Logo地震史料集テキストデータベース

西暦、綱文、書名から同じものの一覧にリンクします。

前IDの記事 次IDの記事

項目 内容
ID J3000225
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1707/10/28
和暦 宝永四年十月四日
綱文 宝永四年十月四日(一七〇七・一〇・二八)〔東海以西至九州〕
書名 〔三重県下の熊野灘沿岸における宝永の津浪〕中田四郎・湊 章治・橋本輝久・高須幹生著「三重史学21」一九七八・三 三重史学会発行
本文
[未校訂]一、序
 「鵜方村誌」は旧紀州藩伊勢国度会郡田丸領慥柄組の慥
柄浦の御城米役人中西彦右エ門家に残っていた宝永津波
の記録を引用している。これは嘉永七年(安政元・一八
五四)八月、当時贄浦(度会郡南島町)の庄屋西川甚左
エ門が書写しておいたものである。これによると慥柄組
下各浦村の被害状況がよくわかり、さらに広範囲に津波
の被害のあったことを次のように報告している。
 右之外紀州綿浦より大泊浦迄浦々不残流出、溺死人
千六百余総て諸国大分流出之由、熊野日高郡津々不残
流失之由………
 また、「見聞闕疑集」は、紀州藩奥熊野尾鷲組下諸浦村
の被害の様子を記した次に「他所浦々浪入候在々」「長島、
三浦、引本、錦浦、古里、海野、三木浦、甫母、新鹿、
遊木、大泊り、小泊り、名柄、梶賀、曽根、古江」の浦
村を列記している。これは「鵜倉村誌」の錦浦(紀勢町
錦・旧奥熊野長島組)から大泊浦(熊野市大泊町・旧奥
熊野木本組)までの被害のあった諸浦村を具体的にあげ
たのである。そしてこの「見聞闕疑集」は、「浪不入浦々」
「木本・波田須・盛松・須野・早田・道瀬」などをあげ
ている。
 なお「反古の綴」には「波入申候」浦村を長島浦から
大泊浦まであげ「其他東筋浦々、上方浦々へも同前波入
申候」といい、「木本・井戸・有馬・市木・阿田和へハ津
浪不入」とある。
 以上によって木本浦から熊野川口に至るまでの緩やか
な曲汀沿岸七里御浜には津浪の被害がなかったことがわ
かる。そして、大泊から慥柄組(度会郡南勢町・南島町)
にわたる沿岸諸浦村の津波の被害が、木本浦以西南の海
岸立地とは対照的な複雑なリアス海湾と関係のあること
を最もよく示しているといえる。波田須、盛松(さがり
まつ)・須野・早田(はいだ)・道瀬(どうぜ)などの諸
浦はリアス海湾地帯に介在しているが、湾の立地が津波
の来襲を誘発しないかまたは集落の位置に大きな関係を
有したのである。
 熊野灘沿岸の旧紀州領下のリアス海湾地帯における宝
永の津波の被害は、前代未聞というほど人命や家屋の喪
失をもたらしたのであるから、その被害の甚大であった
理由を記録に残る被害状況から考察し、それら記録や資
料のもつ鑑戒的なものを探ってみることは、災害史をひ
もとく上に重要な意義がある。さきに「志摩地方におけ
る宝永の津波の被害」について報告したので、今は志摩
につらなる熊野灘沿岸の旧紀州領下の宝永の津波の被害
を報告する。
 三重県下の熊野灘沿岸は、藩政時代には紀州藩伊勢国
度会郡田丸領慥柄(たしから)組、紀州領奥熊野(木本
郡奉行・木本代官支配下)の長島組・相賀(おおか)組・
尾鷲組・木本組の四大庄屋組体制があった。
この報告を始める前にこの沿岸に残る宝永津波の記録や
資料の吟味が必要であるが、誌面の都合で省略すること
をことわっておく。
二、海底地震発生と津波来襲の時差
尾鷲市念仏寺蔵「過去帳」の「宝永海嘯ノ記」の宝永四
年(一七〇七)一〇月四日(新暦で一〇月二日)の条に
「晴天、他日に異り例ならす温なる日也」とある。この
「宝永海嘯ノ記」は、宝永津波を体験した尾鷲浦の小河
嘉兵衛が書き残したもので信憑性が高い。それに大地震
津波の当日の異常気象をふりかえっているのである。志
摩における国府村(志摩郡阿児町)の小林家蔵の「宝永
四丁亥年十月四日両難書付」にも当日は「晴天、殊ニ暖
気ニテ風波モナキニ大地震ユリ申候」とある。また、和
歌山県東牟婁郡古座町役場の旧蔵「洪浪記」には「四ツ
時過(午前一〇時すぎ)晴天にて、髪も動ぬ海面にて、
高泙(なぎ)にて我等浜へ遊に参り而烏水を浴び、静な
る日と覚申候而、浜より戻り、飯給(たべ)申処へ地震
起出し」といっている。
 これらを総合すると、志摩から遠く口奥野地方まで、
宝永地震の当日は稀有の天気であったことがわかり、地
震の前兆的異常性が物語られているように思う。
 宝永地震の記録・資料によると、宝永の地震をことご
とく「大地震」と表現している。この地方は藩政時に入
って慶長・延宝・元禄の大きな地震を経験しているが、
「大地震」とはなく、宝永地震はまさに大地震であった
のである。「見聞闕疑集」は「大地震、山々崩れ家蔵石垣
等をもゆりくすし」とあり、「宝永海嘯ノ記」は「午の中
刻俄に震動、大地を動し、古き家ハゆりつぶすべくも見
え稀(侍か)り、外へ戸板又ハ畳やうの物取出し、地震
ゆりさけん事を恐れて、其上に並ミ居、皆々肝をひやし、
只神仏の御力を祈ル計リ也。古キ土蔵ハ土壁を落し、け
ハしき山ハ崩れ、落野の鹿、林の禽、犬猫も驚き騒ぎ、
物すさまじき有様、たとへん物なし」と、大地震の状況
を伝えている。
 熊野灘のこの沿岸には、志摩沿岸と異なり宝永津波の
供養塔が五基もあるが、尾鷲市馬越のものは簡単に「大
震、有山邑山崩圧邑者」とだけ刻している。これは、こ
の供養塔が地震についで襲来した津波による人命の喪失
をとぶらう性格によるのである。しかし大地震の強烈さ
に人々は恐怖におののき狼狽のあまり、なすすべを見い
だす精神的余裕がなかった有様が彷彿する。このような
虚心状態におかれている間に、稀有の津波の直撃にあっ
たため真昼でありながら、各浦村は多数の人命を奪われ
たのである。
 津波の人的被害を避けるためには、一刻も早く高所に
避難しなければならない。それは津波を経験した人々の
なかで、地震と津波の時差を、地震直後と感得している
者が少なくないことでもわかる。しかし、チリー地震津
波のように遠距離の場合は別として、日本の東につらな
る海底断層線に起こる地震と津波との時差は、それほど
大きな時差はなかった。それでも当時を記録したものに
よると、かなりの時差が認められ、地震後の津波を予想
すれば避難は可能であった。それにもかかわらず尾鷲浦
で千余人といわれ、長島浦で明確なものだけでも五〇二
人という流死人を出した悲惨さは、どうした理由による
のだろうか。
 一つには、さきの「宝永海嘯ノ記」にあるように地震
に対し戸板や畳を戸外に出して坐すという地震の恐怖に
とらわれて時を費やし津波の来襲に無頓着であったた
め、密集集落のゆえに倒壊家屋の流木に遮断されて瞬時
に多数の人命がのまれたのが実態であろう。
 二つには、津波の来襲した慶長・延宝・元禄の津波の
被害が僅少で、人命にはかかわらなかった伝承が浦村の
人々を油断させたのではないだろうか。とくに元禄十四
年(一七〇一)の津波は、宝永四年(一七〇七)をさか
のぼること僅かに六年であり、各浦村の大部分の人々は、
その当時のことは、まだ記憶に新たなことであった。そ
のような現実的記憶が、津波に対する警戒を怠る大きな
理由であったと思う。まして、津波は第一波、第二波よ
りも第三波、第四波が大きいと報告されており、第一波、
第二波がきたときは、あるいは元禄時程度であったため
第三波、第四波の大波の来襲を油断している間に予想を
超えた第三波、第四波が襲いかかってきたので、人命を
多く失なったのであろう。記録によると、地震から大き
な被害を与えた津波までの間に一時間もの時差があるの
は、第一波、第二波ののちに大きな津波のあったことを
物語るのである。志摩における「宝永丁亥十月四日両難
書付」に「四波メ大キ成浪ニテ浜手ノ家一家又ハ二家通
潰申候」といっている。このように被害を大きくする大
波のくるまでに一波約二〇分間隔とすれば一時間も時差
があるものは当然である。したがって波の完全におさま
るまで一刻も早く高所に避難しなければならない。尾鷲
浦・長島浦その他多くの人命を犠牲にしたのは、このよ
うな理由が考えられる。
 三には、密集集落のゆえ地震の倒壊家屋なども避難を
困難にしたであろう。四にはなんといっても被害を大き
くする地形がある。尾鷲浦馬越の「経塚・三界萬霊」の
供養塔に「水郷波起、漂流村落者、殊尾鷲邑者、開水道
於左右、前面海広、背後山高、故怒濤自三面競超而廻避
無方、頃尅之間而男女老幼溺死者千餘人、居民靡有孑遺
(けつい・のこり)、屍積如山矣」といっているのは、尾
鷲浦の立地と津波の関係をよくとらえたものである。熊
野灘沿岸で多数の死者を出した浦村は、ことごとく、尾
鷲浦に同じような立地にあることがわかる。
 贄浦の西川家記録を収録した「鵜倉村誌」は「宝永四
年亥十月四日、午刻大地震津波ニテ」とあり、長島町(北
牟婁郡)仏光寺供養塔には「未上刻大地震 直津波入」
とあるのは、地震と津波の時差を感ずる余裕のない人々
の気持をあらわしている。それはなお余震が続いている
ことにもよる。古和浦(度会郡南島町)の甘露寺供養塔
には「于茲宝永丁亥十月四日未刻大地震、海水発而白波
滔天」とあり、以上は流死人の多かった理由に関係があ
る表現である。尾鷲浦馬越の供養塔にも「宝永四丁亥冬
十月四日午刻大地震之後、高潮漲起」とし、前のものと
同様のいい方である。
 ところが、「宝永海嘯ノ記」は「午之中刻、俄に震動大
地を動し……半時程して地震漸止ミ……其内半時ほど過
る浪打側と…」あり、大地震と津波の間一時間の時差が
ある。これはさきにのべたように一波・二波後被害を与
えた津波の来た時間を捉えたものとして注目すべきであ
る。余震が静まって二〇分程度の隔てて大波がきたので
あろう。これは同じ尾鷲浦の記録「見聞闕疑集」に「四
日午刻大地震……半時斗過潮夥敷わき出高波……」とあ
るのと一致する。
 地震の恐怖に右往左往している間に津波に直撃された
のが真実であろう。これは真昼に起こったのであるが、
もし夜間であったら人的被害ははかり知れないものがあ
っただろう。
三、津波来襲の様子
 藩政時代において、海底地震と津波との関係は、科学
的に把握されたものではないが、地震による津波のある
ことは認めている。いま当時の小河氏が、両者の関係を
どのように把握していたか、宝永津波で父と妹を失ない、
その三三回忌にあたる元文四年一〇月四日に書いた両者
の関係の興味あるものを掲げておく。
 或人問フテ曰、地震高浪亦末世にも可有也。
 何ノ故ヲ以ケ様成大変起ル。
 答テ曰 昔もありといへども書残ス人少なければ知人
稀也。又今日にも、末世にも可有謂有り。易ニ曰、風入
地中地震スト有り。又漢書五行志下之上ニ、伯陽甫カ曰
ク、陽伏而不能出、陰迫不能升、於是地震ス。或書記ニ
曰、大地震テ裂山崩人家此時大海己ニ傾テ盆ヲ如淘(ゆ
する)高波起ルとある。……然れハ陰陽之変気積り積り
て大変をなす。高浪ハ海底の水漏出て其気発する所なき
故也。例よりも高く成て、津々浦々へさし込、それより
陸に揚ル。
 右は五行説を基調としているが、「陰陽之変積もりて大
変をなす」とあるのは海底断層の平衡が破れるまでエネ
ルギーの蓄積が地震を起こすに至るとする学説に類する
ものである。
 古和浦供養塔に「大地震動、海水激発而白波滔天」と
あるのは、地震の震動による津波を捉えた表現である。
木本浦喜田草太老の「反古の綴」には「木本浦は海上魔
見島迄汐引候而、海中大岩・小岩数多見候而、牛の臥た
る如くに相見へ、暫して浜の中程迄浪上り申候」といっ
て、志摩の国府村の報告と同様のことを記している。地
震後の海水の異常には充分注意する必要がある。
 この異常退潮後、津波が来襲する姿について「見聞闕
疑集」は「潮夥敷わき出高波」とわき出る形容をし古和
浦(度会郡南島町)の甘露寺の供養塔には「海水激発而
白浪滔天簸場(はよう・あふりゆる)於陸地」贄浦(同
町)「高汐漲起」とあるように盛り上がった海水が来襲す
るので、その速度の早いこと、その破壊エネルギーの強
さはさし潮、退き潮ともにはかり知れないものがあり、
その瞬間に人をのむ惨状は目でみえるだけに、はなはだ
しい。
 津波襲来の様子をよく記しているものは、九死に一生
を得た小河嘉兵衛の「宝永海嘯ノ記」であるから引用し
て光景を知る資とする。
 半時程して地震漸く止ミ、諸の漁船も驚き帰る。沖
の模様を尋るに、何とやらんすさましき気色のよし、
漁人の物語り聞くに、ものうく、人々又沖のミに気を
付け、詠(まま)居たる其内、半時ほど過る浪打側と
何とやらん、颯々と物すさまじく水の色も赤土をこね
たるごとくに見ゆる中にも、賢老人、是ハ昔より聞及
たる津波とやらん来るにて有らんと云出す。夫より我
先にと迯出し、中井本町筋より後を見かへれば、半町
も後より只ぐハらぐハら、はらはらと鳴渡り、空ハすゝ
のけむりにて黒雲の落たる様に見ゆる。それよりいよ
いよ息を限りに中村山を心かけ迯のび、後を見かへせ
ば、はや在中海となりて、汐のさし引大川の早さ、水
の行よりもすさまし。其間に家・蔵は桴(いかだ)と
成る。早き汐のさしひきも一時ほどしてやみ、本のご
とく陸となれり。
四、津波の高さ
 津波被害は波の高さに比例する。それはそれだけエネ
ルギーに著い差がある。「見聞闕疑集」は、この津波を「前
代未聞」の大変なりと把握し「延宝、元禄之頃も津浪入
候共、少々之儀にて候。慶長九年にも津浪入候よし候得
とも人家を流し候程の事ハ無之由申伝へ候」といってい
るほどの波の高さであった。「鵜倉村誌」収録の贄浦役人
が大庄屋へ出した覚に「浜島ニ而浪打きわニ而、高サ三
丈七尺ほど、在所奥へ汐差止百五拾間余、右之通去ル四
日之汐差入申候」とある。この報告を信ずれば波高は、
一〇メートルを越えた驚くべき高さである。現在、贄浦
の汀線は宝永度と幾分の変化があるかも知れないが、贄
浦最明寺供養塔の位置が「今此経塚之所迄波到也」とあ
る高さをみると、三丈五尺は信じ得べく、供養塔以下に
ある同浦がことごとく水をかぶったことになりここで多
数の死者を出したのである。
 古和浦甘露寺の供養塔には「簸揚於陸地三丈餘矣」と
している。同じ南島町の東西で、三丈余と報じているが、
古和浦も「故怒潮到処民家一宇不残流れ」と刻してある
のが真実というべきである。このため、この部落もまた
多数の流死人を出したのである。
 長島浦の被害は全町に及んで、流死人五百余人を数え
たが、長島町仏光寺の供養塔は「在中不残流失」としな
がら波高がない。しかし、「仏光寺別伝」に「常光大殿亦
為之傾」と五世住職が幼少八歳のとき、津浪にあい乳母
の背で仏光寺に避難したとき「漸至門、門傾迺吾圧於間」
とあるから一〇メートル近い怒濤がおしよせたとおもわ
れる。
 尾鷲浦では「宝永海嘯ノ記」が「潮のあがりたる限り
ハ」として、
西ハ、今御目附屋敷前まで
北ハ、川筋坂場ノ後迄、金剛寺堂へ汐二三尺上ル。
庫裡ハ半分ねぢ切ル。
南の方、家拾軒ほど残り、林浦助九郎屋迄にて留り。
今町ハ、六太夫家半分残り、浪先ハ垣の内伝八屋し
き迄行。
堀ハ、留リ迄、野地ハ下横町六分通り流る。敷右ヱ
門家ハ残り、其外ハ不残流れ、其夜中地震ハ不
絶少々ツゆる。
 右の被災地区をみると、尾鷲浦も八、九分どおりは被
害をうけたことがわかり、「見聞闕疑集」が「高波、但高
サ浜表ニて壱丈六尺という」と記しているが、三方から
競り合った波の高さは、その二倍にも達したと思われる。
そうでなければ、「宝永海嘯ノ記」の伝える区域が流失し
ないし、一には千余人、また五百三〇人余といわれる多
数の溺死者はでなかった。
 このような未だ経験したことのない宝永の津波は、熊
野灘全域のリアス海湾にいたましい被害を与えたのであ
る。これについて久居藩の蘭方医橘南谿は、長島浦の仏
光寺境内の宝永四年の津波流死塔に触れたのち、津波の
被害を大きくする地理的要因を次のように述べて、注意
を喚起しているのは注目すべきである。
 其津浪の事、其あたりにてたづねしに、あまりふるき
事にてもなければ、語り伝へて今におそれあへり。それ
より段々浦々にて尋るに、津浪よせたりし浦もあり、又
さのみ高くのぼり来らざる湊もあり。同じ南面の熊野浦
にも、かく違ひあるはいかなるゆへぞと、地理を考ふる
に、幅狭く海の入込たる常々は勝手よしといふ湊は、皆
其時津浪来りて、人家皆々流れたり。海の幅広く常々は
舟のかかりあしく、しかと湊ともいひがたきほどの所は、
其時津浪高からず、人家流るるほどの事はあらざりし如
くなり。されば海幅狭くふかくは入こみて、つねづね舟
がかりよく、風のおそれもなしというべき湊は、別して
大地震の時は、用心すべき事にこそ。 (西遊記続編)
五、被害状況―流死人
 宝永地震は大森房吉博士によると、東海と南海道沖に
ほとんど同時的の二子地震と推定されるなど、その地震
の被害も広範囲であり津波の被害もまた驚くほど広域で
あった。熊野灘沿岸の被災地を資料から拾ってみよう。
 熊野灘沿岸の津波の被害のうち最も特長的なことは、
流死人が多かったことである。このことは、この沿岸に
供養塔を残した理由である。「宝永海嘯ノ記」は尾鷲浦の
津波のすさまじさを次のように書き残している。
 中村山より迯のびたる人を見れば、纔ならでは見へ
ず。人々声々に是ハ世の滅ルニてぞ有ん。我も人も、
此上ともに助るものハ壱人も有まじと、只なく(泣く)
計にて、其夜は、はしばしの残り家或ハ守屋其外山野
にて夜を明し、夫より親兄弟、一家親類をたづね、其
時迯のびざるハ石、材木に打れ、或ひハ水に溺れて死
す。沖へ引流されたるも一両日の間に余ほど助りかへ
る。見へざるは方々死骸をたづね葬る。
このため「見聞闕疑集」は「前代未聞之大変なり」と
いっている。紀州藩は各大庄屋下の被害状況の報告を求
め、その対策を講じたと思う。「鵜倉村誌」には、その「覚」
があり、慥柄組被害表は、このような公的書類の控えに
よって作られたと思うが、原文書はついにさがしあてる
ことができなかったので、同誌掲載をそのまま利用した。
死人にはさきの、「宝永海嘯ノ記」に 石・材木に打たれ
①浦村 資料
下津浦 鵜倉村誌
神津佐浦 〃
供養塔
五ケ所浦 鵜倉村誌
青龍寺文書
正泉寺文書
内瀬浦 鵜倉村誌
慥柄浦 鵜倉村誌
贄浦{〃
供養塔
奈屋浦 鵜倉村誌
東宮村 〃
河内村 〃
赤崎村 〃
村山村 〃
神崎浦 〃
方座浦 〃
栃木竈 〃
棚橋竈 〃
新桑竈 〃
迫間浦 海運寺過去帳
相賀浦 相賀郷土史
②錦浦{錦浦史料
見聞闕疑集
鵜方村誌
長島浦 見聞闕疑集
仏光寺過去帳
反古の綴
三浦 見聞闕疑集
島勝浦 南紀徳川史
知浦 見聞闕疑集
引本浦 〃
古里浦 〃
海野浦 〃
三木浦 〃
甫母浦 〃
新鹿村{〃
反古の綴り
遊木浦{〃
見聞闕疑集
大泊浦{〃
鵜倉村誌
見聞闕疑集
小泊浦{〃
反古の綴
名柄村 見聞闕疑集
梶賀浦 〃
曽根浦{〃
反古の綴
古江浦 見聞闕疑集
③三木里浦 三木里村誌
三木島浦 反古の綴
尾鷲浦
{見聞闕疑集
馬越供養塔
宝永海嘯ノ記
御巡見書留
反古の綴
九木浦 見聞闕疑集
須賀利浦 〃
大曽根浦 〃
行野浦 〃
賀田村{〃
反古の綴
大泊~錦浦 鵜倉村誌
{南勢町関係資料は中世古祥道氏の教示と同氏の南勢町史の研究によった。}
て死したもの、流死したもの、溺死したものもあるが表
では一括して流死人とする。
 右図表中、供養塔のある贄浦・古和浦・長島浦・尾鷲
浦は顕著な流死人数であり、神前(かみさき)浦も五五
人の流死を出している。
 この稿では、流死人の非常に多かった長島浦と尾鷲浦
に関して述べる。
 長島浦は、仏光寺の「津波流死供養塔」には、「在中不残
流失」とあるなかで、五〇二人の流死人をだした。この
五〇二人は仏光寺過去簿「宝永四丁亥年十月四日未ノ刻
流死過去簿」とあるものに法名 俗名 居住地 続柄な
どの列記したものにある仏光寺旦那の流死人である。と
ころが同浦には長楽寺があり、その旦那にも流死人があ
ったであろうから供養塔に五百余人とあるわけである。
 仏光寺旦家の流死人を表示すると次のようである。
 右の表でわかるように海岸に近い猟師や商人の密集し
ている横町に死人が集中しており、それにつらなる裏
町・本町などにも多かった。これはもちろん海岸に近く
津波の直撃うけたためであるが、津波の急襲に避難路を
遮断されたためである。そのため、過去簿をみると一家
全滅と思われるものが四〇軒ばかりみあたる、口前所勤
人島田七郎兵衛・手代久介・与右ヱ門らも流死している。
たまたま尾鷲からきていた医師喬泉も流死した。
 当時の長島浦人口は明らかでないが、天保期
の「紀伊続風土記」に二四九一人(八歳以上)
とあるから、宝永のころ寡少に見積っても二千
浦村
下津浦
神津佐浦
五ケ所浦
内瀬浦
慥柄浦
贄浦
東宮村
河内村
赤崎村
神前浦
方座浦
古和浦
迫間浦
長島浦
尾鷲浦
新鹿村
大泊浦
錦~大泊
流死人数
4人
14人
27人
2人
1人
男16
{55人女39
60人余
2人
12人
15人
55人
8人
65人
{80余人
3人
500余人
{502人
1000余人
{1000余人
530余人
530人
24人
7人
1600余人
資料
長光寺過去帳
{鵜倉村誌


6人青龍寺過去帳
{4人正泉寺過去帳
鵜倉村誌

鵜倉村誌
為溺死人霊菩提塔
鵜倉村誌





三界万霊の塔
海運寺過去帳
津波流死塔
仏光寺過去簿
三界万霊の塔
宝永海嘯ノ記
見聞闕疑集
巡見使御用留
反古の綴

鵜倉村誌
町名
横町
裏町
本町

新町
角ノ
西町
白島
口前ノ浜
大堀
住還町
松本町
不明
尾鷲人

総計
流死人数
290
64
31
23
15
14
6
2
1
1
1
1
24
2
474
推定町人数
16
8
1
3
28
502
人はいたと思う。そうすると、仏光寺旦家だけでもその
四分の一が流死したことになる。
 尾鷲浦の宝永津波を体験した小河嘉兵衛が書き残した
「宝永海嘯ノ記」は、尾鷲五か村で千余人の流死人のあ
ったことを、馬越の宝永津波の供養塔と同様にしており、
供養塔を千人塚という表現をしている。尾鷲浦各寺の当
時の過去帳があれば、その実数に近いものが得られるで
あろうが、残念ながらそれは不可能であるから千人余の
記録は一おう信じなければならない。このほかに同記は
「旅人の死する数は不知数」としており、当時の尾鷲浦
人口は二〇八二人であるから八歳以上の人口からいえば
半数の流死人を出したことになる。
 しかし、同じく津波を体験した仲源十郎は、「見聞闕疑
集」に「惣而流死人五百三拾余人」と報告している。ま
た、宝永津波の傷あとが残っている尾鷲浦を幕府の順見
使が通過するとき、紀州藩は順見使への人的被害の問い
に答える公式の流死人を五三〇人余とし、さきの「見聞
闕疑集」と同じである。さきの千余人と後二者の五三〇
人余との差をどのように理解すべきであろうか。
 「宝永海嘯ノ記」の流死人は五か村すなわち南、中井、
林、天満、堀北の浦々の流死人を千余人としているので
あり、一面からいえば誇張とも受けとられる。千は数の
余りに多かった表現かも知れない。尾鷲五か在は被害の
最も大であった地区で、津波直後大庄屋となった仲源十
郎が、大庄屋として藩庁に報告したであろう流死人が五
三〇余人であったと思われる。それは彼の撰した「見聞
闕疑集」に五三〇余人とあるのみでなく、宝永七年の順
見使送迎の尾鷲組の最高責任者として流死人を五三〇余
人としている以上「見聞闕疑集」を信すべきは当然であ
る。そうすると長島浦に近く四分の一を失なったことに
なる。
「鵜倉村誌」は村役人の報告の「覚」に
一、人数四百八拾三人 男女共
内五拾五人 流死
内拾六人 男三拾九人 女
拾三人怪我
四百拾四人無事
 とある。贄浦でも全人口の八分の一に近いものが流失
している。
 この津波で尾鷲浦大庄屋小門与助一家は全滅し、いま
中村山の東山麓に、その供養塔「三界萬霊 小門一家流
死仏 宝永丁亥十月四日 嘉永二年酉七月 松野屋忠蔵
建」というのがある。この小門与七の流死後、善後処理
の任にあたったのが仲助市(享保三年・仲源十郎と改む)
で「見聞闕疑集」の撰者である。
六、被害状況―家屋の被害
 流死人の多かった宝永の津浪は、その波高が稀有のも
のであったのであり、家屋の流失倒壊・半壊などの被害
もまた多く、さきにみたように「在中不残流失」といい、
尾鷲浦のように広い範囲に流失家屋をみた。
 藩庁は、流死人だけでなく被害状況を各大庄屋に報告
させた。そのとき浦役人が大庄屋に提出した報告の村控
えの一例として「鵜倉村誌」が次のように収録している。

家数九拾四軒 贄浦
一、八拾五軒 流家内七拾九軒 本役
六軒 半役
七軒 破損家内 壱軒 本役
六軒 半役
三軒 残り寺院 (九五軒となり一軒不足)
一、御口前所 破損
(中略)
通り御判二枚流失、御壁書、御検地帳、名寄帳流失、
銀札二両流失、甚左エ門預リ、御備麦拾四石五斗流失
右之通去ル四日大浪ニ而流失仕候。以上。
宝永四年亥十月 贄浦庄屋甚左エ門
同 肝煎善八
同 同 平八
向井作兵衛殿(慥柄組大庄屋)
 このような報告は各浦村ともに提出したのであるが、
現在はほとんど失なわれている。ただ尾鷲組に関しては
順見使の巡視の用意に書きあげを命じているものが「御
順見御用書抜」のなかに収めてあるのは幸いである。
浦村
下津浦
神津佐浦
五ケ所浦

内瀬浦
贄浦
奈屋浦
東官村
河内村
赤崎村
村山村
神前浦
方座浦
栃木竈
古和浦
棚橋竈
新桑竈
流失家数
9軒
30
58
31
廃家17破損31}3
85
28
23
32
34
96
147
29
21
131
71
26
資料
鵜倉村誌


正泉寺旦家
鵜倉村誌
鵜倉村誌











錦浦
相賀浦
長島浦
三浦
大泊浦
新鹿村
曽根浦
三木里浦
尾鷲組
多く流失
金江山福徳寺流失
多く流失
在中不残流失
仏光寺山門倒壊
家流失数不明
波入
人家不残流失
清泰寺のみ残る
家不残流失
在所半分流失
貴船神社流失
642軒
錦支所文書
相賀郷土史
供養塔
同寺伝記
反古の綴
反古の綴

村誌
巡視史料
 右の表で流失家の多い浦村と流死人の多い浦村とが、
だいたい一致していることがわかる。
尾鷲組の家屋の被害状況は、「御順見御用書抜」に
 去(宝永六)廿三日、御状相達候。然者御国廻リ衆
通被申候節、流失浦方高浪之様子并御救之様子、且又
損亡之田地、流候家数、流死人、牛馬数等之義、在々
答之書付、別紙目録之通御越致一覧候。成程此段尋可
有之義ニ候間、浦々ニ覚候様ニ可被成候。答之書付有
体ニ相見へ申候。依之右書付令返進候。
浅井忠八(尾鷲目付か)
喜多村孫九郎様(木本代官)
と記したのちに「宝永六年極月・巡見使様御尋被遊候ハ
ハ、可申上品、奥熊野尾ハシ組流失己後建家之品書上帳」
というのがある。たとえば九木浦の場合次のようである。
一、流失家 五拾三軒
二十軒 只今迄本家建申候
三 軒 来春中ニ建申積リ御座候
残而三拾軒 小屋懸け
外ニ拾壱軒破損 九木浦庄屋 半右エ門
肝煎 清四郎
 この書上帳によると、尾鷲組の流失家屋数は次によう
になっている。尾鷲浦では海岸に近いところほど流失家
数が多いことがよくわかり、九木浦や須賀利浦など海岸
通りは全部流失した。この
書上げに被害の大きかった
堀北や天満・水地の諸浦が
欠けているがいかなる理由
かよくわからない。「宝永海
嘯ノ記」には南浦一〇軒残り流失とあるから南浦の戸数
は一三五軒であった。そして「見聞闕疑集」は林浦は二
十軒余残家とあるから同浦は約一四〇戸程度であった。
「見聞闕疑集」では矢浜村の五三戸の流失は約全戸の半
数としており、さきの流失家中に野地村がないが、この
書では残家三〇軒とあるから流失家もあったはずであ
り、天満浦過半が残ったとして報告しており相当数の流
れ家があった。「宝永海嘯ノ記」は流失区域を塩町留りま
で、野地村下横町六分通、南浦一〇軒残り、北ハ坂場ま
で、西は御目付屋敷までとしている。
 以上は、筆者が採集した資料で確認したのであるが、
被災地をもらしたものも多いのである。家屋の被害以外
に土蔵・農具・漁具などから、家財に至るまで被害はは
かり知ることができなかった。贄浦の藩への報告で次の
ような損害を書き上げている。
 米一五〇俵、麦一七一俵、鰹節八五〇〇本、小鰹塩
切四五〇〇本、船舶二七、名吉網一帖、南北網一五帖、
張網一五帖、はった網一帖、鰘網五帖、小打網二三〇
浦村
九木浦
大曽根浦
行野浦
向井村
矢浜村
林浦
南浦
中井浦

流失
53
11
1
1
53
134
125
264
642
端、海老網六二九端・鰍網一帖半・大打網一帖・小丈
網三三帖・わらさ網一帖半・鯛縄二三〇把・鯖縄一六
○把・つなわ一万九千尋などである。「尾鷲大庄屋記録」
のなかに尾鷲浦では鰹船三二船全部を流失している。
なお「南紀徳川史」には、島勝浦は大きな被害をうけ
関下清兵衛の捕鯨具は全部流失し、捕鯨業を一時廃絶
しなければならなかったことを特記している。
熊野灘の沿岸諸村は、漁業部落が多く、漁網・漁船そ
の他漁具を流失したものが少なくなく、家職の再興は容
易でなかった。藩はこのような諸浦村にどのような救済
の手をさしのべただろうか。
七、藩の救済
 人命・家蔵・家財・農具・漁具などに未曾有の津波の
被害をうけた熊野灘沿岸の諸浦村に対して、急遽とった
対策について「見聞闕疑集」は次のように記している。
一、此時御郡奉行水野九郎左衛門殿御代官幸田彦左衛
門殿・御郡奉行喜田村孫九郎殿 若山ニ御入被成候。
御目附佐武源八殿若山ニ御入、同川合善右衛門殿儀
御役所当番ニ候得共、御城米御用ニ付、新官領井田
村へ御越ゆへ津浪に御のかれ被成候。水野九郎左衛
門殿幸田彦左衛門殿御両人浦々御見分之上、残り之
人数へ米、味噌・塩・着類・農道具・漁道具・糸取
車、若山より御廻し、在々江被下置候。米者在々御
蔵より御出、粥米として被下、命を助り、誠以難有
奉存候儀難尽筆紙候。家財を流候面々、流道具等拾
ひ集、木(小)屋掛ケニ住居不自由成儀言語に絶候。
其年之御年貢御赦免、其上山海之稼元銀夫々御見斗
御貸被成候。
 そして藩が宝永七年順見使に対する答として、藩の救
済について次のような指示をしているが、「見聞闕疑集」
と大差ないから藩の善政を誇張糊塗しようとした点はな
い。
一、亥十月 地震高浪之儀御尋被遊候ハハ高浪之節、
家財流失致シ及難儀候所、郡奉行衆・御代官衆早速
御越、御蔵より飯米被成候。小屋ヲも御立、衣類・
塩噌・道具等迄若山より積廻し被遣、銀子ヲも御借、
品々稼之吟味被仰付候故、其節より飢寒之者無御座
候と可申上候。
 宝永四年一〇月四日は新暦では一〇月二八日にあたる
ので、熊野灘沿岸の漁村は収穫は終わっていた。そのた
め稲作被害はなかったが年貢上納米と収穫米を流失した
ものが多かった。多数の流死人、家屋の流失、倒壊、家
財・道具の喪失という傷ましい被害のゆえに藩は年貢を
全免し加子米・夫米も赦免する措置をとった。
すなわち順見使文書のなかに次のようなことがある。
一、荒場之事、尾鷲五ケ村……地震津波荒之分ハ、荒
高御免引被成下候。起し申分ハ、五年より拾弐年迄
之内、御年貢御赦免被成下候と可申上候。
一、長島免之事、子丑両年之免相相尋候ニ付、申上候
ハ子四ツ弐分五厘、丑五ツ六分ニ而御座候 右之内
ニ而当所之儀、亥年浪入荒免御引被下候と申候。
 藩は、右のような救済を行なったが、それはようやく
厳冬を迎えんとする浦村の人々が飢寒をわづかに凌ぎう
る程度であり、その艱苦は想像を越えるものがあったと
思う。
八、復興の様子
 津波により徹底的な打撃をうけた浦村の復興は容易で
なかった。贄浦は津波後、応急措置をとったことについ
て次のように報告している。これも各浦村とも同様であ
ったが、いまは失なわれている。

一、長弐拾四間の小屋弐軒、願之通出来。
一、小屋懸人足六百四拾人、所々より出人足
一、松木五百六拾壱本、内四拾七本贄浦山・四百□拾
四本阿曽山。
一、成竹三百三荷、一之瀬・道方・大江より参候。
一、莚菰九百三拾七枚、一之瀬・中・道方・大江より
参候。
一、綱百拾壱束、同断
一、茅百弐拾貫、大方竈
一鍋、一枚川上村、弐枚和井野村、二枚中村、弐枚脇
出村、一枚小萩、一枚柳村、一枚市場村
 右者亥ノ十月四日、大地震潮ニ付、贄浦流失家之者共
小屋掛ケ道具・諸入用所々へ被仰付入御精候故、早速小
屋出来移リ片付忝奉存候。以上。
亥十月
にへ浦圧屋
肝煎二人
中村吉左エ門様
小山次郎右エ門様
帝釈勘兵衛様
 このような応急措置から復興へふみだすには、農民は
あまりにも貧困であり、復興の歩は実におそいものがあ
った。これを知る資料として参考になるものは、尾鷲組
の順見使への質問に答えるために用意されたものであ
る。それを資料によって表示してみよう。
 順(ママ)見使は総数一五〇人を宝永津波後間もなく迎えた奥
熊野は、その宿泊などの接待に腐心した。とくに多数の
一行を分宿する宿舎は流失家屋の再建数が前述のとおり
であるから地方役人の奔走の苦労が察せられる。長島浦
に関して尾鷲大庄屋記
録のなかに「御覧被遊
候通流失建家少ク候
故」順見使一行の宿舎
に腐心したことがみえ
ている。しかし、一方
からいえば、被害の再
興のない被災地の惨状
が残っていたため、順
見使も権威をふるうこ
とがなかったというべ
きである。
九、諸資料に見る鑑戒
 「温故稽古第七九号」で「志摩から熊野灘にかけての沿
岸にある津波の碑の語るもの」で県下の沿岸にあ津波関
係の供養塔碑の所在、津波の年次・碑文とその形相を省
図で示し、その沿岸の分布を図示したので、ここでは省
略するが、これら供養塔は、いたましい犠牲者の怨霊を
慰めるのが第一義的な意図をもったのであるが、その霊
をとぶらう者にとっては一種の鑑戒を与える記念碑でも
ある。
 贄浦最明寺の「大乗仏、為溺死亡霊菩提」の供養塔は
「今此経塚之所迄浪到也」とあり、全部落が水没した様
子を知らせ、「以来若有大地震者必可知高浪来也。為後鑑
記焉」と明瞭に鑑戒に資し、ふたたび悲劇をくりかえさ
ないよう戒しめている。
 古和浦甘露寺の「三界萬霊」の塔も、おそらく波先き
地に建立したものと思われる位置にあり、共同墓地入口
で人々に関心を持たせる。それには「到于後代 若遇於
如此時節、則急可登于人人屋上之山頂焉 必向当山莫退
来矣。高潮不移時、半路而多失身命。此故令知末世之児
孫期一大事而爰♠縷(ラル・委曲をつくすさま)誌丐」
と、むしろ後人への鑑戒を目的に建立したといってもよ
い。すなわち大地震は津波をともなうことを予想し、そ
の波の急速を知って山頂に避難するよう教えている。と
くに、半路すなわち避難の途中で波に呑まれた者の多か
ったことをあげ、それを目撃しながら救助できない悲痛
が言外にある。
 長島浦仏光寺の「経塚・津波流死塔」には言は簡であ
るが要を得た「自今以後大地震時者覚悟可有事」と結ん
でいる。これも一刻も早く高所への避難を教えたもので
ある。
 久居(久居市)藤堂藩の医師橘南谿は、寛政年間に仏
光寺を訪れ、この供養塔をみて、次のように鑑戒的感得
の仕方を「西遊記続編」に書き記しているのは注目すべ
浦村
九木浦
大曽根浦
行野浦
向井村
矢浜村
林浦
南浦
中井浦


流失家
53
11
1
1
53
134
125
264
642
100
本屋再建数
20
3
1
1
8
1722
52
124
20%
来春再建予定数
3
2
2
1
8
1.3%
小屋かけ数
30
8
43
117
101
211
510
78.7%
きことである。
 誠に、此碑のごときは、後世を救うべき仁慈有益の
碑というべし。これら漢文にては益少なかりぬべし。
諸国にて碑をも多く見つれども、長島の碑のごときは
めづらしくいと殊勝に覚えし。
 尾鷲浦馬越の供養塔には右のような鑑戒的の直接表現
はないが津波が三方からせり合うて町並みを呑みんだ立
地的特長、「海揚怒濤圧邑 退避無方、男女老幼漂流大洋
遽然不返 見者断膓」と、津波のおそろしさをのべてい
るのは、やはり鑑戒的意図を充分にあらわしているとい
うべきである。
 これら供養塔は、共通的に多数の人命が、津波の無常
に瞬時にして生死をわかったことがあり、これは津波の
急襲とその破壊力の強烈さとを知らしている。
 「見聞闕疑集」は、津波を体験した人々の建立供養塔の
切実な訴えと同様に、撰者自身が津波にあったのであり、
津波来襲の真にせまる表現にて鑑戒に資し、「宝永海嘯ノ
記」もまた津波の脅威を詳述して惨状を伝え「後世の為
に是を書残ス者也」といっている。
 要するに資料には後世の人々に、宝永の悲惨をふたた
ひくりかえさせまいと、その実態を伝え、一刻も早く高
所への避難を教訓しているのであり、家財などに執着し
て避難をおくれることのないよう戒めている。これは、
安政津波に生かされたものが多く、沿岸の人々は無防備
的な護岸には現在もあてはまる鑑戒たるを失なわない。
終わりに
 この稿は宝永津波に関する中間的な報告であるが、津
波の威力だけは資料的に感得できたと思う。ただ、これ
ら沿岸が筆者にとっては交通的に不便で資料採集に極度
の制約を受けた。しかし、表記の教え子が自己の車を提
供して資料採集を助け、この稿をなし得たことは卒業生
という協力者を得たことがなによりも得がたい歓喜であ
る。熊野教育委員会の鈴木通夫課長・内田幸保主事両氏
の犠牲的奉仕、橋本輝久氏が尊父母を合せ一家あげての
協力 湊章治氏・高須幹生氏の資料採集の協力、錦中学
校教諭西村洋氏の世話など教え子という関係のなかでこ
の稿はできた。いまさら老いの身で教壇生活の喜びをひ
しひしと感じ、にじむ涙にむせんだ。年老いて感懐の一
端を述べて稿を終わる。
 最後に、尾鷲市郷土館長伊藤氏は資料探捜をなし、全
部コピーを恵与されたことは感謝のほかない。長島町仏
光寺和尚のごときは寺宝過去簿を心よく閲覧させられ、
南島町役場贄浦出張所長と所員には、極寒の日格別の配
慮を得た。また和歌山県東牟婁郡古座町教育委員会の山
田泰雄氏、南島町教育委員会、長島町教育委員会の好意
も大であった。このような善意に助けられて、この稿が
できたのである。
昭和五二年九月二一日
文責(中田四朗)
湊 章治 (県立長島高等学校教諭)
橋本輝久 (伊勢市立中島小学校教諭)
高須幹生 (長島町立東小学校教諭)
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 四ノ上
ページ 113
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 三重
市区町村 【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

検索時間: 0.001秒