[未校訂]H16・12・15 長野市発行
2 善光寺大地震
善光寺大地震の惨状
善光寺は、弘化四年(一八四七)三月十
日から開帳([御回向|ごえこう])に入っていた。諸
国からの参詣人をあてこんで、山門前の[堂庭|どうにわ]には、芝居・
[軽業|かるわざ]・[見世物|みせもの]などの小屋やみやげ物店などが二〇あまり
も所狭しと立ちならんでいた。その日、二十四日も夜遅
くまで境内はにぎわい、本堂でおこもりする人びとも多
かった。午後一〇時ころ、突然天地が崩れるような大揺
れがおそった。その震動は不意であり上下に激しく、な
ににもたとえようもない地響きをともなった。
このため、数多くの灯火がいっせいに消え、薄明かり
からあたりを見渡すと、いつのまにか大門町・横町・東
之門町あたりで出火していた。「火事だ」「火事だ」と[連|れん]
[呼|こ]はするが、うろたえ騒ぐだけで消火のすべもなく、途
方にくれるばかりであった。火はやがて大本願・院坊・
仁王門や堂庭の[見世店|みせだな]を焼き、西町・桜小路(桜枝町)
も焼き、さらに善光寺領外町続き地の権堂村(鶴賀権堂
町)や妻科村後町組(西後町)にもひろがった。
さいわい、善光寺本堂は火事をまぬがれたが、堂内は
ことのほか大破し、いつ火事に巻きこまれてもおかしく
ない状況となった。そこで、[前立|まえだち]本尊・御朱印など大切
なものは本堂北東三三〇㍍ほど離れたところに移転せ
ざるをえなかった。[大勧進|だいかんじん]・山門・[経堂|きょうどう]・[鐘楼|しょうろう]は火をま
ぬがれたが、境内の[灯篭|とうろう]・石塔・石仏は残らず倒壊した。
三(山)門以南と善光寺八町などは一面の焼野原と化し、
町のありさまはどこをどことも決めがたい状態となっ
た。善光寺領の被害は、[潰|つぶ]れ[家|や]二三五〇軒、死亡者二二
二〇余人、うち一〇二九人は旅人だといわれている。
松代町では、松代城本丸・二の丸・三の丸の[囲|かこ]い[塀|べい]・
[櫓|やぐら]・番所などが倒壊したり大破したりした。寺社や家臣
の家、城下町の民家も全壊や半壊の被害をうけたが、地
震にともなう火事は避けられた。松代領村々では、居家
の全壊九三二七軒、半壊二八〇二軒、大破三一二〇軒で、
圧死人二一〇〇人余、怪我人一二〇〇人余、死んだ牛馬
も二六〇匹余となった。そのほか、土蔵・物置・酒造蔵
などが多数倒壊した。本田・新田の[損毛高|そんもうだか]は、領内約二
〇〇ヵ村、実高一二万石のうち、一五一ヵ村・七万一〇
〇〇石余に達した。さらに、道・橋・土手・用水[堰|せぎ]など
の損壊、流出は多数にのぼった。善光寺町・松代町以外
では、飯山町(飯山市)、稲荷山宿(千曲市)と、松代領
[山中|さんちゅう](西部山地)の[市場|いちば]町である[新町|しんまち]村(信州新町)の
被害が甚大で、火災も併発した。
いっぽう、地すべり常襲地帯の西部山地では、この地
震で大規模な地すべりをおこした。現中条・小川・鬼無
里三ヵ村にまたがる虫倉山の地すべりは、ふもとの村々、
とくに[伊折|いおり]・[和佐尾|わさお]・[梅木|うめき]・念仏寺・[地京原|じきょうばら]の五ヵ村な
どに大規模な土砂災害をもたらし、家や人や馬や田畑を
埋めた。また、二十四日の地震は、更級郡山平林村(信
更町)と[安庭|やすにわ]村(信更町)とのあいだにある岩倉山([虚|こ]
[空蔵山|くぞうやま])の崩落をまねき、数十丈の土砂・岩石をもって
犀川を[堰|せ]きとめ、自然ダムを形成した。このため、川下
は一滴の水もないような状態となり、人びとは犀川を徒
歩でわたることができた。堰きとめられた水で、新町村
など犀川沿いの村々や有名な[久米路|くめじ]橋も水中に没した。
[湛水|たんすい]は少しずつ上流におよび、やがて押野(東筑摩郡明
科町)におよんだ。
この堰留め湖がいっぺんに崩れおちたときの被害を警
戒し、松代藩では、犀川沿いに高土手を築くなどの応急
措置を講じたが、翌四月の十三日午後二時ころ、堰きと
められていた水は一気に自然ダムを決壊し、洪水が善光
寺平に満ちあふれた。あふれでてくる大洪水の音は、山
が崩れるかと思うようなすさまじさで、川中島平の村人
はあわてて[妻女山|さいじょさん]から赤坂山(松代町)あたりにたちの
いた。昨日まで青々としていた麦畑は一夜のうちに満々
と水をたたえる大河と化した。水は翌日夕方ようやく引
いた。
善光寺大地震は、長野市域に地震、火事、地すべりの
うえ洪水による被害をもたらし、人びとはどん底におち
いった。そこからの復興は自力ではどうしようもない状
態であった。人びとは、震災者にむすび・ろうそく・煙
草・[塩鮭|しおざけ]などを差し入れて助けあった。松代藩は幕府か
ら一万両を借り入れ、困窮者に金一分なり二分なりを貸
与した。また、善光寺も、松代藩から三〇〇〇両を借り
だし領民に緊急の貸し出しをし、また本寺筋にあたる寛
永寺からも[祠堂|しどう]金三〇〇〇両を借りだした。
地震後、松代藩では小松原村(篠ノ井)・[町川田|まちかわだ]村(若
穂)・[八幡原|はちまんばら](小島田町)に御救い小屋を設けて被災者を
救済し、四月末には藩主真田家の[菩提寺|ぽだいじ]長国寺や大英寺、
また妻女山で[施餓鬼|せがき]をおこなった。善光寺領でも、箱清
水村畑中の善光寺仮堂で四月十三日から一〇〇日間、[非|ひ]
[業|ごう]の死者をとむらうため、朝施餓鬼をおこなった。
善光寺地震の規模は、古記録から推定してマグニチュ
ード七・四、震源地は浅川清水付近の地下とされている。
地震は地下の断層が動くことにより生まれるが、長野盆
地の西縁部には活断層が何本も走っており、ひっくるめ
て長野盆地西縁構造線とよばれる。善光寺大地震はこの
構造線が動くことにより生じたものと考えられている。
語りつがれる大地震
善光寺地震は広く、また長く語りつがれ
る。当時の記録には松代藩家老[河原綱徳|かわらつなのり]
が、各地からの被害報告をこまかく記録した『むしくら
日記』や、家老の[鎌原桐山|かんばらとうざん]の『地震記事』がある。松代
藩が幕府に提出した「松代大地震御届書類」の写しなど
公式記録も残る。民間にも、善光寺周辺でつぶさに大地
震を体験した権堂村(鶴賀権堂町)名主永井[幸一|さちかず]の災害
図入りの『地震後世俗[語之種|はなしのたね]』、山中の[堰留|せぎと]め湖の決壊
で、洪水に一喜一憂した体験を綴った小森村(篠ノ井)
の寺子屋師匠大久保[董斎|とうさい]の『弘化大地震見聞記』など被
災体験を綴った地震記がある。のちには、町や村にいて
[未曾有|みぞう]の体験を強いられた人びとの領主への嘆願書など
を[網羅|もうら]した東京大学地震研究所編『新収日本地震史料』
⑤をはじめ、『県史近世』⑦、『市誌』⑬などの史料集、
各市町村の被害状況などをたんねんに記した自治体史が
編まれた。
絵画史料としては、右の『地震後世俗語之種』、松代藩
お抱え絵師で八代藩主[真田幸貫|さなだゆきつら]の西部山中巡行にお供し
た青木[雪卿|せうけい]の六九場面にもおよぶ巡視図(「感応公(幸貫)
[丁未|ていみ]震災後[封内|ほうない]御巡視之図」)、大岡村(大岡村)出身の
松代藩[雇|やと]い[足軽|あしがる]新左衛門が描いた「信州地震大絵図」、小
県郡上塩尻村(上田市)名主の原[昌言|まさこと]の「信濃国大地震
之図」などがある。そのほか、地震直後、地元や江戸で
発売された[瓦版|かわらばん]、叙事民謡のくどき節・やんれん節、ま
た、善光寺三門の東がわに建つ上田宿の土屋[仁輔|じんすけ]が寄付
した地震塚、[伺去真光寺|しゃりしんこうじ]村(浅川)が災害復興に尽力し
た中野代官高木清左衛門を高木大明神として[祀|まつ]った碑な
どもある。