[未校訂]次は宝永四年(一七〇七)十月四日で、富士噴火の年
である。「平島家日記」は「十月四日八つ時分(午後二時)
より大[地震|ない]、新田を[揺|ゆ]りめぎ百姓共迷惑」と記す。「神崎
村記録」はより詳しく、「十月四日大地震、家[潰|つぶ]る。九(ママ)月
迄一か月二三度づゝゆり[無止|やむことなし]。土蔵不残潰れ、大風雨、
高潮、常の潮より高きこと五尺余」と記し。被害が大き
かったこと、余震が長く続いたこと、大風や高潮を伴っ
たことを詳しく伝えている。また『池田家履歴略記 上
巻』には、地震の時家に居た人は勿論、道行く人も歩行
が出来ない有様、殊に城下の西大寺町の道は幅一尺ばか
りの亀裂を生じ、泥が中から沸き出したと記している(六
二〇頁)。