
から「弘化大地震」などと記録されている。現在は「善
光寺地震」の呼称が広く知られ一般化している。
 善光寺地震の発生は、弘化四年三月二十四日[亥|い]の刻(午
後一〇時ころ)であった。震源位置は長野市浅川付近か
と推定されているが、多重震源と考えられる。地震規模
はマグニチュード七・四とされている(『理科年表』二〇
○二)。これは当時の文献や被害状況から推定されたもの
である。マグニチュード七・四の地震規模は、長野県内
で発生した地震のなかで最大規模である。また、典型的
な内陸直下型地震でもあった。地震による被害地域は、
信濃国北部から越後国西部におよび、国内では飯山市域
から長野市域、上田市域、松本市域、大町市域と広範囲
にわたって地震災害がおきた。そのなかでも長野市域で
は、震度七の激震、飯山市域でも震度六の震動が推定さ
れている。また、水内・更級両郡の西山地域で地震によ
る山崩れ・地滑りの被害が大きかったことは、善光寺地
震の特徴のひとつである。善光寺地震が大災害となった
事情には、地震の発生が夜間であったこと、七年に一度
の善光寺御開帳中で、全国、近在から大勢の参詣者が善
光寺町や稲荷山宿(千曲市)などで宿泊していたこと、
火災の発生、延焼でさらに被害が拡大したことなどがあ
り、結果として人的被害が甚大となった。
 また、[虚空蔵|こくぞう]山(岩倉山)の崩壊により、犀川が[堰|せ]き
とめられ、その後に決壊し大洪水となり、下流域の田畑・
用水・家屋に大きな被害をもたらす水害となった。この
ように善光寺地震は、震動・火災・地滑り・山崩れ・水
害と、内陸地域で地震が発生したさいに起こるさまざま
な災害をひきおこし、長野市域を襲った。つぎに善光寺
地震の地震災害を具体的にみていくことにする。
善光寺町の被害
善光寺大地震の前兆は三月二十日すぎか
らのときどきの小地震であった。地震当
日、三月二十四日の善光寺町は、三月十日から始まった
善光寺開帳で、夜になっても善光寺境内や町内は諸国や
近在からの参拝者でにぎわっており、例年にくらべて善
光寺町の人口はふくれあがり、当夜は町の[旅籠|はたご]などに止
宿していた人は七〇〇〇人から八〇〇〇人といわれてい
る。また、地震の発生が夜一〇時ころと夜間であった点
も被害が大きくなった要因の一つである。
 善光寺の被害状況は、本堂が倒壊を免れたが「内陣造
作等大破」と幕府あての松代藩御届け書にあり、本堂内
部が震動でかなりの破損をうけたことがうかがえる。当
夜、本堂でおこもりしていた数百人の人びとは本堂裏へ
避難し無事であったようである。また、「風は[未申|ひつじさる](南西)
の方より吹立て、如来・御本堂すでに危うく見え候処、
御屋根の上、三門之屋根の上、[数多の|あまた]人影あらわれ、八
方へ駆け廻り飛び火を防ぎ候」とあり(『県史⑦』二〇三
三)、人びとの懸命な消火活動もあり本堂は無事残った。
ほかに鐘楼が無事、山門・経蔵が小破とある。しかし、
他の建物などは、大本願「残らず焼失」、大勧進は万善堂
など七ヵ所大破、寺中の四六院坊すべてが焼失とあり、
倒壊・火災で壊滅的な被害状況であった。周辺の武井神
社は焼失、[湯福|ゆぶく]神社は倒壊した。善光寺如来は旧市営球
場近くの箱清水村(箱清水)地蔵畑に仮堂を建て、五月
十三日に大勧進万善堂へ移るまでの五三日間、そこに安
置された。その仮堂跡に地蔵菩薩像が建立されている。
 善光寺町での[町家|まちや]の被害は、松代藩の七月九日御届け
書によると、焼失二一九四軒、倒壊一五六軒、倒壊しな
かった町家一四二軒と、町家のおよそ九割が焼失・倒壊
した。焼失した町家のほとんどは倒壊後焼失したとみら
れる。
 善光寺町の町続きの村々の被害をみると、松代藩預り
所権堂村(鶴賀権堂町)は、善光寺町の花街として発展
していたが、倒壊したうえに善光寺町の火災が延焼し、
焼失は二七四軒と家屋の約九割の被害であった。妻科村
石堂組(南・北石堂町)の南につづく栗田村(芹田)は
家屋の倒壊もあったが、死者五人はすべて善光寺町へ出
かけていた者の被災であり、被害が軽い。越後[椎谷|しいや]領の
問御所村(鶴賀問御所町)では家屋の約三割が倒壊した
が、六川陣屋(小布施町)から救援に駆けつけた代官寺
島善兵衛が問御所村との境である権堂村の家屋をとりこ
わして延焼を防ぎ、火災を村の北端で食いとめたことに
より、倒壊の被害のみですんだ。死者も一人と少なく、
地震後の対応の違いが火災被害の有無の違いとなった。
 このように大きな被害をもたらした火災は二十六日の
昼ごろようやく鎮火した。現在と異なり当時は木造家屋
だけである。木造家屋のほとんどが瞬時に倒壊したもの
と思われ、燃えやすい木造家屋の密集している善光寺町
で、初期消火がほとんどできず、[鐘鋳堰|かないせぎ]などの用水が地
震の影響で流水が十分でなかったこともあって、延焼も
防げなかったことが被害を大きくした。
善光寺町の人的被害
善光寺町の地震による人的被害は、「松代
藩御届け書」によると、死者一四五七人
(男六九三人・女七六四人)、止宿者の死者が一〇二九人
とあるので、およそ二五〇〇人余が犠牲となったと思わ
れるが、ほかにもいくつか数値があり死者の数値は確定
できない。しかし、おおよそ善光寺町の住民の人的被害
は、住民の約二割が犠牲になったと考えられる。
 また、諸国・近在からの参拝者の宿泊状況とみると、
たとえば江戸からきた町人の藤次郎と平蔵は旅篭屋の綿
屋に宿泊するが、「表二階の十二畳間の座敷に相客ともに
拾八人、壱所に相成り、甚だ込み合い候に付き(中略)
一同押し合い[臥|ふ]せ居り候」とあり(『増訂大日本地震史料』
③)、綿屋だけで二百五、六十人は宿泊していた。このよ
うに善光寺町の宿舎はどこも混雑し、かなり詰めこんだ
宿泊状態であったようである。旅篭屋などでの死者につ
いては、藤屋・いかりや・嶋田屋・中田屋・紀伊国屋・
市川屋で六九〇人余の犠牲者が出たとある。また、院坊
の被害状況を正信坊の「当院止宿姓名控」(『市誌研究な
がの』一・二号)という宿帳でみると、地震当日は正信
坊に七組三三人の宿泊者があった。そのうち死者は二六
人(男一二・女一四)で生存七人、と約八割が死亡して
おり、なかには全滅したグループもあり、止宿者の被害
が大きいことがうかがえる。開帳による参拝者の多さが、
善光寺町での人的被害をより大きくしたのである。
 善光寺町の各町内の人的被害は、大門町二七九人、西
町二一五人、横町二〇六人と多く、ついで桜小路(桜枝
町)一四〇人、[岩石|がんぜき]町八八人、[新町|しんまち]八八人であった。と
くに大門町・岩石町・新町は住民の約四割が犠牲となっ
ている。これらの各町は傾斜地に立地しており、倒壊が
多く、その後の延焼もはげしくて犠牲が大きくなったも
のと思われる。しかし、横沢町は居家の約四割が倒壊し
たが、死者は四四人と少ない。このように善光寺町の人
的被害は各町で違いがでている。被害の具体的な状況は
永井幸一『地震後世俗語之種』からうかがうことができ、
倒壊による圧死、火災での焼死が死因であることがわか
る。
山崩れなどの被害と堰止め湖の崩落
松代藩の善光寺地震による被害
は、山間地での山崩れや地すべり、
犀川の堰き止めによる[湛水|たんすい]、その後の決壊による水害と、
震災による倒壊、火災と多様な様相がみられ被害も甚大
であった。なかでも[山中|さんちゅう](松代藩の行政区分の名称。松
代藩では領内を山中と里郷に大別していた)とよばれる
西部山間地における山崩れは最大の特徴である。最初に
山中の山崩れ、地すべりなどの被害をみていくことにす
る。
 この被害は四
万ヵ所余りと届
けだされている
が、最大のもの
は[虚空蔵|こくぞう]山(標
高七六四㍍)の
崩落であった。
虚空蔵山は、長
野市信更町山平
林に位置し、善
光寺地震により
南西部分が崩れ
岩倉・孫瀬の二
集落をまきこん
だものが最大規模の崩落で、この崩落の土砂がおよそ高
さ一〇〇㍍、幅六〇㍍、長さ五〇〇㍍の土堤を形づくり、
二〇日間にわたって犀川を堰きとめ、湖をつくったので
ある。もうひとつの崩落はそれより北のほうで、藤倉・
古宿の二村を埋めたものである。堰き止め湖は水内・更
級両郡から上流は筑摩郡押野(明科町)にまでおよび、
[新町|しんまち]村(信州新町)など二一ヵ村が水没し、堰き止め湖
の湖水面の標高は四六八・五㍍となった。
 堰き止め湖の水は、四月十日未明堆積した土砂の隙間
から流出しはじめ、十三日に一気に押しだした。[犀口|さいぐち]の
小市村(安茂里)で水かさ六丈六尺(約二〇㍍)もあっ
た。激流は、堆積した土砂もろとも、川中島一帯(犀川
扇状地)をおそった。激しい水流は大きな岩石をも押し
だし、今もその岩石をいくつか川中島の各地区で見るこ
とができる。犀口から二㌖ある四ツ屋村(川中島町)中
沢家の庭には、長径三・五㍍、短径二・二五㍍、高さ二・
一五㍍の大きな岩石があり、洪水の激しさを示す。この
水が流れこんだ千曲川は水かさが増し、大室村(松代町)
で二・一㍍増水という記録がある。また押しだされた土
砂は、川中島平の耕地、用水路などに土砂として残り、
四ツ屋村の西辺では土砂の堆積が一・五㍍といわれ、復
旧に大きな障害となった。その後に処理された土砂の一
部は、現在も「砂山」などとよばれ川中島平でいくつか
写真7 四ツ屋下河原(川中島町)の砂山
見られる。洪水は下流の高井・水内両郡の千曲川沿いの
村々におよび、田畑冠水、家屋の流失などの水災をもた
らした。しかし、水死者が少なかった点も特徴のひとつ
で、これは松代藩をはじめ諸領が対応策をとり、村々で
も湖水決壊に備えて高台へ避難するなど、適切な対処を
していたからである。
 また、強い震動で「往来道筋地裂け抜け崩れ」として、
延べ一六万四七四一間(二九六・五㌖)余の道路が通行
不能となり、河川の橋は三七三ヵ所が流失した。これら
の被害は参勤交替、問屋の継ぎ送り、物資の移動、人び
との生活にも多大の被害をおよぼした。山崩れは大量の
土砂が河川や湖などに流れこみ、また土石流(山津波)
となり村々を襲い被害をもたらすが、善光寺地震では善
光寺町の北部で大規模なものが発生している。飯山領の
吉村(若槻)では、村の北西にあたる字鬼岩岸、字鬼岩
の山が崩落し、土砂が[隈取|くまとり]川に沿って押しだし、村の西
方にあった用水池に流れこみその土堤を破り土石流とな
り、村の中央へ押しだし、人的損失一五五人、土石流で
田畑の約五割が被害をうけている。また、浅川上流では、
[飯縄山麓|いいずなさんろく]にあった用水池(論電ヶ池・ナギ窪池など)が
決壊し、洪水となり、崩壊した土砂をまきこんで土石流
となり、下流の真光寺村(浅川)をおそった。一八人が
土砂の下になった。この土砂の押し出し状況は「信州地
震大絵図」(口絵)で見ることができる。
在方と城下町の被害
善光寺地震における松代領の農業の被害
についてみると、全体で高七万一六九〇
石余の被害であり、田畑の約六割が被害をうけたことに
なる。地震による直接の被害は、一五一ヵ村、高三万二
八五〇石余で、そのうち田方が約三割、畑方が約七割と
(『新収日本地震史料』⑤)、地震による直接被害は畑地
の被害が大きい。洪水による被害では八〇ヵ村で高三万
八八四〇石余であり、七割が水田、約三割が畑地となっ
ている。これは水害のおもな地域が水田の多い川中島平
であり、畑地の多い西山では地震による耕地の崩落など
が多かったのがこの違いとなった要因であろう。松代領
全体としては、二三〇ヵ村が被害をうけ、田方の被害が
畑方より大きかったことがわかる。
 また、用水関係の被害は、地震の時期が春先であり苗
代、田植えなどにも影響がおよぶことになった。被害は
全体で二七〇ヵ所余で、地震と洪水による用水の土堤の
大破や抜け、堰の大破や砂泥入りなどが一二万間余(約
二二〇㌖)、約八割が地震による破損などである。また、
用水堰の揚げ口、水門の[樋|とい]大破などの被害は二四ヵ所あ
り、こちらは約六割が洪水での被害となっている。犀口
の用水堰取り入れ口は、地震で地盤が隆起したため、上
堰は二〇〇㍍、中堰は一八〇㍍、取り入れ口を犀川上流
に移動しなければならなかった。このように松代領は耕
地の被害と用水堰などの破損で農業生産基盤がダメージ
をうけ、復興が大きな課題となり、藩財政にも重い負担
となっていく。
 松代城は[櫓|やぐら]・番所・米蔵が各一棟潰れ、囲い塀が本丸
の八〇間をはじめとして二一五間余倒れる被害がでた。
石垣などは崩落しなかった。飯山城は四月十三日の届け
書によると「本丸 渡り櫓一ヵ所潰れ、[冠木門|かぶきもん]一ヶ所潰
れ、石垣二ヵ所崩れ、囲い塀残らず倒れ、土蔵一棟潰れ、
二重櫓一ヶ所損す」とある。両者を比較すると、松代城
は被害が軽微であったといえる。
 松代領の「[居家|おりや]」の被害総数は一万六六六一軒、うち
潰れが九五五〇軒と約六割であった(表19)。潰れ家屋の
うち「家中」は三八軒で、武家屋敷の全壊被害は少ない。
 「城下町」は、町方被害総数の約四割にあたる一七五軒
が全壊である。「在方」は潰れが九三三七軒と約六割が全
壊となっている。とくに家屋の被害は城下町の被害にく
らべると在方の被害が大きいことがうかがえる。逆に城
下の被害が少ない。この家屋の被害の違いには、地震の
震度の地域的な違い、家屋の構造的な違い、家屋の建築
資材の質的な違いなどが考えられる。とくに城下では武
家屋敷の火災による焼失家屋がなく、飯山城下とは家屋
の被害の違いがみられる。「家中」の被害が少ないのは、
表19 善光寺地震の住宅などの被害(松代領)
(単位:軒)
居家
土蔵
物置
内訳
潰れ
半潰れ
大破
小計
潰れ
半潰れ
大破
小計
潰れ
半潰れ
大破
小計
合計
家中
38
286
654
978
35
111
176
322
102
77
280
459
1,759
城下町
175
105
144
424
39
29
60
128
41
34
30
105
657
在方
9,337
2,802
3,120
15,259
1,757
585
107
2,449
6,148
974

7,122
24,830
合計
9,550
3,193
3,918
16,661
1,831
725
343
2,899
6,291
1,085
310
7,686
27,246
(「松代藩七月九日御届書」(『増訂大日本地震史料』③)により作成)
武家屋敷の敷地の広さの関係があると思われるが、地震
発生のさいの藩による防火への指示の徹底も大きな効果
があったと考えられる。また、土蔵の被害は潰れが土蔵
被害総数の一割もなく、民家の四割を大きく下回ってい
る。これは出入り口と窓以外はすべて木材と土で固めら
れた壁であることをはじめ、構造的に耐震性が強いこと
を示していよう。全体として、武家は「居家・土蔵・物
置」では、町方・在方と比較して被害が一番軽く、町方
や在方とはうけるダメージが異なったと思われる。『むし
くら日記』には「御城下火災なきは実に、君上の御恩に
よれり」とあり、武家が災害をどのように受けとめてい
たかの一端がうかがえる。
松代領の人的被害
善光寺地震の人的被害の数値については
多くのデータがあるが、ここでは松代藩
が七月九日に幕府へ報告した「御届け書」の数値にもと
づいて松代領をみていく。松代領の地震での人的被害は、
死者二六九五人、怪我人二三七九人、計五〇七四人と、
領内の約四㌫が人的被害をうけていたことになる(表
20)。死者の約九割は地震のときの圧死である。また、山
抜けなどで死体不明者が四四四人もあり、山中での崩落
などの被害が大きく、救助活動が困難であったことがう
かがわれる。また、死者については、家中分がなく、武
家は犠牲者がなかったということになる。町方でも死者
は三二人と少なく、
松代藩では人的被害
においても、城下の
町人・武家と村の百
姓とのあいだに被害
の違いが生じてい
る。男女別では、死
者は女一四〇一人、
男一二九四人と女子
が多く、災害におい
て弱者が犠牲になる
という傾向がみてと
れる。怪我人も同じ
く女子が多く負傷し
ている。
 ここまで、善光寺
町・松代領の三月二
十四日の本震の被害
を中心にみてきた
が、本震後も余震は
ひんぱんにつづく。
十月二十二日の余震
では「朝たびたび寄
表20 善光寺地震の人的被害(松代領)
死者
怪我人
内訳


小計


小計
合計
城下町(人)
11
21
32
13
14
27
59
在方(人)
1,283
1,380
2,663
1,101
1,251
2,352
5,015
合計(人)
1,294
1,401
2,695
1,114
1,265
2,379
5,074
(「松代藩七月七日御届書」(『増訂大日本地震史料』③)により作成)
(揺)り申し候、(中略)五ツ半時頃大寄りこれあり、こ
の大寄りの儀は、三月二十四日夕ならびに八月二十二日
夕の大寄り相違これなし、夜毎引きつづき寄り申し候、
皆々家宅より飛び出し、あきれ果て申し候」とあり、人
びとの生活に恐怖感や不安感をあたえつづけたのであ
る。地震の被害という場合、人的被害や物的被害にとど
まらず、心理的・精神的な痛手の大きさ、それによる日
常生活への圧迫など見逃してはならない(古川貞雄「善
光寺地震余震記録」)。
二 地震後の救済と復旧
松代領・善光寺領の救済と復旧
善光寺地震は震災・火災・水災と被
害は多様であり、被災者も多く、家
や財産を失い、食事にもこと欠く人たちが多くいた。松
代領・善光寺領・幕府領の救済策をみると、①被災者へ
の炊き出し(握り飯・[粥|かゆ])の実施、②負傷者の手当て、
被災地への医師の派遣、③物価、職人の手間賃の値上げ
禁止、④御救い小屋の設置、⑤御救い米の下付、⑥救済
金の下付など、生活再建のためにきめこまかく多様な施
策を実施している。災害から生き残った人びとが生きの
びられるように、まず食料の供給が応急策として実施さ
れた。
 松代藩では御救い小屋を、小松原(篠ノ井)・川田(若
穂)・[八幡原|はちまんばら](更北小島田町)・北高田(古牧)の四ヵ所
に設置し、三月二十四日から二十八日までの五日間、炊
き出しをおこなった。「[極|ごく]難渋者」へは炊き出しを一〇日
間延長して救済している。善光寺では三月二十五日から
[晦日|みそか]まで「御救い粥」が、参詣人・旅人へもほどこされ
ている。また、「二十六日、軒別に洗い米二升ずつ下さる」
(『増訂大日本地震史料』③)とあり、「洗い米」で下付す
るという飲用水不足への配慮がなされている。松代藩の
震災中の炊き出しの賄い数は、一二万六八〇〇食、米七
一五五俵(『新収日本地震史料』⑤)とあり、大量の米穀
が緊急措置として人びとにあたえられ、人心を安定させ、
混乱を防いでいることがわかる。また、このような公的
扶助だけでなく、米価の制限、米の[廉売|れんばい]など、主食であ
る米について応急の対策を実施している。
 また、[施行|せぎょう]とよばれる、富裕な人びとや村などからの
[義捐|ぎえん]金や救援米の献上が数多くみられる。救済の実態の
一端をみると、後町村(西後町)の四郎左衛門は三月に
非常用として貯えてきた籾一〇〇俵を献上した(『大鈴木
家文書』)。また、「松代領八丁村(須坂市八町)の甚五郎
と申す者、御堂(善光寺)前に[出張|でば]り、三日の間、米穀
安値段で売り渡し」た(『増訂大日本地震史料』③)。問
御所村の新兵衛も米穀の廉売をしているが、三月二十八
日から四月十日までの一三日間で、白米一〇八石七斗(一
〇〇文につき一升四合)、玄米三石一斗九升(一〇〇文に
つき一升四合五勺)、大豆六石三斗五升(一〇〇文につき
二升)と、総売り上げ金額は銭八三〇貫文余り、一日平
均の売り上げは九石余り、六三貫文余となっている(『新
収日本地震史料』⑤)。この米穀の廉売で多くの人びとが
食糧を確保できたと考えられる。このような施行は相互
扶助が息づいている江戸時代の社会ではよくなされるこ
とであるが、災害の救済に大きな役割を果たした。領主
はこれらの施行者にたいして、酒の下賜、[苗字|みょうじ]帯刀や紋
付羽織の許可などの[褒賞|ほうしょう]をあたえている。
 松代城下の肴町では、町奉行の寺内多宮と町検断の[判|ばん]
栄作が、今回の災害にさいして多大な援助をしてくれた
ことにたいし、感謝の念を末代まで忘れないために、毎
年お歳暮に[鰤|ぶり]一本を贈ることを決めている。また、震災
後の救済に大量の米穀を必要としたので、中野代官の高
木清左衛門は七月に、越後国[頸城|くびき]郡の村々から、米二七
〇〇俵(四斗入り)を、柏原宿(信濃町)中村六左衛門
の手により買い入れ、そのうち一二〇〇俵を善光寺から
の依頼で善光寺にまわしている。さらに、中野代官所で
は難渋者にたいして十二月に、男一人につき一日籾四合、
女子と六〇歳以上、一五歳以下の男子には一日籾二合を、
それぞれ五〇日分貸しあたえている。これは震災と水災
による米の減収に対応した長期間にわたる救済策であ
る。また、災害の影響は数ヵ月後に村人の生活を悪化さ
せることになり、金箱村(古里)でも秋ごろになると、
多数の「[極難人|ごくなんにん]」が生じた。そこで十一月に、中之条代
官の川上[金吾助|きんごのすけ]に、郷倉に備蓄してある米の拝借を願い
でている。村人三〇人で一三石四升を拝借し、最大の拝
借は八斗四升、最少は一斗二升である。拝借するさいに、
返済は一年据え置きで五ヵ年賦で返済するという請書を
出している。このように飢饉に備えての郷倉の備蓄米も
地震後の救済に活用されており、類似の事例は多くみら
れる。
 領主はこのように被害状況の変化に対応しながら、生
活再建の第一歩となる米穀の確保に努めている。主食で
ある米穀については公的扶助、相互扶助の両面から救済
がなされている。また、[杭瀬下|くいせげ]村(千曲市)の百姓は自
助努力でこの米穀不足の危機を乗り越えようとしてい
る。「大地震につき村方議定連印帳」(『新収日本地震史料』
⑤)に、「村方小前の[夫食|ふじき]差し支え致させまじく、右につ
いては、今日限り他所より頼み入り候とも、決して請け
負い申すまじく」と他所から米穀譲渡を頼まれても村と
して引き受けないと取り決めて連印している。これは村
の食糧を確保するためである。
 江戸時代は災害のときに隣近所や親類縁者をはじめ地
域社会の助け合いで乗りきるという連帯感が常識として
あり、善光寺地震でもお見舞いなどを通じての私的な救
済を多くみることができる。その一例として、善光寺西
之門町藤井伊右衛門家についてみることにする。藤井家
は三月二十四日の地震で居宅が全壊している。その夜に
鳶の者など一〇人が手伝いをかねてお見舞いに同家を訪
ねている。また、翌日からは、見舞い客が腰村(西長野)・
[南俣|みなみまた]村(芹田)・[茂菅|もすげ]村(茂菅)などの近在から訪れて
いる。見舞いの品々は、「握り飯重箱入り、香の物壱重、
握り飯、梅漬け、焼餅重箱入り、餅米」と、食料品がほ
とんどである。また四月二日には、下戸倉村(千曲市)
の親戚坂井家より見舞いの使い三人が藤井家を訪れ、「白
米弐俵・煮豆弐重・ろうそく三十挺・甘露(上等な[煎茶|せんちゃ])・
ずいき(干した里芋の茎)・味噌壱[樽|たる]・生か煮付け壱皿」
(『新収日本地震史料』⑤)と、やはり食料品が見舞いの
中心となっている。坂井家は親戚で豪農商でもあるので、
見舞いの品の量は近在の百姓とは比較にならないが、藤
井家にとってこの災害時における見舞いは、物質的な面
と同時に精神的な面で大きな支えになったと考えられ
る。
 領主間でのお見舞いの品々をみると、善光寺へは禁裏
御所から侍従を使いとして白銀一〇枚が下賜され、[五摂|ごせつ]
[家|け]からも銀五枚の下賜金が寄せられている。これは篤い
善光寺信仰によるものであろうが、ときの大本願上人が
皇族出身であることも関係しているかと思われる。松代
藩主八代真田[幸貫|ゆきつら]へは、大名八人から米一九三〇俵(う
ち三〇俵白米)、約七七〇石のお見舞いがあった。最大は
松平甲斐守(郡山藩主)で一〇〇〇俵、以下松平越中守
(桑名藩主)三〇〇俵、松平又八郎二〇〇俵、松平紀伊
守一〇〇俵(ただし代金七〇両)、諏訪[因幡守|いなばのかみ](高島藩主)
一〇〇俵、本多[豊後守|ぶんごのかみ](飯山藩主)一〇〇俵、牧野[遠江|とうとうみの]
[守|かみ](小諸藩主)三〇俵(白米)(『新収日本地震史料』⑤)
となっている。姻戚関係にある大名と信濃の大名である。
 幕府・藩として、災害後の救済活動や復旧作業を円滑
におこなうには、社会秩序を維持し無用な混乱を避ける
ことは不可欠である。また、災害の状況や被災地域を早
期に正確に知ることで、救済や復旧策なども効率的にお
こなうことができる。善光寺地震では、松代藩・飯山藩
などの諸藩、中野・中之条の両代官所などが災害情報の
収集に全力をあげるとともに、幕府へ数多くの「御届け」
を提出している。松代藩をはじめとして領主役所は、村
役人からつぎつぎに上申される報告、藩役人のたび重な
る視察などで被害状況を的確に把握しようとしている。
松代藩の「御目付日記」(『新収日本地震史料』⑤)の三
月二十五日に、「右に付き町廻り火廻り等、御役方ならび
調役・下目付等、二昼夜相廻る」とあり、地震直後に城
下を巡回し、治安の維持に努めていることがうかがえる。
中野代官所は四月に郡中廻状で、「大地震の虚に乗じ、盗
賊ども[徘徊|はいかい]いたすの趣、相聞こえ候間、村々役人ども、
番人召し連れ、昼夜見廻り、火盗の難これなきよう、心
付くべし」(『増訂大日本地震史料』③)と命じ、治安維
持の一端を村役人にになわせている。このように地震後
の被災地域では、治安対策が人びとの生活を精神的に安
定させるうえで大事であった。
 善光寺地震で松代領の死傷者は五〇七四人、善光寺町
は死者が二五〇〇人余と大きな人的被害があった。人び
とは倒壊した家屋の[梁|はり]や壁の下になり、圧死人や負傷者
が多く出た。医療・救護体制が十分でない当時、負傷し
た在方や町方の人びとは大きな不安に駆られたと考えら
れる。そのような状況のもとで松代藩、善光寺町がおこ
なった救護活動をみておくことにする。「大地震にて、山
中筋怪我人、お救いのため、[徒士|かち]席医師倉田左高・[両角|もろずみ]
[玄脩|げんしゅう]、上山田村(千曲市)宮原[良磧|りょうせき]、矢代村(千曲市)
宮島[道沢|どうたく]」(『増訂大日本地震史料』③)を四月二日に派
遣したとあり、四人の医師が百姓を救済するために山中
村々へ派遣されている。また、四月二十日には「大地震
にて変死人ならびに怪我人多く御座候につき、御医師会
田左衛門殿下され候(下略)」(『新収日本地震史料』⑤)
と倉並村(七二会)へ藩から廻村医の派遣についての触
れが回ってきている。被害の大きかった山中へは、医師
を巡回させることにより、多くの負傷者の救護にあたっ
たことがうかがえる。
 善光寺町では、大勧進が「医者ども、残らず薬箱相損
じ、(中略)医師へ手当て金差し遣わし、薬種を相[調|ととの]えさ
せ、寺領ならび参詣者の者、病人これあり候わば、救い
療治いたし遣わし候よう申し付け候こと」(『新収日本地
震史料』⑤)とある。医療品購入の資金を大勧進が拠出
し、寺領の人びとばかりか、参詣人まで幅広く治療活動
をおこなっていることがわかる。このような治療活動は、
地震後の社会不安を減じることにつながり、在方や善光
寺町の人びとの復旧への意欲を高める契機にもなったと
考えられる。
用水・農業生産の復旧
松代藩が地震後に緊急に対応する必要が
あったのは、犀川堰き止めによって生じ
た湖水の洪水対策であった。この異変は、川中島平を中
心に下流域で大騒ぎとなっており、対策の遅れは社会不
安の増大にもつながる。また、対策は川中島平という穀
倉地域を水災から防ぐという意味があった。松代藩の対
応は早く、三月二十六日には「松代より御家老恩田[頼母|たのも]
様始めとし、諸奉行・諸御役人早打ちにて、犀川水没場
所御見分あり、川中島水ふせぎ御普請始まる」(大久保董
斎『弘化大地震見聞録』)とあり、犀口での水除け堤防を
つくる普請にすばやい対応がみられる。普請人足は、四
ッ屋村(川中島町)をはじめ川中島平の二六ヵ村の百姓
が「じょれん・つるはし」持参で、早朝より堤防の普請
場で作業し、藩役人も火事装束で指揮にあたるなど非常
態勢であった。また、小市村(安茂里)の塚田源吾は人
足を慰労する酒を献上している。しかし、この水除け堤
防も、四月十三日の洪水で流失し、川中島平の水災を防
止できなかった。藩は、五月七日、幕府へ[国役|くにやく]普請願い
を出し、犀川両岸と千曲川・犀川の合流地付近の普請を
願い出、その後、復旧、防災のため普請を継続し土堤な
どを[竣工|しゅんこう]した。
 この水災で川中島平の[上|かみ]・[中|なか]・[下|しも]三堰は埋没するなど
の被害をうけ、田植えの時期を控え用水の早急な復旧が
必要となった。用水堰の掘り割り人足には、領内の一五
歳から六〇歳までの男子が徴発された。各堰での堰掘り
割り人足の総延べ人足数は、五万二四四七人にのぼった。
堰別の内訳は、上堰一万二八二五人、中堰七六八四人、
下堰二万八四六四人、小山堰三四七四人である。上堰で
の人足の内訳は「領分出」が九四四五人、そのうち二三
一九人が「遠在賃人足」となっている。松代領だけでは
なく、堰を利用する上田領からも岡田村(篠ノ井)三三
八〇人などが人足に出ている。
 このような多くの普請人足が集まるので、普請場での
統制、秩序維持は復旧作業のうえからも大切となり、つ
ぎのような「定」が設けられた。①勝手気ままに休憩を
してはいけない、②喧嘩口論、諸勝負事の禁止、③普請
場での飲酒禁止、④遠村からの人足であっても遅刻禁止
と、用水の復旧が速やかに進むように普請場の秩序維持
に努めている。これらの堰は五月十四日「中堰普請[出来|しゅったい]、
今夕七ツ半時水入れ、同日暮れ時過ぎ、上堰、下堰、小
山堰水入れ」(『増訂大日本地震史料』③)とあり、洪水
いらい、約三〇日ぶりに復旧された。田植えの時期が遅
れているだけに村びとは[安堵|あんど]の思いであったであろう。
 また、幕府領[伺去真光寺|しゃりしんこうじ]村(浅川)の真光寺組は土石
流により、一六軒が潰れ家、うち三軒は土中埋もれとな
り、七七人のうち一八人が犠牲となった。田畑は高四八
石九斗三升八合のうち、高四五石六合三勺が荒れ地とな
り、耕地の九割以上が被害をうけ、農業生産の面からも
壊滅的な被害となった。中野代官高木清左衛門は真光寺
組の生活再建のために、八月、幕府へ潰れ家一軒につき
一五両の拝借金を願いでている。この金額の内訳は、一
軒あたり「居宅取り立て分」銭三貫文、「[鋤|すき]一丁」一五〇
文、「[鍬|くわ]一軒二丁」三七五文、などと耕作農具・選別農具・
脱穀具から山稼ぎの[鉈|なた]・[斧|おの]・[鋸|のこぎり]まで三七品目の諸道具が
あげられており、農業生産の復興の必需品がそろってい
る。これにたいして幕府は拝借金として七両二分の決定
をし貸与している。さらに高木代官は拝借金の返済につ
き、百姓の負担が軽くなる二〇ヵ年賦で返済をと願いで
たが、勘定所は一〇ヵ年賦返納の決定をし、高木代官の
願いを認めていない。また、御救い米は一四石六升二合
が村人に給付されている。このように高木代官は真光寺
組の村人の生活再建に尽力した。村人は嘉永元年(一八
四八)、「高木大明神」として[石祠|せきし]を造立し、毎年地震の
あった三月二十四日に高木代官をまつり、顕彰しつづけ
ている。このように代官が領民からまつられた例はほか
にもあり、中之条代官の川上金吾助の石祠が長沼(長沼)
に三基みられる。
善光寺町の復旧
善光寺町は震災と火災により、町家は倒
壊し延焼して壊滅的な被害となった。そ
の後も余震が激しくつづき仮住まいの生活が長くつづい
た。
 四月の中ごろから町方のなかに住居を再建する人びと
が出はじめたようである。しかし、大工などの諸職人の
不足、建築資材の急激な需要増は、諸職人の手間の急騰、
資材の値上がりを招き、復旧に障害となった。これらの
状況に、善光寺領をはじめ諸藩・幕府領は職人の手間賃
値上げ、諸品の値上げの禁止をたびたび触れている。地
域全体の問題として、幕府勘定所の「達」が七月には諸
藩へ伝達されており、支配領域をこえて諸物価の安定策
に取りくみ、復旧を円滑に進めようとしている。しかし、
現状は「凶作飢饉等の筋と違い、穀類に相響き候わけも
これなき処」とし、また、「利欲に迷」(『増訂大日本地震
史料』③)うことが、物価高騰の要因と決めつけ、八月
には善光寺横沢町の町人から物価統制令の請書をとるな
ど徹底をはかっている。また、諸職人の手間賃を七日間
につき一分と公定したが、手間賃の高騰などにみられる
ように、物価統制の効果はあがらなかったようである。
 このような職人不足に、松代藩では「職人[払底|ふつてい]にて、
村里小屋掛けもできかね候につき、御郡方より上田御役
人へ懸け合い、大工百人御借り入れ、八月二十日より九
月十一日頃まで、およそ二十日ほど村々へ貸し渡し、皆々
御貸し人に相成り」(『増訂大日本地震史料』③)とあり、
藩では大工を上田領から招いて村々へさしだしている。
善光寺神明町(西之門町)の荒物商治右衛門は、八月二
十五日に本宅の棟上げをした。間口三間半、奥行五間の
家で、大工の手間四日、[鳶|とび]の手間四日とかかったが、大
工は新潟・越中からきている(『増訂大日本地震史料』③)、
善光寺町の復旧は、他領・他国から多くの職人を迎えい
れることにより進められている。
 善光寺町は地震後の火災により町家はほとんど焼失し
た。そのため復旧には各種資材、とくに材木は大量に必
要となった。ところが復旧を進めるうえで、木材ばかり
でなく、もろもろの資材や道具類の不足も問題となり、
その解決のために、町の人びとは多様な対策をとってい
る。
 火災で商店の道具類が焼失してしまい、町内で大工道
具の入手ができなかったので、大勧進は[棟梁|とうりょう]に金子を渡
し、上田城下で[鑿|のみ]などの工具を入手させた。また、釘類
は人を介して須坂から入手したほか、大勧進裏門内に小
屋を建て、[鍛冶屋|かじや]を呼び寄せ釘などを打たせた(『新収日
本地震史料』⑤)。材木の確保については、左平治は後町
(東後町)の家屋再建にあたり、その材木は久保寺村(安
茂里)新八郎の潰れ家の材木(杉古三寸五分角長さ九尺
八本、杉古四寸角長さ九尺四本、松二寸角長さ九尺六本)
一八本を代金一分二八〇文、同村和三郎の土蔵潰れの材
木(杉古四寸角長さ二間が二本、長さ九尺が二本、杉古
三寸角長さ九尺が一本、杉古長さ二間半九尺が一本、二
間半の[梁|はり]組一本)七本を一分四五〇文、同村木屋惣七か
ら材木(杉三寸五分角長さ九尺)三本を銀五匁で買い取
り、さらに千田村(芹田)の親類喜右衛門の古材を分け
てもらって調達した。近在の倒壊した家屋の材木をリサ
イクルし、材木不足に対応しているのである。そのさい、
佐平治はこれらの材木の旧所有者について、[公事|くじ]方同心
に届けをだしており、同心は材木の出所について確認を
している。資材難から材木の盗難がおこりがちなので防
止策がとられていたのであろう。また、西之門町の藤井
伊右衛門の記録によると、「仮屋を相建てたく候ところ、
材木差し支え、川東筋は川留め、山中筋は山抜け道崩れ、
牛馬通用これなく」、さらに「近在の分は残らず売り切れ、
差し支えにつき」(『新収日本地震史料』⑤)とある。材
木の確保は、善光寺町近在では売り切れ、千曲川東から
は川留め、山中は山抜けで運送不可能というきびしい状
況であった。なお、藤井伊右衛門は茂菅村(茂菅)の喜
右衛門が新しい物置をつくる予定で造材してあった新材
木を入手している。このため、「材木、板の類も多く来る、
馬荷か[筏|いかだ]にして、千曲川を下す、おびただし、上は中山
道和田峠より出すといへり」(『増訂大日本地震史料』③)
と記録にあるように、広範な地域から材木を集めている。
 住居の再建は、材木の購入代金など多額の資金が必要
となる。資金をどのように調達したかを善光寺西町(西
町)庄屋銀兵衛の場合でみていくことにする。銀兵衛は
有力な商人であるが、弘化四年十月、約八四坪の屋敷地
を担保にして、仮住居の再建などの資金として一三〇両
の大金を松代藩から拝借している(『市誌』⑬二一九)。
利息は年利一割一分の低利である。有力町民が藩から借
金をするほど、再建資金の調達は困難であったことがう
かがえる。松代藩は十二月、善光寺町商人救済のために
総額一一〇九両を二一人の商人へ年利一割一分で拝借金
として貸与している。最高金額は一〇〇両で二人である。
善光寺町の復旧を藩が支援していたことがわかる。
 北国街道善光寺宿も、本陣・問屋などが焼失し、その
機能は一時的に[麻痺|まひ]した。本陣の藤屋兵五郎は、参勤交
代などで利用する加賀藩に、再建資金として一五〇両の
拝借願いをしている。十月、加賀藩は最終的にこの一五
○両について、本陣の普請金として貸与している(小林
計一郎『長野市史考』)。地震後の火災で善光寺の寺中四
六院坊は、すべて焼失する被害となった。今後の参詣者
の宿泊などを考えると、院坊を早く再建することも急務
であった。各宿坊は全国の各郡を持ち分として所持して
おり、持ち分である各郡の信徒の浄財により、再建資金
が調達された。たとえば正信坊では、住職が「拙寺再建
にて、一濃州(岐阜県)武儀郡、一同羽栗郡、一尾州(愛
知県)葉栗郡」を「拙僧中正月十八日出立致し候、三月
二十二日帰国」(小林計一郎『善光寺史研究』)と、震災
の翌弘化五年(一八四八)正月から三月まで、再建の[勧|かん]
[進|じん]に持ち郡を回っている。宿坊の復旧が善光寺信徒の寄
進に支えられていることがうかがえる。
 善光寺では、本堂以外は潰れ・半潰れになったり焼失
した建物が多かった。仁王門は焼失した。その復興につ
き嘉永二年(一八四九)七月下旬、「二王門御材木、大町
(大町市)辺より犀川へ流し、市村(芹田)より近郷村々、
寄進人足にて引き揚げ、北御屋敷裏門へ引き込み相納め
申し候」、また、「御寺領町々へは人足仰せつけられ、町々
隔番にて材木引き上げ申し候」(「小野家日記」『長野市史
考』付属史料四五)とある。寺領町々が人足を出して資
材を運ぶなど町方の負担で復旧が進み、元治元年(一八
六四)春からは「江戸より大工、[鳶者|とびもの]まで参り」と本格
的に復旧が進み、仁王門は翌慶応元年(一八六五)七月
二十日落成している。寺院の用材は大木が必要であり、
大町など遠方から求め、河川を利用して運搬している。
仁王門落成までに善光寺地震いらい一八年がすぎてお
り、善光寺の復旧はたいへんな事業であった。
善光寺地震の記録
善光寺地震の災害記録にはさまざまなも
のがある。書き手の身分も藩家老・藩災
害係・名主・寺子屋の師匠と多彩である。その内容も単
なる人伝えの聞き書きから、自分の体験の克明な記録、
被害状況についての客観的な記述、災害への恐怖、神仏
への畏敬などと、地震前後の人びとのようすが鮮明に伝
わってくる。また、善光寺地震では、地震についてのか
わら版(読売)・絵図類が商品化され販売されるなどの特
徴もみられる。
 災害記録は内容・記録者などにより、①藩政史料、②
村落行政史料、③個人的体験日記・見聞記、④[摺物|すりもの]類と
四区分できる。①「藩政史料」として地震被害の「届け
書」がある。藩主・代官などが幕府へ提出した被害の報
告書である。松代藩主真田幸貫は、三月二十六日から七
月九日のあいだに七回の「届け書」を提出している。内
容は公的記録であり、被害数値の[信憑性|しんぴょうせい]は高い。「[達|たっし]」
は幕府や大名から代官など幕府役人にたいして発した命
令などである。「達」からは幕府の救済策としての拝借
金・国役普請・物価統制などが知られる。
 『むしくら日記』(『新史叢』⑨)は、松代藩家老の[河原|かわら]
[綱徳|つなのり]がその手記を整理したもので、地震発生のさいの状
況、領内からの報告、被害状況の詳細、犀川の洪水、松
代藩の幕府への届け書の[案分|あんぶん]など、公的な記録として客
観的な記述であり信憑性が高い。また、日記に「御城下
火災なきは実に、君上の御徳によれり」とあり、家老と
して主君の御徳に結びつけて災害をとらえており、武家
の災害観の一端がうかがえる。ほかに家老[鎌原桐山|かんばらとうざん]の「地
震記事」がある。②「村落行政史料」として、各村から
の被害届、救済願いの控え、[御手充金|おてあてきん]の請書、御普請願
いなどがあり、被害届は一定の様式があったようである。
これにより領主は被害状況を的確に把握できたのであ
る。③被害地域を中心とした個人的体験日記・見聞記に
は多くの記録がある。書き手も百姓・町人・藩士・勤王
の志士と多彩である。『地震後世俗語之種』は書き手であ
る権堂村(鶴賀権堂町)名主の永井善左衛門幸一が地震
当夜、善光寺境内におり、そのときの体験と聞き書きを
子孫に残したものである。現存する多くの記録のなかで
本書は、挿し絵が実にリアルであり、震災・火災・洪水
にわたる善光寺地震の被害状況が、文献資料だけからは
うかがえない生々しい臨場感で伝わってくる絵画史料で
もあり貴重である。現在この『地震後世俗語之種』は永
井家本・真田宝物館本・国立国会図書館本の三部がある
ことが判明している。
 『弘化大地震見聞記』の書き手は大久保[董斎|とうさい]で、小森村
(篠ノ井)在住の寺子屋師匠でもある。[郡|こおり]奉行山寺源太
夫の門下生でもあり、佐久間象山とも親交があるなど、
小森村の有力な在村文化人でもあった。董斎は自分が体
験したことを記述し、とくに洪水を自分で体験し、洪水
の状況を克明に記しているが、被害の詳細な数値は記載
していない。また、本書のなかでいくつかの絵図を残し、
自分がじっさいに歩いた道程が記され、絵図に短い説明
があるなど、被災直後の状況を知ることができる貴重な
記録である。
 『[時雨廼袖|しぐれのそで]』に収められている芦沢[不朽|ふきゅう]の『帰郷日記』
は、不朽が江戸で善光寺地震を聞き、五月五日江戸を立
ち、故郷の水内郡柳新田村(飯山市常盤)に帰郷し、六
月六日に帰着するまでの三〇日間の日記である。不朽は
[壬生|みぶ]藩(栃木県壬生町)の藩士である。日記は地震四〇
日余りのちの被災地を訪ねて記したものである。不朽は
北長池村(朝陽)で「地震の節、気を転倒致し本性を失
い、今もって正気付けざるもの、おびただしくこれあり
候」と書くなど、内容に災害時における人間の精神的な
面についての挿話・見聞がみられ、地震災害が人びとの
日常生活にもたらす精神的な影響についても多く記述し
ている。日記には二二件の挿話があるが、そのうち一四
件は地震前後の人びとのさまざまな心理的状況を記して
いる。不朽の日記は、地震で痛手をうけた庶民の精神的
な面にも視点を向けているのが特徴であり、精神面の被
害を示す資料が少ないだけに貴重である。
 『柏崎日記』(「柏崎日記下」澤下春男校訂)は桑名藩(三
重県桑名市)の飛び地、越後柏崎領(新潟県柏崎市)の
渡部勝之助の日記である。この日記は天保十年(一八三
九)から嘉永元年(一八四八)までの一〇年間、日常の
ことがらをじつに克明に記しており、武家の生活、価値
観、民俗的な面からも貴重である。
 善光寺地震については、柏崎での三月二十四日の状況
が克明に記されている。また、桑名藩主の松平定永は松
平定信の長男で、松代藩主真田幸貫の兄にあたる。善光
寺地震後、桑名藩はただちに「お見舞い」として米三〇
○俵を松代藩へ送ることを決め、柏崎から米を送る手配
をした。その担当者として、この日記の書き手である渡
部勝之助があたることになり、六月十四日[駕篭|かご]で柏崎を
立ち松代に向かう。各宿場で、問屋との運賃の交渉をす
るが、地震後の悪条件により「御定め賃銭の三割増し」
で約定するなど苦労が生々しく記されている。地震後八
○日が経過しているが、北国街道の各宿場の復旧が遅れ
気味であることも宿泊状況などでわかる。松代城下の復
旧のにぎやかなようす、松代藩役人の応対ぶり、地震後
の人びとの生活などのほか、被災地域を訪ねた渡部勝之
助の感想も記されており、地震後の被災地域の現状を克
明に伝えてくれる記録である。「お見舞い」の米は、欠け
米分として二〇俵が加えられ、三二〇俵が[新町|あらまち]宿(若槻)
で松代藩に引き渡されている。
 『西遊草』(岩波文庫)は幕末の勤王志士清河八郎の旅
日記である。安政二年(一八五五)三月、清河八郎は鶴
ヶ岡(山形県鶴岡市)を伊勢参りのため母親と出発、越
後路から信濃に入り、地震後八年が経過した北国街道筋
の宿場についても記述している。柏原・古間(信濃町)、
牟礼(牟礼村)などの復旧の遅れが具体的にわかる。善
光寺町では藤屋平左衛門方に宿泊している。善光寺では、
門前の活気あるようすなどを記す。善光寺の復旧ぶりが
わかる。稲荷山宿(千曲市)では知人を訪ねているが、
三月十五日の日記に「稲荷山は以前はよろしきところな
れども、地震のとき焼失致し、家なみ[疎々|そそ]としていまに
さみしきありさまなれど」とあり、復旧の遅れが記され
ている。地震後の復旧が在方と善光寺町とでは差が出て
おり、地震後の復旧のきびしさがうかがえる。
 「摺物・絵図類」は善光寺地震の直後から、半紙一枚摺
りで絵入りのものなど多様な「かわら版」が地元発行で
も出版されている。善光寺という全国的に信仰を集めて
いる地域での地震災害なので、多くの人から関心を集め、
「かわら版」が善光寺地震の情報源として販売されたもの
である(北原糸子「近世情報論」、『国立歴史民俗博物館
研究報告』九六集)。松代藩でも三月[晦日|みそか]出版の「かわら
版」などをふくめ数種類を収集している。
 「絵図」は災害の状況を視覚的に知ることができ、効果
的な情報伝達が可能でもある。松代藩が作製した「信州
地震大絵図」は震災・水害・山崩れが色分けされて描か
れ、村名が記されており、被害状況が一目[瞭然|りょうぜん]である(口
絵参照)。被害地域も南は松本藩、北は飯山藩と広い地域
が描かれている。善光寺地震の被害の全容を知るには最
適の絵図である。藩が幕府へ被害報告をしたさいなどに
活用されたのではないかと考えられる。松代城下から離
れた周辺の村の一部に地理的位置の誤りが見られるが、
絵図としての価値には支障がないと思われる。
 絵図のなかには、商品として販売された「弘化[丁未|ひのとひつじ]
信濃国大地震之図」(二枚組)がある。これは上田領上塩
尻村(上田市)の原[昌言|まさこと]が発行した木版刷りの災害絵図
である。この絵図の出版については、正式に[昌平坂|しょうへいざか]学問
所の許可を得て出版、販売されている。原昌言はこの絵
図の販売のため、江戸の上田藩邸などを訪ねている。松
代藩はこの絵図を六五部購入している。代金は一部銀八
匁五[分|ふん]であった(北原糸子前掲書)。
善光寺地震の供養と石造物
災害からの復旧は家屋の再建、用水の
確保などライフラインの復旧からはじ
まり、生活の立て直しがはかられた。また、犠牲者の追
善供養を営み、人心の安定に努め、被災者の精神的な落
ち着きを取りもどすことも復旧策としては大切な施策で
ある。
 善光寺地震後の追善供養は、権堂村の永井善左衛門幸
一が、地震後七日目の四月一日に権堂村郊外で、普済寺
の巨竹和尚ら八人の僧侶を招いておこなった[施餓鬼|せがき]法要
が早い例で、人びとの自由な参拝を認めている。『地震後
世俗語之種』には盛大な法要のようすが描かれている。
善光寺も箱清水に設けた仮堂で四月十三日から一〇〇日
間の朝施餓鬼法要をおこなった。松代藩は地震の約一ヵ
月後「変死亡霊[冥福|めいふく]のため、[妻女山|さいじょざん]において施餓鬼せよ
と、長国寺へ命ぜられぬ」(『むしくら日記』)とあり、四
月二十八日に妻女山で法要を執りおこなった。[公事|くじ]方・
勘定役の役人が麻[上下|かみしも]の盛装で参列し、同心も多く参列
した。町方・在方からも多く参列し、「二、三千人も寄せ
集まりし」とある。また、「死失の者一人へ[塔婆|とうば]一本ずつ
を給わりぬ」とあり、御普請方で経木三千本余りを準備
してあたえた(『むしくら日記』)。藩として施餓鬼法要を
盛大に営み、庶民も多く参列するなど、地震後一ヵ月と
いうこともあり、犠牲者を供養する人びとの[篤|あつ]い供養の
気持ちが伝わってくる。このような施餓鬼供要は、須坂・
飯山両藩でもおこなわれている。領主として人心の安定
に努め、災害後の秩序安定をはかっている。
 このような追善供養などが契機となり、善光寺地震関
係の供養碑などの石造物が、長野市域に二〇基余り[造立|ぞうりゅう]
されている(『長野市の石造文化財』①~⑤)。未確認の
石造物もあると考えられるので、善光寺地震に関係する
石造物はもっと多いであろう。
 種別では馬頭観音像が一二基余りと最多で、造立者は
個人がほとんどである。地域としては松代藩[山中|さんちゅう]が多
く、なかでも芋井地区に多くみられる。地震で馬が死亡
したことは、馬を大切にしていた百姓にとって悲しみで
あり痛手でもあったろう。追善供養塔としては「地震横
死塚」(善光寺山門東がわ)がある。基壇ともに約六㍍の
[宝篋印塔|ほうきょういんとう]である。善光寺地震の犠牲者で旅人などの無縁
者を葬ったもので、発願者は上田海野町の商人土屋仁輔
で、善光寺町の山崎[文沖|ぶんちゅう] (医師)・久五郎・石工吉左衛
門・[鳶頭|とびがしら]常八などが協力して造立している。地震塚の北
がわには、間口二間半、奥行二間の[草庵|そうあん]が建立され、「日々
本坊より道心者差し遣わし、不断念仏修行致させ[回向|えこう]候
こと」(『新収日本地震史料』⑤)とあるから、当初は毎
日仏事が営まれていたようである。また、地震塚の南が
わに「一字一石供養塔」がある。地震犠牲者の供養のた
め経文を一石に一字書き写し埋めた供養塔で、大勧進住
職の山海が弘化五年二月に造立している。
 松代藩は妻女山での施餓鬼法要後の嘉永二年(一八四
九)三月、三回忌にあたり妻女山に「[罹災|りさい]横死供養塔」
を造立した。銘文には、後世の人びとにこの災害を伝え
るためという造立の目的が刻字され、「圧死・[焚死|ふんし]男女二
千七百六十四人(中略)溺死男女四十六人」と記されて
いる。この供養碑の造立は「妻女山の三災亡霊の碑は、
写真13一字一石供養塔
(善光寺境内)
予が懸かりにて、御建立也」(『むしくら日記』)とあっ
て、家老の河原綱徳が担当した。このような供養碑から、
生き残った人びとがそれぞれの立場で、犠牲者の菩提を
あつく弔っているのがわかる。
 善光寺地震は大災害であり、復旧のためには領民の自
助努力だけでなく、領主の施策も大きく影響した。領民
は災害という危機を通じて、自領の領主と他領の領主の
救済活動、復旧策をくらべるなかで、領主を評価したと
考えられる。仁政を感謝し顕彰して生き神としてまつる
こともあった。先述したように弘化四年に長沼上町・津
野村(長沼)は中之条代官の川上金吾助をまつる「御代
官川上様小社」の[石祠|せきし]を造立している。また、真光寺村
は嘉永元年(一八四八)四月、中野代官の高木清左衛門
を「高木大明神」として石祠を建ててまつった。このよ
うに石造物からも善光寺地震の一端がうかがえるのであ
る。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 四ノ上
ページ 443
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 長野
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