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項目 内容
ID J3000224
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1707/10/28
和暦 宝永四年十月四日
綱文 宝永四年十月四日(一七〇七・一〇・二八)〔東海以西至九州〕
書名 〔紀州熊野長島浦の宝永・安政大津浪の記録〕小倉肇著「熊野の自然と暮らし」二〇〇三・三・二四 みえ熊野学研究会企画・発行
本文
[未校訂]一、[橘南谿|たちばななんけい]と仏光寺津波流死塔
 江戸時代を代表する紀行作家の一人である橘南谿の著
書『西遊記続編第一巻』に、紀州熊野長島浦仏光寺境内
にある津波流死塔のことが紹介されている。
 橘南谿は津の藤堂藩の支藩である久居藤堂家(五万三
千石)の家臣で、代々百五十石の家柄であった宮川家の
五男として宝暦三年(一七五三)に生まれた。本名を春
暉といい、幼少より学問を好み、医学を持って身を立て
んと明和八年(一七七一)京都に出た。以後十年間、京・
大阪にて医学の修行を積むが、そのかたわら詩作や国学
にも関心を持ち文人としての交友も多かった。
何事にも研究熱心であった南谿は、国文学の素養を生か
し、わかりやすい医学書を著すことで医師としての名声
を高めていった。
 『痘瘡水鏡録』『傷寒論分註』などの著書は、彼の医師
としての地位を高め、生活を安定させたが、生活にゆと
りが出ると、彼の文人的側面からくる、かねてからの念
願であった大旅行による見聞を広めたいとする希望が押
え難くなり、天明二年(一七八二)の九州旅行を皮切り
に、天明四年の信州紀行、五年の富山紀行、寛政九年(一
七九七)の南紀紀行と次々に大旅行を実現していった。
 九州旅行を『西遊記』として出版して以後、それらの
旅行での見聞を『東遊記』『西遊記続編』などの紀行記に
まとめて世に出し、菅江真澄や鈴木牧之などと並ぶ江戸
時代を代表する紀行作家として知られる人物となった。
後年は京都伏見に住み、文化二年(一八〇五)、五十三歳
の若さで病のため世を去った。
 その橘南谿が紀伊長島浦を訪れたのは、寛政九年(一
七九七)のことであるから、津波流死塔に記録された宝
永四年(一七〇七)の大津浪から九十年の歳月が流れて
いる。
 南谿は、この流死塔の前に立ち、その碑文が
「宝永四年十月四日未の刻(午後二時ごろ)、大地震
直ニ津浪入、在中不残流出、其上五百余人流死仕候、
自今以後大地震時者、覚吾可有事」
と刻まれているのを読み、
「唯、風流の文雅の慰みばかりとなれば漢文もよけれ
ど、有益のことを専らに主意とする碑には世俗通用
の文や勝るべき―中略―誠に此碑のごときは後
世を救うべき仁慈育益の碑というべし、これら漢文
にては益少なかりぬべし、諸国にて碑を多く見つれ
ども、長島の碑のごときはめづらしく、いと殊勝に
覚えし―」
と激賞しているのである。
 大地震があれば、何を於いても大津浪を覚悟しなさい
という大地震に対しての時代をこえた防災の原則を、こ
の碑文は実にわかりやすい書き下ろし文で庶民に教えて
いる。
 江戸時代を通じて何度か実施された奥熊野の人数調べ
の中で最も正確であるといわれる寛政十一年(一七九九)
の人数調べでは長島浦の人口は二千六百三十二人であ
る。(「長島組十三ケ村大庄屋覚」)。この二千六百人台と
いう数は、江戸時代を通じてほとんど変化がなかったと
いわれる。
 そのなかでの五百二人の流死者といえば五分の一の
人々が亡くなったことになる。もの凄い数といわねばな
らない。その犠牲の上に立った教訓がこの碑文となった
のであろう。
 橘南谿が、宝永の津波流死塔の前に立ち、碑文の簡要
を極めた文章に感激してから百四十八年後に再び大津浪
がこの地一帯を襲う。いわゆる嘉永七年(一八五四)の
大津浪である。この時の流死者は二十三人、この死者の
数の少なさは宝永の流死塔に書かれた教訓が生かされた
のだと言われている。
 現在もなお、長島本町の仏光寺境内には、宝永と安政
(嘉永七年は後に安政元年と改元される)の二度に渡っ
て襲来した大津浪の流死者を供養する石塔が二基、なら
んで建っている。
 この二つの碑は、漁民の町、長島浦の人々の幾度かの
自然災害を乗り越えて生き続けてきた不屈の歴史を物語
る文化遺産である。
 東海大震災、東南海大震災の周期が近づいてきたとの
話が飛び交う現在、この二つの碑に集約されている、三
百年前、百五十年前の郷土を襲った大自然災害について、
ふり返って見るのも意義
があると思うのである。
二、宝永大津浪
 宝永四年十月四日未上
刻(今の午後二時)熊野
の浦々はかつて体験した
こともないほどの大地震
に見舞われた。そして間
を置かず、大津浪が押し
寄せてきたのである。
仏光寺津波流死塔
 尾鷲浦の古文書『[見聞闕疑|けんぶんけつぎ]集』には
「山々崩れ家蔵石垣等をもゆりくずし」
と、その地震の凄まじさを記している。
 当時の長島浦は、東方に赤羽川河口が大きく広がり、
西方の江の浦の湾口は狭く、満潮の時のみ船の出入りが
可能であったほどで、集落は仏光寺と長楽寺を結ぶ一帯
を中心に、山根に沿って密集していた。
 仏光寺に残る『長島浦流死過去簿』によれば、現在の
地名と重なる本町、横町、新町、西町、裏町、角ノ町、
中島、口前の浜、往還町、松本といった通りや字名が、
そのころからあり、特に海に面した横町裏町に漁民の家
が密集していた。
 これらの町名と長楽寺に残る、長楽寺五世住職喜道の
書き残している『長島浦絵図』に記されている町名と比
較して見ると興味深い。
 『長楽寺絵図』は安永二年(一七七三)に描かれたもの
である。宝永の津浪の後、約七十年後ということになる。
町名が変っている所もあるし、省略されている町もある。
しかし、この絵図をよく見ると松本とか平岩とか書かれ
ている通りは海岸より赤羽川河口にかけての山麓の場所
であり、長楽寺前の二本の通りは山寄りが新町・本町、
海浜に面した通りは裏町・横町と記され、江戸時代後期
にはすでに現在の西長島地区の町なみがほぼ形成されて
いた事がわかる。
 現在の港一帯は明治以降埋めたてられ拡張された地域
で、江戸時代までは横町や裏町まで海がせまっていた。
仏光寺などに残る過去帳に記録されている流死者が、横
町と裏町に集中した理由がそこにある。
 『紀伊長島町史』には宝永四年の大津浪時の「流死過去
簿」より拾いあげられた町別の流死人数が出ている。そ
れによれば
横町三百六人
裏町七十二人
本町三十一人
浜町二十四人
新町十八人
角ノ町十四人
西町六人
中島二人
その他四人
不明二十四人
尾鷲浦二人
の計五百三人となっている。当日、尾鷲浦から長島浦に
所用できて波にさらわれた人が二人もいるが、各浦々で
もこうした例があったと思われる。
 また、和歌山藩より浜役所に派遣されていた役人、島
田七郎兵衛なる人物も流死者の名に連なっている。
 西長島、上本町に新宅という屋号の洋品店がある。こ
の洋品店は江戸時代には当主が代々長井善右衛門を名乗
ってきた山林地主で、文化年間と文政年間の二度に渡っ
て当代の善右衛門が長島組の大庄屋を勤めている。この
長井家の家号である新宅とは、宝永の大津浪の後、上本
町一帯がすべて流失し河原と化したなかで、庶民は小屋
同様の住居を建て難儀していた折に、一番早く本格的な
家屋を再建したので浦人はその家を新宅と呼んだ。それ
が、そのまま屋号となったのだという。これもまた、津
浪の被害の凄さを語る伝承なのである。
 この宝永四年の大震災は、西田益三著『長島続風土記』

「日本外側地帯の第三区に起ったもので、震源地は紀
伊半島の西南海底と云われている。被害は東海道、
畿内、南海及び西海の一部で、九州の南東海岸より
伊豆半島までの沿岸一帯が大津浪におそわれた。土
佐の如きは波の高さ今の二十米以上と記されてい
る。潰家全国で二万一千、死者四千九百とも記され
ている」
と述べられている。ただ、この記録の数字の出所につい
ての出典が明記されていないのは残念である。
 紀伊長島浦に残る話としては、町内の平地で一番高い
といわれる仏光寺の門前にまで波が打ち寄せた。門前に
は打ち寄せられた家屋等の材木が積み重なり、遅れてよ
うやくこの門前にたどりついた人々も、門内に入れず流
された。それより仏光寺の住職は後世の津浪に備え、流
木よけに門前の道に松の木を植えた。それが現在、仏光
寺門前にある松並木であるという。
 また、宝永津浪時の仏光寺住職は別伝芳禅という名僧
であった。当時芳禅は大本山である鶴見の総持寺の輪番
として関東にあったが、長島浦の流死人、五百余人との
惨状を知るや、ただちに本山の執事に願い出、当時とし
ては破格の大金である百両を借り入れ、これを長島浦に
送り、難民にほどこした。
 難民の多くは漁民であり、これに感謝した浦の人々は、
その後長く、漁獲高の一分(一㌫)を仏光寺を通じて本
山に献納する習慣が続いたという。
 なお、この宝永津浪に関して、前述の橘南谿の津波流
死塔に関する文章の中に興味深い一節がある。
「その津波のことを、あたりの人々にたずねしに、あ
まり古事にてもなければ語り伝えて今も恐れあえ
り。浦々にてたずねると、津波が寄せた所、それほ
どでもない所、同じ熊野なるにかくちがいあるは如
何なるゆへぞと、地理を考えるに、幅せまく奥の広
い常々湊として勝手良き湊は皆その時、家を流され
たり。海の幅広く常々船かかり悪しき所はさほどの
ことあらざらし」
と述べ、風待ちの湊として普段良い湊ほど、津浪の害が
大きいから気をつけるようにと記している。この事は、
後年の安政大津浪、東南海大震災時の大津浪などでいず
れも立証されることになる。南谿の卓見のほどをうかが
わせる文章である。
(注、参考文献は安政東南海地震の項参照)
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 四ノ上
ページ 109
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都道府県 三重
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