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項目 内容
ID J3000237
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1707/10/28
和暦 宝永四年十月四日
綱文 宝永四年十月四日(一七〇七・一〇・二八)〔東海以西至九州〕
書名 〔大地震大津浪末代噺全冊〕酒井家(阿波美馬郡旧半田村の商人)文書243徳島県立文書館蔵
本文
[未校訂]今昔地震津浪説
むかし宝永四年十月四日大坂大地震大津浪の節諸人迯迷
ふたる旧記此度乃さまに粗似たれば爰に記す
往古宝永四丁亥十月四日未上刻大地震半時斗リ不止人迯迷
ふ事如雲霞又申の下刻ゟ津浪来リて道頓堀日本橋迠廻舩
六七十艘馳込五十石三十石の舩ハ大舩に押倒される事数
不知勿論日本橋ゟ西の橋ハ不残落る堀江川ハ堀江橋迠落
る長堀ハ別条なく安治川筋ハ堂嶋たみの橋迠落る渡辺橋
ハ大ぶん損じ往来止る寺嶋勘助嶋上下ばくろ此辺家々不残
流れるあハ座新うつぼ京町堀大分崩れさこばも大半崩れ
残リハ流るかつを座ハ不残崩れ死人夥敷舟場ハ堺筋ゟ東
ハ別条なく西ハ一丁ことに五軒七軒宛崩る御霊前東がハ
北がハ共家一軒も不残崩れる神輿蔵弁天堂荒神社不残崩
れる本社ハ別条なし鳥居ざん〳〵に折れる道修町伏見町
灘波橋ゟ西ハ大かた崩れる瓦町ゟ唐物町迠心斎橋迠角屋
敷所々崩れ北久宝寺町北角迠不残崩れ北御堂茶所崩れ本
堂柱さける南御堂ハ別条なく惣して大坂堺筋ゟ西ハ一町
に五軒十軒宛崩れ角屋敷ハ不残崩れ富家の衆は下屋敷上
町辺へ迯行下々ハ御城の馬場へ迯る事如雲霞の夜に入て
御城代出役伊豫守様ゟ御目附御医師衆等御廻し有之御薬
被下旨被仰其後ハ又々 御町奉行様ゟ右同断之由仰被渡
候 御城ハ鴫乃口御門落候得共早速御修覆外ト廻リ少々
損し候得共別条なく候
上町東天満ハ無別条蜆川堂嶋中の嶋不残崩れ嶋の内ハ道
頓堀同事崩れ新町別条なし惣して大坂中四五日の間門戸
を〆て商賣相休七八日目ゟ無事の町々店を出し候得共昼
夜ニ五七度も震り候得ハ中々商ひ所でハなし火事の由風
聞いたし候得共町々用心厳敷人々帯を不解昼夜辻番いた
し候得ハ火事ハ無之候
一落橋数 三十六はし
北組
崩家 五百七十九軒
死人凡弐百七十八人男百十四人女百六十四人
南組
崩家 三百十四軒
死人凡三百四十五人男百四十八人女弐百八十七人
天満組
崩家 百六十八軒
死人凡百十壱人男三十一人女八十人
右三郷崩家〆千六十一軒死人〆七百三十四人ありけが人
数しれす 此竈数一万六千程 津津にて破損の舟数大小
、千三百余艘 □(合、カ)死人一万弐千人余
右宝永四年ゟ宝暦六子年迄五十年ニ相当り梅田墓所ニ而三
月十七日より二七日の間万燈会供養諸宗大法事修行する
とあり
右之通去ル家之旧記を爰ニ出ス也但し宝永四亥年ゟ今嘉
永七寅年まて百四十八年になる
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 四ノ上
ページ 180
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 徳島
市区町村 半田【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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